Category Archives: 筆者

アイワ AD-4200

岩崎千明

週刊FM No.15(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 金属の質感を強調した仕上げの、斜めに傾斜したパネル。いわゆる平量き型のカセット・デッキの今までのイメージから一歩前進したデザインは、すでにこの面で著名な商品があるのでオリジナル・デザインとはいい難いが、使いやすさと、まとまりの良さで成功しているといってよい。このAD4200の特長をずばり表わしている点だろう。
 シンプルながら録音用とは別に再生用のヴォリュームを独立させたり、テープ・セレクターにもイコライザー、バイアスをそれぞれ3点切換で使い方に広い幅をもたせ、音質に対する配慮に気をくぼっている点は4万円台のデッキとして丁寧な処置だ。
 ドルビーオンの際の高音特性の変化に対しても親切で、新しいLHテープに対してバイアスを大きめにとることもできるのも好ましい。
 決して広帯域とまでいかないのだが、それでもカセットのこの価格帯の製品としては、ひじょうにバランスの良い音だ。スッキリとした感じの、充実感ある録音で5万台以上の平均的なものとくらべても、ひけをとるまい。
 高品質カセットにありがちな低音の力強さの不足がまったく感じられない点が、もっとも嬉しい所だ。レヴェル・メーターが少々振れすぎるぐらいに録音する方が、この面でも有利なようだ。なおエジェクトの際にマガジンが静かにせり上るのはうまい。アイワの普及型中の傑作といってよい。

パイオニア CT-8

岩崎千明

週刊FM No.15(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 パイオニアのCT8はナンバーから推察すると当然CT9の弟分に相当するはずだが、外観からはほんの少しパネルの背が低いことを除くと弟分ではなくて凝縮型のマイナー・チェンジと思えるくらいだ。もっともこれを使ってみると、カタログ上の数字はともかく、すべての点で、まったく兄貴格と同じであることも知らされる。つまり、CT8は実質的性能の高い割安な最高級品といえる。
 軽く、しかも確実なタッチの操作レバー。豪華なレヴェル・メーター。扱いやすいスウィッチのテープ・セレクター、さらに例によって見やすく装填しやすい垂直型のマガジン。LEDのピーク・インジケーターも兼備する。扱いやすさと高級感に加えて、CT8の耳当りの良い音も、このデッキの特筆できる魅力だろう。
 カセットらしからぬ広帯域感。単なるフェライト・ヘッドなどではなく回路を含めての設計のうまさだろう。低音の豊かさがよく出てるし、聴感的にヒスの少ないのも使いやすさに大きなプラスをもたらしているだろう。
 ドルピーの際のヒスの低減で、カセットらしさはまったくなくて、実用上、オープン・リールにもくらべられ得るほどだ。カウンター・ゼロを記憶するメモリーは扱いやすく初心者にも容易に扱いこなせるのも新しい特長だ。

ビクター JA-S41

岩崎千明

週刊FM No15(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 ステレオの左右クロストークを改善するのに左右の電源トランスを分けるという従来の手段に対して、電流、電圧変動の大きくなる出力段を別電源とする新しいテクニックを採用して登場したビクターの新しいこのアンプは、その点、大成功を得たといってよい。少なくとも今、市場にある左右2電源方式にくらべて明らかに優れている。フォノ入力を片側外し普通の演奏状態で反村側のスピーカー端子のスピーカーを外して8Ωの抵抗を接いでおいて、フォノ入力のない側のスピーカーからの洩れを確かめればクロストークは誰にでも容易に確認できる。このように実際的に優れたステレオ・アンプとしての基本性能をそなえたS41は、クロストークだけでなく、パワーとか歪みにおいても今までのアンプの常識を完全に乗り越えた性能を持っている最新型にふさわしい強力アンプだ。
 さて、そのサウンドは中音の確かなる充実感に加えて、ややきらびやかで輝かしい広帯域感。それを支える力あふれる低音の迫力。重低域までよく延びた豊かな響きにこのアンプの実力の底力を知ることができる。ステレオ感の拡がりの十分な音場再生は、ノイズの少なささえもかもし出している。高域までクロストークの良い特長がホワイト・ノイズの音像を拡散しているためだろう。
 ロー・レヴェルのこまやかな音の美しさはビクターのアンプの共通的特長だが、この点でもS41は一段と優れ、新型にふさわしい。

オーレックス FM-2000

岩崎千明

週刊FM No.8(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 アンテナなんていうものは特殊なんで今まで専門も専門、アンテナだけ作ってるメーカーの独占商品だと思ってたらなんと東芝が出したってわけ。なんでまた、というなかれキミ。オーレックスのチューナーは、国内製品はおろか世界中を見渡してもちょっと例の少ないシンセサイザー・チューナー。それも周波数デジタル標示だよ。スゴイネ。これだけのチューナーを出してりゃどんなアンテナをつけたとき本領を発揮してくれるんだい、とユーザーからいわれるにきまってる。だからFM2000なのだ。つまり、このアンテナをつけさえすれば、スゴイチューナーが一層スゴイ性能を出せるっていうものさ。
 しかし、FM2000、いままでのがらばかり馬鹿でかいFMアンテナとは違って、キミの手を拡げた時よりもひとまわり小さいくらいだ。だからといって、テレビ用を代用してるのと違って、ちゃんとしたFM専用なのである。つまりFMバンドの全域に対してほぼ同じような感度を得られるように作られている。確実にひとまわりは小さくまとめてあって、全体がすごく軽い。だから今までのように大げさにならず、どんな場所にも取り付けられるっていうわけだ。ちょっとやってみたけど、天井近くブームの一方を片持ち式に取り付けても軽いからビクともしない。チューナー付属のフィーダー・アンテナの時に苦労するステレオ放送でのノイズっぽさが驚くほど直る。

トリオ KT-7700

岩崎千明

週刊FM No.8(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 昔からチューナーはトリオっていわれてきたんだから、今度の高級品KT7700、悪かろうわけないよってなことをつぶやきながら、ケースから取り出して机の上にどんと置いて、やっぱりため息が出ちゃう。この新型は、とてもいいのだ。無駄な飾り気や視覚的夾雑物がない。つまり、あくまで機能本位でまとめられたパネルが実にすばらしく、さすがにチューナーのベテラン、トリオの最新型といえるほど外観的デサインの完成度の高さ。こりゃきっといい音がするぞと期待。プリ・アンプにリード線をつなぎ、付属のフィーダー・アンテナをちょいとつけて……またぴっくり。感度の高さ、調節のしやすさ。ダイアル・ツマミのタッチなど「いかにも高級チューナーの手ざわりが、スムースな回転とダイアル指針のすべるような働きではっきりと知ることができる。しかもメーターの針の動きがアンテナの高さに応じるようにシグナル・メーターが振れ、センター・スケールの同調メーターも、中点を中心としアンテナ入力に応じて左右に大きく振れるので、正しい中点を確実に探し出すことができるのだ。ダイアル目盛が長く、しかも等分目盛なので同調点を正確に求めることができる。
 かなりほめてしまったがまだ足りないくらいなのが「音」だ。力強くぐいぐいと量感もあって、しかも鮮明さを溢れるほど感じさせる。

ソニー TC-2140

岩崎千明

週刊FM No.8(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 パッケージから出したTC2140、そのやや小ぶりの大きさからも間違いなく普及型。だけど、それが実にいいんだなあ。本当。いや味がないどころか、とってもスッキリしていて安っぼいところが全然ないし、よくありがちな飾りだてがなくて、すごく好感を持てる。つまりセンスがいいのだっていうわけ。
 これだけ洗練されてると、もう中味の方だって大体の所いい線いってるものだ。早速つないで音を出してみようってわけで深夜のFM、弦楽器をやってたのだが、ちょっとびっくりしたのだ。弦てやつは割にワウ・フラッターが出やすいのに全然だ。弦の高音域は歪みをもろに出しやすいというのに、歪みっぽさや汚れた感じがないのだ。ピアノの響きにも少しのふるえもないし、タッチのビリつきもない。
 念のためモニター・スウィッチを切換えてみて直接放送とテープに録音したのとを瞬間切換で聴きくらべた。ここでもう1度驚いたのだ。これ本当に普及型なんだろうね、なに39、800円? へえ本当? だってこのスッキリした音、これで録音した音だよ、ほら放送でもあんまり変わりやしないじゃない? でもなんとなく放送の方が低音ののぴがいいかな。それではテープを高級なテュアドに変えてみよう。あっ俄然すごい。低音の量感はぐいと溢れる変わりよう。ね、切換えても放送直接と録音とどっちだか判らないくらい。驚いた。

