Archive for category テーマ

Date: 4月 19th, 2015
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その1)

毎日書くことで、何かが目覚めていくような感覚がある。

これまで読んできたこと、みてきたこと、きいてきたこと、
それらを脳のどこかに記憶されているのだろうけど、思い出せないことは無数にある、ともいえる。

思い出せないことは、つまりは眠っているのかもしれない。
そういった眠っている部分が、書くことによって目覚めていく、
そんな感じがある(つねにとは限らないけれど)。

そして書いたことにコメントをいただくこともある。
ブログではあまりコメントをいただくことはないけれど、
facebookのaudio sharingでは、コメントがある。

コメントを読んで、また別の、眠っていた一部が目覚める。
昨夜もそうだった。
ふたつのコメントを読んで、そうだった、そうだったのか、と思いながら、
何かが目覚めているような感覚があった。

目覚めている感覚とは、つまりは「戻っていく感覚」でもある。

Date: 4月 19th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(録音のこと・その3)

市販されているプログラムソース(録音物)に懐疑的なのは、メーカー側の人たちの中にもいる。
たとえばマーク・レヴィンソンがそうだった。

ステレオサウンド 45号に「HQDシステムを完成させたマーク・レビンソン氏に聞く」という記事がある。
その中で、レヴィンソンはこう語っている。
     *
今日において、われわれの有するステレオ・コンポーネントの数々は、その再生能力において普通手に入るソース・マテリアルの持つフィデリティーをはるかに凌駕するものがあると思います。実際に、私達の製品の持っている本当の能力を正しく評価するためには、音の差について判断を下すことを可能にするような、特製のレコードやテープを用いることなしに不可能です。
     *
このころマーク・レヴィンソンはMLA(Mark Levinson Acoustic Recording)社をつくって、
スチューダーのマスターレコーダーA80のトランスポートと
自社製のエレクトロニクスによるML5による録音を行っていて、
レコード、ミュージックテープを販売していた。

一般的に市販されているレコード(録音物)は、
録音、マスタリング、カッティングなどの過程で音がいじられることがある。
グラフィックイコライザーや、その他の信号処理の機器が使われることも多い。

それは、いわば加工された音楽である、という見方をする人もいる。
日本では、無線と実験誌にDCアンプを早い時期から発表されている金田明彦氏も、
そういう考えで、1980年代はマイクロフォンアンプ、テープデッキの録音・再生アンプを自作され、
自分で満足・納得のいく録音を目指され、
そうやって録音されたものでアンプを開発されていた。

レヴィンソンはメーカーの人間、金田氏はアマチュアの立場という違いはあるものの、
市販されている録音物に懐疑的なところは共通していたからこそ、
自分の手で録音するという行動に出た──、そう受けとめていいと思う。

このことは正論のようにも聞こえる。
けれど、どこまでいっても正論のように聞こえるだけである。

Date: 4月 18th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その12)

この項は、こんなに長く書く予定ではなかった。
けれど書いていると思い出すことが出てくる。

今日も瀬川先生がスイングジャーナルの座談会で語られていたことを思い出した。
(スイングジャーナルの1972年1月号の座談会から)
     *
人との関係なくして生きられないけれども、しかしまた、同時に常に他人と一緒では生きられない。ここに趣味の世界が位置しているんだ。逃避ではない自分をみつめるための時間。趣味を逃避にするのは一番堕落させる悪い方向だと思う。

仲間達と聴く。そのときはいい音に聴こえる。しかし、それは趣味そのものではなくて、趣味の周辺だと思うのです。趣味の世界は常に孤独なのです。
     *
瀬川先生が語られていることが、「正しい音とはなにか?」にどう関係するのか、
これについて説明しようという気はあまりない。
読めばわかることがあり、感じることであり、
人から説明を受けて納得するようなことではないからだ。

Date: 4月 18th, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(その2)

私がオーディオに関心・興味をもちはじめた1976年は、すでにMC型カートリッジのブームのはじまりだった。
オルトフォンからはSPUに代るモノとして成功したといえるMC20が登場していた。

けれどそれ以前のMC型カートリッジはどんなモノがあったのかというと、
オルトフォンでは、この会社の代名詞といえるSPUの他は、
決して成功とはいえなかったSLシリーズがあったくらい。

瀬川先生がいわれたことがあった。
いまのMC型カートリッジのブームは、日本ではMC型が作られ続いていたことが大きい、と。
いわれてみると、たしかにそうである。

有名なデンオンのDL103シリーズの他に、
フィデリティ・リサーチのFR1、スペックスのカートリッジ、サテンの独特な発電構造によるカートリッジ、
ダイナベクターもあったし、武蔵野音響研究所の光悦もあった。

