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「心に残るオーディオコンポーネント10選」

井上卓也

音[オーディオ]の世紀(ステレオサウンド別冊・2000年秋発行)
「心に残るオーディオコンポーネント」より

 今回のテーマは、心に残るオーディオコンポーネントである。
 考えてみれば、個人的なオーディオの歴史は、非常に遠いはるかむかしの、手巻き蓄音器を聴いて、その音の楽しさ、音楽の楽しさが芽生えた幼児期に遡ることになる。
 歳月が経過し、わずかばかりの記憶の糸も非常に細く途切れそうにはなっていても、ある一部は、感覚的に昨日の出来事のように、いや、それ以上に鮮明に残っているようで、今回のテーマのように、あらためて問い返されてみると、かなり意外な部分が浮き出してくる。
 ちなみに、今回の10モデルの選択では7モデルをスピーカーシステムにしているが、心情的にもっともノスタルジックな意味で心に残る、というよりは、観念的に想い出すモデルは、タンノイのオートグラフである。しかし、その理由を考えてみると、何のことはない1−90に始まってクレデンザにいたる、幼い時に聴いた蓄音器の音をイメージアップさせる、独自のエンクロージュアに巧みに残されたホーンの香りめいた味わいに、心を惹かれているのではないだろうか。
 同様な理由だろうが、現代の製品に置き換えれば、同じタンノイのウェストミンスター・ロイヤルに、類似した残り香があるように感じる。
 心情的なノスタルジックな部分は、誰しも生きていること自体の内側に否応なしに存在はしている。心に残るオーディオコンポーネントを想い浮かべてみると、佳き時代のスピーカーシステムが、もっとも魅力的な存在として浮上してくる。しかしそれは、多分に現実的な性格を反映してか、現在の相当に高度な次元にまで発展、進化を遂げた次世代オーディオのプログラムソースと、超高度な物理特性をスポイルすることのないレベルにまで到達した、高SN比、高セパレーション特性を備えたアンプ系によって、佳き時代のスピーカーを充分にドライブし、鳴らし切ってみたいという意味からなのである。
 ただ、古き佳き時代のスピーカーシステムがいかに心に残るコンポーネントであったとしても、経時変化という絶対不可避な劣化は、当然覚悟しなければならず、基本的に紙パルプ系コーンを採用していた振動板そのものの劣化や、エッジ、スパイダーなどの支持系をはじめ問題点は多い。現実に状態の良いシステムを実際に鳴らしてみたとしても、かつて備えていた本来の状態をベースに聴かせた音の再現は完全には不可能であり、例えば、1モデルに1ヵ月の時間を費やしてメインテナンスしたとしても、絶対年齢は、リカバリー不能であろう。逆説的ではあるが、イメージ的に心にわずかばかり残っている、残像を大切に扱い、想い浮かべた印象を文字として表現したほうが、むしろリアルであろうか、とも考えている。
 選択には、2モデルのアンプを選んではいるが、里程標的な意味での存在であり、幸いなることに、比較的最近、それぞれの復刻版が登場しているため、現代的な材料や製造技術に裏付けられて、リフレッシュした音を聴くことが可能である。
 心情的には、早くから使ったマランツ7は、その個体が現在でも手もとに在るけれども、少なくとも、この2年間は電源スイッチをONにしたこともない。充分にエージング時間をかけ音を聴いたのは、キット版発売の時と、復刻版発売の時の2回で、それぞれ約1ヵ月は使ってみたものの、老化は激しく比較対象外の印象であり、最新復刻版を聴いても、強度のNFB採用のアンプは、何とはなく息苦しい雰囲気が存在をして、長時間聴くと疲れる印象である。
 その意味では、効率の高いAB級的動作を採用し、独自のバイファイラー巻線技術を出力トランスに導入して、当時としては、異例中の異例ともいえる超広帯域パワーアンプとして完成されたマッキントッシュMC275のほうが、現代に通用するフレキシビリティがあり、聴かせる音である。ただし、当時最新の単純な基板採用の配線技術は、広帯域アンプであるだけに疑問点は多いが、独自の音がする理由として理解可能な部分ではある。
 7機種のスピーカーシステムは、それぞれに異なった発想の独創的技術を背景にして開発されたモデルで、そのほとんどは製造コストが現在では採算不可能なまで高くなるはずである。そのため基本技術は温存していたとしても、経費、人材、時間の3要素で再現は至難であろう。
 これらの製造をも含めた技術レベルは非常に高く、構造が単純な変換器であるだけに、開発をした人達の英知のヒラメキが眩く強烈な印象が残る。

スピーカーシステム   ボザーク     B410ムーリッシュ
            ダイヤトーン   DS-5000
            エレクトロボイス パトリシアン600
            インフィニティ  IRS-Beta
            ソニー      SS-GR1
            タンノイ     オートグラフ
            ビクター     SX-1000ラボラトリー

コントロールアンプ   マランツ     モデル7

パワーアンプ      マッキントッシュ MC275

カートリッジ      オルトフォン   SPU-A

「心に残るオーディオコンポーネント10選」

菅野沖彦

音[オーディオ]の世紀(ステレオサウンド別冊・2000年秋発行)
「心に残るオーディオコンポーネント」より

「心に残るオーディオコンポーネント」10機種を選び、それらを選んだ理由、心境、自身のオーディオ史のなかでのポジションについて、選べなくて残念な製品について等書くようにとのことであるので、いかに思いつくままに選考後記として感想を述べることにしようと思う。
 心に残る〜となると、当然、個人的な思い入れの深いものということがその選択の最大の理由であろう。客観的に高く評価することと、好きになることや欲しくてしょうがないという衝動を感じることとは別である。したがって、そういう、自分にとって客観的な存在に止まるものは、いかに優れた製品でも、頭に記憶としては残っても深く心に残ることはない。反対に、欠点だらけのものを好きになることも珍しいことではないだろう。「あばたもえくぼ」という諺もあるように……。そして、それらは、当然、心に残るものになるだろう。
 そんなわけで、僕が選んだ10機種は、僕のオーディオ人生のなかで出会った10人のそれぞれに素晴らしい大好きな恋人達であるといってよい。むろん、片想いであっても、心に残っているものならばそれもよいのだろうが、僕にとってこれら10機種のすべては恋が成就したお相手達で、すでに僕のもとを去っていったものもあるが、いまなお付き合いの続いているお相手が多いのである。このほかにも、短期間の軽い浮気や恋の相手で心に残っている物もあったし片想いもなかったわけではないが、これら10機種がとくに深く心に残るオーディオコンポーネントなのである。
 さて、そうは言うものの、ここで人と物との違いを意識しないわけにはいかない。恋人の場合は、出会いと縁が優先し、感情が支配的で、その理由などと言われても言葉に窮するで四郎。その先がどうなるかは未知であるのが恋愛で、結婚に発展することなどを初めから期待したり、前提とするとしたら、恋愛としては、むしろ不純かもしれない。結婚に発展することは大いにあり得るだろうが、恋愛で終わることも悔いなしとすべきものが恋愛だ。だから恋人との出会いは、自然、かつ本能的で感情的、衝動的な場合が多いのではないだろうか。しかし、初めから結婚を考えてのことならば、冷静客観的な熟慮熟考も必要であると思う。つまり、リアリスティックな結婚とロマンティックな恋愛との明確な認識の問題である。両者の両立を理想とすることに異論はないが、曖昧な認識とセンティメンタルな単純思考のまま、恋愛を結婚に移行させることは失敗につながりやすい。だが、相手が物となると、両者の両立が現実に可能なはずである。もちろん、それでも失敗はあり得るし、長い間には心変りも起きるのが人間の業というものであろう……。これら10機種のコンポーネントの知的選択理由は、個々の製品についての項で述べるので、ここではひと言、「いまでも飽きないから」を理由としておこう。
 さてつぎに、これらの製品を選んだ心境とあるのだが、正直なところ、僕には質問の意味がもうひとつ理解できない。懐かしいと感じるほど古い物を選んだわけではないし、あらためてもう一台欲しいとも思わない。強いて、いまの心境といえば、これらの製品達が僕に与えてくれた素晴らしいオーディオ人生に感謝したい気持ちである。
 自尽のオーディオ史のなかでのポジションということについては、総体的には、冒頭の恋愛、結婚観にたとえて述べた「愛機観」をその答えとしてよいと思うのである。ダイヤトーンのBTSモニターである2S305だけは僕自身で所有したことはないが、長年勤務していた会社でモニターとしてなじんだスピーカーシステムである。これ以外はすべて僕が持っていて愛用したか、あるいは現在愛用中の物ばかりであり、僕のオーディオにはなくてはならない物ばかりだ。
 最後に、選べなくて残念な製品についてだが、なにしろ半世紀をはるかに越える僕の長いオーディオ人生である。SP時代からの物を取り上げたら大変な数になるだろう。カートリッジだけでも百個ぐらいは使ったと思うから、その気になって引っ張り出したらきりがないと思うほどである。自分で所有しなかったけれど憧れたものまで挙げたら、プレーヤー、アンプ、スピーカーだって数知れないほど心に残っている物はある。録音機器関係などは買いたくても買えなかった物ばかりであり、いまでもマイクロフォンなど周辺機器を具体的にこ
こに名前を挙げだしたら、それだけで与えられた字数を使ってしまうだろう。あれをあげたらこれも……と、きりがなくなり、なんのために苦労して10機種に絞ったのかがわからなくなってしまう。

スピーカーシステム   ダイヤトーン   2S305
            マッキントッシュ XRT20
            ワーフェデール  エアデール

スピーカーユニット   JBL        375+537-500

パワーアンプ      マッキントッシュ MC275

アナログプレーヤー   トーレンス    リファレンス

カートリッジ      オルトフォン   SPU-GT
            シュアー     V15

トーンアーム      SME       3009

JBLテクノロジーの変遷

井上卓也

JBLモニタースピーカー研究(ステレオサウンド別冊・1998年春発行)
「伝統と革新 JBLテクノロジーの変遷」より

 1946年の創業以来50年以上にわたり、JBLはオーディオ界の第一線で活躍してきた驚異のブランドである。この長きにわたる活躍は、高い技術力なくしては不可能であろう。創業者ジェームズ・バロー・ランシングの設計による卓越した性能のスピーカーユニットは、オーディオ・テクノロジーのいわば源となったウェスタン・エレクトリックの流れをくんだもので、現在にいたるまで、内外のスピーカーに多大な影響を与えた偉大なるユニット群であった。それに加え、エンクロージュア、ネットワークなどを含めた、システムづくりの技術力の高さもJBLの発展を支えてきたといえる。この伝統のうえに立ち、さらに時代とともに技術革新を行なってきたからこそ第一線で活躍できたのであろう。
 ここではJBLのテクノロジーの変遷を、モニター機を中心にたどっていくことにしたい。

コンプレッションドライバー
 それでは、スピーカーユニット/エンクロージュア/クロスオーバー・ネットワークの順でテクノロジーの変遷をたどっていくことにしよう。
 まずユニットであるが、最初はコンプレッションドライバーから。コンプレッションドライバーは、プレッシャードライバー/ホーンドライバーなどとも呼ばれ、振動板に空気制動がかかるようにして振幅を抑え、ホーンにとりつけて使用するユニットのことである。
 コンプレッションドライバーは、振動板(ダイアフラム)の後ろをバックカバーで覆うことで小さなチャンバーをつくり、また振動板前面にはイコライザー(フェイズプラグ)と呼ぶ、一種の圧縮(コンプレッション)経路を設けるのが一般的で、JBLもその例外ではなく、むしろこの形態をつくりだしたのがウェスタン~ランシングなのである。
 さて、JBL最初のコンプレッションドライバーは175の型番を持つモデルで、ダイアフラム径は1・75インチ(44mm)、その素材はアルミ系金属、そしてホーンとの連結部であるスロート開口径は1インチ(25mm)のもの。周知のことであるが、J・B・ランシングはJBL創業前は、アルテック・ランシング社に在籍しており、アルテックでも数多くのユニットを設計している。アルテックには、ランシングが設計した802という175相当のモデルがあるが、この両者を比べてみるとじつに面白い。すなわち、ダイアフラムのエッジ(サラウンド)はタンジュンシヤルエッジといって、円周方向斜めに山谷を設けた構造になっているのは両者共通だが、そのタンジュンシヤルの向きがアルテックとJBLでは逆、ボイスコイルの引き出し線はアルテックは振動板の後側(ダイアフラムがふくらんでいる方向)に出しているのにたいしJBLは前側、そして、極性もアルテックが正相にたいしてJBLは逆相……というように基本設計は同じでも変えられるところはすべてアルテックと変えたところが、JBLの特徴としてまず挙げられる。
 これらは目で見てすぐわかる部分だが、設計上非常に大きく違うのが、ボイスコイルが納まるフェイジングプラグとトッププレートの間隙、つまり磁気ギャップの部分がJBLのほうが狭いということと、磁気回路がより強力になっているということだ。アルテックは業務用途を主とし、ダイアフラム交換を容易にするためギャップを広くとっているのだが、JBLはその部分の精度を上げ、より高域を伸ばす設計に変えたのである。また磁気回路の強力化は、より高感度を求めたものと考えられる。
 この磁気回路を強力にするというのもJBLの大きな特徴で、175をさらに強力にした275、そしてLE85を開発していくことになる。この磁気回路の強力化は高感度化と、後述するホーンの話につながるのだが、磁気制動をかけて、空気の制動が少ない状態でも充分に鳴らせることにつながってくる。
 175~275~LE85は、1インチスロートであるが、4インチ・アルミ系金属ダイアフラム、2インチスロートという大型のコンプレッションドライバーが、有名な375である。375は磁束密度が2万ガウス以上という極めて強力なユニットで、ダイアフラムのエッジはロールエッジである。これらJBLのコンプレッションドライバーはすべてアルニコ磁石を用いており、このアルニコ磁石の積極的な導入は、J・B・ランシングの設計上のポイントでもあったようだ。
 ここまでが、JBLのスタジオモニター開発以前の話である。しかし1971年に登場した4320に搭載されたコンプレッションドライバー2420は、LE85のプロヴァージョンであり、事実上、同じモデルとみなせるものだ。したがってモニタースピーカー登場後しばらくは、これらランシング時代からのドライバーを用いていたのである。しかし、’80年代に入り、変革がおとずれる。それはまず、ダイアフラムのエッジ部分から始まった。それまでのタンジュンシャルエッジ/ロールエッジから、ダイアモンドエッジと呼ばれる、4角錐を組み合せた複雑な形状のものに変化したのである。これは高域特性の向上を目指した改良ということである。
 つぎなる変革は磁性体の変化である。これはウーファーなどコーン型ユニットが先行していたが、アルニコの原料であるコバルトの高騰により、フェライト磁石に移行したのだ。アルニコからフェライトに変れば、当然素材自体の鳴きも変り、磁気回路そのものも変化するためかなりの設計変更が必要となるが、高域ユニットでは低域ユニットに比べ比較的スムーズに移行できたようだ。磁性体材料ではもうひとつ、ネオジウム磁石への変革がある。これはアルニコからフェライトのように全面的な移行ではなく、現在でも限られたユニットだけにネオジウムを搭載しているが、軽量化と高感度/高駆動力を両立させる手法であろう。ユニットが軽量になれば慣性が減るため、より音の止まりが速くなる効果が期待できる。
 ダイアフラムに話を戻すと、アルミからチタンへの変更が’80年代に行なわれた。チタンは音速の速い物質であり、物性値の向上という意味で、技術的に魅力ある素材である。しかし、チタンの固有音のコントロールには苦労したあとがみられ、4インチ振動板モデルでいうと、最初にチタンを搭載した2445ではダイアフラムの頂点に小さな貼り物をしたり、つぎの2450ではリブ(これは軽量化と強度を両立させるためのものでもあったが)を入れたり、475Ndでは一種のダンピング材であるアクアプラスを塗布したりして、現在では固有音を感じさせない見事なコントロールが行なわれているようである。
 イコライザーにも変化があった。当初は環状(同心円状)スリットの、経路が直線で構成されるものであったが、2450/475Ndには、経路が曲線で形成されるサーペンタインと呼ばれる形状が採用されている。この形状にすることで、ダイアフラムの真ん中とその周辺での音の時間差をコントロールして、より自然な音をねらったものと思われる。
 コンプレッションドライバーから発展したものとして、075に代表されるリングラジエーターというホーントゥイーターがある。これはコンプレッションドライバーのダイアフラムをドーナツ型にしたようなもので、リング型の放射部分にあるダイアフラムの裏側に、ちょうどボイスコイルがくるようにして(ボイスコイルの部分がもっとも高城のレスポンスがいいため)、耐入力と高域特性の向上の両立を図ったものだ。モニター機にはもっばら2405が使われたが、基本的には075をベースにイコライザー部分を変えて、高域を伸ばしたものであり、この基本部分を同じくして各種のヴァリエーションをつくるというのも、JBLの大きな特徴である。モニター機では低音が比較的伸びたウーファーを使用するため、バランス上、075では高域が足らず、2405を使ったと思われるが、この低域と高域のレスポンスのバランスはオーディオで非常に大事なことである。なお、リングラジエーターと175/LE85等のボイスコイル径は同一である。

ホーン/音響レンズ
 JBLのホーンでもっとも特徴的なのはショートホーンであるということだ。通常コンプレッションドライバーは、ホーンでの空気制動を見込んで設計するのだが、先ほど述べたように、JBLのドライバーはもともと磁気制動が大きく、あまり長いホーンを必要としない。ホーンが短いメリットは、何といってもホーンの固有音を小さくできるということであるが、そのためには組み合わせるドライバーに物量を投入しなければならず、この方式の追従者は少なかった。強力な磁気ダンピングをかけるもうひとつのメリットとして、ダイアフラムが余計な動きをせず、S/Nがよくなるという点も挙げておきたい。
 しかし、いくらショートホーンといっても固有音がなくなるわけではなく、また、ウーファーと同一のバッフルにマウントしたときに発音源が奥に行き過ぎ、なおかつ平面波に近い状態で音が出てくるために、距離を感じてしまう。そこで考案されたのが音響レンズである。音響レンズによって指向性のコントロールができ、仮想の音源を前に持ってくることも可能となり、さらには、球面波に近い音をつくることが可能になった。たとえばスラントプレートタイプの音響レンズを見ると、真ん中が短く、両端が長い羽根が使われているが、こうすることによって真ん中の音は速く、端の音は遅くと極めてわずかではあるが時間差がついて音が放射されることになり、波の形状が球面になると考えられるのだ。パーフォレーテッドプレートというパンチングメタルを多数重ね合わせたタイプのレンズが、真ん中が薄く、端にいくにしたがって厚くなっているのも、同じ理由によるものと考えられる。
 モニター機にはもっぱらショートホーン+スラントプレートレンズが使われたわけだが、4430/35で突如姿を現わしたのがバイラジアルホーンである。音響レンズにはメリットがあるものの、やはりレンズ自体の固有音があり、ロスも生じる。
 また、ダイアフラムからの音はインダイレクトにしか聴けないわけであり、もう一度原点に戻って、ホーンの形状だけで音をコントロールしようとして出てきたのがバイラジアルホーンだと思う。レンズをなくすことで、ダイアフラムの音をよりダイレクトに聴けるようにして、高域感やS/Nを上げようとしたものであろう。また、通常のホーンは、高域にいくにしたがって指向性が狭くなり、軸をずれると高域がガクッと落ちるのであるが、この形状のホーンでは周波数が上がっても指向性があまり変らず、サービスエリアが広くとれるということである。現在のJBLは、このバイラジアルホーンに加え、スラントプレートタイプのホーンもつくり続けている。

コーン型/ドーム型ユニット
 コーン型ユニットに移るが、ここではウーファーに代表させて話を進めていく。ウーファーの磁気回路の変遷は、コンプレッションドライバーとほぼ同様だが、しかしフェライトへの移行に際し、JBLではウーファー用にSFGという回路を開発し、低歪化にも成功したのである。また、マグネットは過大入力によって磁力が低下(滅磁)する現象が起きることがあり、アルニコのひとつのウイークポイントであったのだが、フェライトには減磁に強いという性格があり、モニタースピーカーのように大パワーで鳴らされるケースでは、ひとつのメリットになると考えられる。
 JBLのウーファーは軽いコーンに強力な磁気回路を組み合わせた高感度の130Aからスタートしたが、最初の変革は1960年ごろに登場したLE15Aでもたらされたと考えられる。LE15Aは磁気回路が130系と異なっているのも特徴であるが、それよりも大きいことは、コーン紙にコルグーションを入れたことである。コルゲーションコーン自体は、その前のD123で始まっているのだが、ウーファーではLE15が初めてで、特性と音質のバランスのとれた画期的な形状であった。ただし、130系に比べてコーンの質量が重くなったため(これはコルゲーションの問題というよりも振動系全体の設計によるもの)感度は低下した。現在でも全世界的に大口径コーン型ユニットの大多数はコルゲーションコーンを持ち、その形状もJBLに近似していることからも、いかに優れたものであったかがわかる。またLE15ではロール型エッジを採用して振幅を大きく取れる構造とし、低域特性を良くしているのも特徴である。
 モニターシステム第一号機の4320には、LE15Aのプロヴァージョン2215が使われたが、以後は、130系の磁気回路にLE15系の振動系を持ったウーファーが使いつづけられていくことになる。また、ボイスコイルの幅が磁気ギャップのプレート厚よりも広いために振幅が稼げる、いわゆるロングボイスコイル方式のウーファーをほとんどのモニター機では採用している。特筆すべきは、ことモニター機に使われた15インチウーファーに関していえば、4344まで130系のフレーム構造が継承されたことで(4344MkIIでようやく変化した)、JBLの特質がよく表われた事象といえよう。
 ロールエッジの材料はLE15の初期にはランサロイというものが使われていたが、ウレタンエッジに変更され、以後連綿とウレタンが使われつづけている。ただし、同じウレタンでも改良が行なわれつづけているようである。スピーカーというものは振動板からだけ音が出るわけではなく、あらゆるところから音が発生し、とくにエッジの総面積は広く、その材質・形状は予想以上に音質に影響することは覚えておきたい。
 コーン紙にはさらにアクアプラストリートメントを施して固有音のコントロールを行なっているのもJBLの特徴である。ただしそのベースとなる素材は、一貫してパルプを使用している。
 S9500/M9500では14インチのウーファー1400Ndが使われたが、これはネオジウム磁石を用い、独自のクーリングシステムを持った、新世代ユニットと呼ぶにふさわしいものであった。またこのユニットは、それまでの逆相ユニットから正相ユニットに変ったこともJBLサウンドの変化に大きく関係している。
 なお、モニター機に搭載されたユニットのなかで、最初にフェライト磁石を採用したのは、コーン型トゥイーターのLE25であるが、SFG回路開発以前のことであり、以後のトゥイーターにも、振幅が小さいためにSFGは採用されていない。
 ドーム型ユニットのモニター機への採用例は少ないが、メタルドームを搭載した4312系の例がある。素材はチタンがおもなものだが、途中リブ入りのものも使われ、最新の4312MkIIではプレーンな形状で、聴感上自然な音をねらつた設計となっている。