ソニー PS-4300

岩崎千明

週刊FM No.10(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 かつてサーボモーターで圧倒的勝利を収めたソニーがクオーツロック以来、昔の実績をとり戻さんと強力なプレイヤーをデビューさせた。PS4300はDDモーターをベースにしたフルオートマチック・プレイヤーだ。現代的な高級プレイヤーの条件ともいえる軽針圧はもはや平均的な人間の指先の感覚では扱い切れずこの数年、各社からの新型の中心はフルオート全盛となった。ソニーお得意のエレクトロニクスによるサーボがゆきとどいていて、操作ボタンさえ触れるだけのワンタッチ・エレクトロ・スウィッチ。もっともこの羽根タッチそのものが必ずしも良いことばかりではなくて、かえって動作の不確実さを招きかねないのは皮肉。ボード上面でなくケースの前に位置させて誤タッチを避けているのだが、馴れないうちはそれでも操作させる意志がなくても触れてしまうのは赤い小さなランプがちらちらとつくせいかしら。この辺が狙ってるはずのイメージをぶちこわしてるのでは……。動作はまず満点に近い正確さ。ストップさせてから実際動作にちょっと間がありすぎる気がするが、手で直接アームを動かしてもメカとしては何ら差支えない点はいい。できれば5万台ともなったら、4万円と違い実用性能本位1点ばりでなく明らかな高級感が欲しいけど無理かな。アームはまあまあ、カートリッジは使いやすいがこれも価格帯相応の程度。

サテン M-18BX

岩崎千明

週刊FM No.10(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 今まで、何回となく、こんなによくなった、というメーカーの言葉ほどには変わりばえのなかったサテンのMC型。扱いやすさの点で確かに11型になったとき格段の向上をみせて以来、もっとも大きく音の良さを獲得したのがこのM18ではないだろうか。
 少なくとも、豊かさという点で、どうしても突破れなかったサウンドはM17あたりから、かなりはっきりした変わり方で、今までにない「大らかさ」を音楽の中に加えてきている。そして、サテンでは初めてベリリウム・カンチレバーを作ったのがこのM18BX。もともと、くっきりした繊細感という点では、ひ弱な繊細感の多い国産品の中で目立った存在だったサテンだが、中域から低域にかけての力強さが、はっきりと感じられるようになったのははじめてだ。特にBXはその力強さの点では、かつてないほどの迫力を発揮してくれるのがいい。サテンの場合、針圧の許容範囲の点でクリティカルなのが弱点ともいえるが、それも次第に確実に改良されて向上を重ねてきたのも見逃せない。
 カートリッジ自体の重量の重いのは相変わらずだが、あまり極端な軽針圧用アームさえ避ければ十分に使える。ただこれに変えると必ずアームの水平バランスをとり直さねばならない手間が加わる。しかしMC型としては驚くほど出力が大きく、トランスやヘッド・アンプは不要なので手軽だ。

テクニクス RS-678U

岩崎千明

週刊FM No.10(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 試聴用に送られて来たというのに、ケースのふたをあけて、黒いパネルに例のハンドルのついたパネルが、ちらっと顔を出すと胸がドキドキして来るくらいだから、これを買ったのなら、そして自分でフタを開けたのなら、さぞかし、どんなにか、うれしいだろう。このふくらみすぎる位の期待を、少しも裏切らずに十分の中味と、聴きごたえのある、カセットらしからぬ音を出してくれるのが、このRS678Uだ。
 操作ボタンが、ありきたりの配置に変わって、だんぜん使いやすく、ビギナーにもマゴつかせない。タッチのスムースさも文句ない。カセット・ハウジングにねかせて着装するテクニクスのオリジナル方式の手なれたためか、ミラーの角度もいいせいか、走行状態もよくわかる。
 たいへんにスッキリと澄んだ音で、細やかな音のディテールも良く出るし、なによりも広帯域で、おそらく誰もが、だまって聴かせたらカセットとは気がつくまい。中低域の厚みがちょっぴり加われば、オープン・リールにも匹敵するだろう。しかし、これはアンプのラウドネスかトーン・コントロールで補正すればすむ問題だ。パネル・デザインのあつかいやすい配置と、操作類のまとめ方、ピーク切換もできるメーターも、小さいながら見やすく.センスのいいまとめ方だ。

ソニー EL-5

岩崎千明

週刊FM No.19(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 少なくとも基本的な性能のすべて、それにサウンドのすべては、はるかに高価な20万円近いEL7に匹敵する。それなのに、価格の上で60%にすぎないというのだからいかに効率の高い実用価値を持った製品であるか、ということがわかるだろう。まさに、このEL5の登場によって、本格的にエルカセットの道は開かれたといってもよかろう。
 外観の上では、テープ・セレクト・スイッチと、録音レヴェルのためのヴォリュームつまみがいくつか減っているのを除けば、兄貴分のEL7と変わらない。それどころか、テープ・マガジンのまわりの操作ボタンを含め、一切がまったく同じであって、むろん、その走行メカ・ニズムは、すべてEL7とまったく同じなのである。むろん、走行性能から扱いやすさについても、まったく同じであるのは.価格を考えると、信じられないほどだ。リヴァースからプレイへ、あるいはリヴァースから早送りへの直接切換という荒っばい扱いに対しても、まったくスムースに、なんらさしさわりなく動作してくれる大きな特長も失われてはいない。EL7に比べて大きなただひとつの違いは、3ヘッドから2ヘッドになった点だ。しかし、少なくとも録音された音に関しては、その違いを聴き出すことは、音楽では至難の業だ。
 パワフルで、輝かしく、粒立ちのよい音は、さすがカセットとは格段の違いだ。これでやっとエルカセットもファンが増えよう。

ソニー EL-7

岩崎千明

週刊FM No.13(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 エル・カセットという名づけ方がうまい。それにサウンド・クォリティもカセットより格段上だ。むろんS/Nだって断然いいし、ヒスもオープンなみに少ない。つまりこれはたいへんなものだ。カセット以来の大飛躍といえる。それに、このEL7、この革命的な新システムをいかにもマニアの期待に応えたメカとして完成させてある。この走行ぶりは、もはやカセットと呼ぶ水準をはるかに越えている。オープンなみの重厚さ、完ぺきさで、ただ、見てるだけで「高級デッキ」だなあと溜息が出てくるほどだ。音だって、カセットと比べる範囲を遠く越えた、つまり、どこからみても、これは、ずばぬけた魅力を満々とたたえた新製品で、マガジンを見ただけではとても想像できないエル・カセットのすばらしきの象徴ともいえる。
 だからあえていいたい。あまりに高すぎる。オープン・デッキの3ヘッドだって10万台であるんだから。せめてカセットの高級品なみだったら、このEL7を買って、カセットを止めちまおうと考えるファンも少なくないだろう。この僕だってそう思ったくらいなのだから。良いから高いのだという理屈は、こうした新しい「システム」のスタートでは通らないのではないか。それにしてもイイ。文句なしだ。低音の豊かさ、厚さはオープンなみ。S/Nだって高域の帯域だってそうだ。むろんステレオの定位の良さは、ちょっと聴くだけでその差があまりに大きいのでカセットを聴くのがいやになってしまうくらいだった。惜しい。

