私の考える一流品

菅野沖彦

オーディオ世界の一流品(ステレオサウンド別冊・1994年春発行)
「私の考える一流品」より

 一流品という言葉を厳密に考えるとなかなか難しい。本来、そう安易に使うべき言葉ではないと思う。しかし、現代は最大級の形容詞や感嘆詞が吟味されることなく使われる時代だから、一流品という言葉もそれほど慎重に基準に照らし合わせて考えられているとは思えないのである。一流品、一級品、高級品、特級品、銘品、逸品、絶品などと、品物の格や品位の高さを表現する言葉は数多くあって、それぞれ、少しずつニュアンスは違う。一流品という言葉は、中でも「流」という字が使われていることで、流儀や流派という意味もあるのではないかと思う。つまり、個性とオリジナリティが大切な要素で、ただ、同種の品物の中で値段が最高だとか、格づけが上だとか、あるいは、最高の性能をもつということだけが、その説明にはならないだろう。そして個性やオリジナリティが、ただ他と違っていればよいというものでないことは当然で、それは優れた普遍性をもったものでなければならないとも思う。
 その証しとして、一流品というものは、多くの人々によって長い時間を通して常に評価され、敬愛されてきた実績を必要とするのかもしれないし、それを創り出した人や企業の並はずれた努力の賜であるだろう。一流品は、それを生んだ人や企業に独特のドラマがあるものだし、積年の風雪に耐え主張を貫き通して築き上げた歴史があるはずである。
 歴史というと、何百年という長い年月が想起されるのだが、現代産業にあってはそれらが大幅に短縮され数十年、時には数年という凝縮した期間として見ることができる場合もある。とくに、エレクトロニクス製品にはこうした傾向が強く、ただ時間の長さだけで一流であるか否かを決めるわけにもいかないだろう。しかし、それが数年であったとしても、そこには一貫性が必要である。
 歴史には必ずしも一貫性を必要としないが、伝統という言葉には一貫性が必須条件である。だから、仮に数年の時間しか注いでいない企業の製品であるものを一流品と認めるからには、その数年の中での一貫性と、その強い主張や思想が、将来、永続的に存在し得る普遍性をもつものとして考えられなければならないだろう。この辺が、現代のようにテンポの速い、技術革新のめまぐるしい時代にあっては、一流品という少々古めかしい日本語を当てはめるのが難しいところである。
 その点では、一級品、特級品、高級品などの言葉のほうが気楽に使えるように思える。これらの言葉のほうが単純に同種類の品物の相対的なクラス分けの意味で使うことに抵抗を感じないですむからである。これが、銘品、逸品、絶品などとなると、人の思い入れが加味されてきて複雑になる。しかし一方で、これらの言葉には必ずしも、歴史、伝統や格付けは必須の条件ではなく、むしろ、その品物単品での評価の要素が強いともいえそうだ。
 一流品となると、どうやら、これらの条件のすべてを満たすだけではなく、現代のように品物が産業として生産される時代にあっては、それを生み出す企業が一流企業であるかどうかまでが問われかねない。しかし、一流企業からだけ一流品が生み出されるとはいえないわけで、人によっては大量生産品を一流品と呼ぶのには抵抗があるかもしれない。
 企業の一流、二流……は経営的な実績や数字、つまり経済と規模がプライオリティとなるもので、製品の品位とは必ずしも一致しないと思う。だがしかし……である。一流品であるからには、その品物がユーザーにとって、あらゆる面で信頼に足るものであるべきだという意見も当然で、そうした点からは、保証や信頼性が不安になるようなものを一流品と呼ぶのは抵抗があるだろう。経営基盤のしっかりした大規模の一流メーカーの製品なら、この点でもっとも信頼できるから、一流品の条件としてそのメーカーを問題にする考え方にも一理あり、ということになる。
 しかし、ことオーディオ製品に関していえば、ハイエンドのエンスージアストの心を動かすような製品は、往々にして小規模なメーカーの製品であることが多い。メーカーが一流企業であるか否かを問うとしたら、多くのオーディオ・コンポーネントは一流品とは呼べなくなってしまう。
 ブランド品という言葉も最近では一般的だ。有名ブランド・イコール一流品という考え方はいかがなものであろうか? 有名ブランドになったからには、そのメーカーや人が大変な努力で自己のオリジナリティを広く理解されるべく、長年にわたって築き上げた歴史があると考えられる。有名ブランドが一流品だという考え方は、あながちはずれてはいない。しかし、ブランドの知名度の上に胡座をかいて、実感が伴わなくなったものもあるだろう。だから、現実的には一流品に最も近い言葉がブランド品であるようにも思われる。特に外国製品のように、創立者や製造者の個人名がブランドとして使われ、それが世界的に有名になったというものには、それなりの必然性と重みがある。
 ブランドは個性とオリジナリティがなければ他の品物の中に埋没して、有名になるまで生き残れないだろう。また、強い信念と主張で苦難を乗り越えてこなければ同じく消えざるを得ない。こんなわけでブランド品を、ただ知名度だけと考えるのもよくないし、頭から陳腐と決めつけるのも正しくない。要は、そのブランドがいかに初心を忘れず、いつの時代にあっても誇りを保ち続け顧客の満足に応える努力をしているかが問題であろう。
 さて、こんなわけで世界の一流品といえるオーディオ機器の選択には大変苦労させられた。厳格に私の考える一流品の基準で選んだら、これだけの数の製品は選べなかったと思う。かといって一流品と呼ぶからには、ただ漠然と製品本位で良いと思われるものを拾い上げていくわけにはいかない。SS誌の「ベストバイ」とは違うし、「COTY」とも違うのだ。最近こんなに苦労させられたセレクションもない。その枠が多すぎるのか少なすぎるのか、考え方によってどちらともいえる。
 言いわけがましいが、一流品という語が高級品や高額品と同義ではないことも重々承知である。しかし、どうしても数に制約を受けて選ぶとなると、高級品に片寄ることはやむを得ないのではないだろうか。編集部から渡されたリストを見ても、中・高級機器が中心で、普及機はあまりリストアップされていない。すでに述べたように一流品と品物のクラスとは別という考えを私は持っているのだが、これが現実なのだと思う。
 しかも、オーディオは趣味
である。その製品の趣味性を考えれば当然、高級機ほど高い趣味性を満たしてくれるものが多い。実用機としての一流品もあり得るのだが、ここでは趣味の製品としてという基本条件を定めて選択した。その結果、もう一つ述べておかなければならないことが出てきた。それは外国製品の数が多いということである。
 私はこの別冊の前項で、エッセイストで時計のコレクターとして有名な松山猛氏と対談をした。松山氏にとって時計は、ただ時を知るためのメーターではなく趣味である。時計の趣味となると、その対象はアンティーク時計か、外国製(ほとんどスイス製)の時計であって、それも、クォーツではなくメカニカル・ウォッチが中心となる。
 もし、時計を趣味としてではなく、正確な時を知る道具として世界の一流品を選ぶとなれば、その内容はほとんどクォーツ・ムーヴメントをもったものになり、日本製かスウォッチの1万円内外のものが並ぶであろう。対談当日、松山氏の腕についていたフランク・ミューラーのウォッチなどが選ばれるはずはない。しかし趣味の選択なら、いま、この人の作品が載っていなければ、信用できないはずである。

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