「音は人なり」を、いまいちど考える(その30)
五年前に、別項で書いたことを思い出している。
2008年だったか。
菅野先生が「痴呆症になった時の音に興味がある」といわれた。
老人性痴呆症になったときに、自分はどういう音を出すのか。それにいちばん興味がある、ということを話された。
痴呆症になってしまったら、音の判断もできなくなるだろうから、実際には無理な話だからこそ、この時の菅野先生の話は、いまも思い出しては、考えてしまう。
「音は人なり」という。
何度も、私自身、そのことについて書いてきている。「音は人なり」は、いろんな面を持っている。
時に「音は人なり」は、押しつけになってしまわないだろうか。
オーディオの勉強をして、いろんな音を聴いて、いろんな工夫をして音を出していく。
お金の工面もして、高価なオーディオ機器も手に入れたりする。
そういう行為を、何十年も重ねていけば、
経験が、知識が、ノウハウが、その人のなかに積み上っていくし、オーディオ機器もより良いモノへとなっていく。
でも、それは極まった、といえるのだろうか。
極まった時、「音は人なり」という押しつけは消えていくのではないだろうか。
五年前に、実のところ、そういったものすべてを捨て去って、つまり空っぽになって出てくる音こそが、ほんとうの「音は人なり」なのではないか、と書いた。
空(カラ)になった音──。
そこでの「音は人なり」もあるのではないか。
押しつけは消え、無私の境地となった音。
そんな音が聴ける日がくるのか、と考え目指すことが、すでにそこから外れていってしまうのかもしれないと思いつつも、
無私こそ「音は人なり」とも思えてしまう。