私のオンキョー観

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・オンキョー」
「私のオンキョー観」より

 真っ先に思い出すのは、ツヤのある黒いエナメル塗装のフレーム。黒地に白抜きで ONKYOと書いた円形のネームプレート。
 例の「オンキョー・ノンプレスコーン・スピーカー」である。
 例の……などと書いても、最近の読者諸兄には殆どご縁がないと思うが、昭和二十年代のはじめからラジオを組み立てていた私たち(というのは、同じこの欄に書いている筈の菅野、井上各氏ら、同じ頃からラジオをいじりはじめた同世代の人たち)には、懐かしいデザインであり、あの時代を思い起こすシンボルのひとつとして、やはり大きな存在だったと思う。
 ……といっても、当時のオンキョーのスピーカーが、私のオーディオ・システムの中にとり入れられたことは一度もない。オンキョーの六吋半や八吋(わざと古い当時の言い方をするのは、この方が何となく実感があるという私の独りよがりだが)は、もっぱら知人や親せきを廻って注文をとっては、小遣いかせぎに組み立てるラジオ(当時流行りの5球、6球のスーパーヘテロダイン式ホームラジオ)や、ときたま依頼のある電蓄に使った。
 サンスイ号のこの欄ですでに書いたことと重複するが、オンキョーの黒塗りのフレームとサンスイの青いカヴァーのトランスは、当時のパーツの類の中では中の上といった格づけだったから、あまり安もののラジオには使うわけにはゆかない。予算のたっぷりあるときにかぎって使ったが、「低音のオンキョー」と定評のあったように、素人にわかりやすい重い低音が好まれた。また、当時のラジオは裏蓋に大きな通風孔のあいたベニヤ板だったから、裏を返せばスピーカーの背面も、真空管や電源トランスやIFTやバリコンや……要するに舞台裏がそっくり眺められ、街のラジオ屋さんがひと目みると、「ははあ、山水のトランスに大阪音響のスピーカーが使ってありますなあ。これはずいぶん良心的に組み立ててあります」ということになる。組立てを依頼する相手が素人だから、ピンからキリまでのパーツのどれを選ぶかでいくらでも誤魔化すことができて、中にはあくどいアルバイトもあったらしく、そういう意味でもオンキョーのスピーカーを使っておくことは、当方の信用にもなって具合がよかった。
     *
 オンキョーのスピーカーは、そんな次第で何となく高級ラジオ用パーツ、といった印象で私の頭の中にあったが、あれはオーディオフェアの第二回か第三回だったろうか。オンキョーから突如として、15インチの大型ウーファー(W15)と、ホーン・トゥイーター(TW5)が発表された。
 東京駅八重洲口近くの、呉服橋角にあった相互銀行ホールでのデモンストレーションには、W15をゆるくカーヴしたフロントホーンに収めたものがステージに載っていたと記憶しているが、鳴っていた音のほうは、もうおぼろげな印象のかなたに埋もれてしまっている。だがそれよりも、当時のオーディオパーツの中では、ウーファー、トゥイーターとも目立ってスマートな製品だったことが、強く焼きついている。その後のオンキョーのユニットの中でも、最も姿の良いパーツではなかったろうか。
 私同様に〝面喰い〟の山中敬三氏は、それからしばらくあとになってこのW15を購入し、自家用のシステムに使っていた。当時JBLの150-4Cや130Aの素晴らしいデザインにあこがれながらあまりにも高価で手が出ずに、形のよく似たW15を買ったのは、ライカが買えずにニッカやレオタックスであきらめていたカメラマニアの心理に似ているのかもしれない、などというと山中氏を怒らせるだろうか。
     *
 昭和三十年代の約十年間は、私の記憶の中でオンキョーの名は空白のままだ。ステレオサウンド誌の創刊された昭和41年の秋、「暮しの手帖」が小型卓上ステレオをとりあげたとき、オンキョーの名が突然のようにクローズアップされるまで、その空白は続いた。
 昭和42年になって、オンキョーが久々のハイファイスピーカーE154Aを完成させてオーディオ界に返り咲いたとき、全国を縦断するコンサートキャラバンの企画が持ち上がり、それに随行する解説者として、故岩崎千明氏と私とが名指しを受けた。いまふりかえってみると、ずいぶん珍道中があったが、私はおかげさまで日本じゅう、初めての土地をずいぶん楽しませて頂いた。どこのホールでだったか、アンケートの中に「きょうのアナウンサーは解説がへただ」などというお叱りがあったり、どこか学校の講堂を借りてのコンサートでは、開演中にステージの前で学生が鬼ごっこをはじめたり、ずいぶんふしぎなオーディオコンサートではあった。
 昭和43年に完成したブックシェルフ型のF500は、さすが! と唸る出来ばえだった。とても自然なバランスで、いつまで聴いても気になる音がしない。その後のシステムの中にも、こういう音は残念ながらみあたらない。あのまま残して小さな改良を続けながら生き永らえさせるべきではなかったかと、いまでも思う。
 インテグラ・シリーズのアンプが発売されたのは昭和44年だったろうか。当初の701以下のシリーズのすべて、とても手のかかった仕上げの美しいパネルと、いやみのないデザインは、いまでもその基本を変える必要のない意匠だったのにと思う。パネルのヘアラインに、光線の具合によって、熱帯魚の尻尾のような光芒が浮かぶのは、マランツ7以来、パネルの仕上げに手をかけた数少いアンプとして、こんにちでは珍しい。
 ただ、このアンプの音のほうは、どうにも無機的でおもしろみがなくて、そのことを言ったために設計のチーフの古賀さんからは、長いことうらまれていたらしい。
 その音質も、♯725を境にして、♯755でとてもナイーヴなタッチを聴かせはじめ、722MKIIでひとつの頂点に達した。たしかに音の力づよさ、あるいは切れ味の明快さ、といった面からは、いくぶん弱腰でウェットだという感じのあったものの、音の繊細さ、弦や女性ヴォーカルのでのなよやかな鳴り方は、722/IIでなくては聴けない味わいがあった。
 その後のプリメインアンプでは少々音の傾向を変えはじめて、722IIの味わいはむしろセパレートタイプのP303/M505の方に生かされはじめたと思う。ただ、303、505のデザインの、どことなく鈍い印象が、この意外に音の良いアンプのイメージをかなり損ねているようだ。
 最新型のP307、M507で、オンキョーのアンプはまたひとつ

