菅野沖彦
ステレオサウンド 75号(1985年6月発行)
特集・「実力派コンポーネントの一対比較テスト 2×14」より
上杉研究所から新しく登場したアンプ、UTY5は、UTY1、U・BROS3に継ぐ、第三世代のパワーアンプである。
これに対して、マイケルソン&オースチンのTVA1は、同社の第一世代のパワーアンプで、1978年発売以来、既に7年を経過した製品である。
真空管アンプとしての設計技術は、今や完成の域に達して久しいが、それらが、必ずしも、同じような音では鳴らないというところは、他のオーディオ機器同様、きわめて興味深い問題である。この二機種の音も、かなり対照的な音といってよく、UTY5の端正で瑞々しい音の美しさに対し、TVA1の熟っぽく力強い音の魅力は、それぞれに個性的ではあるが、その個性は、ある普遍性をもったものとして、第一級のアンプであることを認識させてくれるのである。
TVA1に関しては本誌でも度々紹介されているので、UTY5に関し少々その内容を御紹介することにしよう。
UTY5は、モノーラルアンプとして完成され、ステレオには2台使用するし、2台をパラレル駆動させ(合計4台)、約2倍のパワーとして使うことも可能である。パワー管EL34/6CA7プッシュプルによる出力は40ワットである。基本的には、上杉研究所の一貫したポリシーに貫かれたもので前作U・BROS3のコンセプトを踏襲し、安定性と長寿命というディペンダビリティに周到な配慮を払った製品で、40ワットという、ひかえ目なパワーの設定もそのためである。事実、アンプの発熱は、真空管アンプとしては最小に留められている。U・BROS3との最も大きな違いは、先に述べたモノーラルアンプということと、出力段の回路構成にみられる。U・BROS3が、KT88のUL接続で、NFBを出力トランスの三次巻線から初段のカソードへ返していたのに対し、UTY5はEL34/6CA7のプッシュで、出力トランスにカソード専用の四次巻線を設けたカソードフィードバック方式を採用している。この特殊トランスは、上杉研究所とタムラ製作所の協同開発になるもので、これ以外のトランスも全面的にタムラ製作所製を採用している。初段はECC83/12AX7のパラレル接続で増幅・位相反転はECC82/12AU7のカソード結合によっている。電源部はチョークの採用、コンデンサーインプット方式など、基本的にはU・BROS3に準じた余裕のある、周到な設計である。構成は、手前に電源トランスとチョーク、そして初段から出力段の真空管が並び、出力トランスと、信号の流れをそのまま部品配置に置きかえたシンプルなものである。パワートランスと出力トランスが両側に高さがそろって並んでいるので、重量的にも、外観上もバランスがよくとれていて美しい。両トランス間に真空管群が保護されているような形になり、持ち運びも具合がよい。細かい神経による心配りが、いかにも上杉流である。部品配置、配線のワイヤリングなどは整然としたもので、ストレイキャパシティの有害なシールドワイヤーは使われていない。
全体の仕上げは塗装で、ハンマートーンのトランス、チョークカバーとシャーシの色調は渋い中間色で落着いた雰囲気を感じさせる。この点だけでも、クロームメッキのシャーシにコア一丸出しで精悍さを感じさせるTVA1とは対照的である。そして、片方が、KT88から70ワットという高い出力を捻り出しているのも、ひかえ目なパワーに抑えているUTY5のコンセプトと対をなしていて面白い。たしかに、プレート電圧をプレート損失とのかね合いで規格ギリギリにかけて、高出力を得るというのは、球の寿命にとっては好ましくはない。上杉研究所は、U・BROS3でも、低目の電圧でリニアリティを確保し、球を労わって使っていた。しかし、私の昔の体験だと、この辺りの球の使い方は、ただ単にパワーの差だけではなく、音の量感のちがいとしても感じられたのを記憶している。それに単純に結びつけていうのは間違いかもしれないが、TVA1の音とUTY5の音の根底に潜むちがいに、多くの要因の一つとして、こんなことを思い出した。もちろん、トランスや球などの素子や部品のちがい、回路構成、その工作、コンストラクションなど、全ての無数のファクターの集積が音であり、そのうち、どこかがちがっても音は変るのが実情であるから、下手な推測はしないほうがよいようである。