エンクロージュア
 JBLのエンクロージュアの特徴は、補強桟や隅木をあまり使わずに、まずは側板/天板/底板の接着を強固にして箱の強度を上げていることが挙げられる。材質はおもにパーティクルボードで、ほとんどが、バスレフ型。バスレフポートは当初はかなり簡易型の設計であった。これは、とくにスタジオモニターの場合、設置条件が非常にまちまちであり、厳密な計算で設計をしても現実には反映されにくいため、聴感を重視した結果であろう。
 エンクロージュアのプロポーションは、比較的奥行きが浅いタイプであるが、一般的に奥行きの浅いエンクロージュアのほうが、反応の速い音が得られるために、こうしたプロポーションを採用しているものと思われる。
 時代とともにエンクロージュアの強度は上がっていき、いわゆるクォリティ指向になっていく。材質は最近MDFを使うようになったが、これはバラツキが少なく、かなり強度のある素材である。JBLがMDFを採用したのには、システムの極性が正相になったことも関係しているだろう。すなわち、逆相システムはエッジのクッキリした音になりやすく、正相システムはナチュラルだが穏やかな音になりやすいため、MDFの明るく張った響きを利用して、正相ながらもそれまでのJBLトーンとの一貫性を持たせたのではないかと推察される。モニタースピーカーは音の基準となるものであるから、この正相システムへの変化は重要なことではあるが、コンシューマーに限れば、どちらでもお好きな音で楽しめばよいように思う。そのためにはスピーカーケーブルのプラスとマイナスを反対につなげばよいだけなのだから。
 エンクロージュアの表面仕上げも重要な問題である。JBLのモニター機は当初グレーの塗装仕上げであったが、これはいわゆるモニターライクな音になる仕上げであったが、途中から木目仕上げも登場した。木目仕上げは見た目からも家庭用にふさわしい雰囲気を持っているが、サウンド面でもモニターの峻厳な音というよりも、もう少しコンシューマー寄りの音になりやすいようだ。M9500ではエンクロージュアの余分な鳴きを止めるためにネクステル塗装が行なわれており、モニターらしい設計がなされているといえる。
 吸音材の材質/量/入れ方も音に大きく 影響するが、とくに’70年代に多用されたアメリカ製のグラスウールは、JBLサウンドの一端を大きく担っていたのである。

クロスオーバー・ネットワーク
 JBLのネットワークはもともと非常にシンプルなものであったが、年とともにコンデンサーや抵抗などのパラレル使用が増えてくる。これはフラットレスポンスをねらったものであるが、同時に、音色のコントロールも行なっているのである。たとえば、大容量コンデンサーに小容量のコンデンサーをパラレルに接続する手法を多用しているが、この程度の容量の変化は、特性的にはなんらの変化ももたらさない。しかし音色は確実に変化するのである。また、スピーカーユニットという動作時に複雑に特性が変化するものを相手にした場合、ネットワークはまず計算どおりには成り立たないもので、JBLの聴感上のチューニングのうまさが聴けるのが、このネットワークである。ネットワークの変化にともなって、音はよりスムーズで柔らかくなってきている。
 こうして非常に駆け足でテクノロジーの変遷をたどってきたわけだが、JBLがさまざまな変革を試みてきたことだけはおわかりいただけたのではないだろうか。そしてその革新にもかかわらず、JBLトーンを保ちつづけることが可能だったのは、ランシング以来の50年以上にわたる伝統があったからではないだろうか。

モニタースピーカー論

菅野沖彦

JBLモニタースピーカー研究(ステレオサウンド別冊・1998年春発行)
「モニタースピーカー論」より

「モニタースピーカーとは何か?」というテーマは、オーディオの好きなアマチュアなら誰もが興味を持っている問題であろう。また、プロの録音の世界でも、専門家達によってつねに議論されているテーマでもある。私も長年の録音制作の仕事の経験と、半世紀以上の私的レコード音楽鑑賞生活を通じて、つねにこの問題にぶつかり、考え続けてきているが、録音再生の実体を知れば知るほど、一言で定義できない複雑な命題だと思わざるをえない。モニタースピーカーをテーマにして書いたことや、話をしたことは、過去にも数え切れないほど多くあったが、そのたびに明解な答えが得られない焦燥感を味わうのが常であった。モニタースピーカーの定義は、オーディオとは何か? の問題そのものに深く関わらざるを得ないものだからだと思っている。つまり、オーディオの代表と言ってよい、変換器コンポーネントであるスピーカーと、それが置かれる再生空間(ホール、スタジオ、モニタールーム、家庭のリスニングルームなど)の持つアコースティックの諸問題、さらには、各人の技術思想や音と音楽の感覚的嗜好の違いなどに密接に関係することを考えれば、その複雑さを理解していただけるのではないだろうか。いまや、モニタースピーカーを、単純に変換器としての物理特性の定量的な条件だけで定義することはできないという認識の時代になったと思う。
 モニタースピーカーには目的用途によって望ましい条件が異なる。本来は、再生の代表であるから、そのプログラムが聴かれる再生スピーカーに近いものであることが望ましい。しかし現在では、5cm口径の全帯域型からオールホーンの大型4ウェイ、5ウェイシステムなどといった多くのスピーカーシステムがあるわけだから、このどれを特定するかが問題である。AMラジオやカーオーディオからラジカセ、ミニコン、本格オーディオまでのすべてをひとまとめにするというのも無茶な話ではある。つまり、特定することは不可能であり、現実はかなりの大型モニターをメイン・モニタースピーカーとし、それと小型のニア・フィールド・モニターを併用し、この2機種に代表させているのが一般的であるのはご存じの通りである。また、各種の編集用やマスタリングなどのそれぞれに、最適のモニターのあり方は複雑である。厳密に言えば制作者のためのコントロールルーム・モニタースピーカーと、演奏者のためのプレイバック・モニターでも異なる必要がある場合もある。通常はスタジオ・ホールドバックはメインモニターと共通のものが多いようだ。演奏者のためのキューイング用ヘッドフォンやスピーカーも一種のモニターとして重要であるがこうなると切りがない。これは録音のための詳しい記事ではないのでこうした具体的な詳細については省略するが、とにかく、モニタースピーカーシステムの概念は単純に考えられるものではないことだけは強調しておきたい。
 モニタースピーカーだからといって、基本的には、観賞用スピーカーシステムと変るところがあるわけではないが、鍛えられたプロの耳にかなうべく、音響的にその時代の水準で最高度の性能を持つものであることが望まれると同時に、なによりも少々のことでは壊れないタフネスと制作者が音楽的判断がしやすく、長時間聴いても疲れない、好ましいバランスと質感のサウンドを兼ね備えるものであることが望ましい。周波数的にワイドレンジであり、リニアリティに優れ、歪みが少なく、全帯域にわたる位相特性が重視されるなどといった基本的な物理特性は、モニタースピーカーだけに特に要求される条件ではないわけだから、そんなことを、あらためて条件として述べる必要はないだろう。指向特性や放射波パターンは現在のところでは特定されていない。当然のことだが、理屈を言えば、肝心のモニターする部屋の問題はさらに重要である。かといって、特に音響設計をした部屋であらゆる音楽制作の仕事ができるわけでもないし、だいいち、モニタールームの理想的音響特性というものにも見解は不統一である。当然これに関しても、世界各国の多くの機関が推奨特性を提案してはいるが、世界中の録音スタジオのコントロールルームを同じ特性に統一できるはずはないし、コンサートホールの録音に部屋を担いでいくわけにはいかない。案外、放送局が使っている中継車が使いなれていれば、正解かもしれない。
 私個人のモニタースピーカーとしての条件をあえて言えば、「当人が好きで、聴きなれたスピーカーシステム」としか言えない。しかし、そう言っては元も子もなく、「多くの人間が共通して使える普遍性」というスピーカーシステムの本質にとってもっとも困難な問題こそがモニタースピーカーの条件なのである。
 過去には、ラジオ放送局や電気音響機器に関する各種の技術基準を定める関連団体が、サウンドのリファレンスとしてのモニタースピーカー規格を作成し、少なくとも単一団体やネットワークの中での共通項として定め、仕事の質的向上と組織化や円滑化に役立てられてきたのがモニタースピーカーと言われるものであった。そして、その機関は専門家の集団であり、放送局のように公共性を持つものだったことから、そこが定める規格は、それなりの権威とされたのはご存じの通りである。その代表的なものが海外にあってはRCAやBBCのモニタースピーカー規格であり、内にあってはNHKのBTSモニタースピーカー規格などである。この規格に準じた製品はメーカーが共同開発、あるいは設計、仕様書に基づいて製品を受注生産することになる。さらに一般マーケットでの販売に拡大し、一定の生産量を確保してコストの低下を図ることになる。そうなれば、そのような、ある種の権威ある機関が定めた規格を売り物にするという商業的傾向も生まれて当然であろう。その制定機関の承認を得て名称を使い、一般コンシューマー市場で、モニタースピーカーとししてのお墨付を優れた音の信頼の証しとするようになったのである。かくしてオーディオファイルの間でも、プロのモニターという存在が盲目的信仰の対象に近い存在になっていったと思われる。当時の技術水準とオーディオマインドのステージにあっては、こうしたお墨付が大きな意味があったのは、やむを得ないであろう。オーディオの文化水準もいまのようではなかったし、つねに自分の再生音に不安を持つのがアマチュア共通の心理である。プロのモニターというお墨付は、何よりの安心と保証である。
 この状況は、いまもオーディオファイル
に根強く残っているようではあるが、大きく変りつつある面もあり、実際に、そうしたお墨付の製品は少なくなっているようだ。それは、時代とともに(特に1960年代以後)、レコード産業や文化が発展し、オーディオ産業がより大きく多彩な世界に成長したことが要因と思われる。電気音響技術と教育の普及と向上も、放送局のような特定の公的機関や団体に集中していた技術や人材を分散させ、オーディオは広範囲に拡大化した。モニタースピーカーにも多様な用途が生まれてきたし、変換器としてプロ機器とコンシューマー機器をかならずしも共通に扱えないという認識も生まれてきた。また、技術レベルの格差も縮まり、物によっては逆転と言える傾向さえ見られるようになったのが現状である。一般にオーディオと呼ばれるレコード音楽の録音再生分野に限ってもモニタースピーカーの設計製作をする側も、仕事や趣味でそれを使う側でも、音への認識が高まり、スピーカーや室内音響の実体と本質への理解が深くなったことで、スピーカーを一元論的に定義する単純な考えは通用しない時代になったと思われる。
 このように、モニタースピーカーは、より多元的に論じられる時代になったと言えるだろうし、現に録音現場で採用されているプロのモニタースピーカーも、むかしとは比較にならないほど多種多彩で種類が多い。同じ企業の中で数種類のモニターが使われている例も珍しくはなく、同じ放送局内でさえ、ブランドはもちろんのこと、まったく異なる設計思想や構造によるスピーカーが、メインモニターとしてスタジオ別に設置されている例が見られるようになった。局が違いレコード会社が違えば、もはや、ある基準値による音の客観的標準化(本来有り得ないものだが)や、規格統一による互換性などは、ほとんど希薄になっていると言わざるを得ないであろう。多様化、個性化といった時代を反映しているのだろうが、これもまた、少々行き過ぎのように思われる面もある。
 私は、1971年のアメリカのJBL社のモニタースピーカー市場への参入を、このような、言わば「モニタースピーカー・ルネッサンス」と呼んでよいエポック・メイキングな動きの一つとして捉えている。
 そしてその後、中高域にホーンドライバーを持つ4ウェイという大がかりなシステムでありながら、JBL4343というスピーカーシステムが、プロのモニタースピーカーとしてではなく、日本のコンシューマー市場で空前のベストセラーとなった現象は、わが国の20世紀後半のオーディオ文化を分析する、歴史的、文化的、そして商業的に重要な材料だと思っている。ここでは本論から外れるから詳しくは触れないが、この問題を多面的に正確に把握することは、現在から近未来にかけてのオーディオ界の分析と展望に大いに役立つはずである。
 いまの若い方達はたぶん意外に感じられると思うのだが、JBLはもともとプロ用モニタースピーカーの専門メーカーではなかった。プロ機器(劇場用とモニター)の専門メーカーであったアルテック・ランシング社を離れ、1946年創立されたJBL社は、高級な家具調のエンクロージュアに入ったワイドレンジ・スピーカーシステムに多くの傑作を生み出している。ハーツフィールド、パラゴン、オリンパス、ランサーなどのシリーズがそれらである。これは、マーケットでのアルテック社の製品群との重複を避けたためもあるらしい。(実際、JBLの創設者J・B・ランシング氏は、アルテックの副社長兼技術部長時代に、アルテックのほとんどの主要製品、288、515、604、A4などを設計開発していた!)
 JBLがモニタースピーカーと銘打って登場させた最初のスピーカーシステムは、一般には1971年の4320だとみなされている。実際には、1962年にC50SM(スタジオ・モニター)というモデルが発表されているが、広く使われたものではなかったようであり、また4310というシステムが4320とほぼ同時に発売されているが、このモデルは、30cmウーファーをベースにした、オール・コーン型のダイレクトラジエーターによる3ウェイシステムだから、その後同社モニタースピーカーとして大発展をとげるシリーズがすべて、高城にホーンドライバーを持つシステムであることからすれば、4320を持ってその開祖とするのも間違いではない。4320は2215型38cmウーファーをベースに、2420+2307/2308のドライバー+ホーン/音響レンズで構成される2ウェイシステムである。
 1972年にはヴァリエーション機の4325も登場するが、同時にこの年、38cmウーファー2230A2基をベースとした4ウェイ5ユニット構成の大型スタジオモニターシステム、4350が発表となるのである。これは従来、モニタースピーカーはシングルコーン型か同軸型、せいぜいが2ウェイシステムと言われていた定説に真っ向から挑むものとしてエポック・メイキングな製品と言えるもので、その後の、世界中のスタジオモニターのあり方に大きな影響を与えたものであったと同時に、一足先に3ウェイ以上のマルチウェイ・システムに踏み込んでいたオーディオファイルの世界に、喜ばしい衝撃となったことは重大な意味を持っていると、私は考える。マルチウェイでもプロのモニターができたのか! という我が意を得たりと感じたファンも多かったと思う。かつての放送局規格のモニタースピーカーとはまったくの別物であった。私の知る限りでは、これらJBLのプロ・モニターは自称であり、どこかの機関の定めた規格に準拠するものではないと思う。
 アメリカでは歴史上の必然からウェスタン・エレクトリックとアルテック・ランシングがプロ用スピーカーシステムの標準のようなポジションを占めてきた。特にスタジオモニターとして、当時、独占的な地位とシェアを誇っていたのが、38cm同軸型ユニットの604Eを銀箱という愛称のエンクロージュアに納めたアルテックの612Aであったが、このJBLのプロ市場参入をきっかけとして、落日のように消えていったのである。既成概念の崩壊は雪崩のごとくプロ市場を襲い、その頃から多くのカスタムメイドのモニタースピーカーメーカーも登場したのである。ウーレイ、ウェストレイクなどがなかでも有名になったメーカーだ。
 さて、そうしたモニター・ルネッサンスを生み出したJBLの製品は、4320、4325、4331、4333、4341と続き、’76年に発表され大ヒットとなった4343、4343WXで、最初の絶頂期を迎えることになるわけだ。4343は、
2231Aウーファー、2121ミッドバス、2420+2307/2308ミッドハイ、2405トゥイーターという4ウェイ4ユニットが、4面仕上げの大型ブックシェルフ(?)タイプのエンクロージュアに納められた、以後お馴染みになる4ウェイシステムの原器である。その後、改良型の4343Bとなり、1982年には4344、さらにダブルウーファーモデルとして1983年には4355と発展したのである。
 しかし、その発展は、モニター・ルネッサンスというプロ業界での尖兵としての健闘もさることながら、JBLを商業的に支えたのは、むしろ、これが援兵となったコンシューマー・マーケットでの尖兵達の敢闘であった。特に日本のオーディオファイルはこれをハイファイのスタンダードという認識を待ったようである。ペアで100万円以上もするシステムが売れに売れたという1970年〜1980年のわが国のオーディオ界であった。4344は、1996年に4344MkIIが発売された時点でも残っているという人気ぶりで、ロングライフの名機となったのである。
 プロとコンシューマーの別はこうして取り除かれた。そしてたしかに、JBLによって’70年代から’80年代にかけて日本のオーディオ文化は円熟の時を迎えた。その結果、爛熟がカオスを招いたことも事実である。したがって、モニタースピーカーとは何か? という進路をも不透明にしてしまったように思える。その後JBLはバイラジアル・ホーンを持つモニターを発表し、さらにはプロジェクト・シリーズで気を吐くが、自らの進路を定めていない。むしろ、個々に鑑賞用として優れた魅力的なシステム群である。
 モニタースピーカーは録音再生の、いわば「音の羅針盤」だ。JBLが創り出したといってよい世界の現代モニタースピーカーのカオスから、なんらかの方向が定まることを期待したい。まさに群雄闊歩の時代なのである。

「オーディオの流儀」

井上卓也

ステレオサウンド 124号(1997年9月発行)
特集・「オーディオの流儀──自分だけの『道』を探そう」より

 録音・再生系を基本としたオーディオでは、再生音を楽しむための基本条件として、原音再生は不可能であるということがある。録音サイドの問題にタッチせず、再生側のみのコントロールで、各種のプログラムを材料として再生音を楽しむこと、の2点が必要だ。再生系ではスピーカーシステムが重要だが、電気系とくらべ性能は非常に悪い。しかし、ルーム・アコースティック・設置条件、駆動アンプなどの調整次第でかなり原音的なイリュージョンが聴きとれるのは不思議なことだ。
 スピーカーは20cm級全域型が基本と考えており、簡潔で親しみやすい魅力がある。プログラムソースの情報量が増えれば、マルチウェイ化の必要に迫られるが、クロスオーバーの存在は振幅的・位相的に変化をし、予想以上の情報欠落を生じるため、遮断特性は6dB型しかないであろう。
 ステレオ再生では音場再生が大切で、非常に要素が多く、各種各様な流儀が生じるかもしれない。

「オーディオの流儀」

菅野沖彦

ステレオサウンド 124号(1997年9月発行)
特集・「オーディオの流儀──自分だけの『道』を探そう」より

 私のオーディオの基本姿勢は、客観と主観、物理特性と感性のバランスです。つまり、評価基準として科学技術と美学の2つのバランスが必要です。スピーカーにたいしても、物理的には周波数帯域と直線性などの点でメディアと同水準の特性を要求します。録音されている周波数/ダイナミックレンジが出ないものは不満です。残念ながら、ほとんどの市販製品がそうですが!? 感性的には私の好みに合うスピーカーは必ずしも一つではないし、同じ設計思想によるものとも限りません。好きな食べものが一つでないのと同じです。スピーカーを個性や癖で安易に分類するのは危険ですが、この世に無個性なスピーカーはないので、聴き手の音響的、音楽的嗜好との接点は大切です。私は、演奏者の「気」の感じられるような、血の通った、精緻かつ豊潤な音が好きです。嫌いなのは、刺激的で、冷たい、機械的な音と、病的で脆弱な音。そして、使い手の調整不備による変則的な帯域バランスです。