私のソニー観

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・ソニー」
「私のソニー観」より

 フェアチャイルド──といっても、もうそろそろ話が通じにくくなっているが、モノーラルLPの時代に、世界最高、と折紙のついていたのが、アメリカ・フェアチャイルドのムーヴィングコイル型カートリッジで、昭和30年(1955年)といえば、やがてステレオLPの誕生を迎えるモノフォニック再生のいわば爛熟期で、フェアチャイルドもすでに♯220型から♯225型を経て、モノーラル最後の名作♯230型になっていたかどうか……。古いことなので記憶が正確でないが、ともかくその、モノーラル時代最高のカートリッジと、ブラインドで一対一の聴きくらべをやろうというピックアップなら、相当の自信作であったろうことは想像に難くない。
 フェアチャイルドの♯200シリーズは、コイルの巻芯が磁性体で、発電効率は高いがいわゆる〝純粋〟のムーヴィングコイルではない。この点、ステレオ時代に入ってから名声を確立したオルトフォン・タイプの先鞭をつけた製品と言ってもいいだろう。ピュリストにとっては、鉄芯入りのムーヴィングコイルタイプなど、MCと呼んでさえ欲しくないということになるのだろうが、現実には、モノ時代のフェアチャイルド、そしてステレオ時代に入ってからのオルトフォンとそれを基本にしたこんにちの多くのヴァリエイション、それが四半世紀以上も生き永らえているという事実をみれば、やはり何らかの強力なメリットのあることが伺い知れる。
 このフェアチャイルドをほとんどそっくりイミテーションしたカートリッジが、かつて電音(いまのコロムビアでない三鷹の日本電気音響KK)が、放送局用に開発したPUC3シリーズだったが、そのことをくわしく書いていると本題から外れてしまうので、話をもとに戻していえば、このフェアチャイルドに対して、MI型のピカリング、それにVRタイプのGE、という〝御三家〟が、モノ時代のピックアップの強豪であった頃、アメリカにウェザースという小さなメーカーがあって、高調波変調・検波式のコンデンサー・ピックアップを作っていた。このメーカーの初期の製品のデザインをそっくりイミテーションしたのが昭和高音、のちのスタックスだ。デンオンもスタックスも、とをたどればこうしてイミティションからスタートし、次第に独自の創造を加えて今日に至ったものだが、これは〝戦後〟の日本の産業のすべてのたどった道でもあった。
 この、ウェザース=スタックスの高調波に対して、直流式のコンデンサー・ピックアップに挑んだのが、こんにちのSONY、当時の東京通信工業(東通工)だった。まだエレクトレットの開発以前のことで、電極には高圧をかけなくてはならず、絶縁材料をはじめとして素材の良いものも入手や開発の困難な時代には、相当に勇気の要ることだったはずだ。にもかかわらず、それを一応の製品に仕上げて、関係者を対象に発表したのが、不確かな記憶をたどってみると昭和30年の晩春か初夏の頃で、日本オーディオ協会(JAS)の例会の形で、品川の東通工本社の一室で公開試聴会が催された。そのとき、東通工が選んだのが、フェアチャイルドとのブラインドによる一対比較という、大胆な方法だった、という次第。
 日本のオーディオ界の、まだ黎明期のようやく明けて間もないこととて、中島健造氏(JAS会長)や、当時の東通工社長井深大氏も、おおぜいの会員と肩を並べて試聴に臨んでおられた。が、実のところどう記憶をたどってみても、私には、その夜の音をもはや思い起すことができない。というより、フェアチャイルドとくらべてどういうふうに音が違ったのか、全く記憶がない。ただ、カーテンを下ろした向うに試聴装置があって、赤と緑のランプによって、A、Bのピックアップが切り換わったことが示されて、あとで東通工が緑、フェアチャイルドが赤、と発表されたとき、全員のあいだで、緑よりも赤のほうが視覚的に歪を感じ、あるいは劣性な色であるから、視覚心理上は緑のほうが音が良く感じられるのではないか……などとおもしろい議論がたたかわされたのをおぼえている。そういうことを別にすれば、私個人の場合、その夜の試聴に限ったことでなく、おおぜいの集まる場所で、どんなふうに音を聴かされても、本当のところは良いも悪いも判別がつかない。公開の発表会や試聴会で、あてがいぶちの試聴室や装置や偶然坐った席や、先様まかせのプログラムソースや、人さまのきめた音量レヴェルなどでは、判定をしないことにしているのは、こんにちに至るまで全く変っていない。
 このコンデンサー・ピックアップは、私のオーディオ及び音楽の聴き方に多大な影響を与えてくださった大先輩である今西嶺三郎氏が、自家用に購入されたものを、あとからじっくり聴かせて頂いた。今西氏もすでにフェアチャイルドを愛用しておられたが、それとの比較では、私には、どうしてもフェアチャイルドのほうが聴きごたえがあった。東通工はたしかに歪が少なくトランジェントも良いようだったが、反面、レコードのほこりに弱く、湿度や温度などの環境にもひどく神経質で気まぐれだった。私自身がひどく気まぐれな性分なので、よけいに気まぐれな製品を嫌うという傾向もある。
     *
 そんなことはどうでもよいが、こんないきさつから、私にとっての東通工──ソニーのイメージは、まずピックアップからはじまった。そのことはさらに後になって、昭和40年当時、TTS3000というベルトドライブのサーボ・ターンテーブルを自家用にしばらく使った体験が、いっそう、ソニー=プレーヤー……という印象を強くさせる。
 ソニーといえば、東通工時代からテープレコーダー(東通工ではテープコーダーという商品名を創作して、これはずいあとまで、いわゆる文化人の類いまでが、「テープコーダー」としゃべったり書いたりしていた)をいち早く開発し、トランジスターポケットラジオや、同じくトランジスター式の超小型TVなどを積極的に開拓していたことは、いまさらいうまでもない。そして、東通工のごく初期のテープコーダーの意匠デザイン(知久篤氏の作品)などは、のちに工業意匠(インダストリアルデザイン)を勉強することになった私に、多くの刺激を与えてくれた。が、私のオーディオ歴の中に、ソニーの製品が入りこんでいたのは、いまも書いたTTS3000と、そして同じときに開発されたアーム(PUA237)だけではなかったか。いくら記憶の糸をたどってみても、これ以外のソニー製品が、私の身辺にあったこと
は、ついぞない。
 それがなぜか、ということを、もはや残り少ないスペースで言うことは、多少の誤解を招くかもしれないが、こんなことではないかと思う。
 ソニーの製品は、昔から一貫して、みごとな合理精神に貫かれている、と私は感じる。かつて直流型のコンデンサー・ピックアップを開発した頃から、その姿勢は同じだ、と思う。ソニー製品には無駄がなく、つねに理詰めで、それ故に潔癖性だ。一方の私という人間は、さっきも書いたように気まぐれで、ずぼらで、怠けて遊ぶことが大好きで、およそ勤勉の精神に欠けている。そういう私からみると、ソニーのオーディオ製品は、あまりにも襟を正していて、遊びやゆとりの心の入りこむ余地が、少なくとも私にはみつけられない。ソニー製品を愛用している人たちまでが、とても近寄り難い真面目人間にみえてしまう。マッキントッシュの豪華・豊麗、そしてアルテックの豪放磊落が私の趣味に合わないのと正反対の意味で、ソニーの折目正しいエリート社員ふうの雰囲気は、結局私のようなずぼらには入り込めない世界なのではないか、といささか拗ねている。