両者を徹底的に比較せよ、というのが編集部の命令であるが、個体としてのちがいは、いまさらいちいち取り立てて述べるまでもないほど違うのだ。小は線材から、大はトランス、球まで、ことごとく違うのである。たったひとつ、共通しているのは、電圧増幅に使われているECC83/12AX7という伝統的な真空管だけである。TVA1も、当時としては、きわめて進歩的な考え方でNFB量を低く抑え、裸特性を重視し、TIM歪の発生に着目した周到さの見られるアンプだが、NFBのかけ方は、出力トランスの二次側から初段のグリッドへ返すというコンベンショナルな方法をとっていて、UTY5とは全く違う。つまり、この両者に共通点を見出そうとしても、それは真空管式のパワーアンプの基本的なセオリーぐらいのものである。
そこで、この両者の音の聴感上のちがいをやや詳しく述べることにしようと思うのだが、これがまた、個体差と同じようにちがうのである。一言にしていえば、頭初に書いたようなちがいなのだが、このちがいは、まさに人文的なちがいとしか思いようも、いいようもない。血のちがい、文化のちがい……つまり、人間のちがいである。
どちらのアンプも、小規模なラボラトリーの製品で、手造りによる、一品、一品、丹念に仕上げられたものだけに、そこには製作者の感性が表現されているといってよいであろう。アンプの設計製造という技術的なコンセプトを通して、音という抽象的な、それ故に無限の可能性をもつ美的世界に、それが自然に滲み出たという他はあるまい。両者共に、これを作品として世に問うからには、十分な自信と満足の得られているものにちがいないからである。
UTY5には、日本的な繊細さと透明さ、そしてTVA1には、コケイジアンの情熱的な息吹きと激しさが感じられるのである。それは、あたかも水彩画と油絵の美しさのちがいのようであり、フグやヒラメなどの白身の魚の美味と、ビーフやボークのスパイシーなソースによる料理のちがいのようでもある。
オーケストラを聴くと、UTY5は、旋律的な印象であり、TVA1は和声的な響きである。これがまた、スピーカーとの組合せで、それぞれの美しさが多彩に変化するところが複雑だ。本誌の試聴室においては、JBLの4344で比較試聴したのだが、力感ではTVA1が圧倒的であり、透明さとまろやかさではUTY5が、ことのほか美しかった。そして、マッキントッシュXRT20をUTY5で鳴らしたことがあるが、この組合せでは、ふっくらとした柔軟さが加わり、しなやかな情緒が魅力的であった。そしてTVA1とXRT20の組合せは、大分前の記憶によるが、力強い低音に魅せられた。ブラスはTVA1の得意とするところだが、ウッドウインドはUTY5が、はるかに透明で清々しく美しい響きであった。
こうした印象記から推測していただけると思うけれど、この二つのパワーアンプの特徴は、当然音楽の性格に結びついて、それぞれの良さを発揮するが、究極的には、それを使う人との感性の一致が鍵であろう。
かつて、亡くなったジュリアス・カッチェンというピアニストと親しくしていたが、彼は、ヤマハのピアノの音の美しさに讃辞を呈していた。「こんなに透明で美しい音の楽器を弾いたことがない」と嬉しそうに賞めていたのを思い出す。
また、ニューヨーク在住のデビッド・ベイカーという録音エンジニアは、ダイヤトーンの2S305を絶賛していた。
どちらも、異文化のもつ香りへの憧れではなかろうか……と、私は感じたものだ。そして、ドイツ人の録音制作者、マンフレット・アイヒャーが私の家のJBLのシステムを聴いて「これがJBLとは信じ難い。あなたの録音と似ている。日本人はパーフェクショニストなんだなあ」といわれた。さらに、「日本の牛肉もそうだ」といったのである。確かに、日本の牛肉、それも極上の和牛は世界に類がない。しかし、時々ぼくは、そのあまりにも洗練された味に、牛肉特有の香り──悪くいえば獣の匂いだが──が不足するとも思える。牛肉は本来、もっと強烈なフレイバーがあると思うのだ。
こんなことを思い出させられるような、二つのパワーアンプの音の対照が興味深かった。もちろん、作る当人達の意識とは無関係だし、意識があったら嫌らしい。そして、この自分達固有の特質というものは、時として卑下に連ることもある。日本人は特にその傾向が強いが、外人にもそれはある。特に最近、多くのアメリカ人達が自国の文化を卑下し嫌悪する話を聴かされることが多い。自分たちの文化に誇りをもち、異文化に畏敬の念をもちたいものだ。
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