「コンポーネントステレオにおける世界の一流品をさぐる」

菅野沖彦

ステレオサウンド 41号(1976年12月発行)
特集・「コンポーネントステレオ──世界の一流品」より

 本誌がオーディオ・コンポーネントの世界の一流品を特集するそうだ。これだけ多くのオーディオ製品が、世界各国で作られ売られている現状からすれば、それも意味のないことではないし、どんなものが結果として一流品の折り紙をつけられるかは、私自身にとっても大変興味深い。そういう当の私も、具体的な製品選びの一員として選出に加わったのである。これがなかなか難しいことであって、いざ商品の選択に直面してみると、そもそも、一流品とは何か? という問題の定義にぶちあたり苦慮させられるのであった。だいたい、一流という言葉自体が、いわめて曖昧であり、ものにランクをつける言葉でありながら、そこには複雑微妙な心情的ニュアンスが入りこんでくるという矛盾をもったものである。一流品としての定義を形成するために、いくつかの条件をあげると、必ず、その条件のすべてを満たさない一流品が現われたり、条件のすべてを満たしていながら一流品として認められないようなものが出てくるのである。もっとも、ここでは、一応道具としての機能をもつものに限定していってもよいと思われるので、比較的気楽なようだ。これが人や芸術作品に及ぶと、問題はもっと難しく大きくなってしまうのである。しかし本当は、一流という言葉は、人についていわれるべき言葉なのであって、ものの場合には一級品というべきなのではないかと思うのだ。一級という、文字通りのクラスづけが困難な曖昧さをもった対象、つまり、人とか作品とかに対して、情緒的な表現のニュアンスを含んだ言葉が一流という言葉なのかもしれない。また、流という言葉ほど、いろいろな意味に使われるものは少ない。これは、水の流れに始って、流儀、流派、主流、亜流、他流、日本流、外国流、上流、中流、名流……等々、一流も、この種の流の使われ方の一つではないだろうか。そして、これらの言葉の中から、一貫して感じられるニュアンスは、歴史と伝統そして家といった意味合いである。流が本来もっている水の流れの意味のごとく連綿として続いた線のニュアンスが濃厚なことはたしかである。だから言葉にうるさい人、言葉を大切にする人は、うかつに一流という言葉を使わない。そう呼ぶ必要がある場合には、まず一級といっておく。そして、そのもののバックグラウンドを調査して、真に一流と呼ぶに値することがわかったときだけ、それを一流と呼ぶのである。私も、この考え、この姿勢には賛成である。一流品と呼ばれるに足るものは、いかなるバッグラウンドから生れたかということが一つの重要な条件なのではないか。もののバックグラウンドとして第一に考えられるのは、それを作った人の存在であり、その人の存在は、人自体の能力、才能、感覚、思想、精神など、そして、その人の生れた環境、血統などが、当然問題とされるのだろう。つまるところ、そのものを生む文化なのである。一級品には文化の香りが必ずしも必要ではない。
 こう考えてくると、真に一流品と呼ぶに値するものは決して多くないし、一流品という言葉を素直に使えるジャンルやカテゴリーも限られてしまうのだ。特に、近頃のように、歴史や伝統の断絶の、こま切れ文化の世の中にあってはなおさらのことであるし、歴史の短い機械製品については、本来の一流品の意味をそのままあてはめて云々するには無理がある。現実には、一流が氾濫していて、星の数ほどの自称他称の一流会社や一流ブランドや一流製品が、洪水のごとく溢れているのを見ると、心寒い気持ちになるのは私のみではあるまい。一般的意味合いでの合理主義からは、一流品は生れないし真の一流品は、そうした人達にとって、おそらく価値は認められない。みずから、自らの考えや感じ方も問わずに、大きな世間の流れの中で無自覚に右へならえの生き方をして、なんの疑問も持たずに生きている。こうした現代の合理的人種? にとって一流品は存在の必要性がほとんどないのではないか。