瀬川冬樹
ステレオサウンド 60号(1981年9月発行)
特集・「サウンド・オブ・アメリカ 憧れのスーパー・アメリカン・サウンドを聴く」より
全試聴が終らないうちに不本意ながら入院ということになってしまいまして、聴けないシステムが何機種か出て、最後の総括の部分のみなさんのお話に加われなかったために、お三方のご意見をいちおう読ませていただいたうえで、私個人の感じたことを談話でしゃべらせていただきたいと思います。
まず、今回のテーマの〈アメリカン・サウンド〉ということについて、二、三、申しあげておきたいんですけれども、私自身がここ数年来、スピーカーの音の分類をするためには、第一に、その音の生れた風土・地理、第二にその音を生んだ時代、あるいは世代、第三に技術的な進歩、という、まあ大きくわけて三つの座標軸でとらえるようにしている。
そういう意味では、西ドイツや日本のような小さな国がひとつの地域としてとらえられるにしても、アメリカという国はあまりにもひろい。お三方がそれぞれのかたちで指摘しておられるように、アメリカという国を,ごくおおまかに分けたとしても、東海岸があり、西海岸があり、そしてシカゴを中心とした中部といったような三つの地域にわけて考えなくては片手落ちになるわけで、〈アメリカン・サウンド〉と一括して論じることにはやや無理があるんではないかという気がまずいたします。
次の第二の点として、これは岡先生が発言しておられるように、アメリカのスピーカーの発達の歴史をたどっていきますと、アルテックに代表されるトーキー・サウンドから発生した音と、もうひとつはパナロープを例にあげておられたような家庭用の電気蓄音機から発生した音という、まあごく大ざっぱなわけかたであるにしても、ふたつのちがいがあるこのこと自体も、一括して論じるというわけにはなかなかいきにくい、ひとつの要因ではないか、と思います。
第三点として、とくに時代、あるいは世代のちがいとなると、これもお三方がそれぞれに指摘しておられるように今回試聴し得たスピーカーのなかでも、アルテックのA4を古いほうとして、新しいほうでは、たとえばインフィニティに代表されるところまで、アルテックの原型から考えれば、半世紀ぐらいも時代がはなれているわけで、その点でもなかなか〈アメリカン・サウンド〉という一言で一括しにくい部分がある、というように私は考えました。
以上の点を前提としたうえで、しかし、私自身が個人的に考えている〈アメリカン・サウンド〉というイメージ、あるいは〈アメリカン・サウンド〉という言葉を聞いたときに、とっさに思い浮かぶこと、をもうすこし具体的に述べてみます。菅野さんが発言しておられたと思うんですけれども、やはりアメリカのよき時代ですね。たとえば第2次大戦以前の30年代、それも30年代後半から、それと第2次大戦の終った50年代、のふたつの繁栄した、ゆたかであった時代に代表される、そういうものをやはり〈アメリカン・サウンド〉というふうに受けとめてみたい、という気がするわけです。
それを具体的に言いますと、たとえば、アメリカの自動車でいえばキャディラックのような大型の、大排気量の、車にのったときの乗り心地のよさのような、ぜいたくに根ざした快さ、、快適さ、いかにもお金がかかっているという、そういうところが、まず第一に、第二に、同じようなことですけれども、音のリッチネストいいますか、音がこよなく豊かである。第三にははなやかさ、一種独特のきらめいた、はなやかなサウンド。第四に音の明るさ──どこまでも、くったくなく、朗々と鳴る気持のよさ、だいたい、そんなような音を私個人は、どうしても思い浮かべてしまう。
そして、それを具体的な音、スピーカーにあてはめてみると、やはり、古い世代のアルテックに代表されるものではないか、という気はいたします。
もうひとつ私は前期の理由によって、試聴には加われませんでしたけれども、ほかで何度か聴いた音で言えば、エレクトロボイスの音ですね。これも上手に鳴らしたときの音というのは、以上、申しあげたような各要素が、やはり聴きとれるんではないか、という気がします。
またJBLのパラゴンであっても、そして今は製造中止になってしまったハーツフィールドであっても、やはり、お金を充分にかけた、そこからくる、ゆたかで、明るく、はなやかである、という音をやはり持っていると思うので、そういうのは、やはり〈アメリカン・サウンド〉だろう、とはっきり言ってよろしいかと思います。
さて、次の問題にうつるまえの簡単な補足をつけ加えておきますと、以上のようなスピーカーは本質的な意味でのワイドレンジではないのではないか。たとえば、いまあげた、ハーツフィールド、パラゴン、パトリシアン、これらは、それぞれの時代では、たしかに、アメリカのスピーカーのなかでのワイドレンジの製品であったにちがいないけれども、しかし、同時代に、これは今回の話題ではないけれども、たとえばイギリスがモニタースピーカーなどで追求していた、ほんとうの意味でのワイドレンジとは、ずいぶん質のちがっている、耳にきこえる感じというのは、いわゆる「ワイドレンジ、ワイドレンジした」音ではなくて、たとえば、プログラムソースのアラなどが耳につきにくいというような音、あるいは、それに関連して、ノイズや歪みを極力おさえて、まろやかに、つまり、さきほどの話によれば、ぜんたくな、快適さといいますか、そういうものをやはり信条としていた、というふうに思います。それが私の考える〈アメリカン・サウンド〉です。
