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JBL 4344

黒田恭一

ステレオサウンド 62号(1982年3月発行)
「4343のお姉さんのこと」より

 いま常用しているスピーカーはJBLの4343である。「B」ではない。旧タイプの方である。その旧4343が発売されたのは、たしか一九七六年であった。発売されてすぐに買った。したがってもうかれこれ五年以上つかっていることになる。この五年の問にアンプをかえたりプレーヤーをかえたりした。部屋もかわった。いまになってふりかえってみると、結構めまぐるしく変化したと思う。
 この五年の間に4343をとりまく機器のことごとくがすっかりかわってしまった。かならずしも4343の能力をより一層ひきだそうなどとことあらためて思ったわけではなかったが、結果として4343のためにアンプをかえたりプレーヤーをかえたりしてきたようであった。すくなくともパワーアンプのスレッショルド4000のためにスピーカーをとりかえようなどと考えたことはなかった。スレッショルド4000にしても4343のための選択であって、スレッショルド4000のための4343ではなかった。この五年間の変動はすべてがすべて4343のためであった。
 そしていまは、努力の甲斐あってというべきか、まあまあと思える音がでている――と自分では思っている。しかし音に関しての判断でなににもまして怖いのは独り善がりである。いい気になるとすぐに、音は、そのいい気になった人間を独善の沼につき落す。ぼくの音はまあまあの音であると心の七十パーセントで思っても、残りの三十パーセントに、これで本当にいいのであろうかと思う不安を保有しておくべきである。
 幸いぼくの4343から出る音は、岡俊雄さんや菅野沖彦さん、それに本誌の原田勲さんや黛健司さんといった音に対してとびきりうるさい方々にきいていただく機会にめぐまれた。みなさんそれぞれにほめて下さった。しかしながらほめられたからといって安心はできない。他人の再生装置の音をきいてそれを腐すのは、知人の子供のことを知人にむかって直接「お前のところの子供はものわかりがわるくて手におえないワルガキだね」というのと同じ位むずかしい。岡さんにしても菅野さんにしても、それに原田さんにしても黛さんにしても、みなさん紳士であるから、ぼくの4343の音をきいて、なんだこの音は、箸にも棒にもかからないではないかなどというはずもなかった。
 でも、きいて下さっているときの表情を盗みみした感じから、そんなにひどい音ではないのであろうと思ったりした。その結果、安心は、七十パーセントから七十五パーセントになった。したがってこれで本当にいいのかなと思う不安は二十五パーセントになった。二十五パーセントの不安というのは、音と緊張をもって対するのにちょうどいい不安というべきかもしれない。
 つまり、ちょっと前までは、ことさらの不都合や不充分さを感じることもなく、自分の部屋で膏をきけていたことになる。しかし歴史が教えるように太平の夢は長くはつづかない。ぼくの部屋の音はまあまあであると思ったがために、気持の上で隙があったのかもしれない。うっかりしていたためにダブルパンチをくらうことになった。
 最初のパンチはパイオニアの同軸型平面スピーカーシステムのS-F1によってくらった。このスピーカーシステムの音はこれまでに何回かきいてしっているつもりでいた。しかしながら今回はこれまでにきいたいずれのときにもましてすばらしかった。音はいかなる力からも解放されて、すーときこえてきた。まさに新鮮であった。「かつて体験したことのない音像の世界」という、このスピーカーシステムのための宣伝文句がなるほどと思える音のきこえ方であった。
 それこそ初めての体験であったが、そのS-F1をきいた日の夜、試聴のとききけなかったレコードのあれこれをきいている夢をみた。夢であるから不思議はないが、現実にはS-F1できいたことのないレコードが、このようにきこえるのであろうと思えるきこえ方できこえた。夢でみてしまうほどそのときのS-F1での音のきこえ方はショックであった。
 そこでせっかく七十五までいっていた安心のパーセンテイジはぐっと下って、四十五パーセント程度になってしまった。五年間みつづけてきた4343をみる目に疑いの色がまじりはじめたのもやむをえないことであった。ぼくの4343がいかにふんばってもなしえないことをS-F1はいとも容易になしえていた。
 しかしそこでとどまっていられればまだなんとか立ちなおることができたはずであった。もう一発のパンチをくらって、完全にマットに沈んだ。心の中には安心の欠片もなく、不安が一〇〇パーセントになってしまった。「ステレオサウンド」編集部の悪意にみちみちた親切にはめられて、すでに極度の心身症におちいってしまった。
 二発目のパンチはJBLの新しいスピーカーシステム4344によってくらった。みた目で4344は4343とたいしてちがわなかった。なんだJBLの、新しいスピーカーシステムを出すまでのワンポイントリリーフかと、きく前に思ったりした。高を括るとろくなことはない。JBLは4343を出してからの五年間をぶらぶら遊んでいたわけではなかった。ききてはおのずとその4344の音で五年という時間の重みをしらされた。4344の音をきいて、その新しいスピーカーの音に感心する前に、時代の推移を感じないではいられなかった。
 4344の音は、4343のそれに較べて、しっとりしたひびきへの対応がより一層しなやかで、はるかにエレガントであった。したがってその音の感じは、4343の、お兄さんではなく、お姉さんというべきであった。念のために書きそえておけば、エレガント、つまり上品で優雅なさまは、充分な力の支えがあってはじめて可能になるものである。そういう意味で4344の音はすこぶるエレガントであった。
 低い音のひびき方のゆたかさと無関係とはいえないであろうが、音の品位ということで、4344は、4343の一ランク、いや二ランクほど上と思った。鮮明であるが冷たくはなかった。肉付きのいい音は充分に肉付きよく示しながら、しかしついにぽてっとしなかった。
 シンセサイザーの音は特にきわだって印象的であった。ヴァンゲリスとジョン・アンダーソンの「ザ・フレンズ・オブ・ミスター・カイロ」などをきいたりしたが、一般にいわれるシンセサイザーの音が無機的で冷たいという言葉がかならずしも正しくないということを、4344は端的に示した。シンセサイザーならではのひびきの流れと、微妙な揺れ蕩さ方がそこではよくわかった。いや、わかっただけではなかった。4344できくヴァンゲリスのシンセサイザーの音は、ほかのいかなる楽器も伝ええないサムシングをあきらかにしていた。
 その音はかねてからこうききたいと思っていた音であった。ヴァンゲリスは、これまでの仕事の性格からもあきらかなように、現代の音楽家の中でもっともヒューマニスティックな心情にみちているひとりである。そういうヴァンゲリスにふさわしい音のきこえ方であった。そうなんだ、こうでなければいけないんだと、4344を通してヴァンゲリスの音楽にふれて、ひとりごちたりした。
 それに、4344のきかせる音は、奥行きという点でも傑出していた。この点ではパイオニアのS-F1でも驚かされたが、S-F1のそれとはあきらかにちがう感じで、4344ももののみごとに提示した。奥行きとは、別の言葉でいえば、深さである。聴感上の深度で、4344のきこえ方は、4343のそれのほぼ倍はあった。シンセサイザーのひびきの尻尾ははるか彼方の地平線上に消えていくという感じであった。
 シンセサイザーのひびきがそのようにきこえたことと無関係ではありえないが、声のなまなましさは、きいた人間をぞくっとさせるに充分であった。本来はマイクロフォンをつかわないオペラ歌手の声にも、もともとマイクロフォンをつかうことを前提に声をだすジャズやロックの歌い手の声にも、声ならではのひびきの温度と湿度がある。そのひびきの温度と湿度に対する反応のしかたが、4344はきわだって正確であった。
 きいているうちに、あの人の声もききたいさらにあの人の声もといったように、さまざまなジャンルのさまざまな歌い手のことを考えないではいられなかった。それほど声のきこえ方が魅力的であった。
 クリストファー・ホグウッドがコンティヌオをうけもち、ヤープ・シュレーダーがコンサートマスターをつとめたエンシェント室内管弦楽団による、たとえばモーツァルトの「ハフナー」と「リンツ」という二曲のシンフォニーをおさめたレコードがある。このオワゾリールのレコードにはちょっと微妙なころがある。エンシェント室内管弦楽団は authentic instruments で演奏している。そのためにひびきは大変にまろやかでやわらかい。その独自のひびきはききてを優しい気持にさせないではおかない。オーケストラのトゥッティで示される和音などにしても、この室内管弦楽団によった演奏ではふっくらとひびく。決してとげとげしない。
 そのレコードを、すくなくともぼくの部屋の4343できくと、いくぶんひびきの角がたちすぎる。むろん4343できいても、その演奏がいわゆる現代の通常のオーケストラで音にされたものではないということはわかる。そして authentic instruments によった演奏ならではの微妙なあじわいもわかる。しかしもう少しふっくらしてもいいように感じる。
 そう思いながら4343できいていた、そのレコードを4344できいてみた。そこで模範解答をみせられたような気持になった。そうか、このレコードは、このようにきこえるべきものなのかと思った。そこでの「リンツ」シンフォニーのアンダンテのきかせ方などはまさに4343のお姉さんならではのきかせ方であった。
 ひとりきりで時間の制限もなく試聴させてもらった。場所はステレオサウンド社の試聴室であった。試聴者は、自分でも気づかぬうちに、喜聴者に、そして歓聴者になっていた。編集部に迷惑がかかるのも忘れて、えんえんときかせてもらった。
 そうやってきいているうちにみえてきたものがあった。みえてきたのは、この時代に生きる人間の憧れであった。意識的な憧れではない。心の底で自分でも気づかずにひっそりと憧れている憧れがその音のうちにあると思った。いまのこういう黄昏の時代に生きている人は、むきだしのダイナミズムを求めず、肌に冷たい刺激を拒み、音楽が人間のおこないの結果であるということを思いだしたがっているのかもしれない。
 4344の音はそういう時代の音である。ひびきの細部をいささかも暖昧にすることなく示しながら、そのひびきの肌ざわりはあくまでもやわらかくあたたかい。きいていてしらずしらずのうちに心なごむ。
 4343には、STUDIO MONITOR という言葉がつけられている。モニターには、警告となるもの、注意をうながすものという意味があり、監視、監視装置をいう言葉である。スタジオ・モニターといえば、スタジオでの検聴を目的としたスピーカーと理解していいであろう。たしかに4343には検徳用スピーカーとしての性能のよさがある。どんなに細かい微妙な音でも正確にきかせてあげようといったきかせ方が4343の特徴といえなくもない。しかしぼくの部屋はスタジオではない(と、当人としては思いたい)。たとえレコードをきくことが仕事であっても、検聴しているとは考えたくない。喜聴していると考えたい。4343でも喜聴はむろん可能である。そうでなければとても五年間もつかえなかったであろう。事実、毎日レコードをきいているときにも、検聴しているなどと思ったことはなく、しっかり音楽をたのしんできた。そういうきき方が可能であったのは、4343の検聴スピーカーとしての性能を信頼できたからといえなくもない。
 4344にも、”STUDIO MONITOR” という言葉がつくのであろうか。ついてもつかなくてもどっちでもかまわないが、4344のきかせる音はおよそモニター・スピーカーらしからぬものである。すくなくとも一般にスタジオ・モニターという言葉が思い起させる音から遠くへだたったところにある音であるということはできるはずである。しかしながら4344はモニター・スピーカーといわれるものがそなえている美点は失っていない。そこが4344のすばらしいところである。
「JBL的」といういい方がある。ぼくの部屋の4343の音は、何人かの方に、「およそJBL的でないいい音だね」といって、ほめられた。しかし、ほめられた当人は、その「JBL的」ということが、いまだに正確にはわからないでいる。さまざまな人のその言葉のつかわれ方から推測すると、おおむね鮮明ではあっても硬目の、ひびきの輪郭はくっきり示すが充分にしなやかとはいいがたい、そして低い方のひびきがかならずしもたっぷりしているとはいいがたい音を「JBL的」というようである。おそらくそのためであろう、根づよいアンチJBL派がいるということをきいたことがある。
 理解できることである。なにかを選ぶにあたってなにを優先させて考えるかで、結果として選ぶものがかわってくる。はなしをわかりやすくするために単純化していえば、とにもかくにも鮮明であってほしいということであればJBLを選び、どうしてもやわらかいひびきでなければということになるとJBLを選ばないということである。しかしながらそのことはJBLのスピーカーシステムが「JBL的」であった時代にいえたことである。
 4343にもまだ多少はその「JBL的」なところが残っていたかもしれない。そのためにぼくの部屋の4343の音は何人かの方に「およそJBL的でないいい音」とほめられたのであろう。もっとも4343のうちの「JBL的」なところをおさえこもうとしたことはない。したがって、もしそのほめて下さった方の言葉を信じるとすれば、結果として非「JBL的」な音になったということでしかない。
 4344にはその「JBL的」なところがまったくといっていいほどない。音はあくまでもなめらかであり、しなやかであり、つまりエレガントである。それでいながら、ソリッドな音に対しても、鋭く反応するということで、4344はJBLファミリーのスピーカーであることをあきらかにしている。
 この4344を試聴したときに、もうひとつのJBLの新しいスピーカーシステムである変則2ウェイの4435もきかせてもらった。これもまたなかなかの魅力をそなえていた。電気楽器をつかっていない4ビートのジャズのレコードなどでは、これできまりといいたくなるような音をきかせた。音楽をホットにあじわいたいということなら、おそらくこっちの方が4344より上であろう。ただ、大編成のオーケストラのトゥッティでのひびきなどではちょっとつらいところがあったし、音像もいくぶん大きめであった。
 4435は音の並々ならぬエネルギーをききてにストレートに感じさせるということでとびぬけた力をそなえていた。しかしいわゆる表現力という点で大味なところがあった。2ウェイならではの(といっていいのであろう)思いきりのいいなり方に心ひかれなくもなかったが、どちらをとるかといわれれば、いささかもためらうことなく、4343のお姉さんの4344をとる。なぜなら4344というスピーカーシステムがいまのぼくがききたい音をきかせてくれたからである。
 いまの4343の音にも、4344の音をきくまでは、結構満足していた。しかしながらすぐれたオーディオ機器がそなえている一種の教育効果によって耳を養われてしまった。4343と4344とのちがいはほんのわずかとはいいがたい。そのちがいに4344によって気づかされた。もう後にはもどれない。
 ぼくの耳は不変である――と思いこめれば、ここでどぎまぎしないでいられるはずである。しかしながら耳は不変でもなければ不動でもない。昨日の耳がすでに今日の耳とはちがうということを、さまざまな場面でしらされつづけてきた。なにも新しもの好きで前へ前へと走りたいわけではない。一年前に美しいと感じられたものがいまでは美しいと感じられないということがある。すぐれたオーディオ機器の教育効果の影響をうけてということもあるであろうし、その一年間にきいたさまざまな音楽の影響ということもあるであろう。ともかく耳は不変でもなければ不動でもない。
 そういう自分の耳の変化にぼくは正直でいたいと思う。せっかく買ってうまくつかえるようになった4343である。できることなら4343をこのままつかりていきたい。しかしながら4344の音をきいて4343のいたらなさに気づいてしまった。すでにひっこみはつかない。
 しかしまだ4344を買うとはきめていない。まだ迷っている。もう少し正直に書けば、迷うための余地を必死になってさがしだして、そこに逃げこんで一息ついている。いかなることで迷うための余地を確保したかといえば、きいた場所が自分の部屋ではなくステレオサウンド社の試聴室であったことがひとつで、もうひとつはS-F1のことである。ぼくの部屋できけば4343と4344ではそんなにちがわないのかもしれないと、これは悪足掻き以外のなにものでもないと思うが、一生懸命思いこもうとしている。
 それにS-Flの音が耳から消えないということもある。この件に関してはS-F1と4344の一騎討ちをすれば解決する。その結果をみないことには結論はでない。
 いずれにしろそう遠くはない日にいまの4343と別れなければならないのであろうという予感はある。わが愛しの4343よ――といいたくなったりするが、ぼくは、スピーカーというものへの愛より、自分の耳への愛を優先させたいと思う。スピーカーというものにひっぱられて自分の耳が後をむくことはがまんできない。

JBL 4343B

瀬川冬樹

ステレオサウンド 59号(1981年6月発行)
特集・「’81最新2403機種から選ぶ価格帯別ベストバイ・コンポーネント518選」より

 発売後五年あまりを経過し、途中でBタイプ(フェライト磁石)に変更のあったりしたものの、こんにち世界じゅうで聴かれるあらゆる種類の音楽を、音色、音楽的バランス、音量の大小の幅、など含めてただ一本で(完璧ということはありえないながら)再生できるスピーカーは、決して多くはない。すでに#4345が発表されてはいるが、4343のキャビネットの大きさやプロポーションのよさ、あ、改めて認識させられる。

