「正しい音とはなにか?」(その8)
美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。
小林秀雄の有名すぎる一節(一句とでもいうべきか)である。
これは、ロダンの「美しい自然がある。自然の美しさといふ様なものはない」という言葉の転用らしい。
ならばと、転用してみる。
正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない。
花を音を置き換えただけである。
けれど、そのまま通用しそうな気がしてくる。
ロダンの「自然」も、小林秀雄の「花」も、いわば自然のものである。
私が勝手に転用した「音」は、スピーカーから鳴ってくる音である。
電気仕掛けの結果、鳴ってくる音なのだから、自然のものとはいえない。
それでも音は音である。
空気の疎密波である。
楽器から放たれる音も、人の体から発せられる声も、
その他の多くの自然の音も、空気の疎密波であることには変りはない。
ならば、正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない、といえるのか。
いえると思う。
むしろ、再生音だからこそ、
正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない、といえるのではないか。
自然の音こそ、正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない、とは言えないような気もしてくる。
つまり自然の音、こと音楽に限っていえば、
「音」の正しさがある。正しい「音」といふ様なものはない。
こういうべきなのではないか。
どうしてそう思うのか、誰かにうまく説明できるかといえば、いまのところできない。
直感として、そうそう思っている。
くり返す、
再生音こそ《正しい「音」がある。「音」の正しさといふ様なものはない。》であり、
生音は反対に《「音」の正しさがある。正しい「音」といふ様なものはない。》、
そう思えてならない。