アナログ再生の愉悦

菅野沖彦

レコードリスナーズ アナログバイブル(ステレオサウンド別冊・1996年6月発行)
「アナログ再生の愉悦」より

アナログ再生の愉悦

 思い返してみると、僕は5世代にわたるレコードの変化を体験してきたことになる。今、僕の部屋の正面に、敬意を表して置いてある、ビクターの1-90という蓄音機で僕のレコード人生は始まった。1930年代後半である。ゼンマイをクランクで巻き上げて、ターンテーブルを毎分78回転で廻し、蝸牛のようなサウンドボックスに捻子で取りつけた鉄の針を片面3分ほどごとに交換して聴いたのがSPレコードの第1世代。レコードの録音は電気式の時代に入ってはいたが、この頃聴いていたレコードには機械式のものも混っていた。
 次が、電気式の蓄音機(俗にいう電蓄)で聴いた時代だ。これも、当時、父が買ったビクター製だ。16cm口径スピーカーと、2A5というヒーター電圧が2・5Vの5極管を使ったシングルアンプによるものだった。ターンテーブルは回転制御ガヴァナー付きダイレクトドライブ式のインダクション型モーター式で、ピックアップ(カートリッジとトーンアームが一体のもの)をレコードの縁にもっていくとスイッチが自動的に入り、ターンテーブルが廻り始め、演奏が終ると、ストッパーが働いて停止するという、当時としては夢のような(?)ものであった。もう、手でグルグル巻く必要はなかったし、巻きが不十分で、途中から回転が遅くなるようなこともなかった。この頃になると、鉄針だけではなく、竹針が現われ始める。片面ごとに捻子をゆるめて、針を新品に交換する鉄針と違い、竹の先端だけを専用の鋏で切り、何度も繰り返し使えるものである。この電気式録音再生時代が2世代目で、第2次大戦の1940年代まで続くことになる。
 家は爆弾で被害を受けたが、この電蓄は残ったのである。とはいえ、まともに音は出なかったし、終戦直後で部品などなかったのだが、音が聴きたい一心で、何とか四苦八苦してこれを修理したことが、僕のオーディオ趣味の始まりとなった。僕の高校卒業ごろまで、つまり1950年頃までのことである。
 次が、いよいよLP時代である。といってもモノーラルだ。電蓄の修理改造からオーディオにのめり込んだ、まさに病膏肓の時代である。そしてまた、足の踏み場のないほどあったSPレコードがLPに化けた、後世忘れられない時代でもあった。父が戦前から持っていたものに加え、戦後、中古レコード店巡りをして苦労して僕が集めたものも含め、SPレコードのコレクションはLPの新譜が出るごとに消えていき、ついにその数分の一か十分の一以下の量になってしまったのである。これは音楽量(?)の話であって、物量としては百分の一以下、つまり、1%以下にも減ってしまったのである。同じ30cm盤でも、SPは両面で約8分、それがLPでは40~50分であり、豪華な厚手の上製アルバムは薄く安っぼいジャケットに変り、さらにSPは値を叩かれ、LPは高い定価というわけで、価格差もついたからである。それでも、音キチといわれていたオーディオマニアの私は、その広帯域でノイズの少ない音に魅せられて、夢中になっていたのであった。多くの名演奏をも手放してしまったのだから、後々考えれば、音に目が眩んだとしか言えないかもしれない。今のアナログファンが、CDは小さくプラスティッキーで安っぼいというが、当時は今の30cmのアナログディスクが、同じようにSPファンを嘆かせていたのを想い出す。
 私にとって、その後、このモノーラルLPの時代が1960年の初頭ぐらいまで続くことになる。ステレオレコードの登場は、ご承知のように1957年である。日本では翌58年の発売だった。だが、僕のステレオ化はずっと後のことになる。SPからLPへの潔い転向だったが、モノーラルには執着し頑張り通したのである。その最大の理由は、当時絶好調であった自作システムにある。このシステムは僕の青春の象徴であって、長年の悪戦苦周と情熱の成果であった。かけた金額も時間も、僕にとって、もう2度とあり得ないと思えるほどのものだった。だから、そう簡単に、これとそっくり同じものをもう一組追加して2チャンネル・ステレオ化するなどということは、とうてい考えられなかったので、意地を張っていたのである。
 フィールド型磁気回路を持った30cmウーファー・ベースの4ウェイ6ユニットを、特注した桜の無垢材のコーナー型エンクロージュアに入れたスピーカーシステムは、これ以上はあり得ないと思えるほど僕の部屋に馴染んでいた。特殊な反射式の高域拡散型トゥイーターやスコーカーも、長年苦労した結果、部屋に作りつけのようになっていた。ネットワークにはオイル・コンデンサーをずらりと並べ、コイルも空芯の特注品。とても、その時期にもう一組というわけにはいかなかったのである。アンプも、改造につぐ改造を経たもので、最終的な仕様は、電源部、イコライザーアンプ部、パワーアンプ部、それにフィールド型ウーファーのマグネット励磁用の直流電源部などすべてを分離独立型とした大掛かりなものだった。