「いま私がいちばん妥当と思うコンポーネント組合せ法、あるいはグレードアップ法」

瀬川冬樹

ステレオサウンド 56号(1980年9月発行)
特集・「スピーカーを中心とした最新コンポーネントによる組合せベスト17」より

 オーディオ装置の音を決定づけるのはスピーカーだ。決定とまではゆかないとしても支配する、あるいは方向づけるのが、スピーカーだ。とうぜん、スピーカーが選ばれることで、そのオーディオ装置の鳴らす音の方向は、殆ど決まってしまうことになる。だからこそ、自分自身の装置のパーツを選ぶためには、スピーカーをとめてかかること、が何よりも優先する。スピーカーがきまらないことには、アンプやカートリッジさえ、きまらない。
 このことは、オーディオ装置を考える上での、第一の「基本」といえる。だが、この基本でさえ、ときとして忘れられがちであることを知って、私など、びっくりさせられる。
 たとえば、次のような相談をよく受ける。「○○社製の××型アンプを買おうと思うのですが、このアンプに会うスピーカーを教えてくれませんか」
 アンプが先に決定されて、そのアンプに合うスピーカーを選ぶ──。そんなことはありえない。つねに、スピーカーが選ばれてのちに、アンプが選ばれる。
 あるスピーカーを選ぶ。その人が、どういう理由でそのスピーカーを選んだのか。そのスピーカーの、どんな点に惹かれて選んだのか。そのスピーカーを、どういう音に鳴らしたいのか。そのスピーカーの音が十分に気に入っていたとしても、その反面に、気に入らない部分があるのか、ないのか……。こんなぐあいに、ひとつのスピーカーの選ばれた理由や鳴らしたい音の方向が、こまかくわかってくるにつれて、そのスピーカーを、いっそう良く鳴らすアンプを選ぶことができる。それは、繰り返しになるが、音を鳴らす「要(かなめ)」はスピーカーであって、鳴らしたい音のイメージがはっきりしていれば、そのイメージにより一層近い音のアンプを選ぶことができる、という意味である。
 ヴェテランのマニアには、こんな話はもう当り前すぎてつまらないかもしれない。だが、ちょっと待って頂きたい。理屈の上では判りきったことかもしれないが、それでは、あなた自身、ほんとうに、自分のイメージに最もよく合ったスピーカーを選び、そのスピーカーを自分のイメージに最も近い形で鳴らすことのできるアンプを、ほんとうに、確かに、選び抜いているだろうか。
 なぜ、こんなにクドクドと判りきった念を押すのか、その理由を説明しよう。
 JBLの♯4343といえば、オーディオ愛好家なら知らない人はいない。本誌の愛読者調査(55号)の結果をみるまでもなく、いろいろな調査からも、このスピーカーが、非常に高価であるにもかかわらず、こんにち、日本のオーディオ・ファンのあいだでの、人気第一位のスピーカーであることも、すでによく知られている。実際に、いま日本のどこの町に行っても、オーディオ専門店があるかぎり、まずたいていは♯4343は置いてある。また、個人ですでに所有しておられる人も多い。ということは、ずいぶん多くの人たちが、このスピーカーの音を実際に聴いていることになる。
 オーディオに限らず、なにかズバ抜けて人気の高いものには、また逆に反発や反感も多い。安置JBLをとなえる人もまた少なくない。五木寛之の小説の中にさえ「なんだい、JBLなんてジャリの聴くスピーカーだぜ」とかなんとかいうセリフが飛び出してくる。
 ところでいまこんな話を始めたのは、アンチJBL派に喧嘩を売ろうなどという気持では決してない。それどころか、まったく逆だ。これほど大勢の人が聴いている♯4343の音が、しかしひどく誤解されている例が、近ごろあまりに多い。たとえば、次のような体験が、近ごろ多いのだ。
 全国各地で、オーディオ愛好家の集まりによくお招きを頂く。先方では、私が♯4343を好きなことを知っていて、会場に現物を用意しておいてくださる。しかし、残念ながら、あらかじめセッティングしておいてくださった状態では、とうてい、私の思うような音で鳴っていない。しかし会場は、多くの場合、販売店の試聴室や会議室や集会場といった形で、♯4343の理想的なセッティングなど、むろんとうてい望めない。それは承知の上で、その会場の制約の中で、せめて少しでもマシな、というよりも、レコードを鳴らして話をさせていただく3時間ほどのあいだ、一応我慢のできる程度に鳴ってくれるよう精一杯の設置替えと調整を試みる。それでも、仮に♯4343のベストの状態を100点とすれば、にわか作りのセッティングでは、最高にうまくいったとしても80点。ふつうは70点か60点ぐらいのところで鳴らさざるをえない。50点では話にならないが、それにしても60点ぐらいの音で鳴らさなくてはならないというのは、私自身とてもつらい。
 ところが、話はここからなので、仮にそうして、60点から70点ぐらいの音で鳴らしながら話を終えると、たいていの会場で、数十人の愛好家の中から、一人や二人、「JBL♯4343が、こんなふうな音で鳴るのを初めて聴いた。いままでJBLの音は嫌いだったが、こういう音で鳴るなら、JBLを見直さなくては……」といった感想が聞かれる。私としてはせいぜい60〜70点で鳴らした音でさえ、なのだ。だとすると、♯4343は、ふだん、どんな音で鳴らされているのだろう。
 また、こんなこともよくある。同じように鳴らし終えたあと、専門店のヴェテラン店員のかたに「いゃあ、きょうの♯4343の鳴り方は素晴らしかった。さすがですね」などとほめていただくことがある。これも、私にはひどくくすぐったい。いや、きょうの音はせいぜい65点で、などと言い訳をしても、先方は満更外交辞令でもないらしく、私の言い訳をさえ、謙遜と受けとってしまうありさまだ。すると、いつもの♯4343はどんな音で鳴らされているのか……。
 言うまでもなく、中には数少ないながら、個人で恐らく素晴らしい音で鳴らしておられる愛好家なのだろう。私が会場で鳴らした音を聴いて「あんなものですか?」と言われてこちらがしどろもどろに赤面することも決して少なくない。だがそういう例があるにしても、多くの場合は、私としては不満な音で鳴ったにもかかわらず、その音で、♯4343 の評価を変えた、といわれる方々が、決して少ないとはいえない。
 そのことは、また別の例でも説明できる。上記のように、たまたま鳴らす機会があるときはよいが、先方からのテーマによって、音は鳴らさず話だけ、というような集まりの席上、「♯4343を何度か聴いてみて、少しも良い音にきこえないのだが、専門誌上では常にベタほめみたいに書いてある。あんな音が本当にいいのか?」といった趣旨のおたずねを受ける。そういうときは、その場で鳴らせないことを、とても残念に思う。せめて65点でも、実際に鳴った音を皆で聴きながらディスカッションしたいと、痛切に思う。おとばかりは、百万言を費やしてもついに説明のしきれない部分がある。「百見は一聞に如かず」の名言があるように。
 だが、しかしここでまた声を大にして言いたいのだが、オーディオの音は、なまじ聴いてしまったことで、大きな誤解をしてしまうこともある。いま例にあげた♯4343の音がそうだ。♯4343は、こんにち、おそらく全国たいていのところで鳴っている。誰もがその音を聴ける。だが、良いコンディションで鳴っていなかったために、なまじその音を聴いてしまうと、それが、即、♯4343だと誤解されてしまう。百聞よりも一聴がむしろ怖い。
 JBLの♯4343ひとつについて長々と書いているのは、このスピーカーが、こんにちかなり一般的に広く知られ、そして聴かれているから、例としてわかりやすいと思うからだ。従ってもう少し♯4343の引用を続けることをお許し頂きたい。
 JBLの音を嫌い、という人が相当数に上がることは理解できる。ただ、それにしても♯4343の音は相当に誤解されている。たとえば次のように。
 第一に低音がよくない。中低域に妙にこもった感じがする。あるいは逆に中低域が薄い。そして最低音域が出ない。重低音の量感がない。少なくとも中低音から低音にかけて、ひどいクセがある……。これが、割合に多い誤解のひとつだ。たしかに、不用意に設置され、鳴らされている♯4343の音は、そのとおりだ。私も、何回いや何十回となく、あちこちでそういう音を聴いている。だがそれは♯4343の本当の姿ではない。♯4343の低音は、ふつう信じられているよりもずっと下までよく延びている。また、中低域から低音域にかけての音のクセ、あるいはエネルギーのバランスの過不足は、多くの場合、設置の方法、あるいは部屋の音響特性が原因している。♯4343自体は、完全なフラットでもないし、ノンカラーレイションでもないにしても、しかし広く信じられているよりも、はるかに自然な低音を鳴らすことができる。だが、私の聴いたかぎり、そういう音を鳴らすのに成功している人は意外に少ない。いまや国内の各メーカーでさえ、比較参考用に♯4343をたいてい持っているが、スピーカーを鳴らすことでは専門家であるべきはずの人が、私の家で♯4343の鳴っているのを聴いて、「これは特製品ですか」と質問するという有様なのだ。どういたしまして、特製品どころか、ウーファーの前面を凹ませてしまい、途中で一度ユニットを交換したような♯4343なのだ。
 誤解の第二。中〜高音が冷たい。金属的だ。やかましい。弦合奏はとうてい聴くに耐えない。ましてバロックの小編成の弦楽オーケストラやその裏で鳴るチェンバロの繊細な音色は、♯4343では無理だ……。
これもまた、たしかに、♯4343はよくそういう音で鳴りたがる。たとえばアルテックやUREIのあの暖い音色と比較すると、♯4343といわずJBLのスピーカー全体に、いくぶん冷たい、やや金属質の音色が共通してあることもまた事実だ。ある意味ではそこがJBLの個性でもあるが、しかしそのいくぶん冷たい肌ざわりと、わずかに金属質の音色とが、ほんらいの楽器のイメージを歪めるほど耳ざわりで鳴っているとしたら、それは♯4343を鳴らしこなしていない証拠だ。JBLの個性としての最少限度の、むしろ楽器の質感をいっそう生かすようなあの質感さえ、本当に嫌う人はある。たぶんイギリス系のスピーカーなら、そうした人々を納得させるだろう。そういう意味でのアンチJBLはもう本格派で、ここは本質的な音の世界感の相異である。しかし繰り返すが、そうでない場合に♯4343の中〜高音域に不自然さを感じたとすれば、♯4343は決して十全に鳴っていない。
 第三、第四、第5……の誤解については、この調子でかいていると本論に達しないうちに指定の枚数を超過してしまいそうなので、残念ながら別の機会にゆずろう。ともかく、よく知られている(はずの)JBL♯4343の音ひとつを例にとってみても、このように必ずしも正しく理解されていない。とうぜん、本来の能力が正しく発揮されている例もまた少ない。だとしたら(話はここから本題に戻るのだが)、自分の求める音を鳴らすスピーカーを、本当に正しく聴き分け、選び抜くということが、いかに難しい問題であるか、ということが、ほんの少しご理解頂けたのではないだろうか。
 自分に合ったスピーカーを適確に選ぶことはきわめて難しい。とすれば、いったい、何を拠りどころとしてスピーカーを探し、選んだらよいのか。あるいは、そのコツまたはヒントのようなものがあるのか──。
 残念ながら、確かな方法は何もない。スピーカーに関する限り、その難しさは配偶者を選ぶに似て、ともかく我家に収めて、何ヵ月か何年か、ていねいに鳴らし込み、暗中模索しながら、その可能性をさぐってゆくしか、手がないのだ。そうしてみて結局、何年かつきあったスピーカーが、本質的に自分に合わないということが、あとからわかってみたりする。そうして何回かの無駄を体験しながら、一方では、ナマの演奏会に足繁く通い、またどこかに素晴らしい再生音があると聞けば、出かけていって実際に音を聴かせてもらう。そうして、ナマと再生音の両方を、それもできるだけ上質の音ばかり選んで、数多く聴き、美しい音をそのイメージを、自分の身体に染み込ませてしまわなくては、自分自身がどういう音を鳴らしたいのか、その目標が作れない。そうして、何年かかけて自分自身の目指す音の目標を築き上げてゆくにつれて、ふしぎなことに、その目標に適ったスピーカーが、次第に確実に選べるようになってくる。何と面倒な! と思う人は、オーディオなんかに凝らないほうがいい。
 いまもしも、ふつうに音楽が好きで、レコードが好きで、好きなレコードが、程々の良い音で鳴ってくれればいい。というのであれば、ちょっと注意深くパーツを選び、組合わせれば、せいぜい二〜三十万円で、十二分に美しい音が聴ける。最新の録音のレコードから、旧い名盤レコードまでを、歪の少ない澄んだ音質で満喫できる。たとえば、プレーヤーにパイオニアPL30L、カートリッジは(一例として)デンオンDL103D、アンプはサンスイAU−D607(Fのほうではない)、スピーカーはKEF303。これで、定価で計算しても288600円。この組合せで、きちんとセッティング・調整してごらんなさい。最近のオーディオ製品が、手頃な価格でいかに本格的な音を鳴らすかがわかる。
 なまじ中途半端に投資するよりも、、こういうシンプルな組合せのほうが、よっぽど、音楽の本質をとらえた本筋の音がする。こういう装置で、レコードを聴き、心から満足感を味わうことのできる人は、何と幸福な人だろう。私自身が、ときたま、こういう簡素な装置で音楽を聴いて、何となくホッとすることがある。ただ、こういう音にいつまでも安住することができないというのが、私の悲しいところだ。この音で毎日心安らかにレコードを聴き続けるのは、ほんの少しものたりない。もう少し、音のひろがりや、オーケストラのスケール感が欲しい。あとほんの少し、キメ細かい音が聴こえて欲しい。それに、ピアノや打楽器の音に、もうちょっと鋭い切れ味があったらなおいいのに……。
 そこでカートリッジを一個追加してみる。音の切れ味が少し増したように思う。しばらくのあいだは、その新しい音の味わいに満足する。しかしまた数ヵ月すると、こんどはもう少し音のひろがりが出ないものか、と思いはじめる。この前、カートリッジ一個であれほど変ったのだから、もうひとつ別のカートリッジを追加してみようか?……
 ……どうやら、十分ではないが、一応うまくいったようだ。三個に増えたカートリッジを、レコードによって使い分ける日が何ヵ月か続く。
 だがやがて、もしかするとアンプを新型に交換すれば、もっとフレッシュな音が聴けるのではないか、と思いはじめる。そして次にはスピーカーをもう少し上のランクに……。気がついてみると、最初に買った組合せの中で、残っているのはプレーヤーだけ。しかしいまとなってはそれも、もう少し高級機に替えたほうがいいのじゃないか──。
 多くのオーディオ愛好家が、次から次と新製品に目移りするのは、おそらく右のような心理からだろう。そして気がついてみると、オーディオに凝る、どころか、オーディオ一辺倒にどっぷり浸り込んでしまっている自分を発見して愕然とする。
 このような、いわばオーディオの深い森の中に迷い込まないようにするためには、オーディオ機器およびレコードの録音、さらには音楽の作曲や演奏の様式が、どのような経路をたどってこんにちに至ったか、広く俯瞰しながら大筋を把握しておくことが必要ではないかと思う。少なくともここ十年あまりのあいだに、音楽の録音およびその再生に関するかぎり、単に技術的な意味あいにとどまらず、大きく転換し、かつ展開している。そのことを正しく掴んでいるかぎりは、むやみにオーディオに振り回されることはない。またそれを知ることが、結局は、自分に合ったスピーカーを、アンプを、選ぶための近道にもなるはずだ。
 レコードは、オーディオ装置の音を鳴らす単純な音源ではなく、ひとつの音楽の記録として、ときに人の魂を心底から揺り動かすほどの力を持っている。だからこそ私たちは、レコードの録音年代の古さ新しさに関係なく、自分の好きな音楽、好みの演奏家のレコードを探し求め、大切に保存して、何回も聴きかえす。
 だがそれをオーディオ再生装置の側から眺めると、少なくともステレオ化された1958(昭和33)粘以降の二十数年間に話を限ったとしても、ずいぶん大きな変化がみられる。
 まず、ステレオ化直後の頃の、録音機材すべてに真空管の使われていた頃。そして、マルチトラックでなく、比較的自然な楽器の配置に、シンプルなマイクアレンジ。ヴェロシティマイクの暖かく柔らかい音質。
 やがてトランジスターに入れ代りはじめるが、コンシュマー用のアンプが、初期のトランジスター時代にひどく硬い、いやな音を鳴らしたようにプロ用といえども、TR(トランジスター)化の初期には、録音機材にもずいぶん硬い音のシステムがあった。ノイズも少なくない。
 マルチマイク・マルチトラックがとり入れられた初期には、その複雑なシステムを消化しきれずに、ずいぶん音のバランスのおかしな録音があった。また、その頃から広まりはじめたロックグループの新しい音楽では、電気楽器・電子楽器が使われたために、スピーカーから一旦鳴らした音をもういちどマイクで拾うという、それまでにない録音法に、技術社のとまどったあとがみられ、ひどく歪んだ音のレコードがたくさん残っている。ロックのレコードは音が悪いもの、と相場がきまっていた。
 トランジスターの機器の性能向上、コンデンサーマイクの主流化、マルチトラック録音の定着……それをもとにした新しい録音技法が真に完成の域に達したのは、ほんのここ数年来のことといってよい。しかし、ここ数年来に作られた新しい録音のレコードの中には、クラシック、ポピュラーを問わず、従来、名録音と称賛されたようなレコードと比較してもなお、音のダイナミックス、、とくに強音での伸びのよさと、弱音でのバックグラウンドノイズのほとんど耳につかないほどの静けさ。そしてどんなに音が重なりあったときでも、歪や混濁感のない透明で繊細な解像力の良さ。十分に広い周波数レインジ……等、どこからみても、素晴らしい出来栄えで聴き手を喜ばせてくれるものが増えている。
 とうぜん、この新しい録音のレコードの新鮮な音を十全に聴きとるためには、再生装置の能力にもまた、これまでとは違った内容が要求される。しかし一方では、そういう新しい装置で、古い録音のレコードを再生したら、録音のアラやノイズばかり耳ざわりになるのではないか、といった愛好家の心配もあるようだ。そのあたりをふくめて、この辺でそろそろ、再生装置の各論に入ることにする。
 自分に合ったスピーカーを選ぶ適確に選ぶ手軽な方法はない、とは言ったけれど、だからといって、何の手がかりもないわけではない。ことに、前記のように、どのようなレコードを、どのようなイメージで鳴らしたいのか、というひとつの設問を立ててみると、そこから、スピーカーの目のつけかたの、ひとつの角度が見えてくる。
     *
 クラシックとポピュラーとで、それに適したスピーカーがそれぞれ違うか、という問題には、そう単純明快な解答はできない。だいいち、クラシックとポピュラーといった漫然とした分類では、スピーカーの鳴らす音のイメージは明確にならない。そこで、次のような考えかたをしてみる。
 クラシック音楽とそれ以外のさまざまなポピュラー音楽との、オーディオ的にみてのひとつの大きな違いは、PA装置(拡声装置、マイクロフォン)を使うか使わないか、という点にある。言うまでもなく、クラシックのコンサートでは、どんなに広いホールでの演奏であっても、そして、それがギターやチェンバロのような音量の非常に小さな楽器の場合でも独唱の場合でも、特殊な例外はあるにしても原則としてPAは使わない。従って聴衆は、常に、ナチュラルな楽器や声を、そのまま自然な姿で耳にする。また、音楽ホールのステージで演奏され、客席で聴く音は、音源(楽器や声)からの直接ONよりも、ホールのあちこちに反響して耳に到達する間接音、いわゆるホールトーンのほうが優勢で、とうぜん、クラシックの音楽は、ホールのたっぷりした響きが十分にブレンドされた形で記憶に残る。ただ、楽器を自分で演奏できる人たちや、ときにプロの演奏家が、ごく内輪に個人の家などで楽しむコンサートの場合には、ふだんホールで遠く距離をおいて聴くのとは全く違う生々しい音が聴きとれる。ヴァイオリンの音を、演奏会場でだけ聴き馴れた人が、初めて、目の前2〜3メートルの距離で演奏される音を聴くと、その音量の大きなことと、意外に鋭い、きつい音や、弓が弦をこする音、弦をおさえた指が離れるときの音、などの附帯雑音が非常に多いことに驚いたりする。
 このように、同じクラシックの楽器でも、原則的にホールで演奏される音をほどよい席で鑑賞するイメージを再生音(スピーカー)に求める場合と、楽器を自分で奏でたりすぐ目の前で演奏されるのを聴く感じを求めるのとでは、それだけでもずいぶん大きな違いがある。
 一般的に言えば、クラシック音楽を、ホールのほどよい席で鑑賞するイメージをよく再現するのは、おもにイギリスで開発されたスピーカーに多い。そして、新しい録音のレコードの音を十全に再生するには、その中でも開発年代の新しい、いわゆるモニタータイプのスピーカーに目をつけたい。たとえば、KEFの104aBや105/II、ハーベスのモニターHL、スペンドールのBCIIやBCIII、あるいはロジャースのエクスポート・モニターや、新型のPM210、410、510のシリーズ、そしてBBCモニターのLS5/8……。
 しかし、楽器が眼前で演奏されたときの鮮鋭なイメージを求めてゆくと、これは、イギリス系のスピーカーでは少し物足りない。やはりJBLのスタジオモニターのシリーズ(たとえば♯4343)や、アルテックの604の系統、同じスピーカーをベースにしたUREIのような、アメリカのモニタースピーカーが、そのようなイメージを満たしてくれやすい。
 さて、ポピュラーに目を転じる。ポピュラーとひと口に言っても、クラシックジャズからモダンジャズ後期に至るジャズの再生と、それ以後のクロスオーバーからフュージョンに至る音楽とでは、前者が原則的にPAを使わないで、楽器も古典的なナチュラルな楽器を前提としているのに対して、後者は、エレキギターからシンセサイザーに至る電気楽器・電子楽器を多用して、またそうした楽器と音色や音量のバランスをとるために、たとえばドラムスでもチューニングを大きく変えて使うというような点を考えてみても、それに適合するスピーカーの考え方は大幅に異なってくる。
 たとえばモダンジャズを含む50年代ジャズを中心に(仮にその時代のスタイルで新しく録音し直したレコードであっても)ジャズらしさを十分に再現したいと相談を受けたとしたら、私はたとえば、次のようなスピーカーを一例として上げる。
 ユニットは全部JBLだが、完成品でなく、パーツを購入して組み上げる。
 ウーファーは2220H(130H)、エンクロージュアは4530BK。場所が許せば4520BKに、ウーファーを2本入れる。あるいは4560BKA(フロントロードホーン)でエネルギーを確保して、最低音用として3D方式で補うという手もある。
 中音は376または2441。ホーンは、2397が人気があるようだが、私なら2395(HL90)にする。これに075トゥイーターを組合わせたときの、スネァドラムやシンバルの音の鮮烈な生々しさは、まるで目の前で楽器が炸裂するかのようで、もうそれ以外のユニットが思いつかないほどだ。ネットワークも、絶対にJBLオリジナルを使う。低←→中の間は3182、または3152。中←→高の間は3150またはN7000。LCでなくマルチアンプでも、うまく調整できればよい。
 少なくともこのシステムで、私は、クラシックを聴くことは全く考えもつかない。徹底してジャズにピントを合わせたスピーカーである。
 もちろんこのままでも、クロスオーバーやフュージョンが楽しめなくはない。けれど、それらの音楽は、ジャズにくらべると、もっと再生音域を広げなくては、十分とはいえない。たとえば、トゥイーターが075では、シンセサイザーの高域の倍音成分の微妙な色あいや、音が空間を駆けめぐり浮遊する感じを、十分に鳴らしにくい。そういう音を鳴らすには、同じJBLでも2405が必要になる。けれどスネァやシンバルのエネルギー感、実在感について、075を一旦聴いてしまうと2405の音では細く弱々しくて不満になる。
 低音についても、シンセサイザーの作り出すときに無機的な超低音や、片張りのバスドラムのストッと乾いた音は、ホーンロードスピーカーでは、必ずしも現代的に再現できるとはいいにくい。ここはどうしても、JBLの新しいエンクロージュアEN8Pまたは8Cに収めたい。中音は前記のままでよいが、ネットワークは新型のLX50AとN7000が指定される。このシステムは、たとえばロックあるいはアメリカの新しいポップスのさまざまな音楽に、すべて長所を発揮すると思う。さらにまた、日本のニューミュージック系にもよい。
 日本の、ということになると、歌謡曲や演歌・艶歌を、よく聴かせるスピーカーを探しておかなくてはならない。ここではやはりアルテック系が第一に浮かんでくる。620Bモニター。もう少しこってりした音のA7X……。タンノイのスーパーレッド・モニターは、三つのレベルコントロールをうまく合わせこむと、案外、艶歌をよく鳴らしてくれる。
 もうひとつ別の見方がある。国産の中級スピーカーの多くは、概して、日本の歌ものによく合うという説である。私自身はその点に全面的に賛意は表し難いが、その説というのがおもしろい。
 いわゆる量販店(大型家庭電器店、大量販売店)の店頭に積み上げたスピーカーを聴きにくる人達の半数以上は、歌謡曲、艶歌、またはニューミュージックの、つまり日本の歌の愛好家が多いという。そして、スピーカーを聴きくらべるとき、その人たちが頭に浮かべるイメージは、日頃コンサートやテレビやラジオで聴き馴れた、ごひいきの歌い手の声である。そこで、店頭で鳴らされたとき、できるかぎり、テレビのスピーカーを通じて耳にしみこんだタレント歌手たちの声のイメージに近い音づくりをしたスピーカーが、よく売れる、というのである。スピーカーを作る側のある大手メーカーの責任者から直接聞いた話だから、作り話などではない。もしそうだとしたら、日本の歌を楽しむには、結局、国産のそのようなタイプのスピーカーが一番だ、ということになるのかどうか。
 少なくとも右の話によれば、国産で、量販店むけに企画されるスピーカーは、クラシックはもちろん、ジャズやロックやその他の、西欧の音楽全般に対しては、ピントを合わせていない理くつになるわけだから、その主の音楽には避けるべきスピーカーということにもなりそうだ。
 話を少しもとに戻して、録音年代の新旧について考えてみる。クラシックでもポピュラーでも、真の意味で録音が良くなったのはここ数年来であることはすでにふれた。これまでにあげてきた少数の例は(ジャズのケースを除いては)、そうした新しい音の流れを前提としたスピーカーである。しかし、それらのスピーカーで、古い年代の録音が、そのまま十分に楽しめるか。それともまた、古い年代の録音を再生するのに、より1層適したスピーカーというものがあるのかどうか。
 ある、と言ったほうが正しいように思う。仮に、ステレオ化(1958年)以後に話を限ってみても、管球時代の暖かい自然な音を録音していた前期(1965年前後まで)と、TR化、マルチトラック化、マルチマイクレコーディングの、過渡期である中期(60年代半ば頃から70年代初め頃まで)、そして新時代の機材の性能向上と、録音テクニックの消化された70年代半ば以降からこんにちまで、という三つの時代に大きく分類ができる。この中で、いわば過渡期でもある中期の録音は、出来不出来のバラつきが非常に大きい。おそろしく不自然な音がある。ひどく歪んだ(ことにロック系の)音がある。やたらにマルチマイク・マルチトラックであることを強調するような、人工臭ぷんぷんの音もある。ステレオの録音に関するかぎり、1960年代の前半までと、70年代後半以降に、名録音が多く、中期の録音には注意した方がいいというのが私の考え方だ。
 それはともかく、ステレオ前期の録音をそれなりに楽しむには、むろんこんにちの最新鋭のスピーカーでも、さして不自然でなく再生できる例が多い。けれど反面、鑑賞にはむしろ邪魔なヒスノイズやその他の潜在雑音が耳障りになったり、音のバランスが多少変って、本来の録音よりもいくぶん冷たい肌ざわりで再生されるということも少なくない。
 そういう理由から、古い録音を再生するのに、一層適したスピーカーがある、という考え方が出てくるわけだ。
 たとえばクラシックなら、イギリスのローラ・セレッションのディットン25や66、あるいはデドハム。またはヴァイタボックスのバイトーン・メイジュアやCN191コーナーホーン・システム。また、もしも中古品で入手が可能なら、タンノイ社製のオリジナルGRFもオートグラフ、あるいは旧レクタンギュラー・ヨーク、など(国産エンクロージュア入りのタンノイは、私はとらない)。またアメリカなら、やはりアルテック。620BモニターやA7X。
 これらに共通しているのは、適度のナロウレインジ。低域も高域も、適度に落ちていて、そして中域にたっぷりと暖かみがある。そういうスピーカーが、古い録音を暖かく蘇らせる。
 その意味からは、必ずしもクラシックと話を限らなくとも、ポピュラー音楽全般についてもまた、似たことがいえる。ただ強いていえば、やはりポップス系は、イギリス系よりもアメリカ系のほうがその特長をよく生かす傾向のあること。イギリス系のスピーカーでポップスを鳴らすと、どうも音が渋く上品に仕上りすぎる傾向がある。ということは見方を変えれば、ストリングス・ムードやイージー・リスニング、あるいは懐かしいポピュラーソングなど、イギリスのスピーカーで特長を生かすことのできる音楽もむろんあるわけだ。だがそれにしてもやはり、私自身の感覚ではどうしても、イギリスのスピーカーの鳴らすポップスの世界は概して渋すぎる。
 ここまでは、スヒーカーを聴くときの拠りどころを、ひとつは録音の年代の新旧、もうひとつは音楽の音の性格の違い、という二つの角度から眺めてきた。しかし本当は、これは何の答えにもなっていない。というのは、ここに、ひとりひとりの聴き手の求める音のありかた、求める音の世界という、これこそ最も本質的に重要な条件をあはてはめてゆかなくてならないからだ。聴き手不在のオーディオなど、何の意味もありはしない。
 では聴き手の求める音、というものを、どう分類してゆくべきか。これも答えは多岐に亘る。
 たとえば音量の問題がある。これには音を鳴らす環境の問題もむろん含まれる。遮音の良好なリスニングルームで、心ゆくまで豊かな音量を満喫したい人。しかし反対に、そういう恵まれたリスニングルームを持っていてもなお、決して大きな音量を好まない人も少なからずある。一人の同じ人間でも、一日のうちの朝と夜、その日の気分や聴く曲の種類などに応じて、音量をさまざまに変化させるが、それにしても、平均的に、かなりの音量で楽しむ人と、おさえた音で聴くことの好きな人とに、やはり分かれる。
 大きな音量の好きな人には、アメリカ系のスピーカーが向いている。これまでにまだ登場していない製品を含めて、アメリカのスピーカーは概して、大きな音量で朗々と鳴らして楽しむのが、スピーカーを活かす使い方だ。
 反対に、小音量の好きな人は、イギリス系のスピーカーに目をつける。イギリスのスピーカーは、概してハイパワーを入れると音が十分に伸び切らないし、大きな音量を出すことを、設計者自身が殆ど考えていないようだ。イギリス人と一緒にレコードを聴いてみると、彼らがとても控えめな音量でレコード鳴らすことに驚かされる。そういう彼らの作るスピーカーは、とうぜん、小さな音量で鳴らしたときに音がバランスよく美しく聴こえるように作られている。
 音量の次には、音色の傾向があげられる。たとえば音のクリアネス、あるいは解像力。どこまでも、細密画のようにこまかく音を鳴らし分けるような、隅々まで見通せるようないわゆる解像力の高い音を求めるか。反対に、そういう細かい音は神経が疲れてしまうから、もっと全体をくるみ込んでしまうような音。前者が製図ペンや面相筆で細かく描き込んだ細密画なら、後者は筆太のタッチで、大らかに仕上げたという感じの音。
 解像力の優れているのは、やはり新しいモニタ系のスピーカーだ。そこに音量の問題を重ねてみると、高解像力・小音量ならイギリスの中型モニター。高解像力・大音量ならどうしてもJBLのスタジオ・モニタ、となるだろう。
 ふわっとくるみ込むような柔らかい音。そして小音量でよいのなら、前述のディットン245や、スペンドールのBCII。少しぜいたくなところでロジャースPM510。これはモニター系のスピーカーであるにもかかわらず、耳あたりのいいソフトな音も鳴らせる。
 ソフトタッチ、しかし音量は大きく、となるとここはアルテックやUREIの独壇場になる。それも、高音を少々絞り気味に調整して鳴らしたい。
 音のエネルギーの問題もある。とくに、新しいポップスの録音。たとえばシェフィールドのダイレクトカットの録音などを聴いてみると、これは、音に本当の力のあるスピーカーでなくては、ちっともおもしろくないことがわかる。その上で、十分にレインジが広く、そして音の質感がよく、良い意味で音がカラッと乾いていなくてはならない。となるとここはもう、イギリスの出番ではない。アルテックでもない。いや、あるてっくならせい一杯がんばって6041。しかしここはどうしてもJBLスタジオ・モニターだ。
 だが、ここにもっと欲ばった要求をしてみる。クラシックも好き、ジャズやロックも気が向けばよく聴く。ニューミュージックも、ときに艶歌も聴く。たまにはストリングス・ムードなどのイージー・リスニングも……。そういう聴き方だから、レコードの録音も新旧、内外、多岐に亘り、しかも再生するときの音量も、深夜はひっそりと、またあるときは目の前でピアノやドラムスが直接鳴るのを聴くような音量まで要求する──としたら?
 これは決して架空の設定ではない。私自身がそうだし、音楽を妙に差別しないで本当に好きで楽しむ人なら、そう特殊な要求とはいえない。だとしたら、どういうスピーカーがあるのか。
 再生能力の可能性の、こんにち考えられる範囲でできるだけ広いスピーカー、を選ぶしかない。となると、これが最上ではないが、といってこれ以外に具体的に何があるかと考えてみると、結局、これしかないという意味で、やはりJBL♯4343あたりに落ちつくのではないだろうか。あるいは、この本の出るころにはサンプルが日本に着くはずの、JBLの新型♯4345が、その期待にいっそう応えてくれるのかもしれない。
 スピーカー選びについて、いくつかのケースを想定しながら、具体例をいくつかあげてみた。次号では、これらのスピーカーを、どう鳴らしこなすのか、について、アンプその他に話をひろげて考えてみる。