アナログ再生の愉悦

菅野沖彦

レコードリスナーズ アナログバイブル(ステレオサウンド別冊・1996年6月発行)
「アナログ再生の愉悦」より

アナログ再生の愉悦

 思い返してみると、僕は5世代にわたるレコードの変化を体験してきたことになる。今、僕の部屋の正面に、敬意を表して置いてある、ビクターの1-90という蓄音機で僕のレコード人生は始まった。1930年代後半である。ゼンマイをクランクで巻き上げて、ターンテーブルを毎分78回転で廻し、蝸牛のようなサウンドボックスに捻子で取りつけた鉄の針を片面3分ほどごとに交換して聴いたのがSPレコードの第1世代。レコードの録音は電気式の時代に入ってはいたが、この頃聴いていたレコードには機械式のものも混っていた。
 次が、電気式の蓄音機(俗にいう電蓄)で聴いた時代だ。これも、当時、父が買ったビクター製だ。16cm口径スピーカーと、2A5というヒーター電圧が2・5Vの5極管を使ったシングルアンプによるものだった。ターンテーブルは回転制御ガヴァナー付きダイレクトドライブ式のインダクション型モーター式で、ピックアップ(カートリッジとトーンアームが一体のもの)をレコードの縁にもっていくとスイッチが自動的に入り、ターンテーブルが廻り始め、演奏が終ると、ストッパーが働いて停止するという、当時としては夢のような(?)ものであった。もう、手でグルグル巻く必要はなかったし、巻きが不十分で、途中から回転が遅くなるようなこともなかった。この頃になると、鉄針だけではなく、竹針が現われ始める。片面ごとに捻子をゆるめて、針を新品に交換する鉄針と違い、竹の先端だけを専用の鋏で切り、何度も繰り返し使えるものである。この電気式録音再生時代が2世代目で、第2次大戦の1940年代まで続くことになる。
 家は爆弾で被害を受けたが、この電蓄は残ったのである。とはいえ、まともに音は出なかったし、終戦直後で部品などなかったのだが、音が聴きたい一心で、何とか四苦八苦してこれを修理したことが、僕のオーディオ趣味の始まりとなった。僕の高校卒業ごろまで、つまり1950年頃までのことである。
 次が、いよいよLP時代である。といってもモノーラルだ。電蓄の修理改造からオーディオにのめり込んだ、まさに病膏肓の時代である。そしてまた、足の踏み場のないほどあったSPレコードがLPに化けた、後世忘れられない時代でもあった。父が戦前から持っていたものに加え、戦後、中古レコード店巡りをして苦労して僕が集めたものも含め、SPレコードのコレクションはLPの新譜が出るごとに消えていき、ついにその数分の一か十分の一以下の量になってしまったのである。これは音楽量(?)の話であって、物量としては百分の一以下、つまり、1%以下にも減ってしまったのである。同じ30cm盤でも、SPは両面で約8分、それがLPでは40~50分であり、豪華な厚手の上製アルバムは薄く安っぼいジャケットに変り、さらにSPは値を叩かれ、LPは高い定価というわけで、価格差もついたからである。それでも、音キチといわれていたオーディオマニアの私は、その広帯域でノイズの少ない音に魅せられて、夢中になっていたのであった。多くの名演奏をも手放してしまったのだから、後々考えれば、音に目が眩んだとしか言えないかもしれない。今のアナログファンが、CDは小さくプラスティッキーで安っぼいというが、当時は今の30cmのアナログディスクが、同じようにSPファンを嘆かせていたのを想い出す。
 私にとって、その後、このモノーラルLPの時代が1960年の初頭ぐらいまで続くことになる。ステレオレコードの登場は、ご承知のように1957年である。日本では翌58年の発売だった。だが、僕のステレオ化はずっと後のことになる。SPからLPへの潔い転向だったが、モノーラルには執着し頑張り通したのである。その最大の理由は、当時絶好調であった自作システムにある。このシステムは僕の青春の象徴であって、長年の悪戦苦周と情熱の成果であった。かけた金額も時間も、僕にとって、もう2度とあり得ないと思えるほどのものだった。だから、そう簡単に、これとそっくり同じものをもう一組追加して2チャンネル・ステレオ化するなどということは、とうてい考えられなかったので、意地を張っていたのである。
 フィールド型磁気回路を持った30cmウーファー・ベースの4ウェイ6ユニットを、特注した桜の無垢材のコーナー型エンクロージュアに入れたスピーカーシステムは、これ以上はあり得ないと思えるほど僕の部屋に馴染んでいた。特殊な反射式の高域拡散型トゥイーターやスコーカーも、長年苦労した結果、部屋に作りつけのようになっていた。ネットワークにはオイル・コンデンサーをずらりと並べ、コイルも空芯の特注品。とても、その時期にもう一組というわけにはいかなかったのである。アンプも、改造につぐ改造を経たもので、最終的な仕様は、電源部、イコライザーアンプ部、パワーアンプ部、それにフィールド型ウーファーのマグネット励磁用の直流電源部などすべてを分離独立型とした大掛かりなものだった。
 ’60年代になると、当時、僕の仕事であった録音制作の業界も、完全にステレオ化したし、さすがにいつまでも意地を張っているわけにもいかず、ついに決意して、それらを全部捨てたのが1962年のことである。時代は自作からメーカー製へと移行したこともあって、その後の僕のステレオシステムは、すべてメーカー製コンポーネントによる構成となる。こうして4世代目のアナログ・ステレオディスク時代が現在まで続くのである。
 1982年に、僕にとっては第5世代目のディスクであるCDが登場する。しかし、このように僕の人生はほとんどアナログ時代とともにあったので、CDの登場は、長いオーディオ生活のおまけかご褒美のようにも感じられるのだ。SP時代から、長年アナログディスクで悩まされ続けたノイズや各種の不安定さからの解放が、そう感じさせたのであろうか?
 しかし、SPからLPの時のような音の改善とはとうてい考えられなかったし、あの時にSPをほとんど手放して懲りていたので、アナログディスクを処分することなどは全く考えなかった。それどころか、私が今使っている、トーレンスのアナログプレーヤーをCD時代になってから買ったほどである。
 したがって、今、アナログディスクの世界を楽しむにはソフト、ハードともに不足はない。だから、今アナログブームなどとことさらに強調されることが感覚的にぴんとこないのであろう。
 アナログディスクの、あの肌と心に直接タッチする音触(ミスプリではない、音の感触のような私が最近よく使う言葉)や温度感にはたしかにリアリティがあって、ディジタルはどこかおかしいと感じることがある。
 これを言い出したら大変だから、これ以上深く立ち入るのは避けるとして、別の角度から一つだけ言っておきたいことがある。それは、人の努力や技の差を鋭敏に反映するものでなければ趣味たり得ないということである。やればそれだけの違いが表われ、やらない人との差がつくものが人を熱中させるのだ。畢竟、人の才能と努力次第で上は天井知らずである。
 CD登場前夜にメーカーがディジタルオーディオのメリットとして前宣伝していたことは、この差が出ないことの一点張りだった。電子機器メーカーなら仕方がないとしても、オーディオメーカーを自認しながら何という馬鹿な! と感じたことを忘れない。趣味や遊びを解さない野暮な人間の集団であることを露呈したと思った。しかも、それが間違いであったのだから、何ともお粗末な話である。しかも、呆れたことに、その後ケロッとして、ディジタルオーディオも、機構の剛性や制振で音が変るなどと言い出した。
 現代のハイテクの使い方を見てもこの非見識がわかる。ただ小型軽量自動化という発想しかない。僕はゴルフをやらないから、あり得ない馬鹿らしい想像と笑われるだろうが、誰かが、精巧極まりないハイテク・ハイスピードのセンサー・コントローラーによるゴルフクラブを作ろうと言い出したらどうだろう? ホール・イン・ワン・ドライヴァーとでもいって、叩きさえすればプログラミングどうりに飛球するクラブである。実現可能だとしても、こんな企画はつぶれるはずである。そんなものが売れるはずはないと誰でも思うだろう。事実、もし売れたら誰もゴルフなどやらなくなるはずだ。
 ところが、これがオーディオでは実現してしまうのだ。そういう連中はアナログディスクの今の人気を、ある種の教訓と思うべきだ。幸い(?)CDは欠陥だらけであったし、音の違いも無くならなかった。音は計算より難しかったようである。人間の感性は知性より鋭敏かつ複雑微妙で、CDプレーヤーもオーディオ機器たり得たようで何よりである。
 アナログディスクとプレーヤーの世界は、人を熱中させる要素の塊のようなものである。アナログの歴史が長かったからこそ、古今東西でオーディオがこれほどの趣味の世界として発展したのではないだろうか?
 実はオーディオ全体の系の中で、プレーヤーの部分ぐらいは、ディジタルにより基準が確定的に安定したほうがいいと思う時もあるほど、この世界はファジーでロマンティック、言い換えれば厄介で曖昧な世界でもある。プレーヤーシステムの音の良さの条件で絶対的なのは、ターンテーブルの回転精度だけといってもよい。カートリッジもトーンアームも、そしてベースを含めた全体のマスの固有構造や物性も、その違いのすべては音に表われ、設計思想には唯一無二の客観的絶対性が存在し得ないといってよい。
 一言で言えば、この世界はスピーカーシステムとともに、必要悪が山ほどある。オーディオシステム全体にいえることであるが、特にこの両変換器では、問題点を微視的に漬すことに気を取られ、トータルバランスを損ねると決して良い音は得られないものだ。だから、使い方も含め、またとない趣味の対象になり得るのだろうと思う。専門家もこの世界の人は純粋で熱っぼく、仕事か趣味かが区別できない人が多い。それだけに「木を見て森を見ず」ということにもなる例が多いのである。まあ、趣味そのものが、広い視野や観念からすれば、そういうものであるかもしれないが。
 すべてが可視的な機械の動作は、直接的でスキンシップがある。電子のブラックボックスには、その感覚は求めにくいようである。取り扱いが面倒な半面、これがレコード演奏行為の実感につながるのである。人の癖にも、流儀にさえも順応するのが魅力的である。
 つまり、人間に暖かく親しめるものなのであろう。

私の考える一流品

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド別冊・1994年春発行)
「私の考える一流品」より

 一流品という言葉を厳密に考えるとなかなか難しい。本来、そう安易に使うべき言葉ではないと思う。しかし、現代は最大級の形容詞や感嘆詞が吟味されることなく使われる時代だから、一流品という言葉もそれほど慎重に基準に照らし合わせて考えられているとは思えないのである。一流品、一級品、高級品、特級品、銘品、逸品、絶品などと、品物の格や品位の高さを表現する言葉は数多くあって、それぞれ、少しずつニュアンスは違う。一流品という言葉は、中でも「流」という字が使われていることで、流儀や流派という意味もあるのではないかと思う。つまり、個性とオリジナリティが大切な要素で、ただ、同種の品物の中で値段が最高だとか、格づけが上だとか、あるいは、最高の性能をもつということだけが、その説明にはならないだろう。そして個性やオリジナリティが、ただ他と違っていればよいというものでないことは当然で、それは優れた普遍性をもったものでなければならないとも思う。
 その証しとして、一流品というものは、多くの人々によって長い時間を通して常に評価され、敬愛されてきた実績を必要とするのかもしれないし、それを創り出した人や企業の並はずれた努力の賜であるだろう。一流品は、それを生んだ人や企業に独特のドラマがあるものだし、積年の風雪に耐え主張を貫き通して築き上げた歴史があるはずである。
 歴史というと、何百年という長い年月が想起されるのだが、現代産業にあってはそれらが大幅に短縮され数十年、時には数年という凝縮した期間として見ることができる場合もある。とくに、エレクトロニクス製品にはこうした傾向が強く、ただ時間の長さだけで一流であるか否かを決めるわけにもいかないだろう。しかし、それが数年であったとしても、そこには一貫性が必要である。
 歴史には必ずしも一貫性を必要としないが、伝統という言葉には一貫性が必須条件である。だから、仮に数年の時間しか注いでいない企業の製品であるものを一流品と認めるからには、その数年の中での一貫性と、その強い主張や思想が、将来、永続的に存在し得る普遍性をもつものとして考えられなければならないだろう。この辺が、現代のようにテンポの速い、技術革新のめまぐるしい時代にあっては、一流品という少々古めかしい日本語を当てはめるのが難しいところである。
 その点では、一級品、特級品、高級品などの言葉のほうが気楽に使えるように思える。これらの言葉のほうが単純に同種類の品物の相対的なクラス分けの意味で使うことに抵抗を感じないですむからである。これが、銘品、逸品、絶品などとなると、人の思い入れが加味されてきて複雑になる。しかし一方で、これらの言葉には必ずしも、歴史、伝統や格付けは必須の条件ではなく、むしろ、その品物単品での評価の要素が強いともいえそうだ。
 一流品となると、どうやら、これらの条件のすべてを満たすだけではなく、現代のように品物が産業として生産される時代にあっては、それを生み出す企業が一流企業であるかどうかまでが問われかねない。しかし、一流企業からだけ一流品が生み出されるとはいえないわけで、人によっては大量生産品を一流品と呼ぶのには抵抗があるかもしれない。
 企業の一流、二流……は経営的な実績や数字、つまり経済と規模がプライオリティとなるもので、製品の品位とは必ずしも一致しないと思う。だがしかし……である。一流品であるからには、その品物がユーザーにとって、あらゆる面で信頼に足るものであるべきだという意見も当然で、そうした点からは、保証や信頼性が不安になるようなものを一流品と呼ぶのは抵抗があるだろう。経営基盤のしっかりした大規模の一流メーカーの製品なら、この点でもっとも信頼できるから、一流品の条件としてそのメーカーを問題にする考え方にも一理あり、ということになる。
 しかし、ことオーディオ製品に関していえば、ハイエンドのエンスージアストの心を動かすような製品は、往々にして小規模なメーカーの製品であることが多い。メーカーが一流企業であるか否かを問うとしたら、多くのオーディオ・コンポーネントは一流品とは呼べなくなってしまう。
 ブランド品という言葉も最近では一般的だ。有名ブランド・イコール一流品という考え方はいかがなものであろうか? 有名ブランドになったからには、そのメーカーや人が大変な努力で自己のオリジナリティを広く理解されるべく、長年にわたって築き上げた歴史があると考えられる。有名ブランドが一流品だという考え方は、あながちはずれてはいない。しかし、ブランドの知名度の上に胡座をかいて、実感が伴わなくなったものもあるだろう。だから、現実的には一流品に最も近い言葉がブランド品であるようにも思われる。特に外国製品のように、創立者や製造者の個人名がブランドとして使われ、それが世界的に有名になったというものには、それなりの必然性と重みがある。
 ブランドは個性とオリジナリティがなければ他の品物の中に埋没して、有名になるまで生き残れないだろう。また、強い信念と主張で苦難を乗り越えてこなければ同じく消えざるを得ない。こんなわけでブランド品を、ただ知名度だけと考えるのもよくないし、頭から陳腐と決めつけるのも正しくない。要は、そのブランドがいかに初心を忘れず、いつの時代にあっても誇りを保ち続け顧客の満足に応える努力をしているかが問題であろう。
 さて、こんなわけで世界の一流品といえるオーディオ機器の選択には大変苦労させられた。厳格に私の考える一流品の基準で選んだら、これだけの数の製品は選べなかったと思う。かといって一流品と呼ぶからには、ただ漠然と製品本位で良いと思われるものを拾い上げていくわけにはいかない。SS誌の「ベストバイ」とは違うし、「COTY」とも違うのだ。最近こんなに苦労させられたセレクションもない。その枠が多すぎるのか少なすぎるのか、考え方によってどちらともいえる。
 言いわけがましいが、一流品という語が高級品や高額品と同義ではないことも重々承知である。しかし、どうしても数に制約を受けて選ぶとなると、高級品に片寄ることはやむを得ないのではないだろうか。編集部から渡されたリストを見ても、中・高級機器が中心で、普及機はあまりリストアップされていない。すでに述べたように一流品と品物のクラスとは別という考えを私は持っているのだが、これが現実なのだと思う。
 しかも、オーディオは趣味
である。その製品の趣味性を考えれば当然、高級機ほど高い趣味性を満たしてくれるものが多い。実用機としての一流品もあり得るのだが、ここでは趣味の製品としてという基本条件を定めて選択した。その結果、もう一つ述べておかなければならないことが出てきた。それは外国製品の数が多いということである。
 私はこの別冊の前項で、エッセイストで時計のコレクターとして有名な松山猛氏と対談をした。松山氏にとって時計は、ただ時を知るためのメーターではなく趣味である。時計の趣味となると、その対象はアンティーク時計か、外国製(ほとんどスイス製)の時計であって、それも、クォーツではなくメカニカル・ウォッチが中心となる。
 もし、時計を趣味としてではなく、正確な時を知る道具として世界の一流品を選ぶとなれば、その内容はほとんどクォーツ・ムーヴメントをもったものになり、日本製かスウォッチの1万円内外のものが並ぶであろう。対談当日、松山氏の腕についていたフランク・ミューラーのウォッチなどが選ばれるはずはない。しかし趣味の選択なら、いま、この人の作品が載っていなければ、信用できないはずである。

私の考える一流品

井上卓也

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド別冊・1994年春発行)
「私の考える一流品」より

 まず、一流品とは何かを、手もとにある岩波国語辞典で「一流」を引いてみると「その世界で第一等の地位を占めているもの」「独特の流儀」と記されている。
 「高級」という表現も、しばしば使われるため、これも調べてみれば「等級や程度の高いこと」とあり、「等級」は、「上下、優劣を示す段階」とある。
 つねづね、あまり語義を考えずに観念的に表現しているが、ときには辞典をひもといてみることも面白いことである。
 個人的には、「オーディオ製品は基本的に工業製品である」と考えているため、オーディオの一流品は、優れた工業製品であることが必要にして最低の条件である。
 個体差が少なく安定した製品を、納得のできる価格で生産するためには、当然のことながら、感覚的に好ましい表現である、一品一品を手作りで作る、という作り方では、この要求を満たすことはできない。
 しかし、オーディオ製品は基本的に工業製品であるが、音楽を再生するものという目的を持つため、世界的にトップランクの回路設計、筐体構造、構成部品、計測器を集め、最高のデータが得られたとしても、その成果が優れた音楽を再生するオーディオ・コンポーネントを意味するものではない。
 優れたデータをベースにヒアリングを繰り返し、人間の感性を通して細部のコントロールが行なわれてはじめて、オーディオ・コンポーネントならではの有機的な、生きて活動する根元の力が与えられ、音楽を聴くためのオーディオ・コンポーネントとなるのである。
 要約すれば、要求される基本性能をクリアーする第1ステップと、ヒアリングを通して音楽を再生する機器として育成する第2ステップという2段階のプロセスを経て、オーディオ・コンポーネントは誕生するということだ。この第2ステップが、優れたオーディオ・コンポーネントには不可欠のプロセスで、各社各様の、いわゆるノウハウの集積が活かされ、オーディオ・コンポーネントの死命を決するところである。しかし、その詳細は最高機密として公表されない。そのため、とかく製品の優位性は、回路構成、筐体構造、構成部品で語られることが一般的な傾向であり、数多くの誤解を生む原因になっている。短絡的に過ぎるかもしれぬが、料理でいえば単なる材料論と考え、結果としての音で判断する他はないようだ。
 しかし、音が素晴らしく、常に安定して音楽を楽しく聴くことができても、趣味としてのオーディオとなると、それがすべてではない。デザイン、仕上げ、加工精度、機能・操作性などはもとより、各種コントローラーのフィーリングなどが、価格を超えてシビアに要求され、例外的には音が良くなくても所有するだけで、趣味としてオーディオの満足感に浸れることもあるようだ。
 具体的な例でいえば、超小型オープンリールテープレコーダーのナグラSNNは、実際に録音・再生を行なわなくても、テープを巻かせるだけで、音を聴かずとも、趣味としてのオーディオの遊び心をこよなくくすぐる存在であり、まさに一流品中の一流品にほかならない。
 やや、枠組みを広くとれば、現在の国内、海外のオーディオ・コンポーネントは、平均的なレベルが非常に高く、その大半は、一流品にふさわしい資質を備えていると考えることができよう。ジャンル別に見れば、スピーカーは、それぞれが大変に個性的な存在で、そのほとんどが一流品といっても過言ではない。
「独特の流儀」で作られていることを条件とすれば、クォード、マーティン・ローガンなどの静電型、インフィニティ、マグネパン、アポジーなどの各種の平面振動板型、JBL、タンノイ、ヴァイタヴォックスなどのホーン型、ボーズのコーン型、ARやATCのドーム型も、音質・音楽性・デザイン・仕上げを含めて、それぞれが見事な一流品である。
 街を歩けば、どこかで必ず見受けられるほどポピュラーな、ボーズ101MMを考えてみよう。基本構想は、901/802系のフルレンジユニットを1個使い、小型エンクロージュアで、予想外の意外性のある低音をパワフルに出そうというものだ。
 その根底には、世界のトップレベルにある接着剤技術がある。これに、ボイスコイル巻線技術が加わり、8Ωインピーダンスに仕込まれて許容入力を向上させたフルレンジユニットを、独自のモールド技術を駆使した2ピース構造のバスレフ型エンクロージュアと組み合せている。再生周波数帯城を広くとるために、中域を中心とした幅広い帯域のレベルを下げるとともに、プロテクターを兼ねたLCRのフィルターを組み込んだ設計は、まさしく「独自の流儀」そのものであり、これに、数多くの取付けマウン
ト、駆動アンプなどの異例に豊富なアクセサリーが用意されれば「その世界で第一等の地位を占めているもの」に、該当するオーディオ製品であることは、誰しも異論のないところであろう。
 商品開発の基本構想が、システムプランをして幅広く周到であり、設計・開発が設定されたプログラムに忠実に進行し、最終的なヒアリングを基本としたオーディオエンジニアリングのノウハウがバランスよく投入された、一流品を商品化する典型的な好例だ。
 同様な意味で、静電型+サーボコントロールウーファーでスタートし、独自の平面駆動EMI型+サーボコントロールウーファーに発展した、インフィニティのIRSシリーズや、独自のデュアルコンセントリック同軸2ウェイユニットを中心にしてシステム展開をするタンノイ、旧ボザーク系のトゥイーターアレイを発展させた、オールコーン型ユニットでシステム構成するマッキントッシュなど、基本構想・設計・開発が見事に行なわれた一流品の好例である。
 アンプ関係では、OTL(アウトプット・トランス・レス)が当然のソリッドステートパワーアンプに、独自のトランス技術を活かした出力トランスの採用を固持するマッキントッシュのパワーアンプ。それとは逆に、管球方式でOTL化を図り、ハイブリッド構成に進化しているカウンターポイントのパワーアンプ。筐体構造のメカニカルグラウンドを重視したゴールドムンドのパワーアンプなど、これらのアンプは、オリジナリティが豊かな世界的な一流品である。
 CDプレーヤー関係は国内製品の独壇場で、吸着方式という独自の構想のテーパー型表面のターンテーブルを、世界に先駆けて開発商品化したティアックのドライブユニットは、世界のトップランクの一流品である。