それだけに、現在の一流品は、その本質を評価されないままに、本質を離れたところで、一部金持ちの周辺我を満たす虚飾として使われ、誤示されているようにも思える。そして、それが、もっと淋しいことには、その現実の上澄みだけを利用して、一流品の名の下に、似つかわしくない製品を大量につくる。あるいは一流ブランドの上にあぐらをかいて、実質を欠いた利潤だけを目的にした品物を作るメーカーや業者が氾濫している現実である。先祖が化けて出るのではないか。さらに悪いことは、宣伝で大金をばらまき、虚名をつくり、自称一流の名乗りをあげて、一流まがいのものを、ものの価値のわからぬ小金持ちに売りつける連中だ。そして、もう、あきれて開いた口がふさがらないことは、一流ブランドとデザインの盗用と偽物作りの氾濫である。売るほうも買うほうも、このインチキ・ビジネスが成り立つということは、なにおかいわんやである。グッチ、ルイ・ビュトン、フェンディ、サザビー、ナザレノなどのバッグやエルメスのベルトなど、そっくりの偽物が問題となっている現実はいまさらいうまでもあるまい。こうした例はオーディオの機械にも、枚挙にいとまがないほどある。こういうことが平然とまかり通る社会構造と現代人のメンタリティやモラルの中で、真の一流品が、いかに生れにくいか、生き続けることが困難であるかは容易に想像がつく。
          ※
 ところで、一流品の条件として考えられることを私なりに挙げてみることにしよう。
 先に述べたように、いい製品は、一朝一夕には出来上らない。時間が必要である。そして、その費やされる時間を真に生かすためには、その目的への線が、常に一直線でなければいけない。目的が定まっていてさえ、そこへ到達する手段の発見には多大な苦労があるはずだ。まして、目的がふらふらしていたり、目的が明確でなかったりすれば、いくら時間をかけても、そこには一つの流れが生れないし、歴史も伝統も生きない。歴史とか伝統というと、数百年、短くとも一世紀という時間が想像されるだろうが、必ずしもそうではない。それがたとえ10年であっても、その姿勢と努力の集積は歴史を作り得る。伝統の礎ともなり得る。エレクトロニクスなどのような世界では、それ自体の歴史が浅いし、最新のテクノロジーが要求される分野の製品が多い現代においては、それを手段として行使してものを生みだす人間の精神に生きる文化性をメーカー自体の歴史と伝統におきかえて考えるべきであろう。昨日出来たメーカーでもよい。問題は、そのメーカーを支える人の中に、どれだけの技術と文化が集積され、強い精神に支えられているかではなかろうか。いまや、ただ創立年月の古さを誇りにして、内容がともなわない虚体こそ、真の合理主義によって糾弾されるべき時だからである。
 フィレンツェに生れたグチオ・グッチは一九〇六年に自分の店を持ち、高級馬具の製造と販売を始めた。金具には自分のイニシャルGGを相互にあしらった、かの有名なマークを使った。ちょうど70年前である。現在は三代目、ロベルト・グッチの時代である。GGマークは依然として象徴となっているが、ロベルトは、かつての馬具時代、その腹帯に使われた緑赤緑の帯を復活させデザインに生かした。世界最古の自動車メーカーとして、世界最高のメーカーの重みを決定づけているダイムラー・ベンツ社は、一九二六年に、ゴットリーブ・ダイムラーが一八九〇年に創設したダイムラー社とカール・ベンツが一八八三年に創設したベンツ社の合併によって生れた。この頃から自動車が、本格的な普及段階に入ったことを見ても、グチオ・グッチやエルメスなどの馬具商の衰退が理解できそうだ。第一次大戦後の不況もありエルメス同様グッチも、自らの技能を生かしてカバン、靴などの革製品に切り換えた。馬具以来、常にその製品は最高級のものだけであった。最高級製品をつくり、その製品にふさわしい売り方をする。これはすべての一流品の製造販売の鉄則であろう。一流品は、それを持つ人に実質的価値を与えるだけでは足りないのである。人の心の満足を得なければならない。そのものへの愛を把まなければならない。一流品は愛されるに値するすべてを持たなければいけないのである。