音色(いろ)から音場(ば)へ

菅野沖彦

ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)
特集・「クォリティオーディオの新世代を築くニューウェイヴスピーカー」より

 今から三年近く前になりますが、ステレオサウンドの60号で「アメリカンサウンド」の特集を組んだとき、JBL、アルテック、エレクトロボイスといった伝統的なメーカーに混じって、ニュージェネレーションの抬頭を予告させるようなスピーカーがすでに二、三機種登場していました。
 なかでも印象に強いのは、インフィニティのIRSで、それまでほくが受けとめてきたアメリカンサウンドのどのカテゴリーにも属さない非常にユニークなアプローチとサウンドは、ぼくだけではなく一同が驚いたことを憶えています。
 インフィニティの新しさというのは、当時はもっぱらその音色、サウンドバランスに感じられたことだったんですけれど、マッキントッシュのXRT20というスピーカーも、音場再生への従来にないアプローチで登場した新世代のスピーカーとして、アメリカンサウンドの新しい展開を予想させる内容でした。
 それまでのスピーカーの設計理念というのは、基本的には、忠実なエネルギー変換器を目指すという内容だったんですね。モノーラル時代から、スピーカーというトランスデューサーが、1チャンネルの中での伝送系として理解されてきた以上、それが当然だったといえば当然なんです。ですから、そこで重要視されてきたスペックというのは、まず能率と周波数特性というエネルギーについての表示だったわけです。
 AR社に代表されたイーストコーストサウンド、それからウェストコーストサウンドという大きな対極も、忠実なるエネルギー変換器として、じゃ能率を優先させるのか、周波数特性を優先させるのかということが両者の音の差となって表われたという理解も可能でしょう。
  インフィニティやマッキントッシュがもたらしたインパクトというのは、そうしたエネルギー変換器としての忠実度を向上させたうえで、さらにステレオ再生においても最も効果的なペアスピーカーというのがどうあるべきか、という新しいフィデリティの水準を設けたことにあったと思います。つまり、ステレオディスクに録音された2チャンネルの信号に対し、スピーカーを音場の変換器として積極的にとらえようという視点です。忠実なエネルギー変換各を目指すことは、基本としてはそのまま守らなければならないことだけれども、さらにそこに音場変換という新しいテーマが加えられて登場してきたのが、あの時点ではXRT20だった。
 ただし、人間の感覚というのは、この部分は音質や音色、この部分は音場のクォリティというふうに分けて捉えているわけではありません。マッキントッシュにしてもインフィニチイにしても、まず1チャンネルのクォリティ、エネルギー特性を上げてゆくというスタートラインから、立体音場を得るためのディスパージョンアングルの設計やエンクロージュアデザインにウェイトが置かれてゆくというプロセスだったと思います。
 ですから、結果において、音色という水準で両者を比較することもできるわけです。インフィニティの場合、EMIT、EMIMと呼ばれるフィルム膜をダイアフラムにした中高域ユニットを多用していますが、非常にマスの軽い、トランジュントのいい中高域への一貫したポリシーがあって、おそらく、創設者のアーノルド・ヌデールはエレクトロ・スタティック型の音色、音の肌合いが好きなんだと思わせる音なんですね。
 60号当時、IRSの聴かせる音場的な効果より、音質、音色に議論が集中したのも、そういう鮮明な個性、従来のアメリカンサウンドのエネルギッシュな傾向に完全に対向する存在として我々の耳に飛びこんできたからだと思います。おそらく、音色の上でも、インフィニティは、現在のニュージェネレーションを生んだパイオニア的な存在じゃないかと思いますよ。
 他方、マッキントッシュは、ソフトドーム24本を使ってトゥイーターアレイを作り出し、両者は発想において割合に似ているところを持ちながら、出てくる音の質感や肌合いはまったく違うといった興味深い対照を成していた。いい意味でも悪い意味でもマッキントッシュの場合、伝統的な風格とか、イーストコーストに位置した地域性は音に表われています。