JBL 4343B

菅野沖彦

ステレオサウンド 55号(1980年6月発行)
特集・「’80ベストバイコンポ209選」より

 JBLのプロシリーズ中の代表的製品。4ウェイ・4ユニット構成のワイドレンジ・ヴァージョンで、広い周波数帯域でかつその間が高密度で充実した再生音の厚味はみごとなものだ。SFG磁気回路採用の新型ウーファーになった、Bタイプにおける音の改善はかなり顕著で、低域から中域にかけて、よりしなやかに、そして全帯域にわたって、よりスムーズな連りを聴かせる。

JBL 4343BWX

瀬川冬樹

ステレオサウンド 54号(1980年3月発行)
特集・「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」より

 本誌所有のリファレンスの旧4343との比較には、何度も置き場所を入れかえて時間をかけた。並べて切替えたのでは、置き場所による音のちがいかそうでないかの判別ができない。さてその結果は、ミッドバスの領域では明らかに改善の効果が聴きとれ、歪が減ってすっきりと滑らかで透明感が増して、音像の輪郭がいっそうクリアーになったと思う。しかし低音に関しては、とくに重低音域では、旧型のキリッと引締って、しかしゆるめるべきところはゆるめて、ブースのアルコの甘いブーミングトーンがいかにも弦の振動しているような実感をともなって感じられる点が私には好ましい。Bタイプでは旧型より暖かみが増していて、総体的には、新型のほうが音のつながりが滑らかだし、ふっくらしている。ある意味では旧型のほうがキリリっと締って潔癖か。音量を絞り込んだときの音像のクリアネスでは、旧型がわずかによいのではないか。しかし厳密な比較をしないで、単独で聴かされたら、ちょっと気がつかないかもしれない。

総合採点:10
●9項目採点表
❶音域の広さ:10
❷バランス:10
❸質感:10
❹スケール感:10
❺ステレオエフェクト:9
❻耐入力・ダイナミックレンジ:10
❼音の魅力度:10
❽組合せ:あまり選ばない
❾設置・調整:やや工夫要

JBL 4343BWX

黒田恭一

ステレオサウンド 54号(1980年3月発行)
特集・「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」より

 これはすばらしい。JBL4343の旧タイプにはない魅力が、ここにはある。個々の音が充分にみがきあげられているということでは、旧タイプと同じだが、旧タイプにはなかった一種の開放感がここにはある。別のいい方をすれば、音色面で、旧タイプの音よりあかるくなっているということになるだろう。旧タイプの音に多少のつめたさを感じていた人は、このスピーカーの音の、旧タイプのそれに比べればあきらかにふっくらとした音にひかれるにちがいない。旧タイプとの一対一比較で試聴したが、その結果、旧タイプの音にいささかの暗さがあったということを認めざるをえなくなる。しかし、だからといって、旧タイプの音の魅力になっていたあの精緻な表現力が失われているというわけではない。さまざまな面から考えて、旧タイプの音より、音の魅力ということでこっちの方が一枚上だと、認めざるをえなかった。

総合採点:10

試聴レコードとの対応
❶HERB ALPERT/RISE
(好ましい)
❷「グルダ・ワークス」より「ゴロヴィンの森の物語」
(好ましい)
❸ヴェルディ/オペラ「ドン・カルロ」
 カラヤン指揮ベルリン・フィル、バルツァ、フレーニ他
(好ましい)

JBL 4343BWX

菅野沖彦

ステレオサウンド 54号(1980年3月発行)
特集・「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」より

 JBLの大型システムの代表といってよい♯4343Bは、低・中低域ユニットのマグネットが従来のアルニコからフェライトに変ったモデルだ。すでに高級システムのベストセラーとして多くの愛好家のリスニングルームに設置されているこのシリーズの定評は、もはやゆるぎないものとなっている。磁気回路の変更がシステム全体として音にどう現われるかが、興味と注目の的であったが、その結果は一口にいって改善といえるものだ。♯4343については今さら述べるまでもないかもしれないが、これだけワイドレンジ(周波数帯域、ダイナミックレンジとも)で、しかもレンジ内の密度が高く、バランスの整ったスピーカーは珍しい。Bタイプになってもそれは全く変らないが、一段と音のきめが細かく、全体にしなやかさを増した。特に低域に改善の印象が強く、今まで耳につく歪感があったとはいわないが、一層純度の高い緻密な低音の感触が聴けるようになった。全体に、明らかに洗練度が高くなったことはうれしい限りだ。

総合採点:10

♯4343をマーク・レビンソンでバイアンプ・ドライブする試み(その2)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 53号(1979年12月発行)
「JBL♯4343研究(3)」より