もしこれらの日本のMC型カートリッジが存在していなかったら、
MC型カートリッジのブームは起らなかったであろう。

MC型カートリッジのブームは、日本だけの現象ではなかった、ともきいている。
むしろ海外において日本のMC型カートリッジが見直されて起ってきた、という話もある。

MC型カートリッジのブームについて話された時に、
瀬川先生はこんな話もされた。

カートリッジの製造原価はそんなに高くはない。
なのにMM型よりもMC型は高価になってしまうのは、おもに人件費がかかるから。
MM型と違い、MC型カートリッジはほとんど手づくりゆえに、つくれる人が限られるし、
製造できる個数も少なくなる──、そんな内容だった。

手先が器用だとはいわれる日本人にとって、MC型カートリッジは向いていた、
そういってもいいかもしれない。

とにかくMC型カートリッジは日本のメーカーによって続いてきたことは事実である。

Date: 4月 17th, 2015
Cate: 老い

老いとオーディオ(その9)

「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲について黒田先生が書かれた文章、
どこかに書かれたものなのか(たぶんマガジンハウスの雑誌のどれかだった気もする)、
それすらはっきりと憶えていないので、はっきりとしたことではないのはことわっておく。

黒田先生は「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲を、
女性の性的快感の高まりを引き合いに出されて書かれていた。

私は同じことを、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第一楽章のカデンツァでそう感じたことがあった。
東芝EMIからジョコンダ・デ・ヴィートのLPボックスが出た時だった。

彼女の弾くカデンツァを聴いていて、そう感じた。
そのことを黒田先生の「トリスタンとイゾルデ」についての文章を読んだ時に思い出した。
たしかカルロス・クライバーの「トリスタンとイゾルデ」について書かれたものだったはずだ。

音楽にはそういう面がある。
こんなことを書けば、クラシック音楽の、一部の聴き手からは、
神聖なる音楽に対して、なんてことを感じているんだ、思っているんだ、とお叱りをうけるだろうが、
そう感じたのは事実であり、隠すようなことではない。

だからというわけではないが、
五味先生の「勃然と、立ってきた」のもわかるような気がする。

Date: 4月 16th, 2015
Cate: 対称性

対称性(その1)

CDが登場したころだったはずだ、
あるメーカーのエンジニアの方からきいたことを思い出す。

デジタル録音再生システムにおいて、
ふたつのアナログフィルターは同一でなければならない、ということだった。

A/D変換の前段にはアナログフィルターがある、
D/A変換の後段にもアナログフィルターがある。
このふたつのアナログフィルターは、本来同一であるのが原則だということだった。

CD登場前に、数社からPCMプロセッサーが登場した。
ビデオデッキに接続して使うモノで、
このプロセッサーにはA/D、D/A、ふたつの変換器を搭載していた。
おそらくこのPCMプロセッサーにおいては、ふたつのアナログフィルターは同一だったのかもしれない。

けれどCDプレーヤーにはD/A変換回路はあっても、A/D変換回路はない。
CDというメディアのA/D変換は録音の現場にある機器に搭載されている。

こうなってしまうとふたつのアナログフィルターは、別のモノとなってしまう。
そういう状況からCD再生(デジタル再生)は、一般家庭で始まった。

ふたつのアナログフィルターが同一であれば、
そこには対称性が保たれていたはずである。
けれどCDの再生には、その対称性は崩れている。

オーディオの原点であるアクースティック蓄音器のことをおもう。
これほど音の入口と音の出口の対称性が存在していたシステムは、
電気が加わっていくことで崩れていってしまう。

Date: 4月 16th, 2015
Cate: 快感か幸福か, 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(ある映画の、あるシーン)

「復讐捜査線」という映画がある。
日本公開は2011年だった。メル・ギブソン、数年ぶりの主役の映画だった。

昨晩、(その11)を書いていて、この映画のあるシーンを思い出していた。
メル・ギブソン演じる刑事、トーマス・ブレイクンの髭剃りのシーンだ。
傍には愛娘が彼を眺めている。

これ以上はどんなシーンなのかは書かない。
興味のある方は、ぜひ見てほしいからだ。

このシーンを観ながら、これが幸福なんだろうな、と思ったことを思い出していた。

Date: 4月 16th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(録音のこと・その2)