グッチ・マークは、かつてはステイタスシンボルだった馬車に高級馬具の象徴として輝き、緑赤緑の腹帯とともに明確に識別されたことであろうし、今でも、その流行鞄を持っていれば、ホテルのベル・キャプテンやドアボーイの尊敬が得られるに足るはずなのである。だから、鞄負けのする人間は断じて持つべきではないのである。いまや、グッチより実質の優れた鞄は、どこかで売っているだろう。より丈夫で、より安く。自分が持ち心地のよい鞄を持てばよいのだ。しかし、グッチの鞄を悠然と持ち心地よく持てる人間になるべく努力することは決して悪いことでも下らないことでもないはずだ。努力もせずに、持っている人間をひがんでみるより、はるかによい。
 ところで、一方のダイムラー・ベンツ社を眺めてみることにしよう。ダイムラーは一八八五年に単気筒エンジンを開発し2輪車を走らせた。ベンツは一八八一年に2ストロークのガス・エンジンを完成させ、一八八六年には3輪車を走らせている。そして、一九一一年にはブリッツェン・ベンツで228km/hのスピード記録まで作っている。一九二六年にダイムラー・ベンツ社が出来て、その商品名をメルセデス・ベンツとしたダイムラー・ベンツ社は以後、最高の車づくりに専心して現在に至っているが、一九三〇年には、有名なフェルディナンド・ポルシェ博士が技師長として名車SSKを完成しているという輝かしい歴史と伝統を持つ。しかも、現在にいたるまで、多くの困難に打ち勝ち企業として成長に成長を続け、あの数年前のオイル危機の年にも、世界中で売り上げを増進した自動車メーカーは、ここだけだったという注目すべき実績を持つ。コンツェルン全部で16万人にも及ぶ社員を擁し(多分、日産、トヨタより多い)世界的水準での高級車だけをつくり続け、着実に企業が成長していることは驚異であろう。マスプロ、マスセール、マーケッティングリサーチにより、大衆の好みを平均化し、合議制でデザインを決定し、魂の入らないアンバランスな高級車を作っているのとは大違いである。
 車の雑誌ではないので、あまり車の話に誌面をさくことははばかられるが、一流品とは何かという与えられたテーマへの回答として、読んでいただければ幸せである。
 現在の技師長、ルドルフ・ウーレンハウトは、車造りの姿勢について、商売上の思惑や原価計算にうるさい経理マンによって左右されることを断じて拒否し、圧力に屈して俗趣味に迎合し、大衆の好みに形を合わせることを絶対にしないといっている。圧力に屈することは不名誉であり、商業主義に陥って設計工学をはなれ、やってはならないこと、つまり不良自動車をつくることになるともいっているのである。また、これも考えさせられる多くの問題を含んでいる事実だと思うのだが、ダイムラー・ベンツ社は、工場要員として民族性の異なる外国人の導入(ヨーロッパでは至極当然のことになっている)を好まないそうだ。ドイツ人と同じ考えを持たない外国人労働者が100%同社の意志にそった製品造りに協力してくれないと考えているからだという。工場に働く人の10人の1人は検査員、絶対に妥協しないというドイツ人魂の一貫性こそが、あのクォリティを支えているとみてよいだろう。ドイツを旅行して、実に多くの外国人労働社がいる現実を知ると、ベンツが、いかに、この問題を大切に考えているかが納得させられるのである。名実ともに一流品と呼べる車の少なくなったこの頃、メルセデス・ベンツ、BMW,ポルシェという三車は、一流という文字と最も組合せの難しい大衆製品を見事にマッチさせたVWとともに、ドイツ民族資本を守り通した体質の中から生れ出る一流品といえるだろう。一流品の持つべきバックグラウンドの一コマの証明になるだろうか。
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 日本人の私が、日本製品の中に一流品を見出そうとすると、何故か、もっと難しい。