50万円未満の価格帯のパワーアンプ

井上卓也

ステレオサウンド 84号(1987年9月発行)
特集・「50万円未満の価格帯のパワーアンプ26機種のパーソナルテスト」より

 パワーアンプの試聴にあたり、まず使用機器の選択が、最初のポイントになる。従来からのパワーアンプ試聴では、アナログディスクをプログラムソースにすることもあり、何らかの、リファレンス的な性格のコントロールアンプを選択して使うことが多かった。しかし、プログラムソースにCDを使うことが多くなるとともに、CDプレーヤーの定格出力が2Vと高いこともあって、ダイレクトにパワーアンプに接続しての使用も可能になり、リファレンス用コントロールアンプを選択し、使用することの意味が、かなり微妙な問題になってきたように思われる。
 今回は、プログラムソースにCDを使うことにしているが、いかにCD時代が到来しようとも、プログラムソースとしてはアナログディスクの数量のほうが圧倒的に多いはずで、当然のことながら、アナログディスクをプログラムソースとした試聴が必要であることはいうまでもない。
 しかし、アナログディスクには、時代の変化とともに、その本来の音質を阻害する要因が、予想外の早さで増大しているようだ。そのひとつは電源の汚染である。TV、螢光灯、パソコン、ファミコン、100V電灯線を使うインターフォン、同様なリモコンによる電源のON/OFFスイッチなど、電源を通しての汚染が、微弱なオーディオ信号の音質を劣化させていることは、一部では認識されている。これに加えて、最近、アナログディスクの再生に決定的なダメージを与えるものとして登場したものが、家電業界で脚光を浴びているインバーター方式の家電製品の急増である。このタイプは、効率が高く、人に不快感を与える50Hzや60Hzの電源に起因するウナリの発生がなく、使う周波数が高いために、防音や遮音が容易で、エアコン、冷蔵庫、扇風機をはじめ、チラツキが感じられないために蛍光器具にいたるまで普及しはじめている。この方式は、かつて、高能率電源として注目されたが音質面で悪評を浴びたスイッチング電源方式そのものであり、これによるアナログディスクの音質劣化はは、誰にでも容易に判別できる音のベール感や一種のザラツキとなって現れる。
 一方、都市地域では、TV、FM、各種の業務用無線、地方でも、放送局周辺、送電線の近く、航空関係のレーダー、業務用コンピューターの端末機器などの電波による音質劣化の問題は、オーディオのみならず、電子スモッグとして、オートマチック車の暴走問題の一端として、社会問題にまで発展している。
 ちなみに、ステレオサウンド試聴室で簡単にFMチューナーを使って帯域内の雑音のチェックをしたところ、数年前のCD登場時点と比較して、予想以上に質的量的に雑音が増加していることが確認できた。
 これらの原因にもとづいた、アナログディスクの音質劣化の詳細についてはここでは割愛するが、最近では、いかにも機械的な音溝に刻まれている音をカートリッジが丹念に拾い出しているような、レコードならではの独特の実体感にあふれた、深々とした音を聴くチャンスは少ない。都市地域で、それらしい音が聴けるのは各種の放送が少なくなり、人々が寝静まった後の、日曜日の深夜のみ、というのが実情のようである。
 これらの問題を総合して、現状では、アナログディスクの音質の確保が難しい、という判断をしたため、試聴用のプログラムソースに、アナログディスクの使用を断念し、CDのみを使うことにした。
 試聴時に、音量をコントロールする(変化させる)ことは、パワーアンプの場合においても、ローレベルからハイレベルの応答をチェックするために不可欠の条件である。一部のパワーアンプには、質的に、実用レベル内に入る音量調整機構が付属しているが、ダイレクト入力専用のタイプもあり、何らかの外付けの音量を調整するアッテネーターを選択しなければならない。
 ここでは、編集部で集められた数種類のアッテネーターをチェックした結果、50万円未満のパワーアンプの試聴には、やや大型な筐体が気になるが、チェロのエチュードを使うことにした。このアッテネーターは、音の傾向として、かちっとしたシャープな音が特徴であり、程よく音のエッジをはらせて明快に聴かせる傾向が強い。質的、量的に高級機と比べてハンディキャップがあるこの価格帯のパワーアンプには、全体に音の抑揚を抑えてキレイな音として聴かせるタイプのアッテネーターよりも、よりふさわしいと思われるからだ。
 しかし、リファレンス用アッテネーターとしては、固有の性格を少し抑える必要があり、設置方法を含め、必要にして充分なレベルまで追い込んで使っている。
 試聴用のCDプレーヤーは、一種のリファレンス的なキャラクターを持つソニーCDP555ESDを2台用意し、パラレルに使用している。その主な理由は、プログラムソースの音質を可能な限り一定の範囲内に確保し、再現性のある試聴条件を保つためである。一般的に、CDプレーヤーでその音質を変化させる原因は予想以上に多いが、なかでももっとも大きな問題点でもあり、使いこなし上でも重要なことは、ディスクの出し入れ毎に生じる音の変化である。
 CDプレーヤーにディスクをセットして音を聴いてみよう。次に、一度イジェクトし、再びプレイして音を聴く。この両者の間に、かなり音質の違いがあることが多い。柔らかいソフトフォーカス気味の、おとなしい音から、ピシッとピントの合ったシャープな音に変わる、かなり激しい例から、やわらかめとシャープなどという程度の差こそあれ、ディスクの出し入れ毎に生じる音の変化は、現在のCDプレ比ヤーでは、必ず生じるものと思ったほうがよいようである。この現象は、CD初期にある理由にもとづいて見つけだし、本誌誌上でもリポートしたことがあるが、その後この変化量が少なくなっていればよいわけであるが、CDプレーヤーの基本性能、音質が向上するに伴い、むしろシャープな変化を示す傾向にあるようである。その原因のひとつとして、セッティング毎に変化する──ターンテーブルとCDとの機械的な誤差による──オフセンター量の違いによる読み取り精度や、サーボ系の変動などが考えられている。偏芯が問題であるとすれば、CDプレーヤー側での精度向上が要求されることは当然のことながら、このところCDディスクのセンターホールの誤差や偏芯の量が大きくなっているとの情報もあるだけに、もっと問題視されてしかるべきCDとCDプレーヤーの問題点であると思う。
 CDをプログラムソースとした場合に、不可避的ともこの問題を、いくらかでもクリアーしようとする目的で、一台のCDP555ESDには、試聴ディスクの、カンターテ・ドミノを常時セットしたままにし、もう一台に、他のディスクを交互に入れ、試聴をすることにした。
 スピーカーの選択は、各種の試聴でももっとも重要なキーポイントである。今回の試聴では、各種のスピーカーシステムを使い、それぞれのリポーターは単独で試聴するという編集部のプランにもとづいて、50万円未満にはダイヤトーンのDS3000、50万円以上100万円未満の価格帯の製品用には、同じくDS5000を使うことにした。
 私が担当した両価格帯共通にDS3000を使うことも考えたのが、せっかく編集部で5000と3000の2モデルを手配してあったこともあり、異なったスピーカーを使うことになったわけだ。2モデルのスピーカーシステムは、ともに同じメーカーの4ウェイ構成のシステムであり、中低域の再生能力の向上をポイントとしたミッドバス構成という共通の設計方針に基づいたタイプであり、音質的な面でも共通性が多い。
 試聴用スピーカーシステムに4ウェイ構成のシステムを使うメリットは、3ウェイ構成では音楽のファンダメンタルを受け持つウーファーの受持ち帯域が、4ウェイではミッドバスユニットと2分割されるために、重低音にポイントをおけば中低域が弱くなり、中低域を重視すれば重低音が再生しにくいといった3ウェイ特有の制約が少なく、音楽再生上重要な中低域に専用ユニットをもつメリットはかなり大きい。しかし、ユニットの数が多いだけに、ユニット配置を平均的に処理をすると、音像定位が大きくなりやすいのがデメリットだ。その点、今回の2モデルのシステムでは、平均的な3ウェイ構成と比較しても、音像定位での問題点は少ない。50万円未満の価格帯のパワーアンプはDS3000で通して試聴を行い、そのなかの約2/3の製品については、スピーカーをDS5000に変えて、再び試聴を行い、50万円以上100万円未満の価格帯のパワーアンプ間との関連性をもたせようとした。
 試聴用のコンポーネントのセッティングは、ステレオサウンド誌の新製品リポート取材に使う、私自身の方法を基準としている。2台のCDプレーヤーとアッテネーターは、それぞれ独立した(ラック同士が接触しないという意味)ヤマハGTR1Bオーディオラック上に、置き台そのもの固有音を避けるためにフェルトなどの緩衝材を介して置いてあり、3個のオーディオラック内には、他の物はいっさい置いていない状態に保ってある。
 試聴用アンプは、ほぼスピーカーの中央延長線上で、オーディオラックに近い位置に、大きなアピトン合板積層ブロック状に緩衝材を介してセットしてある。
 スピーカーは、ヤマハ製のNS2000用に作られたスタンドSP2000上に置いてある。ちなみに、重量の大きなブックシェルフ型スピーカーでは、安定した音質を引き出すためには、予想以上にガッチリしたスタンドが要求され、DS3000クラスともなると、専用スタンドDK3000か、このヤマハSP2000くらいしか使えるものはないようだ。
 電源関係は、試聴用パワーアンプは試聴室左側の壁のコンセントからダイレクトに、CDプレーヤーは反対側の壁の別系統のコンセントから分離して給電し、相互の干渉を避けている。機器間の接続ケーブルはいろいろと比較試聴した結果、基本的に情報量が多いオーディオテクニカ製の2種類のPCOCC線を、RCAピンプラグに少しの制動を加えて使っている。2台のCDP555ESD間の細かなバランス補整は、設置方法も加えて実用レベル上問題にならない範囲に近づけてある。なおスピーカーコードは、同様に試聴の結果、ステレオサウンド試聴室で常用しているトーレンスの平行2線タイプの太いコード(C100)を使った。
 まず試聴用のCDプレーヤーとスピーカーのセッティングの実際を説明しよう。
 セッティング用に使用したリファレンスアンプは、100万円未満の2種類の価格帯のパワーアンプ中で、強いキャラクターがなく、ある種の市民権を獲得しているもデルとして、アキュフェーズP500を選んだ。このアキュフェーズP500を使い、基本的なセッティングを行ったが、各種の試聴用パワーアンプのクォリティ、キャラクターに応じて、CDプレーヤーやアッテネーターの手もとでコントロールできる部分では設置条件を変えて試聴している。ただし、試聴用パワーアンプとスピーカーのセッティングは、一定の条件に固定してあり、この部分でのコントロールは行っていない。
 基本的なセッティングは、パワーアンプの性能、音質をヒアリングでチェックすることを目的としているために、必ずしも音楽を聴いて楽しい方向ではなく、やや全体に抑え気味なセッティングを行い、目的に相応しいものとしている。したがって、新製品リポート時と比較すれば、それぞれのパワーアンプは、その内容をストレートに見せる対応を示したため、かなりシビアな音が度々聴かれることになった。
 パワーアンプの試聴で、いつものポイントとなるのは、ウォームアップの問題である。試聴に先だって、各パワーアンプは約3時間電源を入れ、30分間ダミーロードを負荷として信号を加えてウォームアップさせてあるが、実際にスピーカーを負荷として試聴をはじめると、かなり大きな音質変化が見受けられる例が多い。一部の変化が多いモデルについては、それなりのリポートを加えているが、詳細については、後半の50万円以上100万円未満の価格帯のほうで記すことにしたい。
 50万円未満の価格帯のパワーアンプでは、今回試聴した最低価格の製品と上限の製品の間には、約3倍の価格差があり、もともと物量が要求されるパワーアンプであるだけに、とくに20万円未満のモデルはかなりのハンディキャップがあり、上限との価格差が約2倍の25万円クラスまで範囲を拡げてみても、これはという存在感や、明確なキャラクターをもった好ましいパワーアンプの方が、例外的な存在であったのは仕方のないことだろう。
 今回の試聴では、試聴メモ以外に、音質と魅力度の2種類の採点が編集部より要求されているが、音質というひとつの意味のなかには、スピーカーのドライブ能力、聴感上でのノイズの質と量、ウォーミングアップの音の変化傾向と変化幅などの電気系の基本的条件をはじめ、筐体構造面での共振、共鳴や、電源トランスのウナリなど、機械的な面からの音質から、音楽再生上でのいわゆる音量まで、多彩をきわめ、結果的には採点のダイナミックレンジは、かなり圧縮方向になりやすく、この価格帯では、上下10点の幅にしかならない。魅力度については、かなりエゴと独善的な傾向で判断している。
 50万円未満の価格帯のパワーアンプでは、基本的に需要が少ないこともあって、短絡的にプリメインアンプのパワー部と比較してみると、パワー当たりのコストはかなり高価にならざるをえないが、パワーアンプとしてはローコストなジャンルにあるため、パワーアンプという言葉の意味に相応しい、バランスよく力強い音やデザインを持つ製品は期待薄であるようだ。したがって、ひとつのチャームポイントがあれば、それでよしとする他はなく、とくに25万円クラスまでは、何のチャームポイントを持つかが重要である。それ以上の価格帯になると、パワーアンプらしい音質、デザインを備えたモデルが増し、パワー的にも実用上で充分のものがあり、セパレート型アンプならではの楽しみが存在すべきはずであるが、ある種の定評のあるものが、やはり好ましい結果を示すといった、フレッシュさを欠く印象が強い。
 全般的な傾向としては、編集部の洗濯基準で、いわゆるカタログモデルとしては存在するが、容易に入手することはできない、発売時期の古い製品は除いているために、結果として、予想外に海外製品が数多く存在し、国内製品が少なく、やや個性型の海外製品に対して、物量投入型の国内製品という印象が強い。
 目立った製品は、パイオニアM90、テクニクスSE-A100の2モデルである。ともに、パワーアンプは電圧・電力変換器であるという基本に忠実に、オーソドックスに設計され、完成されたモデルという感じである。
 音質的には、ともにクォリティは充分に高く、余裕をもって安定した楽しい音楽を聴かせるM90と、音の純度を高く保ちながら、良い音を正確に聴かせようとするSE-A100というように、かなり対照的な音と魅力をもっている。ともに基本に忠実に、手を抜かず、気を抜かない、といった本質が、よく音に出ている傑作だ。
 アキュフェーズP102とQUAD606は、日本的にリファインされた、しなやかで細かい音と、英国製品らしい常識をわきまえた鋭い感覚が、現代的に開花した好ましい音という、それぞれのお国ぶりが素直に音に出た良いモデルである。反応の早い、小型で高性能なスピーカーを楽しみたいときには、最適の選択になるだろう。
 管球タイプの、ラックスマンMQ360、エアータイトATM1は、ラックスマンとエアータイとのブランドが持つ雰囲気のように、しなやかで暖かいMQ360、明解で、カチッとしたソリッドな傾向があるATM1と対照的で、内容と外観がともに一致した好ライバル機だ。ともに、ソリッドステートアンプとはひと味異なった、味わい深い音が魅力である。
 デンオンPOA300ZR、ナカミチPA70は、ともに素直なキャラクターと、価格に相応しい材料を投入して開発されたモデルで、資質としては、かなりの可能性をもっている。しかし、デンオンは帯域感がいままでの同機とはやや異なり、ナローレンジ型の安定度重視型に変わり、メインテナンス面でのエージング不足傾向もあり、ややイメージの異なった音である。ナカミチは、キレイに磨かれた滑らかで純度の高い音をもっているが、KODO三宅の太鼓で電源のヤワさをみせたなど、期待できる音をもつだけに、欲求不満が感じられる、というモデルである。
 デンオンPOA2200は、発売当初の軽量級の音ではあるが、フレッシュな感覚の反応の早い魅力がやや抑えられ、穏やかな音に変わったのは、おそらくエージング不足のためで、残念な感じがする。
 ハフラーのXL280は、国内製品では得られない音づくりの巧みさが面白く、QUAD405-2は、アナログディスク向きで、CDプログラムソースでは606の魅力が光る。マランツMA7は、やや追い込み不足か。A級動作ではよいのだが、クォーターA級動作では、一種の表現しがたい不思議な音に変わる。アンプの名門ブランドだけに、この辺かはテスト機種のみの問題であるように祈りたい。
 アキュフェーズP300Vは、リファインの表現が相応しい改良であるが、ややエージング不足気味で、色彩がやや物足りないが、後日行った新製品リポート取材時には、全く同じ製品がそれらしい音を聴かせてくれた。カウンターポイントSA12も同様に、少し寝起きの悪い音が気になるが、安定感は充分にある音が聴かれた。ルボックスB242も、使いこなせばかなりの魅力が引き出せそうな音である。

音色(いろ)から音場(ば)へ

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 今から三年近く前になりますが、ステレオサウンドの60号で「アメリカンサウンド」の特集を組んだとき、JBL、アルテック、エレクトロボイスといった伝統的なメーカーに混じって、ニュージェネレーションの抬頭を予告させるようなスピーカーがすでに二、三機種登場していました。
 なかでも印象に強いのは、インフィニティのIRSで、それまでほくが受けとめてきたアメリカンサウンドのどのカテゴリーにも属さない非常にユニークなアプローチとサウンドは、ぼくだけではなく一同が驚いたことを憶えています。
 インフィニティの新しさというのは、当時はもっぱらその音色、サウンドバランスに感じられたことだったんですけれど、マッキントッシュのXRT20というスピーカーも、音場再生への従来にないアプローチで登場した新世代のスピーカーとして、アメリカンサウンドの新しい展開を予想させる内容でした。
 それまでのスピーカーの設計理念というのは、基本的には、忠実なエネルギー変換器を目指すという内容だったんですね。モノーラル時代から、スピーカーというトランスデューサーが、1チャンネルの中での伝送系として理解されてきた以上、それが当然だったといえば当然なんです。ですから、そこで重要視されてきたスペックというのは、まず能率と周波数特性というエネルギーについての表示だったわけです。
 AR社に代表されたイーストコーストサウンド、それからウェストコーストサウンドという大きな対極も、忠実なるエネルギー変換器として、じゃ能率を優先させるのか、周波数特性を優先させるのかということが両者の音の差となって表われたという理解も可能でしょう。
  インフィニティやマッキントッシュがもたらしたインパクトというのは、そうしたエネルギー変換器としての忠実度を向上させたうえで、さらにステレオ再生においても最も効果的なペアスピーカーというのがどうあるべきか、という新しいフィデリティの水準を設けたことにあったと思います。つまり、ステレオディスクに録音された2チャンネルの信号に対し、スピーカーを音場の変換器として積極的にとらえようという視点です。忠実なエネルギー変換各を目指すことは、基本としてはそのまま守らなければならないことだけれども、さらにそこに音場変換という新しいテーマが加えられて登場してきたのが、あの時点ではXRT20だった。
 ただし、人間の感覚というのは、この部分は音質や音色、この部分は音場のクォリティというふうに分けて捉えているわけではありません。マッキントッシュにしてもインフィニチイにしても、まず1チャンネルのクォリティ、エネルギー特性を上げてゆくというスタートラインから、立体音場を得るためのディスパージョンアングルの設計やエンクロージュアデザインにウェイトが置かれてゆくというプロセスだったと思います。
 ですから、結果において、音色という水準で両者を比較することもできるわけです。インフィニティの場合、EMIT、EMIMと呼ばれるフィルム膜をダイアフラムにした中高域ユニットを多用していますが、非常にマスの軽い、トランジュントのいい中高域への一貫したポリシーがあって、おそらく、創設者のアーノルド・ヌデールはエレクトロ・スタティック型の音色、音の肌合いが好きなんだと思わせる音なんですね。
 60号当時、IRSの聴かせる音場的な効果より、音質、音色に議論が集中したのも、そういう鮮明な個性、従来のアメリカンサウンドのエネルギッシュな傾向に完全に対向する存在として我々の耳に飛びこんできたからだと思います。おそらく、音色の上でも、インフィニティは、現在のニュージェネレーションを生んだパイオニア的な存在じゃないかと思いますよ。
 他方、マッキントッシュは、ソフトドーム24本を使ってトゥイーターアレイを作り出し、両者は発想において割合に似ているところを持ちながら、出てくる音の質感や肌合いはまったく違うといった興味深い対照を成していた。いい意味でも悪い意味でもマッキントッシュの場合、伝統的な風格とか、イーストコーストに位置した地域性は音に表われています。
 しかし、ニュージェネレーションのスピーカー技術が、エネルギーの変換系から、時間空間の伝送を考慮した音場の変換系へと、考え方を変えつつあることはまぎれもない事実で、これはなにも、アメリカに限ったことではありません。英国、日本を含めて、音場の情報に対する忠実度を高めようという動きはすべてについてあると思うんです。
 ただアメリカの場合、インフィニティの例でもわかるように、従来のスピーカー概念の枠にこだわらない、非常にオリジナリティを重視したポリシーが乱立しているところが興味深いですね。はっきり言って、IRSというシステムは、日本的な尺度で計ると、その価格から規模から、ある種の狂気でしょう。
 アメリカという社会は、社会の規律がものすごく厳しいわけです。あれだけの雑多な民族が寄り集っている社会ですから、よほど厳しくない限り成り立たない。しかし、社会規制の厳しさというのが、人間離れしたところで厳しいんじゃなく、ひとりの個人を認めた上での厳しさなんです。で、そこからドロップアウトした人間には面倒を見ないわけで、ドロップアウトした人間を収納する別の規律がまたマルチプルに用意されているという格好ですね。
 ですから、アメリカのメインストリームの社会においては、狂気が市民権を得ているという事情をのみこんでおく必要があるでしょう。ビジネスマンであろうと銀行家であろうと狂気は必要なんです、人間なんですから。アメリカという国は、非常にフレキシブルな考え方の中で、その狂気に市民権を持たせることで、多民族性に対応しているという特徴があると思います。黒人社会には黒人社会の狂気がある。つまり、社会というのがひとつの一枚岩のようにあるんじゃなくて、あっちこっちにポテンシャル、起伏が生じている社会なんです。
 一方、日本というのは狂気が市民権を絶対に得ない構造になっている。狂気というというのは、表面的には狂気を出さないよう出さないように常に抑制している。結果的に、ポテンシャルのない、すべて平準化してしまおうというバイアスが働く社会になっているんです。
 オーディオ製品が、そういう固有の社会背景
から逃れたところで生産されるわけがありません。というよりも、むしろ、オーディオ製品というのは、単なる実用的な電気製品でもなければ、絵画のような芸術作品でもない。しかし、その両者のある部分を同時に負っているという非常に特殊な位置を占めているがゆえに、それを生んだ社会の、あるいは個人の狂気と理性のバランスポイントがそのまま表現されてしまうという性格があると思うんです。つまり、そのバランスポイントが、どこに求められているのか、極端な場合、狂気だけなのか、理屈だけの味も素っ気もないものなのかということが、かなりクリティカルに読み取れる。
 ただ、どっちの社会にもユートピアはないんで、どっちも一長一短がある。オーディオだって同じだと思うんです。理想的な、ユートピッシュなオーディオがないからこそおもしろいわけですよ。
 日本だと、あるゼロデシがあって、そこに横に一列に並べて、さぁどれがいいみたいな価値感が割合に支配的ですね。ところが、アメリカの場合、個々がまったく別の価値感、座標で世界を見ているという新大陸特有の精神風土があるでしょう。アメリカという国は封建的な秩序、中世のようなヒエラルキーに支配された歴史を持たなかったために、常に個人対社会の関係が緊張関係にあって、アメリカ人というのは、人がいいものを作ったら、無理矢理でも別なものをつくろうとする。日本は逆なんです、無理矢理でもマネする。
 アメリカの乱立する個性というのは、いかにもあっけらかんとしていて陽気でしょう。俺と同じように考え、俺と同じような感性をもった人間が、俺の作ったスピーカーを使ってくれればそれでいい。もし、彼と違う感性や考え方を持っているとしたら、それは間違っていると言って説得し始めますからね。
 今回聴く6機種、外観を見ただけで、もうその強烈な個性のぶつかり合いが想像できますよ。