     *
 さて、いよいよ接続だ。まず、12台のアンプと6個の電源ユニット、それにプレーヤーユニットを、できるだけ合理的に配置しておかないと、あとでひどい目に合う。
 プレーヤーと、2台のJC1ACはひとまとめにする。ML6はそこからLEMOコードの届く範囲にあればよいが、操作上はプレーヤーの近くにある方が便利だろう。ML6と電源ユニットを結ぶコードは、なぜか非常に短いので、置き場所によっては、ML6用の二台の電源ユニット(PLS153L)は、タテに置くことになるかもしれない。
 LNC2Lは、一旦調整がすめばあとはめったにいずらないから、必ずしもML6と並べて置く必要はないが、今回は実験のためにML6と重ねて配置した。このとき注意すべきことは、ヘッドアンプのJC1ACは電源ユニットからハムを引きやすいので、JC1AC用の電源ユニットは、できるかぎりJC1ACから遠ざけて設置するよう工夫が必要になる。
 実験でなくこのシステムをもし自家用として試みられるような場合には、ML6の出力コードは相当に長く延長が可能だから、プレーヤー、ヘッドアンプ、プリアンプまでを手もとにひとまとめにして、LNC2Lはむしろパワーアンプ寄りにどこかに隠して設置するほうがスマートかもしれない。
 パワーアンプは、原則としてスピーカーに近づけたい。実験では、6台を横一列にスピーカーの直前に並べてしまったが、常用とする場合には、ラックマウント等の工夫が必要だろう。ただ、ML2Lは発熱が相当に大きいので、上下に重ねる場合には、2台のシャーシの間隔を最低6・5インチ(約17cm弱)以上は離すように、レビンソンは言っている。
 こうして配置を考えた上で、各アンプ間を必要最少限の長さのコードで結ぶ。実験では殆ど1・5mのコードで足りたが、実際には部分的にもっとはるかに長いコードが必要になるだろう。プレーヤー(アーム)からJC1AC、そしてML6の入力までは、できるかぎり短くする。また、パワーアンプからスピーカーまでのコードも、できるだけ切りつめたい。それ以外の部分は、配置上必要なだけ延ばして一応問題ないと考えておいてよい。
 各パーツ間の接続の概略図を図に示す。これはステレオの片チャンネルのみで、また電源ユニットの接続は図に入っていない。必要に応じて各アンプ間でアースを接続する。とくにターンテーブルおよびアームからのアース線と、JC1ACおよびML6の相互は、設置条件によってハム対策上いろいろ工夫の必要の生じることもあるかもしれない。実験では、アームのアースはML6のアース端子に結び、それとは別にJC1ACのシャーシ下でカバーをとめているネジからアース線を出して同じくML6のアース端子に落した。
 すでに紹介した本誌51号の♯4343研究第一回で、マルゴリスは、このスピーカーは本来、2π空間(半球自由空間)を基準にラジエイション(放射)パターンを設計しているので、原則としては壁に埋め込んだ形で使うことが望ましい、と述べ、さらに、床の上に直接、つまり床と壁に接して置かれた状態やましてコーナーへの設置は好ましくないことを言っている。けれど大切なことはそのすぐあとで「モニタールームにおいてでも、理想的な設置条件はこうだとは一概にいえないのです。ましてや、音響条件が千差万別な一般の方のリスニングルームでのセッティングには基準がありません。それぞれの部屋によって全く変ってしまうといっても過言ではありません」とつけ加えている。
 現実に私の部屋では、写真でみられるとおり、床の上に何の台を介さずに直接、背面を殆ど壁に接して置いている。この状態で、マルゴリスも前記の記事中で指摘しているような、低域のブーミングが多少感じられる。しかし私の場合は、クラシックの再生にどちらかといえば重点を置くために、いくぶん音量をおさえて再生したとき、いまの程度ぐらいに低域がややふくらむ傾向のほうが好ましいので、あえて何か台に乗せるということをしていない。もしもポップス系の低音のリズム楽器を、もっと引締めた感じで聴きたいと思えば、ほんのわずか(数センチ)持上げたほうがよいように思う。
 ただ、壁面の材質、工法、そして部屋の構造やその音響的特性などによっては、マルゴリスもいうように、全く別の置き方がよい場合もしばしば起りうる。
 私の場合は、別項に連載中のリスニングルームの構造で説明してあるように、床・壁とも、きわめて堅固な構造であり、また、低音域までほとんどフラットな音響特性を得ているという前提で、右のような置き方でうまくいっている。これも別項のJBLの新しいSFGユニットの解説中にもふれているように、この置き方のまま、来日したマルゴリス氏にも聴いてもらったが、彼はスピーカーの置き方については何も言わなかった(あるいは何か意見があったのを遠慮していただけかもしれないが)。
 少なくとも私の知るかぎり、♯4343を鳴らしておられる多くの方々や販売店、ショールーム等では、殆ど例外なしに♯4343をブロック等の台の上に乗せ、また多くの場合、背面も壁から離した状態でセッティングされている例が多いようだ。しかし、そのたいていの場合、概して低音が殆ど出ないか、あるいは逆に妙に共鳴性の嫌な低音が鳴っていることが多いように思える。♯4343の低音域については、あまりほめない人が多いのも、半分はその設置の方法が原因ではないだろうか。そういう私自身も、いまの置き方をみつけるまでは、♯4343の低域を必ずしも良いとは思っていなかったが、近ごろは自宅以外でも、まず台を外して床の上に直接置いてみることにしている。また背面の壁がガラン洞のタイコ張りなどでないかぎり、できるだけ壁に寄せてみる。スピーカーを置く、というと、反射的に、何か台を、という習慣は、考え直してみる必要がありそうだ。ブックシェルフ型は別として……。
 もうひとつ、♯4343はスーパートゥイーター(UHF)♯2405が、HFユニット(音響レンズ)の左右どちらかに自由につけかえられる。バッフルを外してつけかえる作業は、ひとりではちょっと難しいが、できるかぎり左右対称になるよう、片方の♯4343のUHFユニットをつけかえることが望ましい。そういう私も無精をきめこんでこのあいだまで手を加えていなかったが、今回の実験を機会に、編集部の諸氏の手を借りてつけかえた。
 ところでこのトゥイーターが、外側に対称になるようにするか、ともに内側になるようにするか、が問題になる。水平方向のラジエイションパターンを考えに入れると、互いに内側になるように設置する方が、音質も音像定位も概して良好である。
 ただし、スピーカー設置面の左右の幅があまり広くなく、しかもスピーカーに近い左右の壁面が、たとえば堅い板材、ブラスター、ガラス等、高音域を吸収しない材質である場合には、わざとトゥイーターが外側になるように設置すると、壁からの反射音の里謡で、独特の音のひろがり感の得られることもある。ただ音像の定位が甘くなるのは止むをえない。しかし左右の壁面が布張りその他、超高音域で吸収性の材質である場合は、壁にトゥイーターが近いとそのエネルギーが吸収されてしまい、逆に音の輝きや繊細さが損われる。
 2台の♯4343を、左右にどのくらい離したらよいのか。マルゴリスは最低2メートルと言う。3メートルくらいあけられれば相当に音のひろがりが期待できるが、しかし、そのためにスピーカーの両側の空間がほとんど無くなってしまうことは、概して好ましくない。いま私の家では、中心から中心まで約2・6メートル、バッフル面から耳までの直線距離約3メートルになっている。バッフル面は、真正面を向けずに、耳に向けてやや内側に傾ける。スピーカーの背面の、壁から離れた方の壁との距離は13センチほどで、この傾きによって、高音域の指向性パターン(放射パターン)が変化して音像定位や音の輪郭の明瞭度が変化すると同時に、低音の特性もまた若干変化して、音全体のバランスが変る。それぞれの部屋での最良の置き方を発見するまでには、数ヵ月はかける覚悟が必要かもしれない。
 バイアンプ(マルチチャンネルアンプ)システムの調整は非常に難しいものとされている。しかし、今回のこのシステムでは、調整はむしろ非常にやさしい。それは、スピーカーの♯4343がすでに完成しているシステムであること。および、,アンプのすべてをレビンソンで統一しているために、使用アンプによるゲイン差や、入出力の位相関係などに頭を悩ます必要が全くないからだ。
 調整の必要なのは二ヵ所。ひとつはLNC2Lの低音(LOW)側のレベル調整。もう一ヵ所は♯4343のアッテネーターの調整。しかし♯4343のほうは、粗調整の段階ではすべてを「0」ポジションに合わせておき、手を加えない。
     *
 接続にまちがいのないことを十分に確かめた上で、電源を入れる。アンプだけでも12台のスイッチを入れるのだからたいへんだ。この際、原則として入力側から、即ちJC1AC→ML6→LNC2L→そして高音用のML2L、最後に低音用のML2Lを2台ずつ……という順序をとる。間違ってもパワーアンプ側を先にしないこと。そして、ブリッジ接続の2台のML2Lは、なるべく同時に電源を入れること。
 まずLNC2LのレベルコントロールのLOWを、目盛50・0のところまで絞る。測定器用のバーニアダイアル式の独特のボリュウムコントロールなので、使い馴れない人はちょっとまごつくかもしれない。ダイアル左側の小レバーを、下におろすとロック、上にあげると解除になる。レバーを上に上げて、ツマミを回す。これがバーニア目盛になっていて、微調目盛を10目盛回すと、外側の目盛がひと目盛動く。デシベルで目盛ってないが、これは直線変化型のボリュウムなので、簡単に計算ができる。セミログ(片対数)のセクションペーパーか、計算尺があれはもっと容易だが、念のため、目盛のパーセンテージと減衰量dBの関係を示しておく。50・0まで絞ることは、-6dB絞ることを意味する。

0dB:100 %
– 1dB: 89 %
– 2dB: 79 %
– 3dB: 71 %
– 4dB: 63 %
– 5dB: 56 %
– 6dB: 50 %
– 7dB: 44.5%
– 8dB: 39.5%
– 9dB: 35.5%
-10dB: 31.5%
-11dB: 28 %
-12dB: 25 %
-13dB: 22.5%
-14dB: 20 %
-15dB: 18 %
-16dB: 16 %
-17dB: 14 %
-18dB: 12.5%
-19dB: 11.2%
-20dB: 10 %

 6dB絞る理由は簡単だ。ML2Lを2台ブリッジに接続すると、出力は4倍に増す。8Ω負かで公称25ワットが100ワットになる。言いかえれば一台のML2Lより6dBアップすることになる。一方、はバイアンプ接続にスイッチを切替えても、前述のようにアッテネーター回路が外れないから、もしもパワーアンプがまったく同一のもの(例えば高・低いずれもML2L一台ずつ)なら、LNC2Lのレベルコントロールは全くいじる必要がない。(全開=目盛100%のままでよい)。低音側をブリッジ接続したことにより6dBアップした分を、LNC2Lのアッテネーターで絞っておく、という意味である。厳密には、♯4343をバイアンプに切替えることによって、ウーファー側のーローパスフィルターが回路から外れるため、フィルターの挿入損失分だけはレベルが上ることになるが、そういうこまかな問題よりも、リスニングルームの特性やスピーカーの設置条件による低域特性の変化、そしてリスナーの求める音までを総合的に含めた聴感補整のための、これからあとの微調整のプロセスに、そうした問題はすべてくるみ込まれてしまう。
     *
 接続にまちがいのないかぎり、もうこの段階で大まかな調整はできたことになり、このまま何かレコードをかけてみれば、一応整ったバランスで鳴ってくる。あっけないようだが、ほんとうだ。むしろこれ以前の接続とそのチェックのほうに、よっぽど神経を使う。けれど、ここからあとの音の仕上げ──微調整──となると、ことは案外めんどうになってくる。そのひとつに、AC電源のプラグの向きを揃える作業がある。
 セパレートアンプを使っている人で、ちょっと神経のこまかなかたなら、プリとメインのACのプラグを、それぞれ逆向きに差し換えてみると、音質が微妙に違うことに気づく。プラグの向きをひっくり返しても、交流電源にはプラスマイナスなどあるはずがない。……それは理屈で、実際には、たとえば五味康祐氏も「西方の音」のなかでもう十年以上も前から、プラグのさしかえで音質の変ることを指摘しておられた。こういう問題には、なまじ理屈を知った人間のほうが最初は懐疑的だったが、最近では各メーカーの技術者たちもこの現象を問題にしはじめ、すでに一部のメーカーの製品は、シャーシー内部の配線からACプラグまでの方向性を統一しはじめている。プラグの差しかえによる音質の変化は、装置のグレイドが上るほどよく聴き分けられるし、また、この実験のようにアンプの数が増えてしかもモノーラル構成であるような場合、ACプラグの数が非常に多くなるため、幾何級数的に複雑化する。接続し終ったアンプを、やみくもに差しかえていても、とても問題は解決しない。
 そこで話が前後するが、この点に基本的な方向づけをするためには、まず、レビンソンのアンプを、最もシンプルな形で聴きながら、基本を整理しておくほうがよい。つまりバイアンプ接続以前に、ML6+ML2L(各二台)という、ごくふつうのセパレートアンプの構成にして(これでもACプラグが4本になるが)、♯4343もバイアンプでなくノーマル仕様で、聴きながらプラグの向きを研究する。
 プラクの向きで音はいったいどう変化するのか。
 たとえば音の立体感、音の粒立ち、音像の輪郭がどちらが明瞭になるか。そして全体の響きがどちらがきれいか……。ひと言でいえば、音がいっそうクリアーで美しい方向が、正しい接続といえる。それを聴き分けるには、よく聴き馴れたレコードでむろんよいが、たとえばオーディオ・ラボ・レコードの「ザ・ダイアログ」(菅野沖彦氏の録音)など、わりあい短時間で音を掴みやすいソースのひとつといえる。とくに冒頭のベースとドラムスのダイアログ。
 まずドラムスのソロから始まる。スネアの切れこみ、ハットシンバル、そしてバスドラム、すぐにベースが入ってくる。この部分だけでも、聴き分けができる。このACプラグの差しかえは、あまり長く聴いて考え込まずに、短時間で、なかば直感的に差を聴き分け、正しい方向を掴んでゆくことがひとつのコツだ。といって、雑にこれをやって一ヵ所間違えば結局うまくゆかない。きょうは冴えているな、と自分でも思える日に、十分に研ぎ澄ました神経で瞬間的に聴き分ける。
 この実験をしてみると、モノーラルでペアのアンプは、ステレオの左右のプラグを互いに逆向きに差し込むのがよいように思える。といっても、これもまたそう簡単ではなく、二台のパワーアンプを互いに逆にしたプラグを、もういちど、同時に反対側にひっくり返してみる。これをプリアンプを含めて試みる。これで、少なくともステレオのペアどうしは揃ったことになるから、プラグとコンセントに、ビニールの色テープ等でシルシをつけておく。
 ヒントはここまでしか書けない。ここから先は、右に書いたような音の変化をよく聴き分けながら、アンプ全体を、注意ぶかく揃えてゆく。つねにパワーアンプ(後段)側から。そして一ブロック揃えるたびに、その全体を裏返す、という、気の長い作業を、延々と続ける。
 またもうひとつ、モノーラル構成のアンプでは、いかに高級機といえども、二台ペアのどちらをステレオの右または左に使うかということも、よく聴いてみると多少の違いの出ることがある。ことに右のようにACのフェーズを合わせたあとでは。
 最初ただ接続し終えて、前記のようにレベルコントロールの粗調整後ためしに鳴らした音は、居合わせた一同が、へえ、これで一千万円もする音かなあ、と首をひねったくらい、何とも鈍い、ピントのぼけた、どこといって聴きどころの魅力の感じられない音だった。
 ところが、ACコンセントを少しずつ合わせて音のピントの合ってくるにつれ、まるで霧の少しずつ晴れてゆくかのように、音は次第に鮮度を増し、いっそうクリアーに、みずみずしくしかも雰囲気の豊かな、実に魅力的な音に仕上りはじめた。この調整をしないマルチ・レビンソンなんて、スーパートゥイーターの断線した♯4343(?)みたいなものだ。
 これほどすっきりとクリアーな音に仕上ってきたからこそ、ここからあとの、ほんとうの意味での微調整に、装置が鋭敏に反応しはじめるのだ。
 すでに書いたように、調整は、LNC2LのLOW側のレベル調整と、♯4343の3個のアッテネーターとの二ヵ所でおこなう。
 まずLNC側はそのままにしておいて、♯4343のアッテネーターの調整に入る。
 私の♯4343は、この実験のときまでに約10ヵ月ほど鳴らし込んだもので、アッテネーターは、日常殆ど、3個とも「0」ポジションのまま聴いていた。私の部屋では、クラシックのソースでもそれで全く自然な再生をした。
 ところが、このマルチ・レビンソンのような、おそろしく解像力の良いシステムでは──少なくともそういう方向に調整を合わせ込んでゆくと──、アッテネーターが「0」のままでは、弦の合奏などで、かなり鋭く聴こえはじめて、高音域を絞る必要が感じられた。こんなことは、これ以外のいかなるアンプでも体験しなかった。
 聴き馴れたクラシックのいろいろなレコード(最近ではフィリップス系の録音が、少数の例外を除けばほぼ一様に素晴らしいと思う。それにグラモフォン)で、自然に感じられるところまでアッテネーターを絞ってみると、UHFが-2から-3、HFが-1から2-あたりに、最適のポジションがくることがわかった。バイアンプでない場合は、ここまで絞ると(とくにUHFを絞ると)、音が少し寝惚け気味に思われたが、マルチ・レビンソンは、ここまで絞っても全くそのクリアネスを失わずに、しかもバランスがよく整う。
 ここで再びLNC2Lのレベルコントロールの微調整に戻る。ウーファーと、ミッドバス以上のバランスを整えるのだから、クロスオーバーポイントの300Hz近辺で、重要な音の活躍するソースを使う。たとえば男声ヴォーカル、あるいはチェロの独奏。しかし独奏や小編成ものばかりではバランスをあやまるので、フルオーケストラも使う。というより、音量をややおさえたときと、自分として最大音量近くまで上げたときと、そのいずれでもバランスの整うよう、LNC2Lの最適ポイントを探す。このとき、♯4343の向き、左右のひろげかた、何か台に乗せるか乗せないか、等の置き方についても、同時にチェックする。置き方の条件をひとつ変えるごとに、LNC2Lのレベルを1dBから3dB程度の範囲で上下させてみる。私の部屋では結局-5dB前後(目盛で55近辺)あたりのところで、一応納得のゆくバランスが得られた。
 こうして一応の微調整が終ったところでテストにかけた、コリン・デイヴィスの「春の祭典」(コンセルトヘボウ管弦楽団。フィリップスX7783。オランダ盤は9500323)は、居合せた私たちを圧倒した。とくに終曲(いけにえの踊り)で大太鼓(グラン・カッサ)のシンコペーションが続くが、その強打の音たるや全く恐るべき現実感で、これほど引締って打音が明確に、しかもこれほどの量感を持って鳴るのを私は初めて体験した。少なくとも私の知るかぎりこれほどの低音を鳴らすアンプはほかになく、またおそらく♯4343がこれほどの低音を鳴らすスピーカーだということを殆どの人は知らないはずだ。
 この低音に驚いたあと、念のため、低音用のML2Lを、ブリッジ接続をやめて一台だけにしてみた。むろんパワーは1/4になり、前述のようにその分だけLNC2Lのレベルコントロールの補整を要する。ブリッジ接続では5dB絞っていたので、ML2L一台のときは、LOWを一杯まで上げ゛逆にHIGHを約1dB(目盛約90)絞る。
 こうして再び同じレコードをかけてみたが、まるで拍子抜けしたように、低音の力は失われ、あの生々しい現実感を聴きとることはできなかった。ML2L二台をブリッジにして使う意味は、この聴きくらべだけで、もう明瞭だった。
 ♯4343の低音が、ここまで引締まりながら生々しい量感を鳴らすのを聴いてみると、低音の活躍するレコードを次々と聴いてみたくなる。するとどうしても、クラシックよりはジャズ系のレコードになる。たとえば前述の「ザ・ダイアログ」(オーディオ・ラボALJ1069)第1曲でのバスドラムやベースの低音は、概してダブつくか逆に不足するか、あるいは箱鳴り的にきこえやすいが、たとえばバスドラムの振動的な迫力、またベースのよく動く音階と弾みのついた弦のうなりと胴鳴りが、これほどよく聴き分けられしかも聴き手をエキサイトさせる例は稀だろう。
 最近のフュージョン系のレコードの中で、たとえばチャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」、とくにその序曲の、冒頭のヴォーカルの直後から始まるドラムスや、もっと新しいアルバムではアース・ウインド&ファイアーの「黙示録」(中ではたとえばA面第4曲「天空に捧ぐ」の部分)など、少なくとも従来のいろいろいなジャンルのレコードでは聴くことのできなかった低音の極めて強大なエネルギーは、なかなか再生が難しいと思う。加えて、このシステムのミッドバス以上(300Hz以上)は、ML2L一台、つまり公称たった25ワットのパワーアンプでドライブするのだ。これで果して十分の音量が得られるのか……?
 十分、と答えてよいと思う。私の家ばかりでない。前述のようにこれとほぼ似た組合せを、以前にサンスイ・オーディオセンターでの「チャレンジオーディオ」で、約60人たちの前で鳴らしているが、そのときも「サンチェス」の序曲が、これだけの人数の前で圧倒的なパワーで鳴って、鳴り終って拍手が湧いたほどだった。ML2Lの25ワットというのは、実際鳴らしてみて通常のアンプの100ワットぐらいの実力があると思ってよいと思う。
 ところで、このジャズからフュージョンあるいはロック系の音楽を、もしも主として聴くのであれば、♯4343およびLNC2Lのレベルコントロールは、クラシックで合わせたポイントから少し変えたほうが好ましい音になる。まずLNC2LのLOWは-6dBないし-7dB(目盛50~45前後)とやや引締める。同時に♯4343のHFは殆ど「0」か、ときに「+1」、UHFは「-1」から0程度。むろん部屋の特性や、製品の多少のバラつき、全体の調整や聴き手の好みなど複雑なファクターが絡み合っているから右の目盛はあくまでも、いくつもの答えの中のひとつにすぎないことをお断りしておくが、かんじんなことは、同じ条件の中でも、クラシック系を主として、その響きの美しさ、透明さ、やわらかさを狙って調整した場合と、ポップス系に主眼をおいてそのエネルギー感、迫力、リズムの明快さ、いかにも実体験しているかのような生々しさ、を狙った調整とは、自ずからその最適ポイントが違ってくることを、ぜひ言っておきたいのである。少なくとも、右のようなポップス系で合わせた音で、私はクラシックを楽しむ気にはとうていなれない。その逆に、クラシックで納得のゆくまで調整したポジションでポップスを聴いても、別に不自然な感じは受けない。もし、別の調整ポイントのありうることに気づかなければ、そのままでも一応楽しめるに違いない。けれど、一旦、別の調整ポイントを探り当てたら、もう、クラシック用のポジションでは物足りなくて聴く気がしない。私自身がそう思う。同席していたポップス愛好の若い編集者は、私があとから調整したポップス・ポジションの音に納得しながらも、自分ならもっとショッキングな方向に調整するだろう、と言った。もちろん、このシステムはそういう調整に十分に応えうる。だからこそ、ここに書いた最適ポジションは、固定的なものではなくてあくまでも目やすだと、重ねてお断りしておく。
 ところで最後にもうひとつ。♯4343をバイアンプに切替えたとき、ミッドバスのアッテネーターが回路に入ったままであることを何度か書いた。言いかえればミッドバスにアッテネーターを入れるのは、内蔵ネットワークのときにウーファーの能率に合わせるために絞る必要があるので、バイアンプ・ドライブなら、ミッドバスはアッテネーターを外してフル・ドライブして、ホーン・トゥイーター(HF、UHF)のみ絞ればよいという理屈になる。そのほうが、ミッドバス以上の能率が上がって、アンプのパワーに対して有利になる。
 しかし、アッテネーターを外すということまでしなくとも、ミッドバスのアッテネーターを全開まで上げて使うという手がある。目盛は+3dBまでしかふってないが、おそらくあと5dB程度の余裕はあるだろう。仮に目盛の信頼できる+3dBまで上げて使ったとしても、パワーアンプの見かけ上の出力が2倍になったことになり、ハイレベルの再生には有利になるはずだ。この際は、HF、UHFとも一応+3dBに合わせ、そこを基準として改めて微調整を加える。言うまでもなくこのときは、LNC2LのLOWも3dB上げる。
 音質は同じ、と言いたいところだが、アッテネーターの位置を変えれば音質もまた微妙に変化するから、決して同じにはならない。今回は時間切れで、このポジションをあまり深く合わせこむことはできなかった。ご参考までに書き添えておく次第。
     *
 というようなわけで、このぼう大なシステムも、この記事を作成するための実験が終了したあと、一人で楽しむこと数日を経ずして、とりこわされ、私の所有を除くアンプは再びきれいになくなってしまった。たまたま、とりこわす以前に、前述した「チャレンジオーディオ」のレギュラー参加者数氏に編集部から連絡をとって、一夜聴いて頂いた。そのご感想は別項に載っている。
 で、私自身はどう感じたか。
「春の祭典」のグラン・カッサの音、いや、そればかりでなくあの終章のおそるべき迫力に、冷や汗のにじむような体験をした記憶は、生々しく残っている。迫力ばかりでない。思い切り音量を落して、クラヴサンを、ヴァイオリンを、ひっそりと鳴らしたときでも、あくまでも繊細きわまりないその透明な音の美しさも、忘れがたい。ともかく、飛び切り上等の、めったに体験できない音が聴けた。
 けれど、ここまでレビンソンの音で徹底させてしまった装置の音(注)は、いかにスピーカーにJBLを使っても、カートリッジにオルトフォンを使っても、もうマーク・レビンソンというあのピュアリストの性格が、とても色濃く聴こえてくる。いや、色濃くなどというといかにもアクの強い音のような印象になってしまう。実際はその逆で、アクがない。サラッとしすぎている。決して肉を食べない草食主義の彼の、あるいはまた、おそらくワイ談に笑いころげるというようなことをしない真面目人間の音がした。
 だが、音のゆきつくところはここひとつではない。この方向では確かにここらあたりがひとつの限界だろう。その意味で常識や想像をはるかに越えた音が鳴った。ひとつの劇的な体験をした。ただ、そのゆきついた世界は、どこか一ヵ所、私の求めていた世界とは違和感があった。何だろう。暖かさ? 豊饒さ? もっと弾力のある艶やかな色っぽさ……? たぶんそんな要素が、もうひとつものたりないのだろう。
 そう思ってみてもなお、ここて鳴った音のおそろしいほど精巧な細やかさと、ぜい肉をそぎ落として音の姿をどこまでもあらわにする分析者のような鋭い迫力とは、やはりひとつ隔絶した世界だった。