私のテクニクス観

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・テクニクス」
「私のテクニクス観」より

 こんにちのテクニクスの母体になったのが、20センチのダブルコーン・フルレンジスピーカーユニット8PW1だと私は解釈している。そういういきさつはこの本の中に詳しく出ているのだろうから、正確な年代などはそちらにまかせることにして、その8PW1のプレス発表会は、いまならホテルの一室かショールームの展示室でということになるが、そこが昭和20年代後半の当時の感覚なのだろう、なんと大森の料亭の広い座敷でおこなわれた。雑誌関係者を対象の発表会に私が列席していたのは、そのころ「ラジオ技術」の編集部員だったからで、オーディオ担当の先輩T氏のお供をする形で出かけた。まだ駆け出しの若造がそんな高級料亭に連れてゆかれたのは、あとでわかったのだがT氏の謀略で、その夜たぶんオイストラフか誰かの演奏会があって、T氏自身はあいさつがすむと、そうした場所でのふるまいかたもよくわからない青二才を残して、そそくさと逃げ出してしまったという次第。場所柄もわきまえず、よれよれのジャンパーを着込んだ若ものは半ば途方に暮れて、他誌のヴェテラン編集者のあいだに挾って、ただおろおろしているだけだった。実際そんな大広間をみたのは初めてだったので、そこで鳴らされた8PW1の音も良いのか悪いのか見当さえつきかねた。それが日本で作られた広帯域スピーカーの中でも歴史に名を残す、世界に誇れるユニットであることを理解したのは、もっとはるかにあとのことだ。
 8PW1の設計者である阪本楢次氏のグループが開発したユニットの中で、しかし私が最も好きだったのは同軸型2ウェイの8PX1で、これは自分でも好んで聴いたし、友人たちにも勧め、知人に頼まれて組み立てる再生装置にも使って喜ばれた。
 やがてテクニクス1の登場となる。「ステレオサウンド」誌創刊号をとり出してみると、表紙をあけたところのカラー折込みの大きな広告がテクニクスで、そこにはすでにリニアトラッキング・プレーヤーの100Pと、管球式のプリアンプ10A、そしてOTLアンプ20Aが、テクニクス1と共に載っているが、私には右のようないきさつから、テクニクスはスピーカーから始まったという印象がとても強い。その同じ広告の欄外には、すでにスピーカーシステムはテクニクス2から5まで揃っていることが載っている。そのあとまもなくテクニクス6も発売されているが、そのいずれもが、当時の国産としてはかなりの水準のできばえで、中でもテクニクス4が個人的には最も好きなスピーカーだった。
 テクニクス6以降は、なぜか設計陣が変ったため、〝スピーカーの〟テクニクスはその後しばらくパッとしなかった。スピーカーシステムばかりでなく、ユニットの方も、どうも悪い方へ悪い方へと走ってしまうように思えて、私は失望した。一時期、SB500というブックシェルフでちょっと良いスピーカーが出たと思ったが、量産に入ってからの製品はあまり感心できなかった。
「テクニクス6」まででこのネイミングが一時中断されたのは、設計ポリシイが変ったというのが主な理由なのだろうが、しかしラッキーナンバーの〝7(セブン)〟を、SB7000まで使わずにいたということは、テクニクスのイメージのためには幸いしたと私は思う。8PW1や8PX1の「ナショナル」ブランド時代をテクニクスの胎動期とすれば、「テクニクス1」から「テクニクス6」までが第一世代で、その次の設計グループが変った時期を第二世代といえるだろう。私見を加えていえば私にとってテクニクスの第二世代の時期は、いまふりかえてみても失礼ながらずいぶん廻り道をしていたように思えてならない。そして再び、かつて阪本氏の下で5HH17うはじめとして、おもにトゥイーターに名作を残した石井伸一郎氏をリーダーとして、いちはやくリニアフェイズにとりくんで成功させたSB7000以降が、再び栄光の第三世代と考えてよいだろう。「テクニクス7」のラッキーナンバーを、第三世代まで使わずにいたことは、半ば偶然なのだろうが、祝福すべき結果を生んだことになる。
     *
 いまもふれた石井伸一郎氏には、最初はアンプの設計者として紹介された。テクニクス10Aなどの管球アンプも良かったが、それよりも私の印象に強く残っているのは、最初のトランジスター・プリメインアンプ50Aの音質の良さだ。テクニクス50Aの出現で、私の自家用のアンプにトランジスターをとり入れる気持になった。これ以前の国産のトランジスターアンプは、いわばソリッドステートの開拓期の製品であっただけに、いわゆる〝石くさい〟、硬質で、ローレベルで粗っぽい、まるで金属のブラシで耳もとを撫でられるような不快さがあって、当時の私のように狭いデッドな和室で、スピーカーから2メートルほどの至近距離で聴かざるをえないような環境では、とうてい音楽を楽しませてくれなかった。その点50Aは、さすがに管球アンプでベストを尽くした上で、それに負けない音を目ざした石井グループの快心作だけあって、滑らかで穏やかで自然な音の美しさで満足させてくれた。
 先日、思い出して数年ぶりに50Aをぴっぱり出して鳴らしてみた。ここ数年来、また一段と進歩したトランジスターアンプの優秀な製品を聴き馴染んだ耳に、50Aがどう聴こえるか、とても興味があったからだ。旧い製品はどんどん捨ててしまう私が、愛着を感じて捨てきれずにいる製品が、ほんの一握りだけあって50Aもその中に入っている。
 久々に耳にした50Aの音は、さすがにこんにちの耳にはいささか古めかしく聴こえたが、進歩の早いトランジスターアンプの世界で、10年前のアンプが一応の水準で鳴ったのだから、やはり当時としてはたいへん優れたアンプといえたわけだ。
 まもなく10000シリーズという超弩級のアンプが生まれたが、その試作品を、BBCモニターLS5/1Aに接続して鳴らしたときの驚きは今でも忘れない。持主の私が気づかずにいたLS5/1Aの底に秘めた実力の凄さをはじめて垣間見せてくれて、このアンプが、私のモニタースピーカーに対する考え方を根本的に変える本当のきっかけになったといえなくもない。
     *
 こうしてふりかえってみると、私のオーディオ歴の中にテクニクスというブランドは、抜きがたい深さで根を下ろしているということに今さらのように気がついて驚きを新たにしているような次第だ。
 ところで、松下電器という「家電」メーカーのイメージを逃れるためと、大型企業の中で手づくりの一品制作に近いクラフトマンシップの良さを生かすために生まれた「テクニクス」というブランドも、いまでは少々成長しすぎて、この部門だけでもしかするとかつての松下電器ぐらいの大企業にふくらんでしまったのではないかと思えるほどだが、あまり大きくなりすぎて、かつてテクニクス・ブランドを創設したときのように、もうひとつ新しい手づくりセクションのブランドを作らなくては、などという時代にだけは陥らないよう祈りたい。
 しかしSB10000といいA1やA2といい、ふつうならもっと小さい規模の企業体でしか手がけにくい、おそろしく手の込んだ製品を、常に開発しつづける姿勢をみているかぎり、そんな心配は老婆心にすぎないのだろうと思う。これほど大きな企業体で、こうした超高級品を作れるというのは、おそらくあまり例のないことだと思う。高級品、といういい方は誤解を招きそうなので言葉をかえれば、大きな組織の中では往々にして個人の存在が抹殺されて、その結果が製品に反映して、無味乾燥な、あるいは肌ざわりの冷たい機械的な音になりやすいが、テクニクスの製品には、たしかに大掴みには大企業らしい印象があるにもかかわらず、どこかにほんのわずかとはいえ人間くさい暖かみが残されていると、私には受けとれる。これほどメカニズムに囲まれながら、人間臭さを大切にしたいというのが、オーディオという趣味のおもしろいところだと思うが、そこのところ、大企業でありながら失わないのがテクニクスの良さだと私は考えているし、これからもそうあって欲しいと思っている。