「世界一周スピーカー・サウンドの旅」

黒田恭一

サウンドボーイ 10月号(1981年9月発行)
特集・「世界一周スピーカー・サウンドの旅」より

 ウェストコースト的とか、イギリス的とか、はたまた日本的とか、ともかく的という言葉をつかって十把ひとからげにしてああでもないこうでもないと、わかった風なことをいいたててみても、本当ところはなにひとつはっきりしない。
 実は、この的という言葉は、なかなかどうしてくせもので、あつかいがむずかしい。よほどうまくつかわないと、意味があいまいになってしまう。なんだこの文章は、なにをいいたいのかよくわからない──と思ったら、よくよくその文章をながめてみるといい。きっとその文章には、的、ないしはそれに類した言葉が、あちこちでつかわれているにちがいない。
 そういうあいまいなところが的という言葉にはあるので、つかう方としてはつかいやすいし、安直につかってしまいがちである。たとえば、なるほどこの音はドイツ的だ──といった感じで、つかってしまいがちである。そのようにいわれた方としては、半面では、なるほどドイツ的なのか──と思い、残る半面では、実際のところ、ドイツ的とはどういう音なのであろう──と思うことになる。つまり、ひとことでいえば、わかったようでいてわからない。
 それぞれのスピーカーには生れ故郷がある。アメリカのウェストコーストで生れたスピーカーもあれば、イギリスで生れたスピーカーもある。したがって当然(といっていいのかどうかはわからないが)、ともかく、生れ故郷のちがいが音のちがいに、なんらかのかたちで、影響している。いかなる理由でそういうことになるのかは、よくわからない。いろいろまことしやかな理由で説明してくれる人もいなくはないが、これまでに説明されて納得できたことは一度もない。
 産地がちがえば、ミカンの味もちがう。これはあたりまえである。しかし、なんでスピーカーの音がちがうのであろう。スピーカーはミカンでないから、土地や気候のちがいがそのまま音に反映するとは考えられない。にもかかわらず、ウェストコーストのメーカーでつくられたスピーカーでは、誰がきいてもすぐにわかるようなちがいがある。
 そのちがいは、否定しようのない事実である。ここでは、さしあたって、ちがうという事実だけを問題にする。なぜ、いかなる理由でちがうのかは、ここでは考えないことにする。さもないと、ことは混乱するばかりである。はっきりさせたいのは、どのようにちがうかである。
 それぞれのレコードにも生れ故郷がある。ドイツで録音されたレコードもあれば、ニューヨークで録音されたレコードもある。このレコードについても、スピーカーと似たようなことがいえる。このことについては、多少なりともひろい範囲でレコードをきいている人なら、すでに確認ずみのはずである。さわやかだね、この音、やっぱりウェストコーストのサウンドだね──といったようなことを口にする人は多い。ここでは、そういうレコードの音とスピーカーの音を、ぶつけてみようと思う。ウェストコーストで録音したレコードをウェストコーストのメーカーでつくられたスピーカーできき、その後、故郷をちがえるレコードをそのスピーカーできいてみて、どのように反応するのかをききとどけてみようというわけである。
 理想をいえば、ウェストコーストで録音されたレコードをいかにもウェストコーストで録音されたレコードらしく、イギリスで録音されたレコードはいかにもイギリスで録音されたレコードらしくきかせるスピーカーが、このましい。しかし、それはやはり理想でしかなく、多くのスピーカーは、なんらかのかたちで、そのスピーカーのお国訛りを、ちらっときかせてしまう。愛矯といえばいえなくもないが、つかう方からすれば、その辺を無視するわけにはいかない。いかなるもちあじを魅力とするスピーカーなのかをしかとみとどけてつかえば、それだけそのスピーカーを積極的につかえるはずである。
 世間ではしばしば、クラシック向きスピーカーとか、ロック向きスピーカーといったような区分がおこなわれ、それはそれなりに多少の意味がなくもないが、ここでは、生れ故郷をちがえるスピーカーがどのようにちがう音をきかせるのか、その辺にポイントをおいて、きいてみた。
 さしあたってここでは、さまざまなスピーカーに対して、「あなたは、どの国の出身のレコードの再生がお得意なのででしょうか?」と、たずねてみたことになる。スピーカーの答えは、さて、いかなるものであったか──。

「でも、〝インターナショナル〟といっていい音はあると思う」

瀬川冬樹

ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
特集・「サウンド・オブ・アメリカ 憧れのスーパー・アメリカン・サウンドを聴く」より

 全試聴が終らないうちに不本意ながら入院ということになってしまいまして、聴けないシステムが何機種か出て、最後の総括の部分のみなさんのお話に加われなかったために、お三方のご意見をいちおう読ませていただいたうえで、私個人の感じたことを談話でしゃべらせていただきたいと思います。
 まず、今回のテーマの〈アメリカン・サウンド〉ということについて、二、三、申しあげておきたいんですけれども、私自身がここ数年来、スピーカーの音の分類をするためには、第一に、その音の生れた風土・地理、第二にその音を生んだ時代、あるいは世代、第三に技術的な進歩、という、まあ大きくわけて三つの座標軸でとらえるようにしている。
 そういう意味では、西ドイツや日本のような小さな国がひとつの地域としてとらえられるにしても、アメリカという国はあまりにもひろい。お三方がそれぞれのかたちで指摘しておられるように、アメリカという国を,ごくおおまかに分けたとしても、東海岸があり、西海岸があり、そしてシカゴを中心とした中部といったような三つの地域にわけて考えなくては片手落ちになるわけで、〈アメリカン・サウンド〉と一括して論じることにはやや無理があるんではないかという気がまずいたします。
 次の第二の点として、これは岡先生が発言しておられるように、アメリカのスピーカーの発達の歴史をたどっていきますと、アルテックに代表されるトーキー・サウンドから発生した音と、もうひとつはパナロープを例にあげておられたような家庭用の電気蓄音機から発生した音という、まあごく大ざっぱなわけかたであるにしても、ふたつのちがいがあるこのこと自体も、一括して論じるというわけにはなかなかいきにくい、ひとつの要因ではないか、と思います。
 第三点として、とくに時代、あるいは世代のちがいとなると、これもお三方がそれぞれに指摘しておられるように今回試聴し得たスピーカーのなかでも、アルテックのA4を古いほうとして、新しいほうでは、たとえばインフィニティに代表されるところまで、アルテックの原型から考えれば、半世紀ぐらいも時代がはなれているわけで、その点でもなかなか〈アメリカン・サウンド〉という一言で一括しにくい部分がある、というように私は考えました。
 以上の点を前提としたうえで、しかし、私自身が個人的に考えている〈アメリカン・サウンド〉というイメージ、あるいは〈アメリカン・サウンド〉という言葉を聞いたときに、とっさに思い浮かぶこと、をもうすこし具体的に述べてみます。菅野さんが発言しておられたと思うんですけれども、やはりアメリカのよき時代ですね。たとえば第2次大戦以前の30年代、それも30年代後半から、それと第2次大戦の終った50年代、のふたつの繁栄した、ゆたかであった時代に代表される、そういうものをやはり〈アメリカン・サウンド〉というふうに受けとめてみたい、という気がするわけです。
 それを具体的に言いますと、たとえば、アメリカの自動車でいえばキャディラックのような大型の、大排気量の、車にのったときの乗り心地のよさのような、ぜいたくに根ざした快さ、、快適さ、いかにもお金がかかっているという、そういうところが、まず第一に、第二に、同じようなことですけれども、音のリッチネストいいますか、音がこよなく豊かである。第三にははなやかさ、一種独特のきらめいた、はなやかなサウンド。第四に音の明るさ──どこまでも、くったくなく、朗々と鳴る気持のよさ、だいたい、そんなような音を私個人は、どうしても思い浮かべてしまう。
 そして、それを具体的な音、スピーカーにあてはめてみると、やはり、古い世代のアルテックに代表されるものではないか、という気はいたします。
 もうひとつ私は前期の理由によって、試聴には加われませんでしたけれども、ほかで何度か聴いた音で言えば、エレクトロボイスの音ですね。これも上手に鳴らしたときの音というのは、以上、申しあげたような各要素が、やはり聴きとれるんではないか、という気がします。
 またJBLのパラゴンであっても、そして今は製造中止になってしまったハーツフィールドであっても、やはり、お金を充分にかけた、そこからくる、ゆたかで、明るく、はなやかである、という音をやはり持っていると思うので、そういうのは、やはり〈アメリカン・サウンド〉だろう、とはっきり言ってよろしいかと思います。
 さて、次の問題にうつるまえの簡単な補足をつけ加えておきますと、以上のようなスピーカーは本質的な意味でのワイドレンジではないのではないか。たとえば、いまあげた、ハーツフィールド、パラゴン、パトリシアン、これらは、それぞれの時代では、たしかに、アメリカのスピーカーのなかでのワイドレンジの製品であったにちがいないけれども、しかし、同時代に、これは今回の話題ではないけれども、たとえばイギリスがモニタースピーカーなどで追求していた、ほんとうの意味でのワイドレンジとは、ずいぶん質のちがっている、耳にきこえる感じというのは、いわゆる「ワイドレンジ、ワイドレンジした」音ではなくて、たとえば、プログラムソースのアラなどが耳につきにくいというような音、あるいは、それに関連して、ノイズや歪みを極力おさえて、まろやかに、つまり、さきほどの話によれば、ぜんたくな、快適さといいますか、そういうものをやはり信条としていた、というふうに思います。それが私の考える〈アメリカン・サウンド〉です。
 さて、私がJBLの4345の試聴のところで、やや不用意に〝インターナショナル・サウンド〟という言葉を使ってしまったために、あとで総論の部分を読ませていただきますと、お三方の誤解をややまねいたような気がいたしますので、そのことについて、補足をさせていただきたいと思います。
 たとえば、JBLでも、今しがた例にあげたパラゴンにせよ、それから、それとは、また、まったく方向のちがう4676システム、といったような音になりますと、これは、やはり、私はアメリカならではの音、アメリカ以外の国では決して生れることのないサウンドだと思います。
 そして、私が〝インターナショナル・サウンド〟という言葉を使った、その使いかたがやや不用意だったために、誤解をまねいたようです。この場合、言葉の意味にあまりこだわってもらっては困るわけです。常日頃、私がスピーカーを論じる場合に、一貫して主張し続けてきたことですけれども、世界的な音の流れとして、たとえば10年という時間をさかのぼってみますと、当時はまだ明らかにイギリスの、たとえば、やや線の細い、繊細な音、ドイツのコリッとした音、アメリカの華麗な音、といったようなわけかたが、はっきりできた。それに対して、近年の、ことにそれは技術的な進歩によってスピーカーの特性の解析の技術がたいへんすすんだこと、そして、もうひとつは、プログラムソースを作る側、もっとさかのぼって言えば、音楽を演奏する側、などの感覚的な変化、楽器の変化なども含めて言えることですけれども、音楽的に正しく再生するには、指向特性を含めての、真の意味でのワイドレンジであり、歪あを極力すくなく、トランジェントをよく、そして、位相特性までも含めた平坦な特性、物理的な意味で、理想に近い特性を各国のメーカーとも目指しはじめた。
 目指しはじめたことによって、各国から数多く作り出されるスピーカーのなかで、そうした条件をみたすことに、からくも成功したスピーカーの音というものが、だんだん、ひとつの地域の独特のサウンドではなくて、国際的に、あるいは、みなさんのお話のなかの最後に〝コスモポリタン〟という言葉が出ていましたが、このほうが適当か、という気もいたしますけれども、そうしたように、特定の地域の、あるいは特定のジェネレーションのカラー、特定の技術によるカラーといったものが、だんだんうすめられてきて、音のバランスとか音の鳴りかたが、たいへんよく似てきているということを申しあげたいわけです。それを特に私が、JBLの4345のところで申しあげたのは、今回、試聴に用意されたそれぞれのスピーカー、および今回は種々の理由によって用意できなかったアメリカのスピーカーを全部ふくめたうえで、やっぱりJBLの4345というのは、とびぬけて、物理特性を理想に近づけることに成功した、数少ない例のひとつだということを言いたかったために、〝インターナショナル・サウンド〟などというような、言葉を使ってしまったわけです。
 で、ありながら、菅野さんや、ほかのかたのご指摘にありますように、私が、それだから、JBLが無国籍のスピーカーだと言おうとしているのでは決してなくて、あくまでも、これはJBL製であり、アメリカの西海岸製のスピーカーであり、そのことは、百も承知のうえで、アメリカが作り得た、〝コスモポリタンな〟あるいは〝インターナショナルな〟音、ということを言いたかっただけの話なのです。アメリカのそれ以外のスピーカーというのは、たとえばアルテックのA4に代表される、アメリカの古き良き時代のトーキー・サウンド、あるいは、インフィニティに代表されるようなアメリカの古い伝統を全く断ち切ったところから生れてきた、まったく耳あたらしいサウンドといったようなものが、オーバーに言えば、無数にあるわけです。そういう点で私は、JBLの4345をのぞいたそれぞれのスピーカーというのは、やっぱり、アメリカの国のそれぞれの地域、世代、技術、そしてそれらをふくめた音を求める傾向、といったものが、はっきりと現われていると思う。それか今回試聴に参加して、たいへん興味ぶかく感じたことです。
 多少個人の発言につっかかような言いかたになるんだけど、菅野さんが「あいつは自分の考えている音の世界があって、それを〝インターナショナル・サウンド〟だと思っている、ということは不遜である」と、いうようなたいへん、きつい発言をなさっている。
 まあ、菅野氏とは個人的に仲がいいから、あえて、すこし売られたケンカを買わせていただくけれども、私は決して自分の考えている音が即〝インターナショナル〟だとは思っていません。
 ですから、決して、もちろん私自身の音の世界というものは確固として持っているけれども、それをインターナショナルなどと思うどころか、それはもう、私の鳴らしかた、私の音の世界だというふうにわり切っているわけです。それと、客観的といいますか、要するにその主観的な要素が入らない物理特性のすぐれた音、そういったものを〝インターナショナル〟ないし〝コスモポリタン〟と言っていいのだろうと思うので、傲慢と言われたことについては、私は、とんでもない、と一言抗議させていただきたい、と思います。