注=調整の殆ど終った時点で、念のため、アンプ相互の接続コードに、レビンソン・オリジナルの銀線ではなく、銅線のふつうの──といっても日常の実験でかなり良い音がすると思っていた──シールド線に替えてみた。ところがおもしろいことに、こうすると、マーク・レビンソンで徹底させた音の中に、何か異分子が混じってしまったような、別の血が入りこんだような、違和感が出てきて、少なくともこの装置に関するかぎり、好むと好まざると、接続コードに至るまでレビンソンの音で徹底させてしまったほうがいい、と聴きとれた。とくにプリアンプのML6が、内部の配線に銀線を使っていることとも関係がありそうだ。私の体験でも、異種のワイアーをいろいろとり混ぜて使うと、概して好ましくない結果になることが多いように思う。

♯4343をマーク・レビンソンでバイアンプ・ドライブする試み(その1)

瀬川冬樹

ステレオサウンド 53号(1979年12月発行)
「JBL♯4343研究(3)」より

 ♯4343を鳴らすアンプに何がよいかというのが、オーディオファンのあいだで話題になる。少し前までは、コントロールアンプにマーク・レビンソンのLNP2L、パワーアンプにSAEの♯2500というのが、私の常用アンプだった。SAEの♯2500は低音に独特のふくらみがあり、そこを、低音のしまりが弱いと言う人もあるが、以前の私の部屋では低域が不足しがちであったこと、また、聴く曲が主としてクラシックでありしかもあまり大きな音量を出せない環境であったため、あまり低音を引締めないSAEがよかった。そのSAEが、ときとして少しぜい肉のつきすぎる傾向になりがちのところを、コントロールアンプのマーク・レビンソンLNP2Lがうまく抑えて、この組み合わせは悪くなかった。
 いまの部屋ができてみると、壁や床を思い切り頑丈に作ったためか、低音がはるかによく伸びて、また、残響をやや長めにとったせいもあってか、SAEの低音をもう少し引締めたくなった。このいきさつは前号(140ページ)でもすでに書いたが、そうなってみると、以前の部屋では少し音が締りすぎて聴こえたマーク・レビンソンのML2L(パワーアンプ)が、こんどはちょうど良くなってきた。しばらくしてプリアンプがML6×2になって、いっそうナイーヴで繊細な音が鳴りはじめた。それと前後してアキュフェーズのC240とP400の組合せを聴いたが、マーク・レビンソンの音が対象をどこまでもクールに分析してゆく感じなのに対して、アキュフェーズの音にはもう少しくつろいだやわらかさがあって、両者半々ぐらいで鳴らす日が続いた。けれどそのどちらにしても、まだ、♯4343を鳴らし切った、という実感がなかった。おそらくもっと透明な音も出せるスピーカーだろう、あるいはもっと力強さも出せるスピーカーに違いない。惚れた欲目かもしれない。それとも単に無意味な高望みかもしれない。だが、♯4343の音には、これほどのアンプで鳴らしてみてなお、そんなことを思わせるそこの深さが感じとれる。
 ♯4343というスピーカーが果してどこまで鳴るのか、どこまで実力を発揮できるのか、その可能性を追求する方法は無限に近いほどあるにちがいないが、そのひとつに、マルチアンプ(バイアンプ)ドライブがある。
 ♯4343は、背面のスピーカー接続端子のところで、スイッチの切替えによって、ウーファーのみを切り離すことができる。ウーファーとそれ以上とのクロスオーバー周波数は300Hzと発表されている。つまり300Hzを境(クロスオーバーポイント)として、それ以上と以下とを、別々のアンプでドライブしようというのである。
 コンポーネントの接続コードを替えてその音のさを聴き分ける日本のシビアなオーディオ愛好家にとっては、バイアンプ方式は、費用や手間をいとわずに音質の向上を望む確かな手段であるが、JBL♯4343がバイアンプドライブを可能に設計されているその意図は、必ずしも日本の愛好家の期待と同じとはいえないようだ。その証拠をいくつかあげることができる。
 まず第一はJBLの発行している印刷物の中にも、バイアンプ方式は、ハイパワー再生に有利な方式であるという意味あいの解説が載っている。スタジオモニターのプレイバック時のパワーがますます上がっている今日とくにJBLのように低音用のネットワークコイルに鉄芯入りを使っている場合、鉄芯の磁気歪が、非常な高出力の加わった際だけ、問題になる。とくに出力の大きな低音域のみ、アンプ直結で鳴らすメリットを、おそらくJBLはこの点から重視しているらしく思われる。
 第二に、本誌51号の332ページ、つまりこの「♯4343研究」の第一回目で、JBL社のゲイリー・マルゴリスが、バイアンプについての質問に対して「家庭用のシステムとして、それほどの費用をかけるメリットがあるかどうか疑問……」と答え、バイアンプの改善効果は「アンプのパワー不足の場合、またアンプ自身の特性──特に歪率などが──あまり良くない場合は(中略)IM歪を低減するという点で低域と高域の相互干渉がなくなるので、バイアンプのメリットは大きい」というように、必ずしも積極的でない意見を述べている。
 このマルゴリスの意見についての私個人の考えはいま少しあとにして、本題に戻って♯4343がバイアンプ方式を必ずしも音質改善の本質的手段とは考えていないと私が思う第三の証明として、♯4343の内蔵LCネットワークの回路を示す。
 スイッチを EXTERNAL CROSSOVER 側に切替えることによって、ウーファーはLC回路が完全に切り離されて、パワーアンプに直結される。それはよい。問題はミッドバスの回路だ。300Hz以下をカットするためのLCは回路から切り離される。これは当然だ。ところが、LCを通ったあとスピーカーとのあいだに挿入されている固定および可変のアッテネーター(抵抗減衰器)は、回路に入ったままなのだ。この中のR2、R3、R6からなるT型パッドは、あるいはミッドバスユニットのインピーダンス特性の補正を兼ねているようにも思われるので、一概に回路中から外すことがよいかどうか即断しかねるが、R4の可変抵抗、すなわちミッドバスとウーファーのあいだにとりつけられたパネルに顔を出している MID FREQUENCY LEVEL のアッテネーターは、できることなら取去ってしまいたいところだ。ただしそうすることによって、HFおよびUHFユニットとのバランスをとり直す必要が生じる。それせだからJBエルとしてもこの可変抵抗R4を取除きにくかったにはちがいないが、もしもバイアンプドライブによって、根本的に音質の向上を真の目的とJBLが考えるなら、この部分をこのままにしておくわけがない。あるいはまた、そんな細かいところまで問題にするのが、やはり日本のオーディオファイルの感覚というものなのかもしれないが。
 ともかく、右の三つの事実によって、JBLの考えるバイアンプドライブ・システムと、我々の考えるいっそうピュアなバイアンプ・ドライブへの理想とに、ほんのわずかに考えの違いのあることが説明できる。
 しかし今回は、それらの点、とくに右の第三の問題点は一応承知の上で、とりあえずその部分に修整の手を加えることをあえてせずに、JBLの指定の形のままでバイアンプ・ドライブを試みた。しかし、もしもあなたがいっそうのピュアリストで、オリジナルのネットワークにいささかの手を加えることをためらわず、かつ、HFおよびUHFのレベルセッティングを改めて大幅に修整──ということはアッテネーターに表示してあるゼロ・ポジションが意味を持たなくなるために、耳または測定器のみを頼りにレベルセッティングをおこなわなくてはならないが──する手間をいとわなければ、おそらくよりよい結果の得られるだろうことは申し添えてよいだろう。
 ところで、右の第二にあげたマルゴリスの意見の中で、ともすると誤解を招きやすい表現があるので、私から多少の補足を加えておきたい。
 彼は、アンプ自体の歪率等の特性のあまり良くないときにバイアンプはメリットがあるだろう、と言っている。たしかに彼の言う通り、パワーアンプを全帯域で使わずに、低域と高域とに分ければ、IM歪(混変調歪──振幅の小さな高音が大振幅の低音で変調される音のにごり)が軽減される。けれど、♯4343のように鋭敏なスピーカーは、歪のできるかぎり少ない良質なアンプでドライブしなくては、絶対に良い音で鳴らない。ましてバイアンプにするということが、前述のように♯4343の極限の音を追求しようとする手段なのであってみれば、低・高各帯域に、こんにち考えうる限りの最高の水準のアンプを用意するのでなければ、わざわざ費用と手間をかけて2台のパワーアンプを含む複雑なシステムを構成する意味が薄れてしまう。
 いまから十数年まえの一時期、日本のアマチュアのあいだでバイアンプリファイアー方式(日本ではマルチチャンネルアンプという独自の呼び方が一般化しているが)がかなり広まったことがあった。そのころ、スピーカーのユニットやアンプにあまり性能のよくないものを使っても、帯域を分割して使えばその悪さが出にくい、という説明を信じて実験した人々は、ほとんど失敗している。やってみればわかることだが、マルチスピーカーのマルチアンプドライブは、それぞれのユニットやアンプによほど良いものを使わなくては、結局うまくゆかないのだ。
 スピーカーユニットとドライブアンプに、最高の質のものを用意しなくてはうまくいかないという現実。それに対して、♯4343という優れたスピーカーシステムを、一度でよいから極限まで鳴らしてみたいという夢のような期待。それは個人の力ではなかなか実現できる問題ではないが、幸いなことに、たとえば専門誌の企画や、別項にも書いたサンスイオーディオセンターでの「チャレンジオーディオ」またはそれに類する全国各地での愛好家の集い、などで、いままでに何度か、♯4343あるいは♯4350のバイアンプ・ドライブを実験させて頂いた。そして、バイアンプ化することによって♯4343が一層高度な音で鳴ることを、、そのたびごとに確認させられた。中でも白眉は、マーク・レビンソンのモノーラル・パワーアンプ6台を使っての二度の実験で、ひとつは「スイングジャーナル」誌別冊での企画、もうひとつは前記サンスイ「チャレンジオーディオ」で、数十名の愛好家の前での公開実験で、いずれの場合も、そのあとしばらくのあいだはほかの音を聴くのが嫌になってしまうなどの、おそるべき音を体験した。
 その音を、一度ぐらい私の部屋で鳴らしてみたい。そんなことを口走ったのがきっかけになって、本誌およびマーク・レビンソンの輸入元RFエンタープライゼスの好意ある協力によって、今回の実験記が誕生した次第である。以下にその詳細を御報告する。
 ♯4343を、単にバイアンプ・ドライブするというだけなら、通常のシステムに1台のパワーアンプと1台のエレクトロニック・クロスオーバーアンプを追加すればそれでよい。追加したアンプが水準以上の良質な製品であるかぎり、それだけで、♯4343の音質にはいっそうの力強さと繊細さ、加えて音の鮮度の向上という、明らかな改善効果があらわれる。しかし今回の実験は、それとは少しばかり規模が違う。いや、このシステムに「少しばかり」などという表現はかえって嫌味にきこえる。なにしろ気狂いじみたおそろしい構成になった。それは、どうせやるのなら、マーク・レビンソンのアンプを、入り口のMCヘッドアンプから出口まですべて、完全なダブル・モノーラルで構成してみよう、というに加えて、パワーアンプのML2Lを低音域で2台ブリッジ接続にして、出力の増大と音質のいっそうの改善をはかろう、という、なんともおそろしいようなプランにふくれ上ったからだ。
 レビンソンのアンプは、パワーアンプのML2Lと最新作のプリアンプML6を除いては、すべてステレオ構成、つまりステレオの左右のチャンネルが一台にまとめられている。これはこんにちではむしろ当り前の作り方だ。
 しかし最近になって、アンプの音質の極限に挑むメーカーのあちこちから、モノーラル構成のアンプがいくつか発表されはじめた。
 パワーアンプに関するかぎり、近年のハイパワー化と、音質の追求にともなう各部の大型化によって、ステレオ用として組んだのでは、大きさや重量の点からひどく扱いにくい超弩級化しがちになることを避けて、モノーラルとして組むことが異例ではなくなりつつある。
 けれど、モノーラル化してみると、単にサイズやウェイトの低減という扱いやすさのメリットばかりでなく、同じアンプをそのままモノーラルタイプに組みかえるだけでも、明らかに音質の向上することが認められ、指摘されはじめた。その理由は簡単で、電源および信号回路を完全に切り離すことによって、ステレオの左右チャンネルの干渉がなくなり、クロスモジュレーション(ステレオの一方のチャンネルの信号が他方の信号によって変調される音の歪)が解消し、クロストークのなくなることも加わって、音像がしっかりと定位し、音のひと粒ひと粒の形がいっそう明確に聴きとれるようになる。
 おそらくレビンソンは、パワーアンプのML2Lを作った時点では、単に大型化を避ける意図からモノーラル化したのだと思われるが、プリアンプML6以降は、はっきりと前述の問題に気づいたようだ。そして、少し前から日本のマニアのあいだでも、レビンソンのMCヘッドアンプJC1ACを、一方のチャンネルを遊ばせてモノーラルで2台使うと、右に述べたような音質の改善のできることが、誰からとなく言われはじめた。
 こういう、いわばゼイタクな、もったいない、言いようによっては気狂いじみた一見無駄の多い使い方をして、費用を倍加してまで、おそろしく微妙な音質の向上に嬉々とするのは、、まあ、相当にクレイジーな人種だと、ここではっきり言っておいたほうがよさそうだ。そいういう音きちがいが、♯4343をオール・レビンソンで、ともかく極限まで鳴らしてみようというのが今回の試みだ。
 どうせそこまでやるのなら、MCヘッドアンプばかりではなく、エレクトロニック・クロスオーバーアンプのLNC2Lも、片チャンネル遊ばせて2台使わなくては意味がないだろう、と、ともかく入り口から出口までを、完全なモノーラル構成で徹底させてしまうことになった。
 その結果が、12台のレビンソンのアンプ群、そしてプリアンプとクロスオーバーアンプ用の6台の電源ユニット、という物凄いアンプシステムである。価格は合計¥8、300、000。この辺になると、いくら気狂いを自称する私も、ちょっと個人では買い切れない。
 物凄いのはしかしアンプの数と金額ばかりではない。消費電力が、ちょっと無視できない。その大半はパワーアンプのML2Lだ。
 ML2Lは、公称出力たった25ワット。そして純Aクラスだから効率はきわめて低く、消費電力は一台約400ワット。これがしかも常時なのだ。400ワットの電力を喰わせれば、Bクラスなら出力200ないし250ワットは軽く出る。しかもBクラスなら、消費電力は平均50ワット以下だ。だがML2Lとなると、電源スイッチをONした瞬間から、ボリュウムを絞ったままでも常時400ワットを喰い続ける。これが6台。合計2・4キロワット。プリアンプのほうはこれにくらべればはるかに少ない。新しい電源ユニットPLS153Lが、一台30ワット以下と発表されているから、6台でもせいぜい150ワット強というところだろう。
 それにしても合計約2・5キロワット強。30アンペア契約の一般家庭では、ほかの電源をほとんど切らなくては難しい。また、コンセントは一ヵ所1キロワットまでとされているから、少なくとも配線の互いに独立した3ヵ所から分散させてとらなくてはならない。というより、もしも個人でこのシステムを常用しようと計画する場合には、別に新規契約で配電線を引き直さなくては無理が生じる。エアコンだって、ふつうの型はせいぜい1・5キロワットどまりだというのに、ましてエネルギー危機の叫ばれるこんにち、いったい何という浪費なのだろう。全く空恐ろしくなる。
(もし新規に契約アンペアを増す場合は、ML2L1台あたり5アンペアを見込んでおいたほうが──ラッシュカレントも考えあわせて──安全で、コンセントは一ヵ所10アンペアまでだから、6台のアンプに3ヵ所のコンセントと、30アンペアの新規増設が必要になる)
 アンプとスピーカー以外のパーツ、といえば殆どプレーヤーだけだが、少々くわしく書いておきたい。
 ターンテーブルはマイクロ精機のリモートドライブ・ユニットRX5000+RY5500。直径31cm、重量16kgの砲金製のターンテーブルを、別シャーシのサーボモーターから糸(アラミッド繊維)をかけてドライブする。2月(79年)のはじめ、たまたま別冊FMfan誌の取材でこのターンテーブルの音を聴いて以来、私はすっかりいかれてしまった。たとえば今回の組合せのように、アンプ以降がおそろしいほどに音のディテールをくっきりと増幅する、いわば解像力のよい装置であれば、なおのこと、プレーヤーシステムにもむしろそれを上回るほどの高解像力が要求されるというのは当然すぎる話だろう。その意味でこんにち得られる製品の中でも、このマイクロ糸ドライブに、オーディオクラフトのAC3000(または4000)MC型アームの組合せ以外を、私はちょっと思いつかない。
 ところで、解像力の高さ、という表現についてぜひとも補足しておきたいことがある。音のひとつひとつが、くっきりと、鮮明に、ディテールがどこまでも見通せるほど澄み切って、しかも圧倒的なフォルティシモでも音が濁らない……そういう音を解像力が良いあるいは解像力が高い、ということは間違っていない。けれど、その面ばかり着目すると、ついうっかりして、音の輪郭鮮明であることだけが、解像力の良さであるかのように思い違いしやすい。音楽の音には、重量感もあればあくまで軽やかに柔らかく漂う響きもあり、暗い音もあればどこまでも沈潜してゆくかのような深い渋い味わいの音もある。また多くの複雑な音のひとつひとつは、互いに独立しているが、しかし全体としては美しく溶け合い響き合う。
 一見鮮明、一見粒立ちの良い、いかにもカリカリと硬い音のするばかりを、解像力が高いと誤解しているのではないかと思えるパーツが、少ないとはいえない。
 音の響きと溶け合いの美しさ。その中にくるみこまれた解像力とは、要するに楽器の精妙な色あいを最もそれらしく聴かせてくれることであり、その意味で、マイクロ+オーディオクラフトが、いつのまにか手離すことのできないプレーヤーシステムとなってしまった。ここに組合わされるカートリッジは、最近ではオルトフォンMC30が最も多く、次いでエレクトロアクースティック/エラックESG794E、それにEMTのTSD(またはXSD)15。
 EMTは専用のヘッドシェルマウントだが、エラックおよびオルトフォン用のヘッドシェルは、アームと同じくオーディオクラフトのAS4PL。とくに、オルトフォンのMCシリーズをシェルにいっそう確かに固定するためのアダプター(OF2)を併用すると、たいへんクリアーな音が得られる。これを併用すると、ヘッドシェル+カートリッジの自重は相当に大きくなるため、ほかのアームではバランスがとりにくくなるが、AC3000MCに関するかぎり大丈夫。また、このアームにはストレートパイプアームが付属しているが、こちらにとりつけたほうが、もっと音が素直になり、音質本位に考えるなら゛ストレートパイプのほうがいっそう良い。
 レビンソンのマルチドライブのように、おそろしくキメのこまかな装置に対しては、たとえばデンオンDL303のような音も、案外よく合う。性格的によく似た面を持っているからかもしれない。少なくとも、おおかたのMM型やIM型は、こういう装置では音が寝ぼけて聴こえてとても駄目だ。
     *
 ところでこのプレーヤーシステムは、意外にハウリングに弱い。私の場合、ターンテーブルユニットが乗る大きさの板を用意して、市販のインシュレーターを下に入れている。ただし、マイクロのユニットだけで合計約55キログラム弱。これにアームおよびその取付ベース、それに後述のターンテーブルシートやスタビライザーを含めると、ゆうに60キロを越える。たとえばオーディオテクニカのAT605Jは、一個あたりの耐荷重が4キロだから、ざっと15個以上必要という計算になる。
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 もうひとつ、マイクロは、砲金製のターンテーブルにレコードを直接乗せるように指示しているが、私の場合、これにトリオのTS10というセラミック製のシートを乗せたほうが、音に落ちつきが出てよいと感じている。この場合、適当なスタビライザーを併用するほうが良いようだ。しかしこの辺のところは、使用条件や聴き手の主観で大きく左右されるだろう。
 プレーヤーからアンプまで、そしてアンプ相互間のシールド線や、アンプとスピーカーを接続するコードについては、諸説入りみだれているが、まず原則としてすべてオリジナルの製品からはじめた。つまりプレーヤー(アーム)からの出力ケーブルは、AC3000MCに付属しているMC用低抵抗型(ARR-T)。これは標準型備品で長さ1・5mだが、もしもプレーヤーとヘッドアンプのあいだを短くできるなら、長さ1mのARR-T10(別売)のほうがいいと思う。
 アンプ相互の接続ケーブルは、レビンソンのアンプがスイスLEMO社の特殊なコネクターで統一されていて、一般に普及しているRCA型ピンプラグは、専用のアダプターが余分に必要になる。そこで最初はともかくレビンソン専用の(輸入元のRFエンタープライゼスでアセンブリーしている)、芯線に銀を使ったLEMO←→LEMOコードをすべて使った。一般市販のシールドワイアにくらべると、ずいぶん細く、何となく頼りなくみえるが、その結果はあとで書く。
 スピーカーコードのほうは、79年春、レビンソンが来日した折にサンプルを持参した、芯線が何と2500本入りの特殊コードが、同じく供給されている。2500芯といっても、一本ずつの線は髪の毛ほどに細く、被覆をはがした先端部は、毛の剛(こわ)い筆といった印象だ。これがちょうどTVのフィーダーのような並行コードに作られている。1mあたり4千円という驚異的価格だが、今回とは別の機会にスピーカーコードをあれこれ試聴した際、私はこれが最も気に入って、数ヵ月前から自家用として採用していた。ただ、末端処理がなかなかスマートにゆきにくい。専用のラグが3種類用意されている。また強電用のラグの中に一応使えそうなのがあるので併用するアンプおよびスピーカーの端子の形に合わせるように、いろいろ工夫しなくてはならない。なお最近では、パワーアンプML2Lを購入すると、末端処理ずみのコード3m(HF10C)が1ペア付属してくるとのことだ。
 このほかに、ML2Lを2台ブリッジ接続するためのT型LEMOコネクターと、二台のML2Lを接ぐ短いLEMOコネクターが必要になる。

