二度目の「20年」(ライバルのこと・その3)
オーディオにおいてのライバルとは、
結論めいたことを先に書けば、互いの音を糧とする(できる)の間柄のはずだ。
片方だけが相手の音を糧に、という間柄ではライバルとはいえないわけで、
あくまでも互いの音を、ということが大事なことだ。
私が「ライバルがいなかった」というのは、このことがとても大きいからだ。
オーディオにおいてのライバルとは、
結論めいたことを先に書けば、互いの音を糧とする(できる)の間柄のはずだ。
片方だけが相手の音を糧に、という間柄ではライバルとはいえないわけで、
あくまでも互いの音を、ということが大事なことだ。
私が「ライバルがいなかった」というのは、このことがとても大きいからだ。
戻っていく感覚は、ただたんに戻っていくのではなく、
育っていく感覚でもあるわけだ。
オーディオにおいてのライバルとは、いったいどういうことを指すのだろうか。
同年代で、オーディオマニアであれば、ライバル同士といえるのか。
それとも同じスピーカーを鳴らしていることが、ライバルへと鳴っていくのだろうか。
これはありそうな気がする。
例えばJBLの4343を使っていたとしよう。
片方はマークレビンソンのLNP2とML2で鳴らしていた、としよう。
もう片方はプリメインアンプで鳴らしていた場合、
この二人はライバル同士となるのか。
もちろんこの二人はオーディオ仲間であり、友人関係でもある。
二人とも4343に惚れ込んでいる。
オーディオ歴もほぼ同じ。
けれどアンプのグレードが、この二人は大きく違う。
プリメインアンプで鳴らしている男は、
マークレビンソンで鳴らしている男をライバルだと思っているとしても、
マークレビンソンの男は、プリメインアンプの男をライバルだと思っているのかは、
どうだろうか。
マークレビンソンの男も、以前はプリメインアンプだった。
そのころは二人の4343の鳴らし手はライバルといえただろう。
どちらも相手のことをライバルと認識していたことだろう。
けれど片方が、一気にアンプをグレードアップした。
プリメインアンプの男は、そこでなにくそと思ったはずだ。
あいつがマークレビンソンなら、オレはGASにする、と思ったかもしれない。
プリメインアンプの男が、GASのアンプを買ったならば、
マークレビンソンの男は、ふたたび相手をライバルと思うようになるのか。
(その1)から六年。
書きたかった結論は、冒険と逃避は違う、ということだけだ。
黒田先生の「風見鶏の示す道を」には、
駅が登場してくる。
幻想の駅である。
駅だから人がいる。
駅員と乗客がいる。
駅員と乗客は、こんな会話をしている。
「ぼくはどの汽車にのったらいいのでしょう?」
「どの汽車って、どちらにいらっしゃるんですか?」
「どちらといわれても……」
どこに行きたいのか掴めずにいる乗客(旅人)は、
レコード(録音物)だけを持っている。
そのレコードは、いうまでもなく旅人が、聴きたい音楽であるわけだが、
この項で書いてきたのは、その「聴きたい音楽」をつくってきたのは、
なんだったのか、であり、
聴きたい、と思っている(思い込んでいる)だけの音楽なのかもしれない。
嫌いな音を極力排除して、
そんな音の世界でうまく鳴る音楽だけを聴いてきた旅人が携えるレコードと、
「風見鶏の示す道を」の旅人が携えるレコードを、同じには捉えられない。
前者は逃避でしかない。
本人は、冒険だ、と思っていたとしてもだ。
「遠い」という感覚を、
もしかすると、「風見鶏の示す道を」から読みとっていたのかもしれない──、
そんなふうに思うことが、最近ふとおとずれる。
ステレオサウンド別冊「子コンポーネントステレオの世界 ’77」の巻頭、
黒田先生の「風見鶏の示す道を」を、13歳の冬、読んだ。
黒田恭一という人がどんな人なのかはまったく知らなかった。
知らなかったけど、「風見鶏の示す道を」をいろんなことを、
オーディオに興味をもったばかりの少年に、いろんなことを考えさせた、といえる。
行き先を知らぬ乗客と車掌の会話が、そこには描かれていた。
行き先を知らぬ乗客の手荷物は、レコードである。
彼が聴きたいレコードである。
彼は目的を知らない。
けれど、それが「遠い」ことはなんとなく感じていたのかもしれない。
「遠い」という感覚のことは、
「KK塾が終って……」の(その2)、(その3)と(その4)や、
「川崎和男氏のこと(その3)」に書いている。
26年前に、「遠い」という感覚が私のなかにうまれた、といえる。
「風見鶏の示す道を」を読んでから18年経っていた。
それでも、すぐに、「風見鶏の示す道を」と「遠い」という感覚が、
私のなかで結びついていったわけでもない。
それからまたけっこう年月が必要だったのだろう。
ここにきて、やっと結びついていくような気がしている。
オーディオをずっとやってきて、
温故知新の「古き」と「新しき」には、
「古き己」、「新しき己」という意味も含まれている──、そう思うようになった。
この五年、ふと考えることが多くなってきたのが、
オーディオにおいてライバルがいなかったなぁ、ということだ。
目標とする人たちは何人もいた。
五味先生、瀬川先生、岩崎先生、菅野先生、井上先生、伊藤先生たちである。
同世代にライバルと感じた人はいなかった。
オーディオの仲間はいる。
一世代上、一世代下までひろげても、そう感じる人はいなかった。
オーディオの仲間は、どちらの世代にもいる。
ほかの人たちはどうなんだろうか。
オーディオ仲間といえる人たちのなかに、ライバル的存在がいるのだろうか。
いる、と答える人が多いのか少ないのか。
そもそもオーディオにおいてのライバルとは、どういう存在なのか。
オーディオをやっていくうえで、ライバルが必要なのだろうか。
そんなどうでもいいことまで考えて、どうするの?