「いま、いい音のアンプがほしい」

瀬川冬樹

’81世界の最新セパレートアンプ総テスト(ステレオサウンド特別増刊・1981年夏発行)
「いま、いい音のアンプがほしい」より

 二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
 公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
 そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何か発見して、私は少しも飽きない。
 高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いてくる人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうか、などと考える。考えながら、このゴミゴミした街が、それを全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
 高いところから風景を眺望する楽しさは、なにも私ひとりの趣味ではないと思うが、しかし、全体を見通しながらそれと同じ比重で、あるいはときとして全体以上に、部分の、ディテールの一層細かく鮮明に見えることを求めるのは、もしかすると私個人の特性のひとつであるかもしれない。
 そこに思い当ったとき、記憶は一度に遡って、私の耳には突然、JBL・SA600の初めて鳴ったあの音が聴こえてくる。それまでにも決して短いとはいえなかったオーディオ遍歴の中でも、真の意味で自分の探し求めていた音の方向に、はっきりした針路を発見させてくれた、あの記念すべきアンプの音が──。
 JBLのプリメイン型アンプSA600が発表さたのは、記憶が少し怪しいがたぶん1966年で、それより少し前の1963年には名作SG520(プリアンプ)が発表されていた。パワーアンプは、最初、ゲルマニウムトランジスター、入力トランス結合のSE401として発表されたが、1966年には、PNP、NPNの対称型シリコントランジスターによって、全段直結、±二電源、差動回路付のSE400型が、?JBL・Tサーキット?の名で華々しく登場した。このパワーアンプに、SG520をぐんと簡易化したプリアンプを組合わせて一体(インテグレイテッド)型にしたのがSA600である。この、SE400の回路こそ、こんにちのトランジスターパワーアンプの基礎を築いたと言ってよく、その意味ではまさに時代を先取りしていた。
 私たちを驚かせたのは、むろん回路構成もであったにしても、それにもまさる鳴ってくる音の凄さ、であった。アンプのトランジスター化がまだ始まったばかりの時代で、回路構成も音質もまた安定度の面からも、不完全なトランジスターアンプがはびこっていて、真の音楽愛好家の大半が、アンプのトランジスター化に疑問を抱いていた頃のことだ。それ以前は、アメリカでは最高級の名声を確立していたマランツ、マッキントッシュの両者ともトランジスター化を試みていたにもかかわらず、旧型の管球式の名作をそれぞれに越えることができずにいた時期に、そのマランツ、マッキントッシュの管球式のよさと比較してもなお少しも遜色のないばかりか、おそらくトランジスターでなくては鳴らすことのできない新しい時代を象徴する鮮度の高いみずみずしい、そしてディテールのどこまでも見渡せる解像力の高さでおよそ前例のないフレッシュな音を、JBLのアンプは聴かせ、私はすっかり魅了された。
 この音の鮮度の高さは、全く類がなかった。何度くりかえして聴いたかわからない愛聴盤が、信じ難い新鮮な音で聴こえてくる。一旦この音を聴いてしまったが最後、それ以前に、悪くないと思って聴いていたアンプの大半が、スピーカーの前にスモッグの煙幕でも張っているかのように聴こえてしまう。JBLの音は、それぐらいカラリと晴れ渡る。とうぜんの結果として、それまで見えなかった音のディテールが、隅々まではっきりと見えてくる。こんなに細やかな音が、このレコードに入っていたのか。そして、その音の聴こえてきたことによって、これまで気付かなかった演奏者の細かな配慮を知って、演奏の、さらにはその演奏をとらえた録音の、新たな側面が見えはじめる。こんにちでは、そういう音の聴こえかたはむしろ当り前になっているが、少なくとも1960年代半ばには、これは驚嘆すべきできごとだった。
 ディテールのどこまでも明晰に聴こえることの快さを教えてくれたアンプがJBLであれば、スピーカーは私にとってイギリス・グッドマンのアキシオム80だったかもしれない。そして、これは非常に大切なことだがその両者とも、ディテールをここまで繊細に再現しておきながら、全体の構築が確かであった。それだからこそ、細かな音を鳴らしながら音楽全体の姿を歪めるようなことなくまたそれだからこそ、細かな音のどこまでも鮮明に聴こえることが快かったのだと思う。細かな音を鳴らす、というだけのことであれば、これら以外にも、そしてこれら以前にも、さまざまなオーディオ機器はあった。けれど、全景を確かに形造っておいた上で、その中にどこまでも細やかさを求めてゆく、という鳴らし方をするオーディオパーツは、決して多くはない。そして、そういう形でディテールの再現される快さを一旦体験してしまうと、もう後に戻る気持には容易になれないものである。
 8×10(エイトバイテン)のカラー密着印画の実物を見るという機会は、なかなか体験しにくいかもしれないが、8×10とは、プロ写真家の使う8インチ×10インチ(約20×25センチ)という大サイズのフィルムで、大型カメラでそれに映像を直接結ばせたものを、密着で印画にする。キリキリと絞り込んで、隅から隅までキッカリとピントの合った印画を、手にとって眺めてみる。見えるものすべてにピントの合った映像というものが、全く新しい世界として目の前に姿を現わしてくる。それをさらに、ルーペで部分拡大して見る。それはまさに、双眼鏡で眺めた風景に似て、超現実の別世界である。
 写真に集中的に凝っていたころ、さまざまのカメラやレンズの名品を、一度は道楽のつもりで手もとに置いた時期があった。しかし、たとえばタンバールやヘクトールなどの、幻ともいわれる名レンズといえども、いわゆるソフトフォーカスタイプのレンズは、どうにも私の好みには合わないことを、道楽の途中で気づかされた。私は常に、ピントの十分に合った写真が好きなのだった。たとえば長焦点レンズの絞りを開放近くに開いて、立体を撮影すれば、ピントの合った前後はもちろんボケる。仮にそういう写真であればあったで、ともかく、甘い描写は嫌いで、キリリと引締った鋭く切れ込む描写をして欲しい。といって、ピントが鋭ければすべてよいというわけではない。髪の毛を、まるで針金のような質感に写すレンズがある。逆に、ピントの外れた部分を綿帽子のようにもやもやに描写するレンズがある。どちらも私は認めない。髪の毛の質感と、バックにボケて写り込んでいる石垣の質感とが、それぞれにそれらしく感じとれないレンズはダメだ。その上で、極力鋭いピントを結ぶレンズ……。こうなると、使えるタマは非常に限られてしまう。
 そうした好みが、即ち再現された音への好みと全く共通であることは、もう言うまでもなくさらにはそれが、食べものの味の好み、色彩やものの形、そして異性のタイプの好みにまで、ひとりの人間の趣味というものは知らず知らずに映し出される。それだから、アンプを作る人間の好みがそれぞれのアンプの鳴らす音の味わいに微妙に映し出され、アンプを買う側の人間がそれを嗅ぎ分け選び分ける。自分の鳴らしたい音の世界を、どのアンプなら垣間見せてでもくれるだろうか。さまざまのアンプを聴き分け、選ぶ楽しさは、まさにその一点にある。
 どこまでも細かく切れ込んでゆく解像力の高さ、いわばピントの鋭さ。澄み切った秋空のような一点の曇りもない透明感。そして、一音一音をゆるがせにしない厳格さ。それでありながら、おとのひと粒ひと粒が、生き生きと躍動するような,血の通った生命感……。そうした音が、かつてのJBLの持っていた魅力であり、個性でもあった。一聴すると細い感じの音でありながら、低音の音域は十分に低いところまで──当時の管球の高級機の鳴らす低音よりもさらに1オクターヴも低い音まで鳴らし切るかのように──聴こえる。そのためか、音の支えがいかにも確としてゆるぎがない。細いかと思っていると案外に肉づきがしっかりしている。それは恰も、欧米人の女声が、一見細いようなのに、意外に肉づきが豊かでびっくりさせられるというのに似ている。要するにJBLの音は、欧米人の体格という枠の中で比較的に細い、のである。
 JBLと全く対極のような鳴り方をするのが、マッキントッシュだ。ひと言でいえば豊潤。なにしろ音がたっぷりしている。JBLのような?一見……?ではなく、遠目にもまた実際にも、豊かに豊かに肉のついたリッチマンの印象だ。音の豊かさと、中身がたっぷり詰まった感じの密度の高い充実感。そこから生まれる深みと迫力。そうした音の印象がそのまま形をとったかのようなデザイン……。
 この磨き上げた漆黒のガラスパネルにスイッチが入ると、文字は美しい明るいグリーンに、そしてツマミの周囲の一部に紅色の点(ドット)の指示がまるで夢のように美しく浮び上る。このマッキントッシュ独特のパネルデザインは、同社の現社長ゴードン・ガウが、仕事の帰りに夜行便の飛行機に乗ったとき、窓の下に大都会の夜景の、まっ暗な中に無数の灯の点在し煌めくあの神秘的ともいえる美しい光景からヒントを得た、と後に語っている。
 だが、直接にはデザインのヒントとして役立った大都会の夜景のイメージは、考えてみると、マッキントッシュのアンプの音の世界とも一脈通じると言えはしないだろうか。
 つい先ほども、JBLのアンプの音の説明に、高い所から眺望した風景を例として上げた。JBLのアンプの音を風景にたとえれば、前述のようにそれは、よく晴れ渡り澄み切った秋の空。そしてむろん、ディテールを最もよく見せる光線状態の昼間の風景であろう。
 その意味でマッキントッシュの風景は夜景だと思う。だがこの夜景はすばらしく豊かで、大都会の空からみた光の渦、光の乱舞、光の氾濫……。贅沢な光の量。ディテールがよくみえるかのような感じは実は錯覚で、あくまでもそれは遠景としてみた光の点在の美しさ。言いかえればディテールと共にこまかなアラも夜の闇に塗りつぶされているが故の美しさ。それが管球アンプの名作と謳われたMC275やC22の音だと言ったら、マッキントッシュの愛好家ないしは理解者たちから、お前にはマッキントッシュの音がわかっていないと総攻撃を受けるかもしれない。だが現実には私にはマッキントッシュの音がそう聴こえるので、もっと陰の部分にも光をあてたい、という欲求が私の中に強く湧き起こる。もしも光線を正面からベタにあてたら、明るいだけのアラだらけの、全くままらない映像しか得られないが、光の角度を微妙に選んだとき、ものはそのディテールをいっそう立体的にきわ立たせる。対象が最も美しく立体的な奥行きをともなってしかもディテールまで浮び上ったときが、私に最上の満足を与える。その意味で私にはマッキントッシュの音がなじめないのかもしれないし、逆にみれば、マッキントッシュの音に共感をおぼえる人にとっては、それがJBLのように細かく聴こえないところが、好感をもって受け入れられるのだろうと思う。さきにもふれた愛好家ひとりひとりの、理想とする音の世界観の相違がそうした部分にそれぞれあらわれる。
 JBLとマッキントッシュを、互いに対立する両方の極とすれば、その中間に位置するのがマランツだ。マランツの作るアンプは、常に、どちらに片寄ることなく、いわば?黄金の中庸精神?で一貫していた。だが、そのほんとうの意味が私に理解できたのは、もっとずっとあとになってのことだった。アンプの自作をやめて、最初に身銭をはたいて購入したのが、マランツ♯7だった。自作のアンプにくらべてあまりにも良い音がして序ッ区を受けた話はもう何度も書いてしまったが、そのときには、まだ、マランツというアンプの中庸の性格など、聴きとれる筈がない。アンプの音の性格というものは、常に「それ以外の、そしてそれと同格でありながら傾向を異にする」音、を聴いたときに、はじめて、理解できるものだ。一台のアンプの音だけ聴いて、そのアンプの音の傾向あるいは音色が、わかる、などということは、決してありえない。それは当然なので、アンプの音を聴くには、そのアンプにスピーカーを接続し、何らかのプログラムソースを入れてやって、そこで音がきこえる。そうして鳴ってきた音が、果して、どこまでそのアンプ自体の音、なのか、もしかしたら、それはスピーカーの音色なのか、あるいはまた、カートリッジやアームやターンテーブルや、それらを包括したプレーヤーシステムの音色、なのか、それともプログラムソース側で作られた音色なのか、さらにまた、微妙な部分でいえば接続コードその他の何らかの影響であるのかどうか──。そうしたあらゆる要因によるそれぞれに固有の音色をすべて差し引いた上で、これがこのアンプの固有の音色だ、このアンプの個性だ、と言い切るには、くりかえしになるが、そのアンプと同格の別のアンプを、少なくとも一台、できれば二〜三台、アンプ以外の他の条件をすべて揃えて聴きくらべてからでなくては、「このアンプの音色は……」などと誰にも言えない筈だ。
 そうした道理で、マッキントッシュの豊潤さ、JBLの明晰さ、を両つ(ふたつ)の極として、その中間にマランツが位置する、と理解できたのは、つまりそういう比較をできる機会にたまたま恵まれたからであった。それが、本誌創刊第三号、昭和42年の初夏のことであった。
 このときすでに、JBLのSG520とSE400の組合せが、私の装置で鳴っていた。スピーカーもJBLで、しかしまだ、こんにちのスタジオモニターシリーズのような完成度の高いスピーカーシステムが作られていなかったし、あこがれていた「ハーツフィールド」は、入手のめどがつかず、「オリムパス」は二〜三気になるところがあって買いたいというほどの決心がつかなかったので、ユニットを買い集めて自作した3ウェイが鳴っていた。そのシステムをドライヴするアンプは、ほんの少し前まで、マランツの♯7プリに、QUADII型のパワーアンプや、その他の国産品、半自作品など、いろいろとりかえてみて、どれも一長一短という気がしていた。というより、その当時の私は、アンプよりもスピーカーシステムにあれこれと浮気しているまっ最中で、アンプにはそれほど重点を置いていなかった。
 昭和41年の暮に本誌第一号が創刊され、そのほんの少しあとに、前記のプリメインSA600を、サンスイの新宿ショールーム(伊勢丹の裏、いまダイナミックオーディオの店になっている)の当時の所長だった伊藤瞭介氏のご厚意で、たぶん一週間足らず、自宅に借りたのだった。そのときの驚きは、本誌第9号にも書いたが、なにしろ、聴き馴れたレコードの世界がオーバーに言えば一変して、いままで聴こえたことのなかったこまかな音のひと粒ひと粒が、くっきりと、確かにしかし繊細に、浮かび上り、しかもそれが、はじめのところにも書いたようにおそろしく鮮度の高い感じで蘇り息づいて、ぐいぐいと引込まれるような感じで私は昂奮の極に投げ込まれた。全く誇張でなしに、三日三晩というもの、仕事を放り出し、寝食も切りつめて、思いつくレコードを片端から聴き耽った。マランツ♯7にはじめて驚かされたときでも、これほど夢中にレコードを聴きはしなかったし、それからあと、すでに十五年を経たこんにちまで、およそあれほど無我の境地でレコードを続けざまに聴かせてくれたオーディオ機器は、ほかに思い浮かばない。今になってそのことに思い当ってみると、いままで気がつかなかったが、どうやら私にとって最大のオーディオ体験は、意外なことに、JBLのSA600ということになるのかもしれない。
 たしかに、永い時間をかけて、じわりと本ものに接した満足感を味わったという実感を与えてくれた製品は、ほかにもっとあるし、本ものという意味では、たとえばJBLのスピーカーは言うに及ばず、BBCのモニタースピーカーや、EMTのプレーヤーシステムなどのほうが、本格派であるだろう。そして、SA600に遭遇したが、たまたまオーディオに火がついたまっ最中であったために、印象が強かったのかもしれないが、少なくとも、そのときまでスピーカー第一義で来た私のオーディオ体験の中で、アンプにもまたここまでスピーカーに働きかける力のあることを驚きと共に教えてくれたのが、SA600であったということになる。
 結局、SA600ではなく、セパレートのSG520+SE400Sが、私の家に収まることになり、さすがにセパレートだけのことはあって、プリメインよりも一段と音の深みと味わいに優れていたが、反面、SA600には、回路が簡潔であるための音の良さもあったように、今になって思う。
 ……という具合にJBLのアンプについて書きはじめるとキリがないので、この辺で話をもとに戻すとそうした背景があった上で本誌第三号の、内外のアンプ65機種の総試聴特集に参加したわけで、こまかな部分は省略するが結果として、JBLのアンプを選んだことが私にとって最も正解であったことが確認できて大いに満足した。
 しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ思ったものだ。
 だが結局は、アルテックの604Eが私の家に永く住みつかなかったために、マッキントッシュもまた、私の装置には無縁のままでこんにちに至っているわけだが、たとえたった一度でも忘れ難い音を聴いた印象は強い。
 そうした体験にくらべると、最初に手にしたにもかかわらず、マランツのアンプの音は、私の記憶の中で、具体的なレコードや曲名と、何ひとつ結びついた形で浮かんでこないのは、いったいどういうわけなのだろうか。確かに、その「音」にびっくりした。そして、ずいぶん長い期間、手もとに置いて鳴らしていた。それなのに、JBLの音、マッキントッシュの音、というような形では、マランツの音というものを説明しにくいのである。なぜなのだろう。
 JBLにせよマッキントッシュにせよ、明らかに「こう……」と説明できる個性、悪くいえばクセを持っている。マランツには、そういう明らかなクセがない。だから、こういう音、という説明がしにくいのだろうか。
 それはたしかにある。だが、それだけではなさそうだ。
 もしかすると私という人間は、この、「中庸」というのがニガ手なのだろうか。そうかもしれないが、しかし、音のバランス、再生される音の低・中・高音のバランスのよしあしは、とても気になる。その意味でなら、JBLよりもマッキントッシュよりも、マランツは最も音のバランスがいい。それなのに、JBLやマッキントッシュのようには、私を惹きつけない。私には、マランツの音は、JBLやマッキントッシュほどには、魅力が感じられない。
 そうなのだ。マランツの音は、あまりにもまっとうすぎるのだ。立派すぎるのだ。明らかに片寄った音のクセや弱点を嫌って、正攻法で、キチッと仕上げた音。欠点の少ない音。整いすぎていて、だから何となくとり澄ましたようで、少しよそよそしくて、従ってどことなく冷たくて、とりつきにくい。それが、私の感じるマランツの音だと言えば、マランツの熱烈な支持者からは叱られるかもしれないが、そういう次第で私にはマランツの音が、親身に感じられない。魅力がない。惹きつけられない。たから引きずりこまれない……。
 また、こうも言える。マランツのアンプの音は、常に、その時点その時点での技術の粋をきわめながら、音のバランス、周波数レインジ、ひずみ、S/N比……その他のあらゆる特性を、ベストに整えることを目指しているように私には思える。だが見方を変えれば、その方向には永久に前進あるのみで、終点がない。いや、おそらくマランツ自身は、ひとつの完成を目ざしたにちがいない。そのことは、皮肉にも彼のアンプの「音」ではなく、デザインに実っている。モデル7(セブン)のあの抜きさしならないパネルデザイン。十年間、毎日眺めていたのに、たとえツマミ1個でも、もうこれ以上動かしようのないと思わせるほどまでよく練り上げられたレイアウト。アンプのパネルデザインの古典として、永く残るであろう見事な出来栄えについてはほとんど異論がない筈だ。
 なぜ、このパネルがこれほど見事に完成し、安定した感じを人に与えるのだろうか。答えは簡単だ。殆どパーフェクトに近いシンメトリーであるかにみせながら、その完璧に近いバランスを、わざとほんのちょっと崩している。厳密にいえば決して「ほんの少し」ではないのだが、そう思わせるほど、このバランスの崩しかたは絶妙で、これ以上でもこれ以下でもいけない。ギリギリに煮つめ、整えた形を、ほんのちょっとだけ崩す。これは、あらゆる芸術の奥義で、そこに無限の味わいが醸し出される。整えた形を崩した、などという意識を人に抱かせないほど、それは一見完璧に整った印象を与える。だが、もしも完全なシンメトリーであれば、味わいは極端に薄れ、永く見るに耐えられない。といって、崩しすぎたのではなおさらだ。絶妙。これしかない。マランツ♯7のパネルは、その絶妙の崩し方のひとつの良いサンプルだ。
 パネルのデザインの完成度の高さにくらべると、その音は、崩し方が少し足りない。いや、音に関するかぎり、マランツの頭の中には、出来上がったバランスを崩す、などという意識はおよそ入りこむ余地がなかったに違いない。彼はただひたすら、音を整えることに、全力を投入したに違いあるまい。もしも何か欠けた部分があるとすれば、それはただ、その時点での技術の限界だけであった、そういう音の整え方を、マランツはした。
 むろん以上は私の独断だが、バランスはちょっと崩したところにこそ魅力を感じさせるのであれば、マランツの音は立派ではあったが魅力に欠けるという理由はこれで説明がつく。そしてもうひとつ、これこそ最も皮肉な事実だが、その時点での最高の技術を極めた音であれば、とうぜんの結果として、技術が進歩すればそれは必ず古くなる。言いかえれば、より一層進んだ技術をとり入れ、完成を目ざしたアンプに、遠からず追い越される。
 ところが、マッキントッシュのように、ひとつの個性を究め、独特の音色を作り上げた音は、それ自体ひとつの完成であり、他の音が出現してもそれに追い越されるのでなく単にもうひとつ別の個性が出現したというに止まる。良い悪いではなく、それぞれが別個の個性として、互いに魅力を競い合うだけのことだ。その意味では、JBLのかつての音は、いくぶんきわどいところに位置づけられる。それはひとつの見事な個性の完成でありながら、しかし、トランジスターの(当時の)最新の技術をとり入れていただけに、こんにち聴くと、たとえば歪が少し耳についたり、S/N比がよくなかったり、などの多少の弱点が目につくからだ。もっとも、それらの点でいえばマッキントッシュとて例外とはなりえないので、やはりJBLのアンプの音は、いま聴き直してみても類のないひとつの魅力を保ち続けていると、私には思える。あるいは惚れた人間のひいき目かもしれないが。
 マランツ、マッキントッシュ、JBLのあと、アメリカには、聴くべきアンプが見当らない時期が長く続いた。前二社はトランジスター化に転身をはかり、それぞれに一応の成果をみたし、マッキントッシュのMC2105などかなりの出来栄えではあったにしても、私自身は、JBLで満足していた。アメリカ・クラウン(日本でのブランドはアムクロン)のDC300が、DCアンプという回路と、150ワット×2という当時としては驚異的なハイパワーで私たちを驚かせたのも、もうずいぶん古い話になってしまったほどで、アメリカでは永いあいだ、良いアンプが生れなかった。その理由はいまさらいうまでもないが、ソ連との宇宙開発競争でケタ外れの金をつぎ込んだところへ、ヴェトナム戦争の泥沼化で、アメリカは平和産業どころではなかったのだ。
 こうして、1970年代に入ると、日本のアンプメーカーが次第に力をつけ始め、プリメインアンプではその時代時代に、いくつかの名作を生んだ。そうした積み重ねがいわばダイビングボードになって、たとえばパイオニア・エクスクルーシヴM4(ピュアAクラス・パワーアンプ)や、ヤマハBI(タテ型FET仕様のBクラス・パワーアンプ)などの話題作が誕生しはじめた。ことにヤマハは、古くモノーラル初期に高級オーディオ機器に手を染めて以後、長らく鳴りをひそめていた同社が、おそらく一拠に名誉挽回を計ったのだろう全力投球の力作で、発売後しばらくは高い評価を得たが、反面、ちょうどこの時期に国内の各社は力をつけていたために、かえってこれが引き金となったのか、これ以後、続々とセパレートタイプの高級アンプが世に問われる形になった。ただしもう少し正確を期した言い方をするなら、パイオニアやヤマハよりずっと早い時期に作られたテクニクスの10000番のプリとメインこそ、国産の高級セパレートアンプの皮切りであると思う。そしてこのアンプは当時としては、音も仕上げも非常に優れた出来栄えだった。しかし価格のほうも相当なもので、それであまり広く普及しなかったのだろう。
 パイオニアM4はAクラスだから別として、テクニクスもヤマハも、ともに100ワット×2の出力で、これは1970年代半ば頃としては、最高のハイパワーであった。
 テクニクスもパイオニアもヤマハも、それぞれにプリアンプを用意していたが、そのいずれも、パワーアンプにもう一歩及ばなかった。というより、全世界的にみて、マランツ♯7、マッキントッシュC22、そしてJBL・SG520という三大名作プリアンプのあと、これらを凌ぐプリアンプは、まるでプッツリと糸が切れたように生れてこなかった。数だけはいくつも作られたにしても、見た目の風格ひとつとっても、これら三者の見事な出来栄えの、およそ足もとにも及ばなかった。あるいはそれは私自身の性向をふまえての見方であるのかもしれない。自分で最初に購入したのが、くり返すようにマランツ♯7と、パワーアンプはQUADIIで我慢したように、はじめからプリアンプ指向だった。JBLも、ふりかえってみるとプリアンプ重視の作り方が気に入ったのかもしれない。そう思ってみると、私をしびれさせたマッキントッシュのMC275は、たいしたパワーアンプだということになるのかもしれない。マッキントッシュのプリアンプは、どの時期の製品をとっても、必ずしも私の好みに十分に応えたわけではなかったのだから。
 それにしてもプリアンプの良いのが出ないねと、友人たちと話し合ったりしていたところに登場したのが、マーク・レヴィンソンだった。
 最初の一台のサンプル(LNP2)は、本誌の編集部で初めて目にした。その外観や出来栄えは、マランツやJBLを使い馴れた私には、殆どアピールしなかった。たまたま居合わせた山中敬三氏が、新製品紹介での試聴を終えた直後で、彼はこのLNP2を「プロ用まがいの作り方で、しかもプロ用に徹しているわけでもない……」と酷評していた。キャノンプラグとRCAプラグを併べてとりつけたどっちつかずの作り方が、おそらく山中氏の気に入らなかったのだろうし、私もそれには同感だった。
 ところで音はどうなんだ? という私の問いに、山中氏はまるで気のない様子で、近ごろ流行りのトランジスターの無機的な音さ、と、一言のもとにしりぞけた。それを私は信用して、それ以上、この高価なプリアンプに興味を持つことをやめにした。
 あとで考えると、大きなチャンスを逃したことになった。この第一号機は、いまのRFエンタープライゼスではなく、シュリロ貿易が試みに輸入したもので、結局このサンプルの評価が芳しくなく、もて余していたのを、岡俊雄氏が聴いて気に入られ、引きとられた。つまり、LNP2を日本で最初に個人で購入されたのは、岡俊雄氏ということになる。
 しばらくして、輸入元がRFに代わり、同社から、一度聴いてみないかと連絡のあったときも、最初私は全く気乗りしなかった。家に借りて、接続を終えて音が鳴った瞬間に、びっくりした。何ていい音だ。久しぶりに味わう満足感だった。早く聴かなかったことを後悔した。それからレヴィンソンとのつきあいが始まった。1974年のことだった。
 レヴィンソンがLNP2を発表したのは1973年で、JBLのSG520からちょうど十年の歳月が流れている。そして、彼がピュアAクラスのML2Lを完成するのは、もっとずっとあとのことだから、彼もまた偶然に、プリアンプ型の設計者ということがいえ、そこのところでおそらく私も共感できたのだろうと思う。
 LNP2で、新しいトランジスターの時代がひとつの完成をみたことを直観した。SG520にくらべて、はるかに歪が少なく、S/N比が格段によく、音が滑らかだった。無機的などではない。音がちゃんと生きていた。
 ただ、SG520の持っている独特の色気のようなものがなかった。その意味では、音の作り方はマランツに近い──というより、JBLとマランツの中間ぐらいのところで、それをぐんと新しくしたらレヴィンソンの音になる、そんな印象だった。
 そのことは、あとになってレヴィンソンに会って、話を聞いて、納得した。彼はマランツに心酔し、マランツを越えるアンプを作りたかったと語った。その彼は若く、当時はとても純粋だった(近ごろ少し経営者ふうになってきてしまったが)。レヴィンソンが、初めて来日した折に彼に会ったM氏という精神科の医師が、このままで行くと彼は発狂しかねない人間だ、と私に語ったことが印象に残っている。たしかにその当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
 そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
 結局のところそれは、前述したように、音の質感やバランスを徹底的に追い込んでおいた上で、どこかほんの一ヵ所、絶妙に踏み外して作ることのできたときにのみ、聴くことのできる魅力、であるのかもしれなず、そうだとしたら、いまのレヴィンソンはむろんのこと、現在の国産アンプメーカーの多くの、徹底的に物理特性を追い込んでゆく作り方を主流とする今後のアンプの音に、それが果して望めるものかどうか──。
 だがあえて言いたい。今のままのアンプの作り方を延長してゆけば、やがて各社のアンプの音は、もっと似てしまう。そうなったときに、あえて、このアンプでなくては、と人に選ばせるためには、アンプの音はいかにあるべきか。そう考えてみると、そこに、音で苦労し人生で苦労したヴェテランの鋭い感覚でのみ作り出すことのできる、ある絶妙の味わいこそ、必要なのではないかと思われる。
 レヴィンソンのいまの音を、もう少し色っぽく艶っぽく、そしてほんのわずか豊かにしたような、そんな音のアンプを、果して今後、いつになったら聴くことができるのだろうか。

