正しいもの(その1)
正しいデザインとは、なんだろうと、ふと思ってしまった。
美しいデザイン、カッコいいデザインと言ったりする。
オーディオにおける音、これも、美しい音と言う。そして正しい音という言葉も使う。
録音と再生の、ふたつのプロセスがあるため、
元との比較の意味合いで「正しい」という単語が自然と使われるのだろうが、
正しいデザインと同じ意味での正しい音、そんなものがあるのか、そういうことが言えるのか。
正しいもの、とは、いったいどんなことなのか。
フルトヴェングラーの「音楽ノート」を開く。
1945年の言葉。
「肝要なことは、精神の豊かさでもなければ、深い感情でもない。
ひとえに正しいもの、真実なものである(私は六十歳にしてこのことを記す)。」とある。
ここでフルトヴェングラーが言っている「正しいもの」とは、
同じ1945年の次の言葉が語っている。
「思考する人間がつねに傾向や趨勢のみを『思考する』だけで、
平衡状態を考えることができないのは、まさに思考の悲劇である。
平衡状態はただ感知されるだけである。
言い換えれば、正しいものは──それはつねに平衡状態である──ただ感知され、体験されるだけであって、
およそ認識され、思考されうるものではない。」
フルトヴェングラーが言う、正しいものとは、つねに平衡状態であること。
平衡状態に関する言葉で、「静力学的」という言葉も使っている。
やはり、これも1945年の言葉である。
「芸術家の立場から言えば、過度の感情と、たんに『思考された』観念とは本質的に同じものである。
両者ともに『静力学的(シュターティッシュ)』には重要でない。
私はこのことをつねに感じていたが、それを認識するまでに残念ながらほぼ六十年を費やした。」と語り、
さらに「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定している楽曲は、決して法外な長さを必要としない。」という。
「楽曲」をデザインに置き換えてみる。
「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定しているデザイン」は、なにを必要としないのだろうか。
楽曲における法外な長さは、デザインにおけるなんなのだろうか。法外な冗長さだろうか……。
音に置き換えてみるとどうだろうか。
「正しい均衡を保ち、『静力学的』に安定している音」、
なんとなくイメージできそうな気がするようなしないような。
正しい音が必要としないのは、やはり法外な冗長さだろうか……、法外な情報量かもしれない。