私のラックス観

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・ラックス」
「私のラックス観」より

 ラックスの社歴が50年という。私のオーディオ歴はせいぜいその半分を少し越えたばかりである。
 私がオーディオアンプを作りはじめたころ、ラックスのパーツは日本で一番高級品で通っていた。昭和二十年代半ばごろの日本の電子機器やパーツの性能は、世界的にみてもひどく貧弱なレベルにあった。割れたドブ板のあいだからメッキ工場の流す酸の匂いの洩れてくるような、うらぶれた町工場で作られたという感じが製品そのものにただよっているような、手にとっただけでアンプ作りの意欲を喪失させるような、いかにも安っぽい、メッキでピカピカ光らせていてもその実体は貧しく薄汚れているといったパーツばかりであった。そんなパーツがうそ寒くパラパラとならべられたウインドウの中に、ラックスの♯5432というパワートランスを眺めたときの驚きを、何と形容したらいいだろう。アメリカのアンプにさえ、こんなにきれいでモダーンなトランスは載っていなかった。
 完成品のアンプが売れるというようなマーケットはまだなくて、アンプが欲しければ自作するか作ってもらうか、海外から取り寄せるかしなくてはならなかった時代である。いまの秋葉原ラジオ街の前身、神田須田町を要として一方は神田駅寄りに、もう一方が小川町にかけて、八割以上が露天商で、残りの僅かがテンポをかまていた。その中でも数少ない高級品を扱う店に中島無線というのがあって、そのウインドウで初めて♯5432を見たのだった。よだれを流さんばかりの顔で、額をくっつけてみいっていた。ひどく高価だった。
 イギリス・フェランティのエンジニア、D・T・ウィリアムソンが、雑誌『ワイアレス・ワールド』に発表した広帯域パワーアンプが〝ウィリアムソン・アンプ〟の撫で話題になったころの話で、回路はそっくた真似ができても、パーツの性能、中でも、出力トランスの特性の良いのが入手できなくて、発振だの動作不安定で格闘していた時代に、ラックスはやがて〝Xシリーズ〟の名で素晴らしいアウトプットトランスを世に送った。トランス一個買うのに、当時の中堅サラリーマンの月給一ヵ月分が消えてしまうような高級品だった。これらのトランスと、真空管のソケットやスイッチ類がラックスの主力製品で、そのどれもが、ズバ抜けて高価なかわり性能も仕上げもよかった。昭和二十六〜二十七年以降、私はどれだけのラックス・パーツを使ってアンプを作ったことか。アンプの製作記事を書いては原稿料をかせぎ、その原稿料でまた新しいアンプを作る。それがまた原稿料を生む……。ラックスのトランスを思い起こしてみると、アンプ作りに血道をあげていたあの頃の想い出に耽って、ついペンを休めて時間を費やしてしまう。決してラックスのパーツばかりを使っていたわけではないのに、このメーカーの作るトランスやソケットは、妙に私の性に合ったのか、好んで使ったパーツの中でも印象が鮮明である。
     *
 昭和三十三年ごろ、つまりレコードがステレオ化した頃を境に、私はインダストリアルデザインを職業とするための勉強を始めたので、アンプを作る時間もなくなってしまったが、ちょうどその頃から、ラックスもまた、有名なSQ5B
きっかけに完成品のアンプを作るようになった。SQ5Bのデザインは、型破りというよりもそれまでの型に全くとらわれない新奇な発想で、しかも♯5423やXシリーズのトランスのデザインとは全く別種の流れに見えた。
 途中の印象を飛ばすと次に記憶に残っているのはSQ38である。本誌第三号(日本で最初の大がかりなアンプ総合テストを実施した)にSQ38DSが登場している。いま再びページを開いてみても当時の印象と変りはなく、写真で見るかぎりはプロポーションも非常に良く、ツマミのレイアウトも当時私が自分なりに人間工学的に整理を考えていた手法に一脈通じる面があってこのデザインには親近感さえ感じたのに、しかし実物をひと目見たとき、まず、その大づくりなこと、レタリングやマーキングの入れ方にいたるまですべてが大らかで、よく言えば天真らんまん。しかしそれにしては少々しまりがたりないのじゃないか、と言いたいような、あっけらかんとした処理にびっくりした。戦前の話は別として♯5423以来の、パーツメーカーとしてのラックスには、とてつもなくセンスの良いデザイナーがいると思っていたのに、SQ5BやSQ38を見ると、デザイナー不在というか、デザインに多少は趣味のあるエンジニア、いわばデザイン面ではしろうとがやった仕事、というふうにしか思えなかった。
 少なくともSQ505以前のラックスのアンプデザインは、素人っぽさが拭いきれず、しかも一機種ごとに全く違った意匠で、ひとつのファミリーとして統一を欠いていた。一機種ごとに暗中模索していた時期なのかもしれない。その一作ごとに生まれる新しい顔を見るたびに、どういうわけか、畜生、オレならこうするのになア、というような、何となく歯がゆい感じをおぼえていた。
 ほかのメーカーのアンプだって、そんなに良いデザインがあったわけではないのに、ラックスにかぎって、一見自分と全く異質のようなデザインを見たときでさえ、おせっかいにも手を出したくなる気持を味わったということは、いまになって考えてみると、このメーカーの根底に流れる体質の中にどこか自分と共通の何か、があるような、一種の親密感があったためではないかという気がする。
     *
 いろいろなメーカーとつ¥きあってみて少しずつわかりかけてきたことだが、このラックスというメーカー、音を聴い

JBL 4350A(組合せ)

瀬川冬樹

「スイングジャーナル」より

 本誌試聴室で鳴ったこの夜の音を、いったいなんと形容したら良いのだろうか。それは、もはや、生々しい、とか、凄味のある、などという範疇を越えた、そう……劇的なひとつの体験とでもしか、いいようのない、怖ろしいような音、だった。
 急いでお断りしておくが、怖ろしい、といっても決して、耳をふさぎたくなるような大きな音がしたわけではない。もちろん、あとでくわしく書くように、マークレビンソンのAクラス・アンプの25Wという出力にしては、信じられないような大きな音量を出すこともできた。しかしその反面、ピアニシモでまさに消え入るほどの小さな音量に絞ったときでさえ、音のあくまでくっきりと、ディテールでも輪郭を失わずにしかも空間の隅々までひろがって溶け合う響きの見事なこと。やはりそれは、繰り返すが劇的な体験、にほかならなかった。
 JBL#4350は、発表当初からみると、ずいぶん音の傾向が、以前よりよく揃っているし、バランスも向上している。
 初期の製品は、中高域を受け持つホーンのエイジングが進むまでは、ホーンの中に多少の吸音材をつめ込んだりして、この帯域を抑えなくては少々やかましい感じがあったのだが、最近のWXAでは、そのままでほとんどバランスが整っていると思う。
 JBLのこの43……ではじまるモニター・スピーカーのうち、4333A、4343のシリーズは、入力端子部の切換えによって低・高2chのマルチ・アンプ(バイ・アンプリファイアー)ドライブができるようになっているが、いうまでもなく4350は、最初からバイ・アンプ・オンリーの設計になっている。だが、この下手をすると手ひどい音を出すジャジャ馬は、いいかげんなアンプで鳴らしたのでは、とうていその真価を発揮しない。250Hzを境にして、それ以下の低音は、ともすれば量感ばかりオーバーで、ダブダブの締りのない音になりがちだ。また中〜高音域は、えてしてキンキンと不自然に金属的なやかましい音がする。菅野沖彦氏は、かってこの中〜高音用にはExclusiveのM−4(旧型)が良いと主張され、実際、彼がM−4で鳴らした4350の中高域は絶妙な音がした。しかし今回は、M−4と同じく純Aクラスの、マークレビンソンML−2Lを使ってみた。問題は低域だが、これは、少し前に、サンスイのショールームで公開実験したときの音に味をしめて、同じML−2Lを2台、ブリッジ接続して使うことにきめた。こうすると、1台のとき25Wの出力がいっきょに100Wに増大する。ことに4350の低音域は4Ωなので、出力はさらに倍の200Wまでとれる。ブリッジ接続したML−2Lは、高音域では持ち前のAクラス特有のおそろしく滑らかな質の良さはやや損なわれる。が、250Hz以下で鳴らす場合の、低域の締りの良いことはちょっと例えようのない素晴らしさだ。ブリッジ接続による十分に余裕ある大出力と、4350をふつうに鳴らした低音を聴き馴れた人にはウソのように思えるおそろしく引き締った、しかし実体感の豊かなというより、もはやナマの楽器の実体感を越えさえする、緻密で質の高い低音は、これ以外のアンプではちょっと考えられない。なおことのついでにつけ加えておくと、ML−2L自体が発表当初にくらべて最近の製品ではまた一段と質感が改良されている。
 低音にくらべて高音の25Wが、あまりにも出力が少なすぎるように思われるかもしれないが、4350の中〜高音域は、すべてきわめて能率の高いユニットで構成されているので、並みのブックシェルフを100Wアンプで鳴らした以上の実力のあることを申し添えておく。実際に、「サンチェスの子供たち/チャック・マンジョーネ」の序曲を耳がしびれるほどのパワーで鳴らしてみたが、アンプもスピーカーも全くビクともせず聴き手を圧倒した。
 ここまでやるのだから、入口以後のすべてをマークレビンソンの最高のシステムでまとめてしまう。ここで特筆したいのは、プリアンプの新型ML−6Lの音の透明感の素晴らしさと質の高さ。完全モノーラル構成で、入力切換とボリュームの二つのツマミだけ。それがしかも独立して、音量調整に2個のツマミを同時にぴったり合わせなくてはならないという操作上では論外といいたいわずらしさだが、それをガマンしても、この音なら仕方ないと思わせるだけのものを持っている。
 もうひとつ、こんなバカげたことは本当のマニアにしかすすめられないが、ヘッドアンプのJC−1ACを、片側を遊ばせてモノーラルで使うというやりかた。結局、2台のヘッドアンプが必要になるのだが、音像のしっかりすること、音の実体感の増すこと、やはりやるだけのことはある。こうなると、今回は試みなかったがエレクトロニック・クロスオーバーLNC−2Lも、本当ならモノーラルで2台使うのがいいだろう。
 プレーヤーはマイクロ精機が新しく発表した糸ドライブ・システムを使う。ある機会に試聴して以来、このターンテーブルとオーディオクラフトのトーンアームの組み合せに、私はもうしびれっ放しのありさまだ。完全に調整したときの音像のクリアーなこと、レコードという枠を一歩踏み越えたドキュメンタルな凄絶さは、こんにちのプレーヤー・システムの頂点といえる。最近になって、これにトリオのターンテーブル・シートを乗せるのがもっと良いことに気づいた。また、もしもオルトフォン系のロー・インピーダンス・カートリッジに限るのなら、アームの出力ケーブルを、サエクのCX5006TYPEBに交換するといっそう良い。この組み合せを聴いて以来いままで愛用してきたEMTのプレーヤーのスイッチを入れる回数が極端に減りはじめた。
 ただし、こういう組み合せになると、パーツを揃えただけではどうしようもない。各コンポーネントの設置の良否、相互関係、そして正しい接続。これだけでも容易ではない。また、パワーアンプだけでも消費電力が常時2.4kW時にのぼるから、AC電源の確保も一般的といえない。そして、これだけの組み合せとなると、ACプラグの差し込みの向き(極性)を変えても音の変るのがはっきりとわかり、全システムを通じて正しい極性に揃えるだけでも相当な時間と狂いのない聴感が要求される。
 これらについて詳細は、RFエンタープライゼスの向井氏、マイクロ精機の長沢氏、オーディオクラフトの花村氏(社長)、山水JBL課の増田氏らが、それぞれ実際上の的確なヒントを与えてくださるだろう。