ディスクから情報を豊かに引き出す可能性をもった趣味の製品

菅野沖彦

別冊FM fan 30号(1981年6月発行)
「最新プレイヤー41機種フルテスト」より

 今回試聴したプレイヤーは十九万円以上のもので、プレイヤーとしては一般用の最高級品ということになる。しかし、この価格帯のプレイヤーの特徴を、一言でいうのは非常に困難だ。ただ言えることは、ディスクに入っている情報を非常に豊かに引き出すことのできる可能性を持っているということ。それから物を作っている側が、完全に趣味の製品だということを意識して作っているということである。従って、これは実用機器の範囲を出ているということになるので、物の見方も性能本位だけではなくて、デザイン、工作精度、仕上げ、使っている材料、コンセプト……こういったものにまで目を向けてみるべきものだと思う。
 次に、今回聴いてみた製品の中にもいくつか性格が異なるものがある。まずカートリッジが付いた完全なプレイヤーシステムとしての形をなしているもの。それから、カートリッジレスだがアームまでは付いているもの。次にアームも付いていないもの、これは正確にはターンテーブルシステムという範ちゅうで区別すべきものだと思うが、この三つがある。
 これはそれぞれのユーザーの目的と好みによって選べばいいと思う。
 今回はその三つのジャンルのものを、できるだけ近い条件で聴こうということで、カートリッジの付いていないもの、アームの付いていないものに関しては、レファレンスとしてカートリッジはオルトフォンのMC20MKII、トーンアームはオーディオクラフトのAC3000MCを使った。
 AC3000MCを使った理由は、私が比較的このアームの音をよく知っているからだ。いろいろなケースで使っているし、自分の家でも使っている。このアームとカートリッジの相関関係についても、私なりに頭の中に入っているということで、これをレファレンスに使った。
 次にオルトフォンのMC20MKIIを使った理由だが、これも私があらゆるケースで自分のレファレンスとして使っているカートリッジだからである。しかもこれは、恐らくいろいろなカートリッジの中で、レファレンスとするに足るカートリッジだと思う。帯域バランス、あるいはトレーシングの安定性、性能、音質ともに妥当なものだと思う。
 MC20MKIIがローインピーダンス型のMCなので、トランスはU・BROS(上杉研究所)。プリアンプはマッキントッシュのC29、パワーアンプは同じマッキントッシュの新しい500W×2のMC2500。スピーカーはJBLの4343Bを使った。ここに使った機器というのは、すべて一応最高級機器のレファレンスとして納得のいくものだと思う。と同時に私自身が聴きなじんでいるということだ。
 今回聴いてみたシステムの中から、私がいくつか気に入ったものを選べということになると、自分が本当に個人的な、いろんな要素を入れて、値段に関係なく選べということであれば、無条件にトーレンスのレファレンスを第一に選ぶ。トーレンスのレファレンス、EMTの927が飛び抜けているからだ。その点からいえばEMT927をとるということになるけれども、私はあえてここではそれをとりたくない。そこで考え方をちょっと変えて、性能一点ばりということではなく、やはり実用性ということを加味して考えると二機種ほどある。リンソンデックとトーレンス126である。ただ見た目は決して良くないし、仕上げも良いとは言えない。その点、気になってしようがないが、ただフローティングマウントによる実用性、ハウリングマージン、あるいは外来ショックによる針飛びの問題、その他をここまで避けて、しかもこれだけの音が出るというのは、やはりすばらしいものだ。考え方として大人だなというように思う。
 もう一方の剛性と重量でがっちり攻めた、国産のプレイヤーの中から二つぐらい選ぶということになると、マイクロのBL111をあげたい。非常にオーソドックスなもので、振動循環系をがっちり固めながら、しかも、ものものしい形ではなく、プレイヤーとしてなかなか温かいふん囲気にまとめている。もう一つはエクスクルーシブP3をとりたい。重量、剛性を追求して共振をコントロールし、かつ非常にオーソドックスなユニバーサルアームを持っているが、そんなにものものしいふん囲気の仕上げではない。非常に使用範囲のフレキシブルな高性能の機種だといえる。
 このベスト5を選んでみてアレッと思ったのは、四機種がベルイドライブ、糸ドライブ(BL111)の間接駆動で、エクスクルーシブのP3だけがダイレクトドライブだということだ。私はこのドライブ方式というものは、オーディオのメカマニアにとっては興味があることだと思うが、実際にはこだわる必要はないと思っている。DD方式は最も新しい方式だから、ベルトや糸は古いということになるかもしれないが、そういう考え方は必ずしも正しくない。常に新しいものはよくて、古いものは悪いというのは、これはどこの世界においても誤りである。古いものの方に正しいことが往々にしてある。この場合はどちらが正しいとかということではない。間接駆動方式が多かったから、その方がやっぱりいいのではないか、というように解釈されてもこれは早計である。これは私が、マウンティングの方式だとか、あるいはトーンアームを含めた問題とかで、総合的に選んだもので、この結果をもってDDがいい、ベルトがいいというような解釈はしていただきたくない。
 ところで、このレポートは厳密なテストというように読んでいただきたくない。むしろこのレポートから、皆さんがそれぞれの機器の総合的な印象、赤とか青とか緑だという程度の印象をつかんでいただければいいと思う。自分の共感できる部分が多いものを参考として、プレイヤーシステムの決定に利用していただければ幸いだ。

ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって

瀬川冬樹

ステレオサウンド 53号(1979年12月発行)
特集・「Hi-Fiコンポーネントにおける第2回《STATE OF THE ART》賞選定」より

 まず〝ステート・オブ・ジ・アート〟の意味あいについて、これは昨年度(49号)のこの項で書いたことを再びくりかえしておく。
 第一に、それぞれの分野での頂点に立つ最高クラスの製品であること。第二に、それがその分野でのそれ以前の製品にくらべて、何らかの革新的あるいは斬新的なくふうのあること。第三に、革新あるいは斬新でなくとも、それまで発展してきた各種の技術を見事に融合させてひとつの有機的な統一体に仕上げることに成功した製品であること。
 要約すれば、ざっとこんなことになる。ただしこれはあくまでも私個人の解釈であって、この〝ステート・オブ・ジ・アート〟選定にあたった9人の選定委員のあいだには、こまかな部分での解釈のちがいがあることと思う。
 別項に〝ステート・オブ・ジ・アート〟選定までの経過、および選定の方法についての解説が載るはずだが、ともかく、昨年以来この一年間に発売された内外のオーディオパーツの中から、選定委員各自が、各自の解釈に従ってリストアップをする。それを編集部で整理して、誰がどの製品を選んだかは一切わからないようにした一覧表が廻されてくる。昨年もそうだったがことしもまた、そのリストを見るだけで〝ステート・オブ・ジ・アート〟の定義について、9人の選定委員のそれぞれの抱いている概念がいかに違うかという点に、驚かされる。というよりも、〝ステート・オブ・ジ・アート〟の定義または概念について話し合ってみればそこに大きな差はないのかもしれないが、それを実際の製品にあてはめてみると、そこに驚くほど大きな解釈の相違が現れるということかもしれない。
     *
 いずれにしても、そうしてリストアップされたぼう大な製品の中から、投票をくりかえしながら少数の製品に絞ってゆくプロセスで、各自が、自分としてはどうしてもこれを推したいと思う製品が、容赦なく落選してゆくのをみると、私など全く途方に暮れてしまう。他の選定委員の方々はこの点をどう思われるのだろうか知らないが、少なくとも個人的にそんな感慨にふけっていたとき、たまたま、〝モントルー国際レコード大賞〟に日本から審査員として招かれた志鳥栄八郎氏が、その審査のいきさつを書いておられたのを興味深く読ませて頂いた。(「レコード芸術」11月号および「FMファン」25号に詳しい)。多数決の投票によるかぎり、どれかが落されるのはやむをえない。が、そこにゆきつくまでに、十分の討論が交わされ、かつ、候補に上ったレコードを審査員が改めて聴き直す機会が与えられる、という点は、とうぜんのことながら立派だと思った。
     *
 強力に推したかったが落された製品を、あまりにも残念なのでここにあげておく。個人的に名を上げることは許されるだろう。
 第一がオーディオクラフトのアームAC3000(4000)MC、第二はマイクロの5000シリーズの糸ドライブ・ターンテーブル。マイクロのターンテーブルには洗練度という点でいささかの難点がなくはないが、この両者から得られる音の質の高さは別格で、いま私の最も信頼する組合せだ。
 第三に、ケンウッドのL01Tが入ったのならとうぜんL01Aも。
 第四は、オースチンTVA1とアキュフェーズのT104、およびP400。音質、完成度、いずれもなぜ入らなかったかふしぎな製品。
 またこまかいものはいくつかあるが、これだけはどうしてもあげておきたかった。

ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって

菅野沖彦

ステレオサウンド 53号(1979年12月発行)
特集・「Hi-Fiコンポーネントにおける第2回《STATE OF THE ART賞》選定」より

 昨年にひきつづき、第二回の〝ステート・オブ・ジ・アート〟の選定に参加した。第二回は、第一回選定以後発売されたものから選ぶことになるので、その数は少なかろうと予想したのだが、実際には、かなりの数の製品が選ばれることになった。とはいうもの、第一回が、それまでのすべての製品からの選定で、今回は一年間の製品が対象だから、比較すれば1/3以下の数量である。海外と国産とが半分ずつという結果になった。結果は、それぞれの選考の個人推薦と総意とバランスが、まずまず妥当なところにまとまったように思われる。私の場合、ノミネートした製品で、選定にもれたものを再考してみると、それなりに理由が納得できて、〝ステート・オブ・ジ・アート〟とするからには、このぐらい厳選されてしかるべきだと思えてくるものが多かった。強いていえば、ケンウッドのL07Dプレーヤー、Lo−DのD3300Mカセットデッキの2機種が選外になったことが惜しまれる。かといって選に入ったものについては、とりたてて文句のないものばかりであるからいたしかたない。
 第一回(49号)でも述べたことなのだが、〝ステート・オブ・ジ・アート〟という言葉通りに厳選するとなると、ごく少数の製品しか入らない。そして、この言葉の定義そのものが人によっても違うだろうから、選定の基準というものを明確にして、これ以上は入選、以下は落選というボーダーラインはひきにくい。私個人としては、この言葉をかなり厳しいニュアンスで受け取っているのだが、実際アメリカ雑誌などで使われているニュアンスは、お買徳優秀品程度のことでがっかりさせられるような製品にまで、この栄冠が与えられているようだ。本誌の〝ステート・オブ・ジ・アート〟は、それからすると、はるかに高い次元で厳選されていると思う。そして、そのレベルを上げることがあっても、下げることはないものと確信している。技術の先進性と同時に信頼性、ある種の普遍性にまで高められた個性的主張、つまりオリジナリティ、最高の品位をもった作りと仕上げ、こうした条件は、そのメーカーの技術力と精神性を厳しく問われることになる。そして、商品としてユーザーの信頼に応え得るものでもなければならないだろう。今は消え去った往年の名器を選ぶのとは意味が違う。商品としてユーザーの信頼に応え得るものとは、製品のクォリティのみならず、それを販売する流通経路のクォリティも問題だ。そしてもちろん、アフターケアーがこれに伴う。このような総合的見地からの〝ステート・オブ・ジ・アート〟の選出となると慎重にしすぎて、しすぎることはない。しかし、そこまで責任はもてないまでも、選者としては、まず自分がほれ込める製品化どうかということは純粋に一つの尺度にしているつもりだ。いうまでもなく、オーディオ・コンポーネントのあり方というのは多極性をもっている。スペシフィケイション、データで示される数字は、その足がかりになっても、ほとんどそ既製品の何ものをも語ってくれない。ましてや、質や性格といったものは、きれいに刷られたカタログ写真に及ばない。「ステレオサウンド」誌式のテストリポートで(今号でもセパレートアンプについて、私も担当しているが)、できるだけそれを読者に伝えようという努力をしているが、この〝ステート・オブ・ジ・アート〟の選考は、いわば、そうした姿勢を通して、真に推薦に足りると思える製品を厳選し、これだ!! と決めつけるわけだから、かなり荷の重いことにちがいない。第一回で選ばれた49機種に、この第二回の選考を通過した17機種を加えた中で、さらに個々の読者によって好き嫌いのはっきりした製品が選り分けられるほど、いろいろな傾向のものが入っているのは曖昧だともいえるし、オーディオ機器のあり方の複雑さと難しさを物語っていそうで興味深い。

ステート・オブ・ジ・アート選定にあたって

井上卓也

ステレオサウンド 53号(1979年12月発行)
特集・「Hi-Fiコンポーネントにおける第2回《STATE OF THE ART賞》選定」より

 昨年から始まった〝ステート・オブ・ジ・アート〟の選定は、早いもので、今回は第2回を迎えることになった。前回は第1回ということもあって、現在市販されているオーディオ製品を対象としたために、国内海外を含めて合計49モデルの多くの製品が選定されたが、今回は昨年の選定時期から今年の十一月五日までの一年間に登場した新製品が対象であり、当然のことながら選定機種数は少なく、ご畏敬17機種に留まった。
〝ステート・オブ・ジ・アート〟の選定については、始まって以来日時も浅いためか、聞くところによると国内メーカーの反応に比較すると、海外メーカーのほうがはるかに反応が鋭く、この選定に関心をもっているとのことだが、このあたりにも国内と海外メーカーの体質や気質の違いがあらわれているようで大変に興味深い。まず、メーカーの規模そのものが、国内のほとんどが大手メーカーであることに比べて、海外のメーカーは、大きいといっても国内では比較的に小さなメーカーといった程度であり、それだけに、製品についても個人的なデザイン・設計などにパーソナリティが強くあらわれ、いわゆる趣味的な傾向が色濃く出た製品が多いことにもなるのであろう。
 たしかに、現在の国内製品は製品の高品位さ、信頼性、安定度、均一性などの、どの点からみても世界最高の水準にあることは、誰しも疑いをさしはさむ余地のない事実であり、それだけに、海外においても特別な例を除いて、他に競合する相手を探すことはすでに不可能といえるほどの実力を備えている。これらの国内製品は、趣味の製品とはいえ、基本的に大量生産・大量販売に根をおろした工業製品である。また、工業製品としてつくられなければ、これ程の国際的競争力をもつ優れたオーディオ製品が、しかるべきリーズナブルな価格で入手できるわけはない。そのことはつねにづね納得しているわけではあるが、〝ステート・オブ・ジ・アート〟の意味どおりに選択するとなると、突然のように一種の味けなさが心なしか感じられるようである。
 選定された国内製品が、最新のエレクトロニクスの粋を集めた内容をもつものが多いのに対して、海外製品はむしろ伝統に根ざしたオーソドックスなものが大半である。それだけに、長期間にわたって培った、新鮮さはないが音楽を楽しむための道具ともいった味わいの深さが感じられる趣味的な製品が多い。いずれ80年代には、国内に輸入されて国内製品に比べて高価格でも競争力をもつ海外製品は、よりその数が激減することになろう。しかし、その空間を埋めるだけの、本来の意味での〝ステート・オブ・ジ・アート〟に相応しい国内製品の登場を願いたいと思う。昨今のように、巨大な資本力に物をいわせた激しい技術開発競争が繰り返されると、製品の世代交代は急テンポにおこなわれるようになる。例えば、春の新製品は年末には既に旧製品となりかねないようでは、ローコストな製品ならいざ知らず、かなり高価格な製品を入手しようとすると、おちおち使ってはいられなくなるのが、使い手側の心情であろう。
 何事にかかわらず、多くのなかから少数を選出するという作業は、つねに個人的な経験や判断に基づいた、エゴと独善がつきまとうことは避けられないが、少なくとも、今回選出された17機種の製品は、見事な製品であるに違いない。それぞれのジャンルで、選出されなかった数多くの製品よりも、〝ステート・オブ・ジ・アート〟として選出されただけの優れた性能・音質が得られ、それを購入された人々が、それなりに納得のいくものであることを信じたい。

Speaker System

瀬川冬樹

続コンポーネントステレオのすすめ(ステレオサウンド別冊・1979年秋発行)
「第2項・スピーカーの鳴らす音、二つの分類 アキュレイト・サウンドとクリエイティヴサウンド」より