 いまや世界的に日本製品の優秀性が認められ、その品質のよさで世界市場に雄飛しているというのに、これは一体どうしたことなのだろうか。私自身、決して素朴な舶来かぶれだとは思っていないのだが、心情的にどうしても難しいのである。同国人として、あまりに楽屋裏を知っているせいかもしれないし、日本人特有の、おかしな謙譲の美徳のなせる業かもしれぬ。もっとも、これが日本独特のものである場合は話は別だ。和服や和家具や、伝統的な工芸品においては、自分の知識と体験の範囲でなら、一流品として躊躇なく上げられるものがいくつかあるし、和食と洋食なら、和食のほうが、洋食より本物と偽物のちがいを区別することが容易のように思える。つまり、知り過ぎていることが、一流品を上げにくい理由だとは思えない。やはり、欧米にオリジナリティのあるものについては、明らかに一流品と呼べるレベルにおいては、日本製品にはその最も大切な根が、文化が、ないということではないだろうか。
 江戸小紋や友禅、紬など、和服の粋でしゃれた感覚の中から一流とそうではないものとを選びわけることは、何が何だかわからない洋服地より私にとってやさしいように思えるのである。洋服でわかることは布地の良さぐらい、あとは、好みの領域を出ないのである。自分で洋服を着ているのにおかしなことだ。しかも和服や日本の伝統的な美術品については、全く、なんの知識もないのだし、大きなことはいえないが、これが血というものかもしれない。ところが、欧米にオリジナリティのあるもので、自分が関心を強く持っているものに関しては、これが一流品なんだといわれ、それを信じ、それを所有して、よさを体験してきた結果、育った眼があることを感じるのである。関心のない欧米のものについては、知識に頼る以外に方法がない。このように、白紙で見て識別することと知識によるそれとの問題は、きわめて興味深いことなのだが、この問題を考えることはテーマからはずれるので、ここでは追及しないことにする。しかし、それより、ここで考えなければならないのは、知識による一流品の識別、つまり俗にいえば、一流品という折り紙への信頼感、ときには無定見な盲信と、その誤示という卑しき姿勢に人を走らせる要素を、一流品といういい方がいつもどこかに匂わせていることだろう。世の中には、その分野で、最高の価格のものを買って持っていないと気がすまないという人がいる。私がオーディオの相談を受けて、ある製品を推めると、それが最高の値段でなかった場合、安過ぎるといって拒否する恵まれた不孝者が結構いるのである。それなら、私などに相談する必要は全くないわけで、専門店に行って一番高いものを買い集め組み合わせればよいのである。また、商人は馬鹿げた金はとらないという信念を持った人もいるが、あながち、そうともいいきれないのではないか? 「高い値段をつければ売れますよ」と金持を冷笑している商人は結構多いのだ。世界中の商品全部に内容と反比例する値段をつけたらおもしろいことが起きるかもしれないのだ。冗談はさておいて、一流品という識別語がもっているニュアンスは、真実と虚偽の入り雑じった混沌が実態だといってよかろう。それだけに、一流品を持つ人の自己に対する責任は大きい。どんなに人が美辞麗句を並べ立て、それが一流品であることを強調しても、自分で納得できない限り、一流品は買うべきではないといってよかろう。まずは、あえて一流品とされないものの中から、自分で選ぶべきである。その結果、満たされない欲求を満たしてくれる実質をもった一流品に出逢ったときには、どんなに無理しても、それを手に入れるべきだ。一流品の値段の高さが生きるときである。この意味において私は一流品は値段が高くて然るべきだと思う。いいものをつくれば値段が高くなることも当然であると同時に、高い出費を強いられ、その困難を克服する努力、覚悟は情熱の証左であるからだ。痛くも痒くもない出費、あるいは、何の努力も要しない代価で、人は大きな満足や幸福を買うことは出来ないのである。所詮、ものは買える幸福でしかないと思っている人もいるだろう。私も、ほとんど、そう思っている。ほとんど、そう思っているというのはおかしい表現だが、ほとんど以外のところに私へのものに対する執着と愛情がある。それは、そのものが持っているものの実在以上の世界である。そのものの向こう側にある、ものを生みだした人間や、風土や、環境の文化までが、そのものを通して所有者の心に伝えられる世界がある。しかし、現実は、一流品という商業的呼称が出来てしまった以上、名と実は一致するとは限らない。名実ともに一流品は少ないのだ。名は多く実は少ないといい変えたほうがいいかもしれぬ。