組合せ価格一覧表
カートリッジ:オルトフォン MC30
¥99.000
トーンアーム:オーディオクラフト AC-4000MC ¥67.000
ターンテーブル:マイクロ RX-5000/RY-5500 ¥430.000
ヘッドアンプ:マーク・レビンソン JC1AC ¥145.000×2
チャンネル・デバイダー:マーク・レビンソン LNC2L ¥630.000
プリアンプ:マーク・レビンソン ML6L ¥980.000
パワーアンプ:マーク・レビンソン ML2L ¥8000.000×6
スピーカー:JBL 4350AWX ¥850.000×2
計¥8.996.000

チューナー セクエラ Model 1 ¥1.480.000
オープン・デッキ マーク・レビンソン ML5 ¥未定
合計¥10.476.000+α

試聴ディスク
「サンチェスの子供たち/チャック・マンジョーネ」
(アルファレコード:A&M AMP-80003〜4)

「ショパン・ノクターン全21曲/クラウディオ・アラウ」
(日本フォノグラム:Phlips X7651〜52) 

オーレックス PC-3060

岩崎千明

週刊FM No.19(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 オーレックスの新しいパネル・タイプのカセット・デッキPC−3060は、みるからに現代の若者のセンスをいっぱいに感じさせる。これは、モダンなフィーリングの中に、扱いやすそうな機能性を満たして、しかも、全体はとても親しみやすいのだ。まるで親しい友達みたいに。それがなぜなのか製品を前にして考えてみたが、おそらくこうだろう。どこといって難かしそうな所がないのに、いかにも高級製品らしい雰囲気が溢れていて、実際に使ってみると、まさに信頼できる高級品に匹敵するのだ。
 外観の上で大きな特長は、マガジンの中に斜めに倒れたままで蓋がされるアクリルのカヴァーは、使ってみると、なかなか扱いやすく便利なのはびっくりするほど。そのカヴァー以外に、どこといって特長らしい点はないが、しかし、全体の品のよい作り、仕上げのうまさは、最近のオーレックスのアンプなどと同じだ。まああげ足をとれば、レヴェル・メーターの上の、長々とした、ドルビー方式の説明の横文字は、ちょうとギザったらしいが、これも若いファンの眼をとらえるには違いない。うまいセールス・テクニックでもある。
 ところでこの5万円そこそこのデッキのクォリティは、まったく驚くほどで、このデッキの内側が、価格からは思いもよらぬ高レヴェルであることを知ろう。自然な感じの、いかにも歪みの少ないソフトで素直な音は、カセットの達するひとつのリミットにごく近い。

ソニー TC-3000

岩崎千明

週刊FM No.17(1976年発行)
「私の手にした新製品より」

 カセットは、はっきり二分化してきて、生録志向の可搬型2電源方式と、パネル型実用性能型に人気がある。ところでこの可搬型、どうも大きくて重すぎて、ステレオ型でない安いものにくらべて可搬型とはいい離い。ソニーの今度の新型は、高性能ステレオ・カセットとしてもっとも小さい方で、これで初めてラジカセなみとなった。これぞ、まさに本物のポータブル。肩にかついでいても、くたびれないですむ、ひとまわり小さい大きさと4.6kgの重さで、それで性能は今までと変わらぬどころか、上まわるというのだから、まさに本場の本物。左側の操作レバーの下にヴォリューム以外のツマミを一列に配し、右側には大型のカッコいいメーターの下に大きく扱いよさそうな丸型ヴォリューム・ツマミが、でんと収まる新しいパネル・レイアウト。
 音の方もバランスの良さから一段とハイファイ的で、広帯域化か強く、スッキリした音と低ヒスのため、デッキとして使うとアンブ型とくらべてもまったく遜色ないのに驚いた。
 マイクを使っての録音もすばらしく、緻密な音で、広帯域低歪感の充分な、スッキリした音で、楽器の音のクリアーな迫力はみごとだ。ヒスやノイズの少ないのも生録の時の特筆できる特長だ。
 単1×4で6時間という経済性も、ポータブル型らしく抜群だ。TC−2850はかくして生まれかわってTC−3000になり、本当のポータブル・ステレオ・カセットとして完成した。

ビクター HP-550

岩崎千明

週刊FM No.17(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 ヘッドフォンを愛用するファンも増し、誰もが使用するチャンスが頻繁になってきた。ヘッドフォンに対する要求も「軽く手使いよく」「音がはっきり聴こえる」。その上に「力強い迫力」までも、スピーカーなみに求められるこの頃のことだ。新型ヘッドフォンとなると、こうした時代の流れに応じた諸条件がアピールされることになる。ビクターのHP−550もこうした時代に敏感な新型ヘッドフォンだ。
 たいへん軽いうえに、頭に装着した感じは、帽子をかぶるよりも楽なほどだ。密閉型というけれど、耳をおさえつける圧迫感もなければ、うっとうしさもない。頭にちょんと乗せた、という感じぐらいで楽だ。それでいて、音だけは、かなりガンガンと力強く明快に鳴ってくれる。どちらかというと品の良さよりパワー感が、はっきりと感じられ、スッキりというよりガッチリと聴かせてくれる。こういう密閉型では一般に低音感が薄っぺらになるが、そうした欠点はなく、力強くロー・エンドまで伸びている。ただ、少しばかり鳴り過ぎという感じが残るけれど、メーカーのいう通り、打楽器のガッツ・サウンドは目ざましい。これで中域から高域までに品の良さが加われば、と望むのは価格から考えるとぜいたくというもの。感度も高く、使い方は自由。音もスッキリ、といいことずくめ。最近のヘッドフォンがカッコよさに気を使う新型が多い中で実用・実質主義実力型だ。

ダイヤトーン DA-P7, DA-A7

岩崎千明

週刊FM No.17(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 ダイヤトーンの新シリーズ・セパレート型の一番安い、といっても、プリとパワー合わせて10万円の組合わせだ。70W+70Wだから、プリ・メイン一体型と価格的には相等しい。プリ・アンブが分離している構造がお徳用となるわけだ。その構造によって、SN比はよくなることは間違いなく、それが音質上にもはっきりとプラスをもたらして、クリアーな音の粒立ちと、ロー・レヴェルでのリニアリティの良さかがデリケートな音の違いの上にくっきりと出ている。プリ・アンブはデザインはまったく違うこの上のP10とは構造も違うが、伝統的に歪みの低さ、クロストークの少なさは、10万円台のアンブを越えているようで、それが音の上にも感じられるのだろう。プリとメインを分けるこの構造は、P7+A7では一体構造で用いる場合も少なくないと思われるが、実に堅固で、4本の取付けボルトさえ確実にしめつけてあれば絶対に安全、かつ確かだ。端子の位置も使いやすく、そうした意味での操作性は理想に近い。
 70W十70Wのパワー感も、セパレート型として、あるいは物足りないのでは、と不安もあろうが、実際に使ってみると、どうしてどうして、100W+100Wクラスにさえひけをとるものではない。使用中にあまり低音のブーストをやりすぎなければ充分なるパワーといってよい。この、いかにも中味の充実した中域から低音にかけての力強さは、高音の輝かしいクール・トーンと共にダイヤトーンの大きな魅力だろう。