JBL 4343BWX, 4311BWX, L150, L222A

JBLのスピーカーシステム4343BWX、4311BWX、L150、L222Aの広告(輸入元:山水電気)
(モダン・ジャズ読本 ’80掲載)

4343

JBL 4343(組合せ)

瀬川冬樹

続コンポーネントステレオのすすめ(ステレオサウンド別冊・1979年秋発行)
「第11項・JBL4343の組合せ例(4)価格をほどほどにおさえて、穏やかで聴きやすい音に仕上げる」より

 4343の音が、正確で、クリアーで、生々しく鮮明で、ディテールを細かく分析してゆくばかりではないことは、すでに述べた。4343は、その本来持っている強い性格をおさえてゆくと、一面、おだやかでバランスのよい、神経質にならずにぽかんと楽しめる面をも聴かせる。モニター的な音ばかりでなく、そして、前三例のようなかなり高価な組合せばかりでなく、スピーカー以外のパーツをできるだけローコストにおさえて、あまりシビアな要求をしないで、しかし4343の持ち味を最少限生かすことのできるような組合せを作ってみよう。
 前の三つの例は、アンプリファイアーにすべてセパレートアンプを組合わせている。とうぜん高価だ。むろんセパレートアンプの中にも、とても廉価な製品もあるが、しかしローコスト・セパレートアンプを研究してみると、ふつうの組合せをするかぎりは、概して、同価格帯のプリメイン型のアンプの方が、音質の点からは優秀だという例が多い。ローコストのセパレートアンプは、厳格な意味での音質本位であるよりは、各部が細かく分かれていることによって、イクォライザーアンプや、マルチチャンネル用のエレクトロニック・クロスオーバーやメーターアンプ等々、複雑な機能を持たせたり、部分的な入れ替えでグレイドアップを計るなど、機能的な目的から作られていると考えたい。
 というわけでほどほどの価格で組合せを作る場合には、概して、セパレートアンプでなくプリメインアンプとチューナー、という組合せで考えるほうがいい。
 そして、この例の考え方のように、音の鮮明度や解像力よりは、全体として穏やかで聴きやすい音を狙うのであれば、たとえばラックスのアンプのような、本質的に粗々しい音を嫌う作り方のメーカーに目をつけたい。中でも、新しい製品であるL309Xは、こんにち的に改良されていながら、同クラスの他機種の中に混ぜると、明らかに、きわどい音、鋭い音を嫌った穏やかな鳴り方をすることが聴きとれる。このメーカー独特のリニア・イクォライザーのツマミを、ダウン・ティルトの側に廻しきると、いっそう穏やかな音が得られる。
 プレーヤーは、ものものしい感じの多い国産を避けて、英リン・ソンデックのモーターに、同じく英SMEのアームを組合わせる。とても小型にまとまる点がいい。ただし33一速度しかないのが難点で、もう少し安くあげることも含めて、ラックスのPD272を第二候補にあげておく。音質はむろん前者の方が優れている。
 カートリッジは、音をこまかく分析する傾向のMC(ムービングコイル)型を避けて、MM(ムービングマグネット)型の中から、ひとつは西独エラック(日本では商標登録の関係でエレクトロアクースティックと呼ぶが)のSTS455E。もうひとつ、アメリカ・スタントンの881Sを加えてもいい。455Eはどちらかといえばクラシック系のしっとりした味わいが得手だし、スタントンはジャズ、ポップス以降の新しい傾向の音楽表現が良い。

スピーカーシステム:JBL 4343WX ¥580,000×2
プリメインアンプ:ラックス L-309X ¥158,000
プレーヤーシステム:ラックス PD272 ¥69.000
カートリッジ:エレクトロアクースティック STS455E ¥29,900
カートリッジ:スタントン 881S ¥62,000
計¥1,416,900(エレクトロアクースティック STS455E使用)
計¥1,449,000(スタントン 881S使用)

JBL 4343

瀬川冬樹

続コンポーネントステレオのすすめ(ステレオサウンド別冊・1979年秋発行)
「第7項・例えばJBL4343について少し研究してみよう」より

 JBLの四桁ナンバーで、43××というように上二桁が43……ではじまる製品は、すべてこの系列だと思っていい。JBLではこれを「プロフェッショナル・モニター・シリーズ」と呼んでいる。
 モニタースピーカーと呼ばれる製品は26項でくわしく説明するように、アンプから加えられた入力信号を、できるかぎり正確に音波に復元することが要求される。すなわち前項までの分類の第一の、アキュレイトサウンドそのものといえる音を再生する。
 中でもこのJBLの4343は、その性能の優秀なこと、どんな条件下でもみごとな音を聴かせることで、音を創る側の人たちばかりでなく、再生の側の、それも専門家筋にとどまらず、音楽家、音楽評論家や熱心な観賞家、はてはごく普通の愛好家まで、広い分野の人びとが一様にほめる、稀有なスピーカーだといえる。クロウト筋の評価が高いのに一般受けしない、とか、市場では広く売れているのに専門家はほめない、などという製品はけっこう少なくないが、どんな立場の人からも広く支持されるスピーカーは、どちらかといえば珍しい部類に入る。
 実際、このJBL4343というスピーカーは、プロフェッショナルの立場の人が、音をどこまでも細かく分析したいと思うとき、その要求にどこまでも応じてくれる。このスピーカーなら、まあ、聴き洩らす音はないだろうという安心感を与えてくれるというのは、たいへんなことだ。
 それでありながらこれをふつうの家庭に収めて、音楽を鑑賞する立場になって聴いてみても、4343は、それが音楽の研究や分析という専門的な聴き方に対しても、また逆に、面倒を言わずにただ良い音、美しい音を楽しみたいという聴き方に対しても、それぞれにみごとに応じてくれる。眼前で楽器を演奏するような大きな音量でも音が少しもくずれない。逆に、夜遅くなって、思い切ってボリュウムを絞って観賞するようなときでも、音はぼけたりしない。クラシックのオーケストラも、ジャズも、ヴォーカルも、ロックやニューミュージックも、どこにも片寄ることなく、あらゆる音に対して忠実に、しかもみごとに反応する。
 このスピーカーに、何の先入観も持たない一般のひとが聴いても、素晴らしい音だと感心する。逆に、4343にいろいろな先入観を抱いている専門家や、半可通のアマチュアのほうが、このスピーカーをいろいろとけなしたりする。もちろん完全無欠の製品どころか、4343といえど、いろいろと弱点も残っている。部分的には4343以上の音を鳴らすスピーカーはいくつかある。けれど、いろいろな音楽を、いろいろな音量で、あらゆる条件を変えて聴いたときのトータルなバランスの良さ、それに見た目の美しさも加えると(これは大切な要素だ)、やはり4343は、こんにちのベストスピーカーのひとつにあげてよいと思う。
 なお、型番の末尾にWXとつくのは、外装がウォルナット木目のオイル仕上げで、前面グリルが濃いブルー。何もつかないほうは、スタジオグレイと呼ばれるライトグレイの粗いテクスチュアの塗装に、グリルは黒。WXは、前面木部のふちを斜めにカットしてあるので見た目にいっそうやわらかいエレガントな印象を与える。
 さて、当り前の話だがスピーカーはそれ自体では鳴らない。アンプやプレーヤーやチューナー、必要ならテープデッキ……というように、さまざまのコンポーネントパーツを上手に組合わせて、そこではじめて、スピーカー本来の能力を発揮できる。いくら優秀なスピーカーでも、それを鳴らしてやる条件が十分にととのわなくては、せっかくの性能も生かされない。
 そこで、JBL4343の、すでに書いたような優れた能力を、十全に発揮するための使いこなしを、いくつかの実例をあげながら研究してみることにする。