さて、私がJBLの4345の試聴のところで、やや不用意に〝インターナショナル・サウンド〟という言葉を使ってしまったために、あとで総論の部分を読ませていただきますと、お三方の誤解をややまねいたような気がいたしますので、そのことについて、補足をさせていただきたいと思います。
たとえば、JBLでも、今しがた例にあげたパラゴンにせよ、それから、それとは、また、まったく方向のちがう4676システム、といったような音になりますと、これは、やはり、私はアメリカならではの音、アメリカ以外の国では決して生れることのないサウンドだと思います。
そして、私が〝インターナショナル・サウンド〟という言葉を使った、その使いかたがやや不用意だったために、誤解をまねいたようです。この場合、言葉の意味にあまりこだわってもらっては困るわけです。常日頃、私がスピーカーを論じる場合に、一貫して主張し続けてきたことですけれども、世界的な音の流れとして、たとえば10年という時間をさかのぼってみますと、当時はまだ明らかにイギリスの、たとえば、やや線の細い、繊細な音、ドイツのコリッとした音、アメリカの華麗な音、といったようなわけかたが、はっきりできた。それに対して、近年の、ことにそれは技術的な進歩によってスピーカーの特性の解析の技術がたいへんすすんだこと、そして、もうひとつは、プログラムソースを作る側、もっとさかのぼって言えば、音楽を演奏する側、などの感覚的な変化、楽器の変化なども含めて言えることですけれども、音楽的に正しく再生するには、指向特性を含めての、真の意味でのワイドレンジであり、歪あを極力すくなく、トランジェントをよく、そして、位相特性までも含めた平坦な特性、物理的な意味で、理想に近い特性を各国のメーカーとも目指しはじめた。
目指しはじめたことによって、各国から数多く作り出されるスピーカーのなかで、そうした条件をみたすことに、からくも成功したスピーカーの音というものが、だんだん、ひとつの地域の独特のサウンドではなくて、国際的に、あるいは、みなさんのお話のなかの最後に〝コスモポリタン〟という言葉が出ていましたが、このほうが適当か、という気もいたしますけれども、そうしたように、特定の地域の、あるいは特定のジェネレーションのカラー、特定の技術によるカラーといったものが、だんだんうすめられてきて、音のバランスとか音の鳴りかたが、たいへんよく似てきているということを申しあげたいわけです。それを特に私が、JBLの4345のところで申しあげたのは、今回、試聴に用意されたそれぞれのスピーカー、および今回は種々の理由によって用意できなかったアメリカのスピーカーを全部ふくめたうえで、やっぱりJBLの4345というのは、とびぬけて、物理特性を理想に近づけることに成功した、数少ない例のひとつだということを言いたかったために、〝インターナショナル・サウンド〟などというような、言葉を使ってしまったわけです。
で、ありながら、菅野さんや、ほかのかたのご指摘にありますように、私が、それだから、JBLが無国籍のスピーカーだと言おうとしているのでは決してなくて、あくまでも、これはJBL製であり、アメリカの西海岸製のスピーカーであり、そのことは、百も承知のうえで、アメリカが作り得た、〝コスモポリタンな〟あるいは〝インターナショナルな〟音、ということを言いたかっただけの話なのです。アメリカのそれ以外のスピーカーというのは、たとえばアルテックのA4に代表される、アメリカの古き良き時代のトーキー・サウンド、あるいは、インフィニティに代表されるようなアメリカの古い伝統を全く断ち切ったところから生れてきた、まったく耳あたらしいサウンドといったようなものが、オーバーに言えば、無数にあるわけです。そういう点で私は、JBLの4345をのぞいたそれぞれのスピーカーというのは、やっぱり、アメリカの国のそれぞれの地域、世代、技術、そしてそれらをふくめた音を求める傾向、といったものが、はっきりと現われていると思う。それか今回試聴に参加して、たいへん興味ぶかく感じたことです。
多少個人の発言につっかかような言いかたになるんだけど、菅野さんが「あいつは自分の考えている音の世界があって、それを〝インターナショナル・サウンド〟だと思っている、ということは不遜である」と、いうようなたいへん、きつい発言をなさっている。
まあ、菅野氏とは個人的に仲がいいから、あえて、すこし売られたケンカを買わせていただくけれども、私は決して自分の考えている音が即〝インターナショナル〟だとは思っていません。
ですから、決して、もちろん私自身の音の世界というものは確固として持っているけれども、それをインターナショナルなどと思うどころか、それはもう、私の鳴らしかた、私の音の世界だというふうにわり切っているわけです。それと、客観的といいますか、要するにその主観的な要素が入らない物理特性のすぐれた音、そういったものを〝インターナショナル〟ないし〝コスモポリタン〟と言っていいのだろうと思うので、傲慢と言われたことについては、私は、とんでもない、と一言抗議させていただきたい、と思います。
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