 ここではデザインや価格の問題を抜きにして、スピーカーの「音」だけについて考えてみる。
「良いスピーカー」とは、必ずしも原音を再生するスピーカーばかりでないことに前項で触れたが、その意味をくわしく説明するためには、いま現実に市販されているスピーカーが鳴らそうとしている音がどういうものか、どんな考え方があるのか、を知るとともに、スピーカーを通じて音楽を楽しもうとしている聴き手の側が、どんなふうに聴き、どういう音を求めているのか、を対比させて考えてみるとわかりやすい。
          *
 まずスピーカーの鳴らす音(あるいはメーカーがスピーカーを作るとき、どういう音を鳴らしたいと考えているか)という面から、ごく大づかみに、二つのグループに分類してみる。それは、アキュレイトサウンド(正確な再現・註1)に対してクリエイティヴサウンド(創られた音)とでもいうべき両極の音、ということになる。
 レコードに録音された音。それがピックアップで拾い出され、アンプで増幅されて、スピーカーに送り込まれる。その送り込まれた電流(音声電流、とか入力信号などという)を、できるかぎり正確にもとの音波に変換しようという目的で作られたスピーカー。それが、いわゆるハイフィデリティ High Fidelity(高忠実度。ハイファイと省略されることが多い。忠実度がいかに高いか。言いかえれば入力信号にいかに忠実かという意味)のスピーカーだ。そして、市販されるスピーカーの大半は、このいわばオーディオの〝王道〟を目ざして作られている。
 これに対して、スピーカーを通してしか聴くことのできない音、言いかえれば、ナマの楽器では出せない音、を意識して、ナマとは違う音、スピーカーだけが作りうる音の魅力を、ことさら強調して作るスピーカーが、一方にある。ただ、はっきりさせておかなくてはならないのは、それが、ナマの(あるいはもとの)音楽の鳴らす音から、全然かけ離れた音であっては困るということだ。
 大づかみには、もとの音楽の鳴らす音にはちがいないが、それを、もとの楽器の出せないような大きな音量、逆に小さな音量で鳴らす、というのも、スピーカーにしか(というより録音・再生というプロセスを通じてしか)できないことだ。また、食事や歓談の妨げにならないよう、刺激的な音を一切おさえて、どこまでもまろやかに、ソフトに、耳ざわりの良い音で鳴らす、というのも、スピーカーだけにできることだ。あるいはまた、スペクタクルサウンドとでも言いたい壮大な、さらにはショッキングサウンドとでも言う迫力を聴かせることも、スピーカーなら可能である。
          *
 音楽の聴き方、受けとめかたに、一方で、シリアスな鑑賞の態度があり、他方に、おおぜいで歓談したりくつろいだりしながら楽しむ聴き方がある。スピーカーと一対一で、いわば読書するような形で音楽を鑑賞するには、前者の、いわゆるアキュレイトサウンドが向いているし、歓談やくつろぎのためには、後者のクリエイティヴサウンドを選ぶほうが楽しい。

註1
 アキュレイトサウンドというのは、最近のアメリカの若い世代の使いはじめた表現で、これは、第2項でふれたように、かつてのハイフィデリティに相当する。しかし、それが「Hi−Fi(ハイファイ)」という一種のスラングに近い言葉に堕落したことをおそらく嫌った結果だと思うし、また、以下に少しずつ解説するように、正確な意味での「原音再生」という考え方が、いまでは訂正されつつあって、この入力信号に対して正確な(アキュレイト)、という考え方のほうが好まれるのだと思う。たとえばアメリカのマーク・レビンソンも「私はモースト・アキュレイト・サウンドを常に心がけている」というような言い方をする。

Speaker System

瀬川冬樹

続コンポーネントステレオのすすめ(ステレオサウンド別冊・1979年秋発行)
「第1項・スピーカーを選ぶ前に」より

 スピーカーを選ぼうとするとき、大別すれば三つの要素をまず考える。第一は言うまでもなく音質。できるだけ良い音が欲しい。自分の好みに合った音を探したい。第二は大きさやプロポーション、そしてデザイン。第三は価格──。
 この三つの要素は、人によってどの項目を重視するか、その比重の与え方がちがう。オーディオのマニアなら、価格や大きさを無視して音質本位で選ぶかもしれない。しかしいくら音質本位といっても、あまり大きすぎたり、あまりにも高価であったりすれば購入をためらうかもしれない。また、インテリアデザインを大切にする人なら、、音質よりは見た目の美しさや、部屋に合うサイズやデザインを最も重視するだろう。
 このように比重の置きかたはひとさまざまであっても、ともかく、スピーカーの選択にあたって、①音質 ②デザイン(大きさ、プロポーションその他) ③価格、という三つの角度から検討を加えることが必要になる。
          *
 ところで、第一の要素である「音質の良さ」という問題は、その基準がきわめてあいまいのまま論じられている。オーディオの専門家に向かって、「良い音」とは? と質問してみると、たとえば「生(ナマ)の音をそっくりそのまま再現すること」というような答えが返ってくるだろう。生の音そっくり、ということを「原音再生」などという。だが、原音の再生というテーマは、良いスピーカーの基準のひとつにすぎない。しかもその基準ひとつすら、まだ100%満たした製品はない。
「良い音」とは、なにも原音の再生という狭いひとつの目標に限定してしまうことはない。聴き手を快くくつろがせる音。思わず手に汗をにぎるスペクタクルな音。歓談の邪魔をしないように低く静かに、そしてどこから鳴ってくるかわからないような気持の良い音……。いくつもの「良い音」がある。この本では、それらの点をできるだけ明確に分別してみよう。
          *
 大きさ、プロポーション、デザインを論じるためには、スピーカーの置かれる部屋のことを抜きに考えることはできない。スピーカーのタイプによって、床の上に直接置くべきタイプ、床や壁から離して設置しなくてはならないタイプ、棚にはめ込んだ方がいいタイプ、反対に周囲を広くあけて設置しなくてはならないタイプ……等さまざまの製品がある。いくらスピーカー自体が小型でも、周囲を広くあけて設置しなくてはならないのだとしたら、部屋の中で占有する空間を無視できなくなる。パネルのように薄いスピーカーにも、背面を壁から充分に離して設置しなくてはならないような製品がある。
 スピーカーの置かれる部屋は、インテリアという視覚面よりもいっそう、部屋の響き、という音質面でスピーカーの音を生かしも殺しもする。部屋の音響条件に合わせてスピーカーを選ぶ。しかもそれがインテリア的にもよく合うなら、選ばれたスピーカーの能力は最大限に発揮されるだろう。
 次のページから、それらさまざまの要素を、できるだけ有機的に関連させながら、スピーカー選びのヒントを探ってゆく。

最新セパレートアンプの魅力をたずねて(その1)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より

     I
 アンプは「買う」ものでなく「作る」ものと、相場がきまっていた。古い話である。といって、なにも好んで昔話などはじめようというのではない。こんにちの新しいアンプたちについて考えてみようとしたとき、ほんの少しばかり過去にさかのぼって振り返ってみることが、何かひとつのきっかけになりそうな気がするからだ。
     *
 アメリカでは一九五〇年代の後半にはすでに、マランツ、マッキントッシュに代表される超高級アンプをはじめとして、大小の専業メーカーが、あるいは一般家庭用の、あるいはオーディオ愛好家むけの、それぞれに完成度の高い各種のアンプを市販していた。
 けれど一方の日本のオーディオは、まだおそろしく幼稚な段階にあった。いや、ごく少数の熱心な研究家や数少ない専門の技術者の中には、当時の世界の水準をいち早くとり入れて優秀なアンプを製作していたケースもあったが、当時の日本のオーディオまたはレコード愛好家の数からすれば、そうしたアンプが商品として一メーカーを支えるほどには売れるものではなかった。
 商品としての良いアンプが入手できないのだから、それでも何とか良いアンプが欲しければ、自分で作るか、それとも誰か腕の立つ技術者に一品注文の形で製作を依頼するほかはない。アメリカやイギリスの優れたアンプは、まだ自由に輸入ができなかったし、入荷したとしてもおそろしく高価。それよりも、海外の本当に優れた製品を実物で知ることができなかったために、いわゆる有名メーカーまたは高級メーカーの製品といえども、そんなに高価な代償を支払ってまで入手する価値のあるものだとは、ほとんどの人が思っていなかった。わたくし自身も、マランツやマッキントッシュの回路そのものは文献で知っていたが、回路図で眺めるかぎりはそれがそんなにズバ抜けて音質の良いアンプだとはわからない。なに、高価なだけでたいしたことはない、と思い込んでいたのだから世話はない。
 アンプの性能を、回路図から推し量ろうというのは、ちょうど、一片の白地図か、あるいはせいぜい住宅の平面図から、その場所あるいは出来上った家を推測するに等しい。だがそういう事実に気づくのはずっとあとの話である。
     *
 良い製品を自作する以外に手に入れる方法がないというのが半分の理由。そしてあとの半分は、いまも書いたように、わざわざ高い金を払って買うこたぁないさ、という甘い誤算。そんな次第でわたくしも、もっぱらアンプの設計をし、回路図を修正し、作っては聴き、聴いては改造し、またときには友人や知人の依頼によって、アンプを何台も、いや、おそらく何百台も、作ってはこわしていた。昭和35年以前の話であった。
 昭和26年末に、雑誌「ラジオ技術」への読者の投稿の形でのアンプの研究記事が採用されたことが、こんにちこうしてオーディオで身を立てるきっかけを作ってくれたのだったが、少なくとも昭和40年代半ば頃まではたかだか専門誌への寄稿ぐらいでは生計を立てることは不可能で、むろんその点ではわたくしと同じ時代あるいはそれ以前からオーディオの道にのめり込んでいた人たちすべてご同様。つまりつい十年ほど前までは、こういう雑誌に原稿を書くことは、全くのアマチュアの道楽の延長にすぎなかった。言いかえれば、その頃までは少なくともほとんど純粋のアマチュアの立場で、オーディオを楽しむことができた。アンプを自分で設計し組立てていたのは前述のようにそれよりさらに10年以上前の話なのだから、要するにアマチュアのひとりとして、アンプを自作することを楽しんでいたことになる。費用も手間も時間も無制限。一台のアンプを、何年もかけて少しずつ改良してゆくのだから、こんなにおもしろい趣味もそうザラにはない。

最新セパレートアンプの魅力をたずねて(その2)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より

     *
 アンプの設計者には、どちらかといえばプリアンプに妙味を発揮するタイプの人と、パワーアンプの方が得意な人とに分けられるのではないかと思う。たとえばソウル・マランツは強いていえばプリアンプ志向のタイプだし、マッキントッシュはパワーアンプ型の人間といえるだろ。こんにちでいえば、GASの〝アンプジラ〟で名を上げたボンジョルノはパワーアンプ型の男だし、マーク・レビンソンはどちらかといえばプリアンプ作りのうまい青年だ。
 で、わたくしはといえば、マランツ、マーク・レビンソン型の、つまりプリアンプのほうにより多くの興味を抱くタイプだった。だった、といまうっかり過去形で書いてしまったが、この点はたぶんいまも同じだ。いや、少なくともごく最近まで、そうだった。
 パワーアンプは本質的にフラットアンプで、決められたインプット(入力電圧)に対して必要な出力をとり出す。そのプロセスで、入力は型をできるだけ忠実にそのまま出力端子まで増幅すればそれでよい。これに対してプリアンプ(コントロールアンプ)は、フォノ入力のようなミリボルト級の微小電圧と、チューナーまたはテープデッキの少なくとも0.1ボルト級以上の入力とを交通整理しながら、フォノ入力に対してはイクォライザー、そして必要に応じてトーンコントロールやフィルター、ラウドネスの補整、さらにモードスイッチやバランス調整……というように、数多くの複雑なコントロール機能を巧みに配置しなくてはならない、という制約が数多くあって、それはまるで、厳格に法則の定められた複雑なパズルを解くに似た難しさ、それゆえの汲めども尽きない面白さがある。回路のブロックダイアグラムを何度も作り直しては、細部の設計と計算をくりかえす。それこそ、一年や二年ではとても理想の回路には到達できない。実際に製作に着手する以前のそうした設計自体が、何とも興味深い頭脳プレイであるために、一旦この楽しさにとり憑かれたら、容易なことでやめるわけにはゆかない。昭和二八〜九年頃から、専らこのおもしろさに惹きつけられて以来、前述のように三十年代の半ばすぎまでは、プリアンプのブロックダイアグラムを、回路のディテールを、何百枚書き直したことだろう。
 プリアンプのもうひとつのおもしろさは、これはいわゆる〝回路屋さん〟一本槍の人にはわからない部分だが、全体のシャーシコンストラクションと、パネル面のファンクションの整理、そのためのデザイン、といった、立体的かつ実際的な部分をあれこれ考える楽しさもある。わたくしなど、そのことのほうがおもしろくなってしまって、それが高じてインダストリアルデザインを職業に選んでしまったといってもいいくらいだ。

最新セパレートアンプの魅力をたずねて(その7)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より

 少し前、これはテクニクスの石井伸一郎氏だったか、それともラックスの上原晋氏から伺った話だったか、ちょっとそこの記憶があいまいだが、おもしろい説を伺ったことがある。それは、こんにちのオーディオアンプは、その最先端では、こんにちの電子工学のほぼ最高の成果をいち早くとり入れて作っているが、その点で、そのオーディオアンプを測定する測定器自体も、アンプの技術水準以上のものであるわけがない。むしろ開発の早いオーディオアンプのほうが、電子工学的には測定器を上まわっているというのが現実ではないか。そうであるのなら、と、ここからは石井氏の説になるが、アンプがアナログ増幅器である以上、測定器もアナログで追いかけていたのではナンセンスではないか。S/Nも、歪も、周波数レインジも、アンプと測定器とが同格の性能であるなら、どうしても、ディジタルその他の全く別のテクノロジーを、測定技法に導入しないかぎり、アンプの動作状態をいま以上に精密に分析することは不可能なはずだ、という説である。
 このことに関連して思い出すのはもうひとつ別のあるメーカーの技術社の話で、それは、こんにちのアンプが右のような段階にある以上は、そのメーカーとしては、ある意味で頼りになりにくい聴感を頼りにしてアンプの開発をするという手法を一旦捨てて、アンプとしてあるべき理想の姿についてひとつの仮説(理論)を立てる。その理論は、進歩の時点時点で少しずつ修正しなくてはならないかもしれないが、測定できる部分は測定で、また測定不可能の部分はその時点で最良と思われるひとつの仮説(理論)にもとづいて、あるべき姿に近づけるべく改良を加えてゆく。その改良のプロセスで、仮に、聴感上どういう結果になろうと、いつかその仮説の十全に具現できた暁での音質の改善を信じてアンプを改良してゆく、という話なのだ。抽象すぎてお分かりにくいかもしれないが、それはこういうことなのだ。
 アンプを改良してゆくプロセスで、ある段階でたしかに音がよくなってくる。だが、そこから次の段階に進んだとき、理論的には明らかに進歩であるはずなのに、聴感上はどうも改良以前のほうがよかった、というような結果の出ることがよくある。問題はここからなのだが、仮ににそういう結果の出たとき、その理由のはっきり糾明されるでは、中途での改良をやめて元に戻すというのが、一般的に言って商品づくりのうまさであり、また、ユーザーにとってもそのほうがいいはずだ。
 だが、右の技術者はそうではない。ひとつの理論が正しいと信ずるに値するかぎり、というよりその理論が違っているという証明のできないかぎり、正しいと信ずる理論にしたがって、アンプの音をその方向に修正する。仮にその音に、以前にくらべてかえってよくない部分が出てきたとしても、めれはもしかしたらアンプ自体の問題でなく、スピーカーやプログラムソースやリスニングルームその他すべての周辺の問題まで含めての疑問であるべきで、周辺機器の矛盾をアンプに負わせるべきではないという説なのだ。
 まあ、こういう問題をあまりこまごまと紹介することは、かえって混乱を招くもとになるかもしれないのでほどほどにしておくが、あえてこうした問題にいくぶんのスペースをさいたのは、次項の、新型アンプの試聴の話を受けとめて頂く上で、アンプの開発がいまこういうシビアな段階にさしかかっているということを、知っておいて頂くほうがいいのではないかとの老婆心からである。

最新セパレートアンプの魅力をたずねて(その6)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より

     IV
 70年代に入ってもしばらくは、実り少ない時代が続いたが、そのうちいつともなしに、アメリカで、ヴェトナム戦争後の新しい若い世代たちが、新しい感覚でオーディオ機器開発の意欲を燃やしはじめたことが、いろいろの形で日本にも伝わってきた。ただその新しい世代は、ロックロールからヒッピー文化をくぐり抜けた、いわゆるジーンズ族のカジュアルな世代であるだけに、彼らの作り出す新しい文化は、それがオーディオ製品であっても、かつてのたとえばマランツ7のパネル構成やその仕上げの、どこか抜き差しならない厳格な美しさといったものがほとんど感じられず、そういう製品で育ったわたくしのような世代の人間の目には、どこか粗野にさえ映って、そのまま受け入れる気持にはなりにくい。
 そういう違和感は、音質面でも同様に感じられた。アメリカでは、前述の不毛の時期にたとえば大型のフロアータイプのスピーカーはほとんど姿を消して、大半が、手抜きの量産型ローコスト・ブックシェルフスピーカーになり果てていた。そういう手軽な音で育った若い世代たちは、とうぜんの結果として、かつての50年代の黄金時代にアメリカの築いたあの物量をぜいたくに投入した最上の音と、そういう音を鳴らした名器の歴史の大半を知らずに、ただ新しい電子工学の成果をオーディオに反映させているにすぎなかった。前項でもふれたマランツ、マッキントッシュ、JBL以降、マーク・レビンソンの出現までの、ほぼ5年以上のあいだに作られたアメリカのトランジスターアンプの音質に、ほとんど聴くべきものは何もない。まるでコンピューターのように感情を拒否するかのような、正確かもしれないが無機的な冷たさを持った音が、音楽の愛好家を感動させるはずがない。むろんそんな音をアメリカのアンプばかりが鳴らしていたわけではない。日本のアンプもまた、少し前の一時期は、そういうおもしろみのない音を鳴らす製品が多く、しかしそれでいながら、測定データが悪くないことを理由に、設計者側はその音のどこかおかしいという我々の意見をみとめようとしない時期があった。
     *
 アンプが電子工学の産物である以上、アンプの音質のちがいを、できるかぎり科学的にとらえ、解析してゆきたい。けれど現実にアンプの研究を続けてゆくと、実際にスピーカーをつなぎ、レコードをかけて聴いたとき、確かに誰の耳でも聴き分けられる音色の変化を生じる。ある一ヵ所の配線を変えると、音が変ることがわかる。近ごろは、コンデンサーや抵抗一本でも、同じ数値で別のメーカーの、あるいは同メーカーでもタイプの違うものを交換すると、聴きくらべたとき確かに音の違うことが知られはじめている。配線一本でも、アースのとりかたを一ヵ所かえてでも、音の変化の聴きとれることが多い。けれどその差を測定で掴もうとすると、最新・最高の測定器をもってしても、どうしても差があらわれない。耳では明らかに聴き分けられる二つの音色の差が、測定にはあらわれてこない。メーカーがアンプを設計する場合、結局、その段階になると、数人の耳の良い担当者が、聴きながらパーツを交換し配線を変更し、少しずつ音を改善の方向に向けながら製品としての完成度を上げてゆくといった手段に頼らざるをえなくなってくる。マーク・レビンソンと数年まえに話をしたときにも、彼もまたそういう手法でアンプを市販まで漕ぎつけるのだと言っていた。

最新セパレートアンプの魅力をたずねて(その5)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
特集・「いま話題のアンプから何を選ぶか」より

 わたくし自身はそのころ、マランツ7でなくJBLのSG520に切りかえはじめていた。JBLのアンプは、はじめSA600を聴いた。オーディオ仲間のある男がSA600の音をもの凄いというので、当時はそろそろ取材の名目で製品を借り出せるようになっていたから、早速借りてきたが、これがまさにマランツ以来の、そしてマランツ以上の驚きだった。そして、それはトランジスターアンプに初めて、真空管以上の可能性を見出させてくれた音、でもあった。なにしろ、何度もくりかえし聴いて隅々まで音を知っているはずのレコードから、いままで聴こえなかった細かな音、そしてそういう細かな音の聴こえてくることによって生ずる微妙な雰囲気、音の色あい、デリケートなニュアンスが聴きとれはじめたのだから、SA600を借りてきて最初の三日間というものは、誇張でなしに寝食を惜しみ、仕事を放り出して、朝から晩までその音に聴き耽った。
 一週間ほどで返却の期限が来て、我家から去ったSA600の音が、しかし耳の底に焼きついて、しばらくのあいだは、ほかのアンプでレコードを聴こうという気になれない。結局、借金をしてSG520+SE400Sを入手して、それがわたくしのメイン装置のアンプとして働きはじめた少しあとに、前記SS誌第三号のアンプテストがあり、そこでマッキントッシュのあの豊麗きわまりない、潤沢な音質の良さに陶然たる思いを味わったのだった。マランツ、マッキントッシュ、そして(アンプの分野では)新顔のJBLが加わって高級アンプのシェアを三分していた一九六〇年代半ば、マランツの音を中庸とすれば、音の充実感と豊潤さでマッキントッシュが、透明感と解像力の良さでJBLが、それぞれに特徴のある個性を聴かせた。そしてこの特徴は、一九七〇年代に入るまで続き、やがてJBLはコンシュマー用のアンプの製造を中止し、マランツは大手スーパースコープの経営する量産メーカーとなり、マッキントッシュはひとり高級アンプの分野で独走を続け、管球式のC22+MC275も、やがてトランジスター化されてC26、C28という二つの名プリアンプ、そしてパワーアンプMC2105で、名声を保ちつづけていた。だが、泥沼のようなヴェトナム戦争と法外な宇宙開発競争に明けくれるアメリカの荒廃が、オーディオの分野をむしばみはじめ、その後の目ぼしい製品が続かなくなってゆき、ちょうどその機を待っていたかのように、日本国内でも高級セパレートアンプの良い製品が、抄く誌ずつ台頭してきた。たとえばテクニクスの10000番シリーズ、パイオニアのエクスクルーシヴ・シリーズ、アキュフェーズやラックスその他──。だがそれにしても、かつてマランツが、マッキントッシュが、JBLが、それぞれ我々を感激させたのにくらべて、その後のアンプの新顔たちは、よくできてはいたものの、オーディオにのめり込んできた愛好家たちを心底驚かせるような凄みを持ってはいなかった。アンプの性能のゆきつくところは、せいぜいこの辺で終りなのか、というどこか寂しい気持にさせられて、オーディオの趣味からちょっとばかり醒めた気分を味わわされたのは、わたくしばかりではないと思う。