Monitor Speaker System

瀬川冬樹

続コンポーネントステレオのすすめ(ステレオサウンド別冊・1979年秋発行)
「第26項・『モニタースピーカー』とは?」より

 たとえば7項から11項までかなりのページを割いたJBLの4343のネームプレートには「スタジオモニター」と書いてある。また18項のヤマハNS1000Mの〝M〟はモニターの頭文字をあらわしている。17項のUREIもモニタースピーカーであることをはっきりと宣言している。20項のダイヤトーン2S305も、そしてこれらの例にとどまらず、ここ数年来、世界的に、ことにヨーロッパなどで、型名に「モニター」とはっきり書いたり、それほどでなくとも広告やカタログに「モニター用」と書く例が増えている。
 では「モニター」とは何か。実をいうと、はっきりした客観的な定義なり想定なりがあるわけではない。とうぜん、「モニタースピーカー」と名乗るための規格や資格が、明示されているわけでもない。極端を言えば、メーカーが勝手に「モニター」と書いても、取締る根拠は何もない。
 だが、そうは言っても、ごく概念的に「モニター」の定義ができなくはない。ただし、モニターにもいろいろの内容があるが……。
 その最も一般的な解釈としては、録音あるいは放送、あるいは映画などを含めたプログラムソース制作の過程で、制作に携わる技術者たちが、音を聴き分け、監視(モニター)するための目的にかなうような性能を具備したスピーカー、ということになる。
 粗面からこまかく分析してゆくと膨大な内容になってしまうので、この面を詳しく研究してみたい読者には、季刊「ステレオサウンド」の第46号(世界のモニタースピーカー)を参照されることをおすすめする。
 しかしひとことでいえば、すでに何度もくりかえしてきた「正確(アキュレイト)な音再現能力」という点が、最も重要な項目ということになる。ただし、いわゆるスタジオモニター(録音スタジオ、放送スタジオの調整室で使われるためのモニタースピーカー)としては、使われる場所の制約上、極端な大型になることを嫌う。また、プロフェッショナルの現場で、長期に亙って大きな音量で酷使されても、その音質が急激に変化しないような丈夫(タフネス)さも要求される。
「モニタースピーカー」には、こうした目的以外にも、スタジオの片隅でテープの編集のときに使われるような、小型で場所をとらないスピーカー、だとか、放送局の中継所などで間違いなく音が送られていることを単に確認するだけの(つまり音質のことはそううまさく言わない)スピーカーでも、プロが使うというだけで「プロフェッショナル用モニター」などと呼ばれることさえあるので、その目的について、少しばかり注意して調べる必要はある。
けれど、前述のスタジオ用のモニターは、一般的にいって、ほどほどの大きさで、できるかぎり正確に音を再生する能力を具えているわけで、しかも長期に亙っての使用にも安定度が高いはずだから、そうした特徴を生かすかぎり、一般家庭でのレコードやFMの鑑賞用として採用しても、何ら不都合はない理屈になる。
 少し前までは、スタジオモニターは「アラ探しスピーカー」などと呼ばれて、とても度ぎつい音のする、永く聴いていると疲れてしまうような音のスピーカーであるかのように解説する人があった。事実、そういうモニタースピーカーが、いまでもある。けれど、JBLやヤマハやKEFやUREI等の、鑑賞用としても優れたスピーカーが次第に開発されるようになって、こんにちでは、モニタースピーカーの概念はすっかり変わったといってよい。

Speaker System (accurate sound)

瀬川冬樹

続コンポーネントステレオのすすめ(ステレオサウンド別冊・1979年秋発行)
「第3項・アキュレイトサウンドはさらに二つの方向に分類される」より

 正確な音の再現を目ざして作られたスピーカーは、「モニタスピーカー(26項参照)」と名づけられた製品に多い。こんにちそれらの中でも世界的によく知られ、評価の高い製品として、たとえばJBLの♯4343や、KEFの♯105、あるいはヤマハNS1000MやテクニクスのSB7000などが例にあげられる。
 ところで、スピーカーに加えられた入力信号にできるかぎり忠実な再現、といっても、現実には、それがさらに二つの方向に分かれる。それは、音楽がすぐ眼の前で演奏されている感じが欲しいのか、それとも、良いホールのほどよい席で──演奏者から距離を置いて──聴く感じが欲しいのか、という問題だ。
 たとえばいま例にあげたスピーカーの中でも、JBLやヤマハは、どちらかといえば眼の前で演奏されている感じになるし、KEFやテクニクスは、ほどよい距離で聴く感じのほうに近づく。
 いうまでもなくこうした違いは、スピーカーの音よりもむしろレコードの録音の段階ですでに論じなければならない問題だが、しかし同じ一枚のレコード再生しても、スピーカーによって右のような違いを微妙に感じとることができる。ということは、原音、というイメージのとらえかたにも、大別してそのような二通りの態度がある、ということになるだろう。
 音を作る側、それを再生するパーツを作る側に、そうした態度の違いがあるのなら、とうぜんのことに、聴き手の側にも、そのいずれを好むかという好みの問題、ないしは音の受けとめかたの問題が出てくる。
 くりかえしになるが、眼の前で演奏している感じ、演奏者がそこにいる感じ、楽器がそこにある感じ、言いかえれば、自分の部屋に演奏者を呼んできた感じ、を求めるか。それとも、響きの良いホールないしは広いサロンなどで、ほどよい距離を置いて、部屋いっぱいにひろがる響きの美しさをも含めて聴く感じ、言いかえれば、自分がそういう場所に出かけて行って聴く感じが欲しいのか──。
 こうした違いを自分の中ではっきり整理しておかなくては、自分の望む音のスピーカーを的確に選びだすことが難しい。
 あまり高価でも大型でもないが、スペンドール(イギリス)のBCIIというスピーカーは、右の分類の後者──適度の距離を置いて美しい響きをともなって聴く感じ──の性格を色濃く持っている。だからもしこのスピーカーに、眼の前で演奏するような音の生々しさを求めたら、おそらく失望してしまう。ある人は「ピアノの音がひどくてがっかりしました」という。それは、ピアノをすぐそばで聴く感じを求めたからだ。逆に、演奏会場でのピアノを聴き馴れた人は、このスピーカーに大層満足する。
 部屋の条件という面からこのグループ──アキュレイトサウンド──のスピーカーに共通して言えることは、棚にはめ込んだりしないで周囲を適度にあけて、スピーカーがその性能を十二分に発揮できるように、設置の方法をいろいろくふうする必要のあることだ。つまりインテリア優先の場合には、避けたい──とまでは言いすぎにしても、このグループはあまり適当でない。あくまでも、シリアスな鑑賞のためのスピーカーだ。

JBL 4343(組合せ)

瀬川冬樹

続コンポーネントステレオのすすめ(ステレオサウンド別冊・1979年秋発行)
「第10項・JBL4343の組合せ例(3)コントラストのくっきりした、やや個性の強い音に仕上げてみる」より

 4343というスピーカーは、何度も書いたようにとても多面的な性格を具えているが、しかし本質的に、いくらか硬質でコントラストの強い音、言いかえれば、楽器ひとつの音の輪郭をきわ立たせるような性格を持っている。そこをあまり目立たせないように鳴らせば、クラシック系の柔らかでエレガントな音が楽しめるが、前ページの例2は言わばその方向での鳴らしかたといえそうだ。
 それに対して、むしろコントラストの強さを強調してゆくと、こんどは逆に、どちらかといえばポップスやジャズなど、楽器編成の少ない、そしてリズム楽器系の多いような種類の音楽を、目の前で演奏しているのを楽しむ感じになってくる。この例3はその方向で生かした組合せ例といえる。
 ひとつのメーカーの製品でも、五年、十年という単位で眺めれば、音の鳴らし方がずいぶん変っているが、ある一時期には、ひとつの方向を煮つめてゆく。このところのトリオのアンプは、音の輪郭ひとつひとつをくっきりと照らし出すような、いわばメリハリを強めるような鳴り方をしていると、私には聴きとれる。
 輪郭をくっきりと描いてゆくとき、中味をしっかり埋めておかないと、弱々しいうわついた音になりやすいが、トリオの音、ことにここに例をあげた07マークIIとつくシリーズは、中味のたっぷりした、味わいの濃い、それだけにやや個性的な音を持っている。
 こういう音は、前述のように、ポップス系の音楽をおもしろく聴かせる。とくにこの07シリーズは、音の表情をとても生き生きと描出する点が特徴で、演奏者自身が音楽にのめり込み、エキサイトして演奏してゆく雰囲気がよく聴きとれる。最近のアンプの中でも、特性を向上したという製品の中に、妙によそよそしい無機的な音でしか鳴らないアンプがあるが、そういう音では、音楽を楽しく聴かせない。とうぜん、4343を生かすとはいえない。その点、トリオの音は音楽そのものをとても生き生きとよみがえらせる。
 レコードプレーヤーは、マイクロ精機のやや実験的な性格の製品で、駆動モーター部分とターンテーブル部分とがセパレートされていて、ターンテーブル外周に糸(またはベルト)をかけて廻す、というユニークな形。超重量級のターンテーブルに糸をかけて廻すというのは方式としては古いのだが、こんにちの、電子制御されたDDターンテーブルとはひと味違って、音の輪郭がくっきりと鮮やかになり、充実感のある豊かで余韻の美しい独特の音を聴かせる。
 こういう組合せを、カートリッジでどう仕上げるか。たとえば米ピカリングの、XUV4500Qなら、ほんらいアキュレイトサウンドを目ざしている4343を、かなりショッキングな感じで鳴らすことができる。同じピカリングでも、XSV3000にすればこの組合せ本来の目ざすポップスのヴァイタリティをよく生かす。しかしここに、たとえばオルトフォンSPUや、さらにはデンオンDL303を持ってくるにつれて、濃いコントラストな個性の強さが次第におさえられて、この組合せなりに自然な感じでクラシックを楽しむことができるようになる。

スピーカーシステム:JBL 4343WX ¥580,000×2
コントロールアンプ:トリオ L-07CII ¥160,000
パワーアンプ:トリオ L-07MII ¥120,000×2
チューナー:トリオ L-07TII ¥130,000
ターンテーブル:マイクロ RX-5000+RY-5500 ¥430.000
トーンアーム:オーディオクラフト AC-3000MC ¥65,000
カートリッジ:ピカリング XUV/4500Q ¥53,000
カートリッジ:ピカリング XSV/3000 ¥40,000
カートリッジ:オルトフォン SPU-G/E ¥39,000
カートリッジ:デンオン DL-303 ¥45,000
計¥2,238,000(ピカリング XUV/4500Q使用)
計¥2,225,000(ピカリング XSV/3000使用)
計¥2,224,000(オルトフォン SPU-G/E使用)
計¥2,230,000(デンオン DL-303使用)

JBL 4343(組合せ)

瀬川冬樹

続コンポーネントステレオのすすめ(ステレオサウンド別冊・1979年秋発行)
「第9項・JBL4343の組合せ例(2)全体にエレガントな雰囲気を持たせる」より

 例1の組合せは、一歩ふみ外すと非常にきわどい音を鳴らすおそれもある、いわば研究機、実験機のおもむきが強い。また、メカをいじることの好きな、そしてある程度、オーディオの技術(ハード)面での知識のある人でないと、使いこなせないところがある。
 それに対して、この第二の例は、基本的には正確な音の再生という4343の性格を生かしながら、すべてにこなれた、安定度の高いパーツを配して、メカっぽい雰囲気でなく、むしろエレガントなといいたい感じを、見た目ばかりでなく音質の面にも求めている。
 アンプ、チューナーのアキュフェーズは、日本ではむしろ数少ない本当の高級機専門のメーカーで、会社としての歴史はまだ六年ほどだが、社長以下、設計・製造にたずさわる人たちは、この分野での経験が深い。このメーカーはそしてめったにモデルチェンジをしない。ここで組合せ例にあげた製品群は、この会社の第二回目の新製品なのだから、製品の寿命の長さはたいへんなものだ。そして、この新しい一連の高級機は、どれをとっても、音質が素晴らしくよくこなれていて、きわどい音を全く出さない。音の透明度がみごとで、粗野なところは少しもなく、よく磨き上げられたような、上質の滑らかな音が楽しめる。そして、どんな種類の音楽に対しても、ディテールの鮮明でしかもバランスの良い、聴き手が思わず良い気分になってしまうような美しい音を聴かせる。
 レコードプレーヤーは、ほんの少々大げさな印象がなくはないが、エクスクルーシヴのP3。重量級のターンテーブルと、動作の安定なオイルダンプアームの組合せだが、自動式ではない。それなのにひどく高価なのは、音質をどこまでも追求した結果なのだから、この価格、大きさ、重さ──とくにガラス製の蓋の上げ下げの重いこと──は、まあ我慢しなくてはなるまい。
 カートリッジはデンマーク・オルトフォンのSPU−G/E型と、西独EMTのXSD15の二個を、好みに応じて使い分ける。オルトフォンの中味のいっぱい詰ったような実体感のある音。それに対してEMTの音の隈取りのくっきりしたシャープな音。この二つがあれば、なま半可な新製品には当分目移りしないで澄む。
 こういう雰囲気を持たせながら、アンプとプレーヤーをもう一ランクずつ落とすこともできるので、それを例中に示す。
 アンプ、チューナーは同じアキュフェーズの、それぞれランク下のシリーズ。レコードプレーヤーは、ラックスのアームレスプレーヤーに、オーディオクラフトのオイルダンプアームの組合せ。カートリッジは全く同じ。ただ、両者を含めて、デンオンの新製品DL303を加えると、これは今日の新しい傾向の、やわらかく自然な音を楽しめる。
 アキュフェーズのパワーアンプは、どちらもパネル面の切替スイッチで、Aクラス動作に切替えられる。出力はP400で50ワット、P260で30ワットと、共に小さくなるが、極端な音量を望まないときは(発熱が増加するので注意が要るが)音質が向上する。チューナーのT104は、リモート選局ボタンが附属していて便利である。

スピーカーシステム:JBL 4343WX ¥580,000×2
コントロールアンプ:アキュフェーズ C-240 ¥350,000
パワーアンプ:アキュフェーズ P-400 ¥400,000
チューナー:アキュフェーズ T-104 ¥250,000
プレーヤーシステム:パイオニア Exclusive P3 ¥530.000
カートリッジ:オルトフォン SPU-G/E ¥39,000
カートリッジ:EMT XSD15 ¥70,000
計¥2,774,000(オルトフォン SPU-G/E使用)
計¥2,805,000(EMT XSD15使用)

ランク下の組合せ
スピーカーシステム:JBL 4343WX ¥580,000×2
コントロールアンプ:アキュフェーズ C-230 ¥170,000
パワーアンプ:アキュフェーズ P-260 ¥200,000
チューナー:アキュフェーズ T-103 ¥150,000
ターンテーブル:ラックス PD-121 ¥135.000
トーンアーム:オーディオクラフト AC-3000MC ¥65,000
カートリッジ:オルトフォン SPU-G/E ¥39,000
カートリッジ:EMT XSD15 ¥70,000

JBL 4343(組合せ)

瀬川冬樹

続コンポーネントステレオのすすめ(ステレオサウンド別冊・1979年秋発行)
「第8項・JBL4343の組合せ例(1)あくまでも生々しい、一種凄みを感じさせる音をどこまで抽き出せるか」より

 この第一の例は、ある意味では、録音スタジオなどでプレイバックされる音以上に、生々しい、レコードの録音によっては思わずゾクッと身ぶるいするほどの、一種凄みのある音を鳴らす可能性を秘めている。
 まずレコードプレーヤー。レコードの溝に刻み込まれた音を、細大洩らさず拾い出すという点で、西独EMTのプロ用のプレーヤーデッキ以上の製品を、私はいまのところ知らない。EMTのプロ用には、安いほうから順に、♯928、♯930、♯950の三機種があるが、最新型でDDモーターを搭載した♯950のモダーンな操作性の良さと新鮮な音質の良さを、この組合せに生かしたい。このほかに旧型の♯927Dstが特注で入手可能といわれる。927の音質の良さはまた格別なので、どうしてもというかたは、大きさを含めて950よりもやや扱いにくい点を承知の上で、927にしてもよい。いずれにしても、EMTのプレーヤーで一度でもレコードを聴けば、あのビニールの円盤の中に、よくもこんなに物凄い音が入っているものだと驚かされる。EMTで聴いたレコードを、ほかのプレーヤーに載せてみると、いままで聴こえていた音から何かひどく減ってしまったような印象さえ受ける。
 そのぐらい細かな音をプレーヤーが拾ってくるのだから、アンプリファイアーもまた、アメリカのマーク・レビンソンのような製品が必要になる。楽器の音そのものばかりでなく、その周辺に漂う雰囲気までも聴かせてくれる感じのするアンプは、そうザラにない。EMT→マーク・レビンソン→JBL4343、という組合せは、レコードというものの限界が、およそふつう考えられているような狭い世界のものではないことを聴かせてくれる。
 ただひとつ、マーク・レビンソンのパワーアンプ(ML2L)は、出力がわずか25ワットと小さい。むろん、ローコスト機の25ワットとくらべれば、信じられないような底力を持ってはいるものの、やや広い部屋(たとえば12畳以上)で、とくにピアノのような楽器を眼前に聴くような音量を求めようとすると、少々パワー不足になる。その場合は、音の透明感がわずかに損なわれるが、出力本位のML3のほうにすればよい。また、プリアンプは、トーンコントロールその他のこまかな調整機能のついていないML6にすると、いっそう自然な、素晴らしい音になる。ただしこれはモノーラル用なので、二台重ねて使う。入力セレクターとボリュウムも、二個のツマミをいっしょに動かさなくてはならないという不便さだが、音質本位にしようとするとこうなるのだ、とレビンソンは言う。ここまでくると、かなりマニアの色が濃くなってくるから、誰にでもおすすめするわけにはゆかないが。
 EMTの出力は、プリアンプのAUX(LNP2Lの場合)またはLINE(ML6の場合)に接続する。

JBL 4343(部屋について)

瀬川冬樹

続コンポーネントステレオのすすめ(ステレオサウンド別冊・1979年秋発行)
「第12項・JBL4343にはどんなリスニングルームが必要か どういう環境条件が最低限必要か」より

 JBL4343をもとに、四通りの組合せを作ってみた。それぞれの関連説明からすでに想像のつくように、ひとつのスピーカーをもとにしても、組合せの答えはひとつに限らない。そのスピーカーの、どういう面を、どう生かすか、という設問に応じて、組合せは、極端にいえば無限と言えるほどの答えがある。もしも私以外の人が組合せを作れば、私の思いもつかない答えだって出てくるだろう。組合せとはそういうものだ。
           ※
 このように再生装置が一式揃ったところで、もっと切実な問題が出てくる。それは、この装置を設置し、鳴らすための部屋──いわゆるリスニングルーム──の条件、という問題だ。4343ほどのスピーカーになれば、よほどきちんとした、広い、できることなら音響的にもある程度配慮された、専用のリスニングルームが必要……なのだろうか。
 そういう部屋が確保できるなら、それにこしたことはない。そういう、専用のリスニングルームのありかた、考え方については別項でくわしく述べるが、ここでまずひとつの結論を書けば、たとえJBL4343だからといって、なにも特別な部屋が必要なのではない。たとえ六畳でもいい。実際、私自身もほんの少し前まで、この4343を(厳密にいえば4343の前身4341)、八畳弱ほどのスペースで聴いていた。
 繰り返して言うが、専用の(できれば広い、音の良い)部屋があるにこしたことはない。しかし、スピーカーを鳴らすのに、次に示す最低条件が確保できれば、意外に狭いスペースでも、音楽は十分に楽しめる。
 その必要条件とは──
㈰ 左右のスピーカーを、約2・5ないし3メートルの間隔にひろげてスピーカーの中心から中心まで)設置できるだけの、部屋の四方の壁面のうちどこか一方の壁面を確保する。できれば壁面の幅に対してシンメトリーにスピーカーが置けること。
㈪ 左右のスピーカーの間隔を一辺として正三角形を描き、その頂点に聴き手の坐る場所を確保する。ここが最適のリスニングポジション。必ず左右から等距離であること。
 部屋が十分に広く、音響的な条件の整っている場合は別として、必ずしも広くない部屋で、もしもできるかぎり良い音を聴きたいと考えたら、まず最低限度、右の二つの条件──スピーカーの最適設置場所と聴き手の最良の位置──を確保することが必要だ。そしてこの条件は、最低限度四畳半で確保できる。六畳ならまあまあ。八畳ならもう十分。むろんそれ以上なら言うことはない。
           ※
 つけ加えるまでもないことだが、部屋の音響的な処理──とくに、内外の音を遮断して、外部からの騒音に邪魔されず、また自分の楽しんでいる音で外に迷惑をかけないためのいわゆる遮音対策や、音質を向上させるための室内の音の反射・吸音の処理──については、条件の許すかぎりの対策が必要だ。そのことについてくわしくは、「ステレオサウンド」本誌に連載中の〝私のリスニングルーム〟を参照されたい。