「正しい音はなにか?」(録音のこと)に対して、facebookでコメントがあった。
コメントを読んで、そういえば30年前も同じことを聞いたことを思い出していた。

レコード(録音物)に対して懐疑的な人はいる。
30年前の人もそうだった。
彼もオーディオマニアである。私よりもキャリアは長い。

彼はこんなことを言ってきた。
「他人が録音したもので、音が判断できるのか」であり、
「どれだけ、演奏された音(音楽)が正確に収録されているのか」だった。

レコード(録音物)に、いったいどれだけのことが収録されるのか。
facebookでのコメントではフルトヴェングラーについて語ったチェリビダッケの言葉が引用されていた。

その話は、私も以前何かで読んでいた。
フルトヴェングラーの例だけでなく、昔からランドフスカに関しても同じようなことが言われていた。

ランドフスカの本領は演奏会場においてのみ発揮されるのであり、
スタジオ録音では、ほんのわずかしかランドフスカの姿を捉えていない──、
そういった趣旨のことを読んでいる。

そのランドフスカのライヴ録音ですら、どれだけランドフスカの姿を捉えているのかといえば、
ほんのわずかということになるだろう。

なにもフルトヴェングラー、ランドフスカだけに限ってのことではない。
同じことは、どの演奏家についてもあてはまる。

そういうレコード(録音物)を聴いて、音の判断をやる、その行為の心許なさを、
30年前のレコードに対して懐疑的な彼は、私にぶつけてきた。

それまでそんなことを考えたことのなかった私だったけれど、
不思議に即座に答が浮んできた。

Date: 4月 15th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その11)

「正しい音とはなにか?」、
こんなことを思考しなくとも、オーディオで音楽を聴くことはできる。

「正しい音」よりも「好きな音」、そう思う人もいるだろう。
好きな音を追求するのもいい、でもそれだけでいいのだろうか、とやっぱり私は思う。

このブログを書き始めたころ、2008年9月に「快感か幸福か」というタイトルで書いた。
まだ書き続けている。

「正しい音とはなにか?」も、「快感か幸福か」に関係してくる。
好きな音の追求、そして好きな音がうまく鳴った時は快感である。
その快感は、私もオーディオマニアだから味わっている。

けれど、快感だけのような気もする。
若いころはそんなふうに思いはしなかったけれど、いまは違う。

快感が持続していれば、それは幸福といえるのだろうか。
快感と幸福の境界はどこにあるのか。

ここでも思う。五味先生の書かれたことを思い出す。
倫理性と芸術性の区別を曖昧にしてしまうのが二流の音楽家ということを。

快感と幸福の区別を曖昧にしたままでいいのか、と思う。
思うからこそ、「正しい音とはなにか?」と思考する。

Date: 4月 14th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(ある違和感について)

すこし前に、昨年出来たビルの中にテナントとして入っているホテルに仕事で行った。
高級ホテルということだった。
内装は、そんな感じを漂わせている。

けれど、すぐに違和感をおぼえる。ここもそうなのか、と思う。
これは何も、このホテルだけのことではない。

いつのころからなのか(おそらく1990年にはいってからだろう)、
見た目の印象とそこでの音(人の話し声、靴音、その他のさまざまな音)の響き方に違和感をおほえる。

つまり見た目は重厚そうなのだが、響きがじつに薄っぺらい。
こういう建物の場合、壁や柱を叩いてみると、ポコポコといった、いかにもという感じの音がする。
表面は石なのだが、叩くとそんな音が返ってくる。

石が薄いからだけではない、
石が薄くともしっかりとした造りの柱、壁に取り付けられているのであれば、そんな音はしてこない。
おそらく薄い石の裏側はハニカム構造のアルミ材が裏打ちされているのだろう。

最初ハニカム材で裏打ちされた石を見た時は、
賢い人がいるものだと感心した。

こうすれば石は薄くできるし、強度も確保できる。
輸送、建築現場への搬入も重量が軽くなることのメリットは大きい。
施工する人にとっても軽くなることは負担が少なくなる。

だから、たいしたものだと思った。
けれどそんな素材による建築物が増えてくると、
見た目の印象と音の響きに違和感があることに気づく。

これはハニカム構造の素材で裏打ちしたデメリット、
それも数少ないデメリットであろう。

もっともこんなことはデメリットのうちに入らないのかもしれない。
それでも、この違和感に気付いている人は私だけではないことも知っている。

自分で調べたわけではないのではっきりした情報ではないが、
このハニカム構造を採り入れた石材は、あるデザイナーのアイディアときいた。

ならば、これはデザインということになる。
これは「正しいデザイン」なのだろうか、と疑問に思う。

Date: 4月 14th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その10)

「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定している音」。
この視点から井上先生によるオートグラフの組合せの音をふり返ってみる。