マイクロ MA-505

岩崎千明

週刊FM No.12(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 アームは、理屈からいってもスプリングで針圧を加えるダイナミック・バランスが絶対良い。針圧にカウンター・ウェイトをずらして重力を利用したスタティック・バランス型の場合、アームは必ずアンバランス状態にある、ということになる。だから、ちょっとレコードのソリや偏心、あるいはプレーヤーの傾きは針圧に比例してアンバランス状態を招き、実際の使用状態で理論通りの働きをしてくれない。理想とはほど遠い状態にさらされているのがディスク再生の現実なのである。ところがダイナミック型は、かんじんの針圧加圧用のバネ自体を均一に作るのが難しい。だからダイナミック・バランス型アームはスタティック型にくらべて製品が格段に厄介だ。だから国産品は最近まではなかったし、海外製でもまれだ。軽針圧用にも使えるマイクロのMA−505がなぜ良いか、その基本的理由は以上のようだ。
 さらに中でも、この針圧を自由に変えられるのもダイナミックならではだがMA−505の場合「インサイドフォース・キャンセラー」から「高さ調節」まで演奏中に調節できるというのは驚きだ。超低域の響きがどっしり、スッキりするだけでなく、音楽の音全体が安定して、それは同じカートリッジと思えぬくらいの変わり方だ。トレースの安定向上という点だけにとどまらない飛躍ぶりは一度使えば誰もが痛烈に思い知らされるはずだ。ただし、この構造では止むを得ぬとはいうものの、デザインがあまりに武骨なのが残念だ。

Lo-D HS-450

岩崎千明

週刊FM No.12(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 なんの前触れもなしに突然のように発表されたHS−450。期待が全然といってよいほど無かっただけに、受け取り方は、かえって素直にできるというものだが、決してオーヴァーないい方ではなく、この新製品にはびっくり。というのは、このHS−450。最近のLo−Dスピーカーよりもずっと抵抗なく身体を包んでくれるという感じの鳴り方だ。Lo−Dがハッスルしたスピーカーは、確かにとってもいい音だけど、それを素直に口に出すのに、ちょっとひっかかるような要素が、音の中にちらついていた。それがこのHS−450ではまったく感じられないのは、なによりも驚きだ。
 少なくとも外観からはここんとこ流行の、いかにも若いファン様々といったようなプロフェショナル志向むき出しを思わせるのが、ちょっとばかり気に喰わないけれど音の方は、そうではなく、どっしりした低域と、中域のスムーズなバランスとが完成度の高さを聴かせてくれる。どちらかというとシャッキリ、クッキリ型だった今までのに対して暖かみさえ感じられるくらいだ。密閉性の高い箱は極めて堅固に作られ、完全なる密閉型として動作してなおロー・エンドまで力強く出るのは、ユニット自体の質の高さによるものだ。スコーカーも注目すべき新ユニットだし、トゥイーターにも新しいテクニックがみられる。価格は安くないが、それに見合った内容というべきだ。アンブとしては例えばHA−500Fがよい。カチッと引きしまり力ばかり惑じられるような最近のアンプは避けること。

ヤマハ CA-V1

岩崎千明
 
週刊FM No.12(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 同じようなブラック・パネルのアンプがこの所ぞくぞくという感じで各社から出てきたが、さすがヤマハ。日頃のデザインの腕をこの新製品にも発揮した。これだけの仕上げと風格があるのは、V1だけだ。VUメーターがこのプロ志向のパネルにぴったりで雰囲気を盛り上げているのだ。
 スイッチを入れて淡いライトで照らされるメーターのカッコ良さ。音が出ると、これまた力強いこと。ここでもまた、さすが、となる。ヤマハは若いコのハートをよく掴んどるねえ。パリッとしたさわやかな中域に加えて、ドカンと低音の力強い迫力、キラリと高音の効いてること。要するにうまいのである。デザインセンスとサウンドのセンス。白いパネルの従来のシリーズとは明らかに違ったヤマハの姿勢をV1の中に見い出すことができるのだ。パネルのつまみ配置は今までとあまり変わらないがツマミを減らして扱いやすい。
 前作X1のさらに普及型としてV1を受け止めることはできない。X1が白いパネルであることからもわかるようにV1はまったく生まれが違うのだ。X1がマニア好みのクリアーな力強さに対して、Vlはもっと誰もが親しめる音といってもよいだろう。V1の魅力をさらに増すのは、同じデザインの優れたチューナーが揃っている点だ。揃えて前におくとそれはまさに若いファンにとってオレのオーディオ・マシンという満足感を与えるに違いない。SPに同社のNS−451ならぴったり。これほど馬の、じゃない、音の合うのもちょっとあるまい。

オルトフォン MC20

岩崎千明 

週刊FM No.19(1976年発行)
「私の手にした新製品」より

 オルトフォンが、久方ぶりにMC型カートリッジの製品を出した。SL−15という傑作をデヴューさせてから何年になるだろうかその名もずぱり、「MC−20」と新しいネーミングで、いかにも自信のほどを、その名前からもうかがえる。MC−20は、まるでラピラズリーのような濃いブルーのボディで、よく見る今までのSL−15と外形は寸法までもまったく同じのようだ。しかし、その針先のカンチレバーは、今でより一段と細く小さい。
 MC−20は、まさに現代の技術によって、現代の音を背景として「オルトフォン」によって作られたムーヴィングコイル型カートリッジだ。その音の力強さの中に、オルトフォン直系の姿勢を感じとる事ができる。でも、この驚くほどの広帯域、分解能力は、まさに今日のハイファイの技術と、それによって来たるサウンドとを知らされるだろう。
 確かに、MC型は、MM型とは本質的な音の中味の違いを持っていることを、つくづく知らせてくれる。MC−20は、こうした点でもっともMC型らしさを持っているカートリッジだが、これは、もっとも老練なMC型メーカー、オルトフォンが作る製品であることを知れば当然だ。世界に、これ程MC型のノウハウを、長年蓄積してきたメーカーはないのだから。といっても、いまやMC型を作るメーカーは、はたして世界に何社あるだろうか。そこまで考えれば、MC−20の存在価値と、高価格の意義もおのずから定まるといえよう。

ミクロ・アコースティック QDC-1e

岩崎千明

ステレオサウンド 39号(1976年6月発行)
特集・「世界のカートリッジ123機種の総試聴記」より

 想像し難い一風変った発電メカニズムでこれを技術的オリジナリティとしているこのミクロアコースティックQDC1eは、今日的な標準からいかにしても長いカンチレバーに前時代的な印象を受けてしまうが、その割には針鳴きも大したことなく、大へん不思議な振動系だ。どういう振動工学上の根拠にあるのか定かではないが、出てきた音を聴く限り新鮮でかなり強いイメージを受ける。つまり、ストレートにパンチをくらったような直接的なサウンドで明快な鮮かさと、クリアーな分解能とで音像の確かなところも好印象。低域は力強く、迫力も量感も十分あり、それもシャープなアタックの感じは、ホーン型低音のようなイメージで、しかもこれがローエンドまで延びているのもすばらしい。低域から中域での鮮明でち密な粒立ち、さらに高域へかけて引きしまっている。ただこの辺は少々うるさくなる感じがなきにしもあらずだが、高音の輝きに耳を奪われてしまうのは惜しい。