ビクター A-X9

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「JBL♯4343研究(2)」より

 ここで価格ランクが一段変わる。このビクターと後のラックスが15万円クラスの代表ということになる。
 A−X9は新しい回路構成を採用し、外観のデザインも一新したビクター久々のニューラインの最高機種だ。このアンプは、わたくしのリスニングルームでの試聴では、かなり個性的な音を聴かせた。もちろんいままでに聴いたマランツ、アキュフェーズ、トリオ、それぞれに個性を持っているのだが、その中にまぜても、ビクターは一種独得な音だと思わせる個性をもっている。具体的には、同じレコードでも音の表情、あるいは身振りをやや大きく表現する。別な一面として、鳴ってくる音に一種独得な附帯音──この表現はとても微妙でうまく言い表せないのだが──というか、プラス・アルファがついてくる印象がある。「魔法使いの弟子」で、フォルティシモの後一瞬静かになってピアニシモでコントラファゴットが鳴り始める部分、このレコード自体にホールトーンあるいはエコーが少し録音されているのだが、そのエコー成分が他のアンプよりはっきりと意識させられる。このアンプには、エコーのような、楽音に対するかくれた音を際立たせる特徴があるのかもしれない。「ザ・ダイアログ」でも、シンバル、スネアー、ベース……多彩な音が鳴った時、それらがリアルに目の前で演奏されているというより、少し遠のいた響きのあるステージで演奏されているかのように再現される。ことばにするとオーバーなようだが、これは他のアンプでもいえることで、本当に微妙なニュアンスの問題だが、それにしてもわたくしには、独得な雰囲気感がつけ加わっている不思議な音、と受けとれた。あるいはこういう音は、極端にデッドなリスニングルームで聴くと、評価が高くなるのかもしれない。

トリオ KA-9900

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「JBL♯4343研究(2)」より

 トリオの最新のアンプの音──より正確にいうなら、前作KA9300あるいはKA7300D、その後あいついで発表されたL05/L07シリーズあたりを境にして──は、目指す方向がはっきりしてきた。トリオならではの性格が確信を持って表現されるようになった、とわたくしは思う。トリオのアンプだけがもっている独得の音。それはレコード、FM、テープどんなプログラムソースを聴いても、聴き手に生き生きとした感覚をつたえてくれる。同じレコードをかけても、その演奏自体がいかにも目鼻だちのクッキリして目がクリクリ動くような表情がついてくるように聴こえる。裏返していうと、音楽の種類によっては、ほんの心もちわずかといいながらも表情過多──という言葉を使うこと自体がすでにオーバーだが──と思わせる時がないでもない。しかし全体としてみると、音楽の表情を生き生きとつたえてくれるという点で、わたくしの好きな音のアンプといえる。このKA9900はそうしたトリオの最近の特徴をたいへんよく備え、セパレートL07シリーズにも匹敵するクォリティさえもつプリメインの高級機といえる。
 音を生き生きと、コントラストをつけて表現するためか、音の輪郭がはっきりしていて、それは時として、音が硬いかのように思わせる場合がある。このアンプを長期間、自宅で個人的にテストして気がついたのだが、他の多くのアンプと比べると、スイッチを入れてから音がこなれていくまでの時間が長く、その変化が大きい。長い時間音楽を聴けば聴くほど、音がこなれてきて、柔らかくナイーヴになって、聴き手をひきつける音に変化してゆく点が独特といえる。
 内蔵MCヘッドアンプの音もかなりグレイドが高く、オルトフォンMC30を使うと、E303に比べ少々ノイズが増すようだが、アキュフェーズとの5万円の価格差を考えれば優秀といってよい。かなり豊富なコントロールファンクションを備えているが、それぞれの利き方がたいへん適切で好ましく、中間アンプをバイパスしてイコライザーアンプとパワーアンプを直結したDCアンプ構成にしても音質の変化が少ないことから、中間アンプ自体の設計も優れていることを思わせる。あらゆる点から高級機らしさを備えているといえよう。
 しかしこのデザインは何とかならないものか。このパネル面を見ていると、自家用の常用機として毎日使おうという気がどうしてもおきない。マランツにしろアキュフェーズにしろ、出てくる音とアンプ全体の雰囲気はイメージ的に似ていると思うが、トリオは一種男性的な──若さゆえに粗野が許されるといった──イメージだが、出てくる音はナイーヴなエレガントな面ももっているのだから、外観にも音と同じくらいのデリカシーがほしい。

価格帯別にサウンドの傾向をさぐると

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「JBL♯4343研究(2)」より

 25万円から6万円弱と、4倍以上の価格差のあるプリメインアンプを集中的に聴いてみると、さすがに20万円以上の製品はそれぞれに優れていると思った。このクラスでは、パワーもチャンネル当り100W、150Wと、プリメイン型としては少し以前までは考えられなかったような、ハイパワーを安定に発揮し、SN比の良さ、内蔵MCヘッドアンプのクォリティの高さ、コントロールファンクションの充実、そして見た目の美しさや信頼感を含めて(今回試聴した以外の製品の中にはいくつかの例外があるものの)、愛好家にとって良い製品を手に入れたという満足感を与えてくれるものばかりだ。
 少し値段が下がって15万円クラスになると、さすがに各社の高級機が揃っているクラスだけに、♯4343を鳴らして相当音量を上げても、量感、スケール感での不満はあまり感じない。ごく最新のアンプではより一層その感が強い。プリメインとして割り切るのなら、このクラスがねらいどころだろう。逆にいうと、先ほどのマランツ、アキュフェーズ、トリオ・クラスで、20万円以上も出してこれだけの大きさ、機能とパワーをもったプリメインアンプを手にしてみると、もう少し奮発してセパレートにした方がよかったのじゃないか、と迷うことがあるのではないだろうか。事実このクラスから上のセパレートアンプには、比較的(セパレート型としては)ローコストでも結構良い製品もあるのだ。
 10万円のクラスはどうだろう。この価格帯のプリメインアンプは、♯4343を鳴らすために買ったとしたら、買った後でいちばん迷いが出てくるのではないだろうか。このクラスの製品を買おうというからには、いろいろ前後の製品を研究してのことだろう。15万円までは出せないが7万円以下では満足できそうもないということで、奮発して10万円というランクに考えが落ち着いたのではないだろうか。今日一流メーカーの製品で10万円も支払えば、中身に裏切られることはない。価格相当の、あるいは価格以上の音がする。が、今回のテーマのように、♯4343を最終的にはできるかぎり良いアンプで鳴らしたいが、当面はプリメインアンプで実力のせめて60ないしは70%の音を抽き出そうと考えて選んだ場合、できることならこのクラスは避けた方が良さそうだ。もう少し予算を足してもう少し音を善くしたいと思う反面、もう少し安いランクのプリメインで聴いていて、あとで一挙にセパレートにグレードアップした方が……とも考えられる。やはり10万円という価格ランクは、もう少し出しておきたい、あるいはそこまで出さなくてもよいのではないかという印象を、今回の試聴ではうけた。誤解しないでいただきたいが、これはあくまで「♯4343をとりあえず鳴らす場合」なのであって、10万円のプリメインにバランスのとれたスピーカー、プレーヤー、カートリッジを組合わせてシステムを構成する場合は、先に述べたように価格相当以上の音が楽しめる。そういう良いアンプが多いといえる。
 アンプの性能で差がつくのは、価格で√2倍または1/√2というわたくし流の説によれば、10万円クラスの下は7万円以下ということになる。つまり6万円から6万9千8百円といった価格帯のアンプを思い浮かべていただければよい。するとこのクラスが、♯4343を鳴らすためのプリメインとしてまあ最低の限界だろう。他の機会に試みたことがあるが、これ以下のアンプでは♯4343は鳴らせないと思って間違いない。これ以下のアンプでは、いくら包容力のある♯4343でも、アンプの性能をカバーしきれない。逆に、♯4343だからこそ、6万円クラスのプリメインの、時としてクォリティの手薄になりがちな部分をスピーカーの方で積極的にカバーして聴かせてくれることを知るべきだ。しかしこのクラスのアンプに見合った組合せを作れば、それなりの音が楽しめるにしても、かえって、あまり価格の高くないアンプであることをゅ♯4343で鳴らしたときよりもょはっきりと意識させられてしまうことが多い。
 日頃わたくしの部屋で、プリメインで♯4343を聴くときは、ほとんど最高級機で聴くのが常だったが、今回かなりローコストの製品でも鳴らしてみた結果、スピーカーに不相応なほどアンプのランクを落しても、♯4343の持っている良さが一応出てきて、けっこう音楽を楽しませてくれることが改めて確認できた。けれど一通りの試聴が終って、最後にもう一度、マーク・レビンソンの組合せに戻した時は、わたくしばかりでなく居あわせた編集部員数人が、アッと声にならない驚きを顔に現わして、互いに顔を見合わせたのだった。桁外れて価格が高いとはいえ、アンプのクォリティはいうにいわれずスピーカーの音の品位、密度を支配するものだということも確認できた。
 JBL♯4343は、はかり知れない可能性をもったスピーカーであるだけに、費用や手間を厭いさえしなければ、今日考えうる最高クラスのアンプと組合わせて、プレーヤーシステムからプログラムソースまででき得る限りクォリティを高めて鳴らせば、再生音楽とは思いもよらない凄みさえ聴かせてくれる。それでいて、スピーカー1本の1/10の価格のプリメインで鳴らしても、バランスを崩すことなくスケール感も楽しませてくれる。♯4343以前の大型フロアータイプ・スピーカーでは、なかったことといってよいだろう。

アキュフェーズ E-303

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「JBL♯4343研究(2)」より

 アキュフェーズ初期の音から、新シリーズは少し方向転換したという印象を受けた。セパレートのC240+P400などを聴いても、明らかに音の傾向を変えた、というより、アキュフェーズとしてより完成度の高い音を打ち出し始めたと思う。それがE303にも共通していえる。たとえば、弱音にいたるまで音がとても滑らかで、艶というとオーバーかもしれないが、いかにも滑らかな質感を保ったまま弱音まできれいに表現する。本質的に音が磨かれてきれいなため、パワーを絞って聴くと一見ひ弱な感じさえする。しかし折んょウを上げてゆくと、あるいはダイナミックスの大きな部分になると、音が限りなくどこまでもよく伸び、十分に力のあるアンプだということを思わせる。
 マランツPm8の音のイメージがまだ消えないうちに、このE303を聴くと、Pm8ではプリメインという先入的イメージの枠を意識しなくてすむのに対して、E303は「まてよ、これはプリメインの音かな」とかすかに意識させる。言いかえるとPm8よりややスケールの小さいところがある。しかし、そのスケールが小さいということが、このE303の場合は必ずしも悪い方向には働かず、むしろひとつの完結した世界をつくっているといえる。Pm8ではプリメインの枠を踏み出しかねない音が一部にあったが、E303はこの上に同社のセパレートがあるためかどうか、プリメインの枠は意識した上で、その中で極限まで音を練り上げようというつくり方が感じられた。たとえば、「ザ・ダイアログ」でドラムスやベースの音像、スケール感が、セパレートアンプと比べると心もち小づくりになる。あるいはそれが、このアンプ自体がもっているよく磨かれた美しさのため、一層そう聴こえるのかもしれない。これがクラシック、中でも弦合奏などになると、独得の光沢のある透明感を感じさせる美しい音として意識させられるのだろう。
 内蔵MCヘッドアンプのクォリティの高さは特筆すべきで、オルトフォンMC30が十分に使える。Pm8では「一応」という条件がつくが、本機のヘッドアンプは、単体としてみても第一級ではないだろうか。
 総じて、プリメインアンプとしての要点をつかんでよくまとまっている製品で、たいへん好感がもてた。

テクニクス SU-V6

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「JBL♯4343研究(2)」より

 今回試聴したアンプの中で最もローコストの製品で、外観を眺め価格を頭におくかぎり、正直のところたいして期待をせずにボリュウムを上げた。ところが、である。価格が信じられないような密度の高いクォリティの良い音がして驚いた。ヤマハとオンキョーのところで作為という表現を使ったが、面白いことに、価格的には前二者より安いV6の音には、ことさらの作為が感じられない。
「つくられた音」ということをあまり意識させずに、レコードに入っている音が自然にそのまま出てきたように聴こえ、えてしてローコストのアンプは、安手の品のない音を出すものが多いが、その点V6は低音の量感も意外といいたいほどよく出すし、音に安手なところがない。
 他の機会にこのアンプを聴いて気づいたことだが、今回のテストのように、スイッチを入れてから3時間以上も入力信号を加えてプリヒートしておかないと、こういった音は聴けない。スイッチを入れた直後の音は、伸びのない面白みのない音で、もっとローコストのアンプだといわれても不思議ではない音なのだが、鳴らしているうちに音がこなれてきて、最低でも一時間以上、二時間もたってみると、聴き手をいつまでもひきつけておくような魅力的な音になっているのである。最近のローコストアンプの中でも傑出した存在だろう。内蔵のMCヘッドアンプも、価格を考えれば立派というほかない。
 しかし、あえて苦言を呈すれば、オリジナリティに欠けるデザインポリシーは、全く理解に苦しむ。この価格帯のアンプを買うであろうユーザー層を露骨に意識した──しかも当を得ているとはいいがたい──メカっぽさ。少し前の某社のアンプデザインを想い起させ、イメージもマイナスだし、いかにも機械機械した印象は、鳴ってくる音の美しさ、質の高さとはうらはらだ。

ラックス L-58A

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「JBL♯4343研究(2)」より

ラックス久々の力のこもった新製品だという印象をもった。15万円前後のプリメインアンプは、前記したビクターA−X9をはじめ、長いことベストセラーを続けているヤマハCA2000、最近のヒット商品サンスイAU−D907など、それぞれに完成度の高い製品がひしめているクラスに、あえて打って出たということからもラックスの意気込みが感じられる。それだけに前記のライバル機種と比較してもL58Aの音は相当に水準が高いといえるだろう。現時点での最新機種であるだけの良さがある。
ラックスのプリメインアンプから受ける印象として、ここ数年、たいへん品は良いのだがもう一歩音楽に肉迫しない、あるいはよそよそしくひ弱な感じがあった。本当の意味での低域の量感も、やや出にくかったように思う。しかしL58Aではそれらが大幅に改善された。たとえば「ザ・ダイアログ」で、ドラムスとベースの対話の冒頭からほんの数小節のところで、シンバルが一定のリズムをきざむが、このシンバルがぶつかり合った時に、合わさったシンバルの中の空気が一瞬吐き出される、一種独得の音にならないような「ハフッ」というよな音(この「ハフッ」という表現は、数年前菅野沖彦氏があるジャズ愛好家の使った実におもしろくしかも適確な表現だとして、わたくしに教えてくれたのだが、)この〈音になら
ない音〉というようなニュアンスがレコードには確かに録音されていて、しかしなかなかその部分をうまく鳴らしてくれるアンプがないのだが、L58Aはそこのところがかなりリアルに聴けた。
細かいところにこだわるようだが、これはひとつのたとえであって、あらゆるレコードを通じて微妙なニュアンスを、このアンプはリアルに表現してくれた。細かな、繊細な音さえも、十分な力で支えられた緻密さで再生してくれていることが、このことから証明できる。
低音に十分力があり、そして無音の音になるかならないかの一種の雰囲気をも、輪郭だけでなく中味をともなったとでもいう形で聴かせてくれることから、よくできたアンプだと思った。しかし、試聴したのは量産に入る前の製品だったので、量産機の音を改めて確認したいと思う。
今回聴いた製品に関しては、試作機的なものだからか、MCヘッドアンプの音は、L58Aが本来もっている音に比べ、もう一歩及ばないと聴いた。アンプ全体のクォリティからすれば、もう少しヘッドアンプの音が良ければと思わせる。しかし14万9千円のアンプにそこまで望めるかは微妙な問題で、価格を考慮すれば、この音のまま量産されることを前提に、たいへん優れたアンプといえる。

オンキョー Integra A-805

瀬川冬樹

ステレオサウンド 52号(1979年9月発行)
「JBL♯4343研究(2)」より

 プリメインアンプの中級クラスとでもいえる価格の製品。しかしこの価格を頭において試聴をはじめるとオヤッと驚かされる。鳴らしているスピーカーはペアで116万円だが、百万円をこえるスピーカーを6万5千円のアンプで鳴らしたらどうなるか。おそらく多くの人がはじめから不安感を抱くと思う。わたくし自身も、このクラスのアンプで♯4343がどの程度鳴ってくれるか自信がなかった。しかし接続を終えボリュウムを上げて鳴ってきた音は、そんな心配を一瞬忘れさせる、たいへん好ましい音だった。滑らかで、独特に広がる雰囲気をともなった美しい音に、まずびっくりさせられた。
 むろん時間をかけて聴き込むと、たとえば「ザ・ダイアログ」のドラムスとベース、「魔法使いの弟子」のオーケストラのトゥッティで、音のクォリティやスケール感の上から、やはりローコストなアンプだということがわかる。しかしずいぶん聴き手を楽しませる、たいへんうまいまとめ方をしたアンプといえる。ヤマハのところで作為という言葉がなにげなく出てきたのだが、その意味でA805にも相当作為があるといってよいだろう。この価格のプリメインを即物的に設計・製作したら、これほど聴き手をひきつける好ましい雰囲気は出ないはずだ。細かな点を指摘すれば、バスドラムやスネアのスキンがピシッと張っている感じが少し湿り気をおび、いわゆるスカッとした音とは違う。反面、弦やヴォーカルはとても滑らかなイメージを展開することで、聴き手に好感をもたせるアンプだ。