《引締まり、そして腰の強い低域は、硬さと柔かさ、重さと軽さを確実に聴かせ》ると、
オートグラフの音について語られている。

硬さと柔かさ、重さと軽さ、
対極にある性格の音が、確実にあるということは、正しい均衡を保っているといえるのではないだろうか。
静的力学的に安定している音といえるのではないか。

五味先生は書かれている。
     *
 S氏にすすめられ、半信半疑でとったこのタンノイ Guy R. Fountain Autograph ではじめて、英国的教養とアメリカ式レンジの広さの結婚──その調和のまったきステレオ音響というのをわたくしは聴いたと思う。
     *
英国的教養とアメリカ式レンジの広さの結婚──、
これも正しい均衡を保ち、静的力学的に安定している音だと私は思う。

オートグラフの原型は1953年に登場している。
五味先生のオートグラフにしても1964年につくられたモノだ。

古い古いスピーカーではある。
けれど古いから、新しいから、ということが、正しい音となんら関係してくるのだろうか。

そう思っている人は、何度でもステレオサウンド 51号の五味先生の文章を読み返すべきだ。

Date: 4月 14th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その9)

「正しいもの」の(その1)では、フルトヴェングラーの言葉を転用して、
「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定している音」とした。

音について語られたものでない言葉を転用していくことで、
正しい音のかたちがなんとなくはっきりしてくる感触がある。

たとえば五味先生が愛用されていたタンノイのオートグラフ。
同軸型ユニットを、フロントショートホーンとバックロードホーンの複合ホーン、
しかもコーナー型というと、
現代のスピーカーシステムの傾向からすれば、
古くさいスピーカーの一言で片付けられてしまうそうシロモノということになってしまう。

そんなスピーカーから、正しい音なんて鳴ってくるはずがない──、
そう思う人も、世代によっては大勢いるのかもしれない。

だが正しい音と正確な音は、完全に一致するものではない。
私がここで書いているのは、正確な音ではなく、正しい音について、である。

そうはいっても、この項の(その2)で、井上先生によるオートグラフの組合せのことを書いているじゃないか、
そこで、ベースのピチカートがウッ、ゥーンと鳴るとしているだろう、
そんな音が果して正しい音といえるのか──。

こんな反論がきこえてきそうである。

私はなにも完璧な音とは書いていない。
あくまでも正しい音である。
完璧な音ということであれば、ある帯域においてであっても、
ベースのピチカートが、ウッ、ゥーンと尾をひくように鳴るのは、もうそれだけで完璧な音とはいえない。

そんな単純なことを、長々と書いているわけではない。

Date: 4月 13th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その8)

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

小林秀雄の有名すぎる一節(一句とでもいうべきか)である。
これは、ロダンの「美しい自然がある。自然の美しさといふ様なものはない」という言葉の転用らしい。
ならばと、転用してみる。

正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない。

花を音を置き換えただけである。
けれど、そのまま通用しそうな気がしてくる。

ロダンの「自然」も、小林秀雄の「花」も、いわば自然のものである。
私が勝手に転用した「音」は、スピーカーから鳴ってくる音である。
電気仕掛けの結果、鳴ってくる音なのだから、自然のものとはいえない。

それでも音は音である。
空気の疎密波である。

楽器から放たれる音も、人の体から発せられる声も、
その他の多くの自然の音も、空気の疎密波であることには変りはない。

ならば、正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない、といえるのか。
いえると思う。
むしろ、再生音だからこそ、
正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない、といえるのではないか。

自然の音こそ、正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない、とは言えないような気もしてくる。
つまり自然の音、こと音楽に限っていえば、
「音」の正しさがある。正しい「音」といふ様なものはない。

こういうべきなのではないか。
どうしてそう思うのか、誰かにうまく説明できるかといえば、いまのところできない。
直感として、そうそう思っている。

くり返す、
再生音こそ《正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない。》であり、
生音は反対に《「音」の正しさがある。正しい「音」といふ様なものはない。》、
そう思えてならない。

Date: 4月 12th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その7)

ステレオサウンド 51号の五味先生の文章を読んで、すぐに「正しい音」と結びついたわけではなかった。
それなりの時間と、いくつかのことが私には必要だった。

川崎先生の文章がなかったら、
五味先生の51号での文章が「正しい音」と結びつくことはなかったかもしれない。

「正しい音とはなにか?」を思考はしていたであろうが、
川崎先生と出逢ってなければ、手前の段階で留まっていたような気がしてならない。

「正しい音」は、倫理性と芸術性の区別を曖昧にしたところには存在しない。
絶対に存在しない、といえる。

「正しいデザイン」も、倫理性と芸術性の区別を曖昧にしては存在しない。

「正しい音とはなにか?」を思考することで、
私は川崎先生のデザインに惹かれてきたのか、その理由がはっきりした。
それは「正しいデザイン」を、そのデザインを手にする者に問いかけているからである。
私は、そう解釈している。