 しかし、ニュージェネレーションのスピーカー技術が、エネルギーの変換系から、時間空間の伝送を考慮した音場の変換系へと、考え方を変えつつあることはまぎれもない事実で、これはなにも、アメリカに限ったことではありません。英国、日本を含めて、音場の情報に対する忠実度を高めようという動きはすべてについてあると思うんです。
 ただアメリカの場合、インフィニティの例でもわかるように、従来のスピーカー概念の枠にこだわらない、非常にオリジナリティを重視したポリシーが乱立しているところが興味深いですね。はっきり言って、IRSというシステムは、日本的な尺度で計ると、その価格から規模から、ある種の狂気でしょう。
 アメリカという社会は、社会の規律がものすごく厳しいわけです。あれだけの雑多な民族が寄り集っている社会ですから、よほど厳しくない限り成り立たない。しかし、社会規制の厳しさというのが、人間離れしたところで厳しいんじゃなく、ひとりの個人を認めた上での厳しさなんです。で、そこからドロップアウトした人間には面倒を見ないわけで、ドロップアウトした人間を収納する別の規律がまたマルチプルに用意されているという格好ですね。
 ですから、アメリカのメインストリームの社会においては、狂気が市民権を得ているという事情をのみこんでおく必要があるでしょう。ビジネスマンであろうと銀行家であろうと狂気は必要なんです、人間なんですから。アメリカという国は、非常にフレキシブルな考え方の中で、その狂気に市民権を持たせることで、多民族性に対応しているという特徴があると思います。黒人社会には黒人社会の狂気がある。つまり、社会というのがひとつの一枚岩のようにあるんじゃなくて、あっちこっちにポテンシャル、起伏が生じている社会なんです。
 一方、日本というのは狂気が市民権を絶対に得ない構造になっている。狂気というというのは、表面的には狂気を出さないよう出さないように常に抑制している。結果的に、ポテンシャルのない、すべて平準化してしまおうというバイアスが働く社会になっているんです。
 オーディオ製品が、そういう固有の社会背景
から逃れたところで生産されるわけがありません。というよりも、むしろ、オーディオ製品というのは、単なる実用的な電気製品でもなければ、絵画のような芸術作品でもない。しかし、その両者のある部分を同時に負っているという非常に特殊な位置を占めているがゆえに、それを生んだ社会の、あるいは個人の狂気と理性のバランスポイントがそのまま表現されてしまうという性格があると思うんです。つまり、そのバランスポイントが、どこに求められているのか、極端な場合、狂気だけなのか、理屈だけの味も素っ気もないものなのかということが、かなりクリティカルに読み取れる。
 ただ、どっちの社会にもユートピアはないんで、どっちも一長一短がある。オーディオだって同じだと思うんです。理想的な、ユートピッシュなオーディオがないからこそおもしろいわけですよ。
 日本だと、あるゼロデシがあって、そこに横に一列に並べて、さぁどれがいいみたいな価値感が割合に支配的ですね。ところが、アメリカの場合、個々がまったく別の価値感、座標で世界を見ているという新大陸特有の精神風土があるでしょう。アメリカという国は封建的な秩序、中世のようなヒエラルキーに支配された歴史を持たなかったために、常に個人対社会の関係が緊張関係にあって、アメリカ人というのは、人がいいものを作ったら、無理矢理でも別なものをつくろうとする。日本は逆なんです、無理矢理でもマネする。
 アメリカの乱立する個性というのは、いかにもあっけらかんとしていて陽気でしょう。俺と同じように考え、俺と同じような感性をもった人間が、俺の作ったスピーカーを使ってくれればそれでいい。もし、彼と違う感性や考え方を持っているとしたら、それは間違っていると言って説得し始めますからね。
 今回聴く6機種、外観を見ただけで、もうその強烈な個性のぶつかり合いが想像できますよ。

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