私のオンキョー観

瀬川冬樹

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ・オンキョー」
「私のオンキョー観」より

 真っ先に思い出すのは、ツヤのある黒いエナメル塗装のフレーム。黒地に白抜きで ONKYOと書いた円形のネームプレート。
 例の「オンキョー・ノンプレスコーン・スピーカー」である。
 例の……などと書いても、最近の読者諸兄には殆どご縁がないと思うが、昭和二十年代のはじめからラジオを組み立てていた私たち(というのは、同じこの欄に書いている筈の菅野、井上各氏ら、同じ頃からラジオをいじりはじめた同世代の人たち)には、懐かしいデザインであり、あの時代を思い起こすシンボルのひとつとして、やはり大きな存在だったと思う。
 ……といっても、当時のオンキョーのスピーカーが、私のオーディオ・システムの中にとり入れられたことは一度もない。オンキョーの六吋半や八吋(わざと古い当時の言い方をするのは、この方が何となく実感があるという私の独りよがりだが)は、もっぱら知人や親せきを廻って注文をとっては、小遣いかせぎに組み立てるラジオ(当時流行りの5球、6球のスーパーヘテロダイン式ホームラジオ)や、ときたま依頼のある電蓄に使った。
 サンスイ号のこの欄ですでに書いたことと重複するが、オンキョーの黒塗りのフレームとサンスイの青いカヴァーのトランスは、当時のパーツの類の中では中の上といった格づけだったから、あまり安もののラジオには使うわけにはゆかない。予算のたっぷりあるときにかぎって使ったが、「低音のオンキョー」と定評のあったように、素人にわかりやすい重い低音が好まれた。また、当時のラジオは裏蓋に大きな通風孔のあいたベニヤ板だったから、裏を返せばスピーカーの背面も、真空管や電源トランスやIFTやバリコンや……要するに舞台裏がそっくり眺められ、街のラジオ屋さんがひと目みると、「ははあ、山水のトランスに大阪音響のスピーカーが使ってありますなあ。これはずいぶん良心的に組み立ててあります」ということになる。組立てを依頼する相手が素人だから、ピンからキリまでのパーツのどれを選ぶかでいくらでも誤魔化すことができて、中にはあくどいアルバイトもあったらしく、そういう意味でもオンキョーのスピーカーを使っておくことは、当方の信用にもなって具合がよかった。
     *
 オンキョーのスピーカーは、そんな次第で何となく高級ラジオ用パーツ、といった印象で私の頭の中にあったが、あれはオーディオフェアの第二回か第三回だったろうか。オンキョーから突如として、15インチの大型ウーファー(W15)と、ホーン・トゥイーター(TW5)が発表された。
 東京駅八重洲口近くの、呉服橋角にあった相互銀行ホールでのデモンストレーションには、W15をゆるくカーヴしたフロントホーンに収めたものがステージに載っていたと記憶しているが、鳴っていた音のほうは、もうおぼろげな印象のかなたに埋もれてしまっている。だがそれよりも、当時のオーディオパーツの中では、ウーファー、トゥイーターとも目立ってスマートな製品だったことが、強く焼きついている。その後のオンキョーのユニットの中でも、最も姿の良いパーツではなかったろうか。
 私同様に〝面喰い〟の山中敬三氏は、それからしばらくあとになってこのW15を購入し、自家用のシステムに使っていた。当時JBLの150-4Cや130Aの素晴らしいデザインにあこがれながらあまりにも高価で手が出ずに、形のよく似たW15を買ったのは、ライカが買えずにニッカやレオタックスであきらめていたカメラマニアの心理に似ているのかもしれない、などというと山中氏を怒らせるだろうか。
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 昭和三十年代の約十年間は、私の記憶の中でオンキョーの名は空白のままだ。ステレオサウンド誌の創刊された昭和41年の秋、「暮しの手帖」が小型卓上ステレオをとりあげたとき、オンキョーの名が突然のようにクローズアップされるまで、その空白は続いた。
 昭和42年になって、オンキョーが久々のハイファイスピーカーE154Aを完成させてオーディオ界に返り咲いたとき、全国を縦断するコンサートキャラバンの企画が持ち上がり、それに随行する解説者として、故岩崎千明氏と私とが名指しを受けた。いまふりかえってみると、ずいぶん珍道中があったが、私はおかげさまで日本じゅう、初めての土地をずいぶん楽しませて頂いた。どこのホールでだったか、アンケートの中に「きょうのアナウンサーは解説がへただ」などというお叱りがあったり、どこか学校の講堂を借りてのコンサートでは、開演中にステージの前で学生が鬼ごっこをはじめたり、ずいぶんふしぎなオーディオコンサートではあった。
 昭和43年に完成したブックシェルフ型のF500は、さすが! と唸る出来ばえだった。とても自然なバランスで、いつまで聴いても気になる音がしない。その後のシステムの中にも、こういう音は残念ながらみあたらない。あのまま残して小さな改良を続けながら生き永らえさせるべきではなかったかと、いまでも思う。
 インテグラ・シリーズのアンプが発売されたのは昭和44年だったろうか。当初の701以下のシリーズのすべて、とても手のかかった仕上げの美しいパネルと、いやみのないデザインは、いまでもその基本を変える必要のない意匠だったのにと思う。パネルのヘアラインに、光線の具合によって、熱帯魚の尻尾のような光芒が浮かぶのは、マランツ7以来、パネルの仕上げに手をかけた数少いアンプとして、こんにちでは珍しい。
 ただ、このアンプの音のほうは、どうにも無機的でおもしろみがなくて、そのことを言ったために設計のチーフの古賀さんからは、長いことうらまれていたらしい。
 その音質も、♯725を境にして、♯755でとてもナイーヴなタッチを聴かせはじめ、722MKIIでひとつの頂点に達した。たしかに音の力づよさ、あるいは切れ味の明快さ、といった面からは、いくぶん弱腰でウェットだという感じのあったものの、音の繊細さ、弦や女性ヴォーカルのでのなよやかな鳴り方は、722/IIでなくては聴けない味わいがあった。
 その後のプリメインアンプでは少々音の傾向を変えはじめて、722IIの味わいはむしろセパレートタイプのP303/M505の方に生かされはじめたと思う。ただ、303、505のデザインの、どことなく鈍い印象が、この意外に音の良いアンプのイメージをかなり損ねているようだ。
 最新型のP307、M507で、オンキョーのアンプはまたひとつ

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