だからこそ惹かれてきたといえるし、川崎先生のデザインによって引かれて(牽かれて)きたのかもしれない。

Date: 4月 11th, 2015
Cate: 正しいもの

「正しい音とはなにか?」(その6)

「正しい音」、「正しいデザイン」。
つねに私の頭に浮んでくるのは、五味先生の、ステレオサウンド 51号の文章である。
これは別項「戻っていく感覚」でも引用している。

16歳のときに読んでいる。
「戻っていく感覚」の終りにも書いた──、
《読み返して、いま書いていることのいくつかの結論は、ここへ戻っていくんだ、という感覚があった。》
     *
 二流の音楽家は、芸術性と倫理性の区別をあいまいにしたがる、そんな意味のことを言ったのはたしかマーラーだったと記憶するが、倫理性を物理特性と解釈するなら、この言葉は、オーディオにも当てはまるのではないか、と以前、考えたことがあった。
 再生音の芸術性は、それ自体きわめてあいまいな性質のもので、何がいったい芸術的かを的確に言いきるのはむつかしい。しかし、たとえばSP時代のティボーやパハマン、カペー弦楽四重奏団の演奏を、きわめて芸術性の高いものと評するのは、昨今の驚異的エレクトロニクスの進歩に耳の馴れた吾人が聴いても、そう間違っていないことを彼らの復刻盤は証してくれるし、レコード芸術にあっては、畢竟、トーンクォリティは演奏にまだ従属するのを教えてくれる。
 誤解をおそれずに言えば、二流の再生装置ほど、物理特性を優先させることで芸術を抽き出せると思いこみ、さらに程度のわるい装置では音楽的美音——全音程のごく一部——を強調することで、歪を糊塗する傾向がつよい。物理特性が優秀なら、当然、鳴る音は演奏に忠実であり、ナマに近いという神話は、久しくぼくらを魅了したし、理論的にそれが正しいのはわかりきっているが、理屈通りいかないのがオーディオサウンドであることも、真の愛好家なら身につまされて知っていることだ。いつも言うのだが、ヴァイオリン協奏曲で、独奏ヴァイオリンがオーケストラを背景につねに音場空間の一点で鳴ったためしを私は知らない。どれほど高忠実度な装置でさえ、少し音量をあげれば、弦楽四重奏のヴァイオリンはヴィオラほどな大きさの楽器にきこえてしまう。どうかすればチェロが、コントラバスの演奏に聴こえる。
 ピアノだってそうで、その高音域と低域(とくにペダルを踏んだ場合)とでは、大きさの異なる二台のピアノを弾いているみたいで、真に原音に忠実ならこんな馬鹿げたことがあるわけはないだろう。音の質は、同時に音像の鮮明さをともなわねばならない。しかも両者のまったき合一の例を私は知らない。
 となれば、いかに技術が進歩したとはいえ、現時点ではまだ、再生音にどこかで僕らは誤魔化される必要がある。痛切にこちらから願って誤魔化されたいほどだ。とはいえ、物理特性と芸術性のあいまいな音はがまんならず、そんなあいまいさは鋭敏に聴きわける耳を僕らはもってしまった。私の場合でいえば、テストレコードで一万四千ヘルツあたりから上は、もうまったく聴こえない。年のせいだろう。百ヘルツ以下が聴こえない。難聴のためだ。難聴といえばテープ・ヒスが私にはよく聴きとれず、これは、私の耳にはドルビーがかけてあるのさ、と思うことにしているが、正常な聴覚の人にくらべ、ずいぶん、わるい耳なのは確かだろう。しかし可聴範囲では、相当、シビアに音質の差は聴きわけ得るし、聴覚のいい人がまったく気づかぬ音色の変化——主として音の気品といったもの——に陶然とすることもある。音楽の倫理性となると、これはもう聴覚に関係ないことだから、マーラーの言ったことはオーディオには実は該当しないのだが、下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数の伸び、歪の有無などばかり気にしている、それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
マーラーの「二流の音楽家は、芸術性と倫理性をあいまいにしたがる」、
この言葉を、五味先生は「イタリア歌劇から」(「人間の死にざま」所収)の冒頭でもかりられている。

ただしすこし違っている。
「イタリア歌劇から」では、
「性格の弱い男は、芸術的と道徳的の区別を曖昧にしたがる。」となっている。