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 工業製品である以上、マスプロは当然だ。世の中には、それが、マスプロというだけで、一流品でないといい切る人もいる。一面正しいが、多くの面で、それは間違っている。マスプロが一流品でないという理由は次のようなものらしい。同じものが沢山あるということは、希少価値がない。また、マスプロは生産コストが合理化されるから値段が安くなる。一流品は高価でなければならぬ。マスプロは作りが雑である。他にもあるかもしれないが、だいたいこうした理由で、マスプロ製品は一流品の資格を失う。しかし、ここで重要なことは、マスプロという言葉の使い方とそのシステムに対する単純性急な偏見であろう。マスプロといういい方はそもそも間違いで、正確には機械生産というべき場合が多い。いくら手造りは素晴らしいといっても、手造りでは絶対に出来ない高く精巧な仕上げを工作機械はしてくれる。一般に、機械生産とマスプロを混同しているふしが多いのには困らされるのである。品質の安定性も機械生産のほうが高い。問題はやはり、そうした作られ方だけで判断できるものではなく、いかなる英知と精神が、その手段として、手造りと機械生産とを充分活用しているかであって、製造者の理念と、それを表現する能力の問題なのである。
 しかしながら、私の好きなパイプだけは、たしかに、手造りは機械生産とは根本的にちがう味を持っている。パイプだけではないだろう。人間の使うものの中には絶対に手造りの味を必要とする種類の製品があるものだ。もちろん、ハンドメイド・パイプもアマチュアならいざ知らず、プロのものは全面的に手造りではない。なにも、大きなコロ、あるいはエボーションの段階から、手でけずっていく必要はない。しかし、最終のフィニッシュは絶対に手である。そうあらねばならぬと私は思う。それも無心で自然な制作者の手でなければならぬ。意識と強制の手では駄目なのだ。つまり、量産工場の労働者の手では駄目だ。デンマークのパイプの父ともいわれるシクスティーン・イヴァルソンの手造りと、同じ、彼のデザインになるスタンウェル社の機械製品を比べれば歴然である。前者は心と血の通った生物であり、後者は、同じように見えても、形骸である。その差は人によっては皆無に思えるだろうし、紙一重の僅差かもしれぬ。しかし、その差を感じる人には実に決定的な大差である。パイプのような素朴な手工芸品だから、こういえるのだろう。これが、オーディオ製品のような機械の場合には、問題は別だといわれるかもしれない。私もある程度そう思う。しかし、どんなに複雑な機械であり、自動化されたシステムによって量産されるものであっても、初めから機械が作り出すのではない。オリジナルは人間が作り、そのレプリカが商品となるのである。いい加減なオリジナルが、より優れたレプリカになるわけはないが(細部の加工精度は別として)、素晴らしいオリジナルを作る精神と能力で、いかに機械生産システムを利用し、どこを機械でやり、どこを人がやらねばならぬかを知っていれば、オーディオ機器のようなものにも、心と血の通った対話が可能な機械が生れる可能性はあるはずだ。事実、数は少ないが、そうした機械があるからこそ、この特集が成り立つわけだろう。ただ、先述したグッチやエルメス、ベンツやポルシェ、あるいはイヴァルソンやアンネ・ユリエのパイプなどのように、名実ともに一流品と呼ぶにふさわしいものと同じ、質的水準と、心情で、一流品を呼ぶことは、オーディオ機器の場合は難しいと思う。事実私も難しさを感じた。世界のオーディオ機器メーカーの現実の中で、オーディオ機器なりの一流品としての基準に修整を加える必要はあった。