 ’60年代になると、当時、僕の仕事であった録音制作の業界も、完全にステレオ化したし、さすがにいつまでも意地を張っているわけにもいかず、ついに決意して、それらを全部捨てたのが1962年のことである。時代は自作からメーカー製へと移行したこともあって、その後の僕のステレオシステムは、すべてメーカー製コンポーネントによる構成となる。こうして4世代目のアナログ・ステレオディスク時代が現在まで続くのである。
 1982年に、僕にとっては第5世代目のディスクであるCDが登場する。しかし、このように僕の人生はほとんどアナログ時代とともにあったので、CDの登場は、長いオーディオ生活のおまけかご褒美のようにも感じられるのだ。SP時代から、長年アナログディスクで悩まされ続けたノイズや各種の不安定さからの解放が、そう感じさせたのであろうか?
 しかし、SPからLPの時のような音の改善とはとうてい考えられなかったし、あの時にSPをほとんど手放して懲りていたので、アナログディスクを処分することなどは全く考えなかった。それどころか、私が今使っている、トーレンスのアナログプレーヤーをCD時代になってから買ったほどである。
 したがって、今、アナログディスクの世界を楽しむにはソフト、ハードともに不足はない。だから、今アナログブームなどとことさらに強調されることが感覚的にぴんとこないのであろう。
 アナログディスクの、あの肌と心に直接タッチする音触(ミスプリではない、音の感触のような私が最近よく使う言葉)や温度感にはたしかにリアリティがあって、ディジタルはどこかおかしいと感じることがある。
 これを言い出したら大変だから、これ以上深く立ち入るのは避けるとして、別の角度から一つだけ言っておきたいことがある。それは、人の努力や技の差を鋭敏に反映するものでなければ趣味たり得ないということである。やればそれだけの違いが表われ、やらない人との差がつくものが人を熱中させるのだ。畢竟、人の才能と努力次第で上は天井知らずである。
 CD登場前夜にメーカーがディジタルオーディオのメリットとして前宣伝していたことは、この差が出ないことの一点張りだった。電子機器メーカーなら仕方がないとしても、オーディオメーカーを自認しながら何という馬鹿な! と感じたことを忘れない。趣味や遊びを解さない野暮な人間の集団であることを露呈したと思った。しかも、それが間違いであったのだから、何ともお粗末な話である。しかも、呆れたことに、その後ケロッとして、ディジタルオーディオも、機構の剛性や制振で音が変るなどと言い出した。
 現代のハイテクの使い方を見てもこの非見識がわかる。ただ小型軽量自動化という発想しかない。僕はゴルフをやらないから、あり得ない馬鹿らしい想像と笑われるだろうが、誰かが、精巧極まりないハイテク・ハイスピードのセンサー・コントローラーによるゴルフクラブを作ろうと言い出したらどうだろう? ホール・イン・ワン・ドライヴァーとでもいって、叩きさえすればプログラミングどうりに飛球するクラブである。実現可能だとしても、こんな企画はつぶれるはずである。そんなものが売れるはずはないと誰でも思うだろう。事実、もし売れたら誰もゴルフなどやらなくなるはずだ。
 ところが、これがオーディオでは実現してしまうのだ。そういう連中はアナログディスクの今の人気を、ある種の教訓と思うべきだ。幸い(?)CDは欠陥だらけであったし、音の違いも無くならなかった。音は計算より難しかったようである。人間の感性は知性より鋭敏かつ複雑微妙で、CDプレーヤーもオーディオ機器たり得たようで何よりである。
 アナログディスクとプレーヤーの世界は、人を熱中させる要素の塊のようなものである。アナログの歴史が長かったからこそ、古今東西でオーディオがこれほどの趣味の世界として発展したのではないだろうか?
 実はオーディオ全体の系の中で、プレーヤーの部分ぐらいは、ディジタルにより基準が確定的に安定したほうがいいと思う時もあるほど、この世界はファジーでロマンティック、言い換えれば厄介で曖昧な世界でもある。プレーヤーシステムの音の良さの条件で絶対的なのは、ターンテーブルの回転精度だけといってもよい。カートリッジもトーンアームも、そしてベースを含めた全体のマスの固有構造や物性も、その違いのすべては音に表われ、設計思想には唯一無二の客観的絶対性が存在し得ないといってよい。
 一言で言えば、この世界はスピーカーシステムとともに、必要悪が山ほどある。オーディオシステム全体にいえることであるが、特にこの両変換器では、問題点を微視的に漬すことに気を取られ、トータルバランスを損ねると決して良い音は得られないものだ。だから、使い方も含め、またとない趣味の対象になり得るのだろうと思う。専門家もこの世界の人は純粋で熱っぼく、仕事か趣味かが区別できない人が多い。それだけに「木を見て森を見ず」ということにもなる例が多いのである。まあ、趣味そのものが、広い視野や観念からすれば、そういうものであるかもしれないが。
 すべてが可視的な機械の動作は、直接的でスキンシップがある。電子のブラックボックスには、その感覚は求めにくいようである。取り扱いが面倒な半面、これがレコード演奏行為の実感につながるのである。人の癖にも、流儀にさえも順応するのが魅力的である。
 つまり、人間に暖かく親しめるものなのであろう。

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