 一流品とは、自称するものではなく、時間に耐え、厳しい批判をしのぎ、人に選ばれ、賞賛されるものだから、それを作り出す人々は不屈の精神の持主であると同時に、それを天職と感じ、大きな情熱と愛を持っている人や人達でなければならないだろう。こうした人間の精神性が、資本主義の巨大なコマーシャリズムの中で、どう活路を見出していくかは決して容易なことには思えない。しかし、それを育てるのも、つぶすのも、結局、その価値を見出すお客の存在如何にかかっていることは間違いない。いまや、一時代前のようにステイタスシンボルという存在が、素直に考えられるはずもない社会構造の中で、そうした背景と密接な連りを持って育ってきた一流品と、そして、一流品という言葉の意味が再確認されねばならないときであろう。市井では一流品ばやりで、特に日本では、国民全般の経済的余裕にともなって世界中の一流品が大量に輸入され、気軽に庶民の心の満足の一役を担っているように見える。これが、いいことか悪いことかは別にして、大きく変ったことだけは間違いない。OLが月払いでハワイ旅行をし、ホノルル市外で拾うタクシーのボンネットにはキャディラックの月桂樹のエンブレムがついているという時代なのだ。かつて、階級制度とはいえなくとも、大金持や有名スターのステイタスシンボルであったキャディラックだが、ホノルルのタクシーに使われているド・ヴィルやカレーは、オールズモビルの上級車よりも安いモデルである。これは何を意味するか。GMも背に腹はかえられぬのたとえ通り、キャディラックといえども、庶民相手に大量生産をしなければならなくなったのだし、同時に、庶民の中には、かつての栄光のシンボルであるキャディラックへの憧れを消すことが出来ない人達がたくさんいることを物語っているのだろう。そこをくすぐって、安いキャディラックを作り、売るのだ。日本では、つい先頃まで、ドイツの国民車VWが外車というステイタスシンボルになっていたぐらいだし、今でも、その名残りはある。VWビートルは本当にいい車だから文句はいわないが、国産以下の内容で、値段だけ高い外車に憧れて乗るという無知と非見識さは、そろそろ慎むべきときが来ているのだ。運転が示すあなたのお人柄という標語が流行っているぐらいだから、乗る車も注意したほうがよさそうである。オーディオも同じこと、いまや、ブランド名や、外国製というだけでは、ものの実態はわからない。
 こういう時代だから、一流品という言葉の持つ時代感覚のずれに大いに気づくところなのだが、反体制派で然るべきヤング達の間で一流品ブームだというのだから不思議なものだ。本当に、それが選ばれているのか。自信がないから銘柄に頼るのか。人が持っているから一つ自分も……式なのか。
 こういう時代になると、一流品は名実ともに優れたもの、名門だが、内容は必ずしもというものは名流品とか、単に銘柄品、名やバックグラウンドはなくても内容の優れたものは一級品というように、呼称に区別をしないと誤解をまねく。
 先にも書いたように、日本には機械文明のオリジナリティはない。しかし、いまや決して短いとはいえない、時の積み重ねを持ってきた。にもかかわらず、この分野で、名実ともに一流品と呼び得るものが少ないのは残念なことだ。私流に定義をすれば、文明と文化の二本の柱をこの背景に持つことが一流品の条件だ。文明と文化と簡単にいうけれど、それぞれの意味も、その違いも充分な論議の対象であろう。しかし、ごく一般的な意味で、物質的な文明、精神的な文化という側面だけでみてもよい。明治維新と第二時大戦後の二度にわたって、惜しげもなく自身の文化を捨てすぎた観のある、あきらめのいい日本人。しかし、その代償に値するだけの機械文明の吸収を成し遂げ、いまや、それを凌ぐほどの成果をあげている優秀な日本人が、自問自答して姿勢を定め、こまぎれ文化を独自の文化に育てあげるとき、真に一流品と呼べるものが増えるだろう。

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