そう思っている人はいることだろう。
実際、「妻がそういってました」といわれたことがある。
オーディオに関心があるなしに関係なく、
その人の奥さんからみれば、どうでもいいことにこだわっている、と映っているわけだ。
ここで「神は細部に宿る」ということをいいたいわけではない。
人は考える。
オーディオのことについて考える、音について考える、聴くということについて考える、
オーディオ、音楽に関すること、できることならばすべてのことについて考えていきたい──、
そう思っている。
人それぞれ考えている。
同じ音を、同じ場所で同じ時に聴いたとしても、考えることは違うこともある。
あるオーディオの事象について考えるにしても、人が違えば考えも違ってくるところがある。
同じ世代で、同じくらいのオーディオのキャリアであっても、
聴く音楽が近くても、考えがまったく同じになることなんて、まずない。
だから考えるのは、なぜ、私はそう考えたのか、についてである。
そう考えるのは、なぜなのかを考える。
あと五百本ちょっとで、目標の一万本なのだが、
ここにきて自問自答していることは、
ここに「溢れるおもい」はあるのだろうか、である。
私自身が判断することではない。
読まれている方の判断にまかせるしかないが、
私自身、10代のころ、文字で、
つまりオーディオ雑誌を読むことで、「溢れるおもい」に接してきた。
だから、ここに私自身の「溢れるおもい」はあるのだろうか、と考えてしまう。
毒をもって毒を制す、と、
昨年と今年に、一回ずつ書いている。
その他にも、オーディオの毒、音の毒についても何度か書いてきている。
それを読まれた方のなかには、ここで取り上げている音、
嫌いな音、ききたくない音を徹底排除した音も、そんな毒の一種といえるのではないのか、
そう思われるかもしれない。
私は毒とは思っていない。
さらにステレオサウンドを古くから読まれていて、記憶のいい方ならば、
ステレオサウンド 210号掲載の
黛健司氏の「ベストオーディオファイル賞からレコード演奏家論へ」を読まれて、
そういえば、と思い出されることがあると思う。
247ページに、
《ある方の音については「……さんの出されている音には普遍性がありませんでしたが、一枚の特定のレコードにかぎり、私がかつて聴いたことのないような音で、私を説得し、感動さしめたということはたいへんなことだと思います」と驚嘆された》
とある。
この方について、菅野先生は「オーディオ羅針盤」のなかでも触れられている。
この方については、私は別項「正しいもの」で触れている。
一枚の特定のレコードとは、
バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニーを振ってのマーラーの第四番である。
CBS録音であり、CBSソニーから発売された日本プレスのLPであり、
……さんとは、66号のベストオーディオファイル賞に登場された丸尾儀兵衛氏である。
嫌いな音、ききたくない音を徹底排除していく。
嫌いな音、ききたくない音が、いわゆるひどい音であるのならば、
それほど問題視することもないであろう。
けれど、そうでない場合がある。
少なくとも私がよく知っている例(個人)の嫌いな音、ききたくない音は、
そこにひどい音も含まれているけれど、
バランスのよい音を出すために不可欠な要素としての音が、そこに含まれている。
つまり偏食によって、嫌いな食べものを排除していくのと同じようにうつる。
嫌いな食べものは、体に悪い食べもののことではない。
必要な栄養素を好き嫌いで摂取しない。
それが極端にひどくなると栄養失調に陥ってしまう。
(その10)以降で書いているオーディオマニアは、
私の目(耳)には音の栄養失調に陥っているようにしかみえない(聴こえない)。
その人の音は、デリケートといえば、そういえるかもしれないが、明らかに栄養失調であり、
痩せてしまっている。
つくべきところに肉がつき、優れたプロポーションのスマートさではなく、
明らかに栄誉素が不十分で痩せ細ってしまった、
はっきりいえば不健康なアンバランスな音である。
音である。
食べものとは違うといえば違う。
食べもので、極端な好き嫌いをしてしまえば、健康に関ってくる。
けれど音は、身体の健康には関係していない、といえばそういえる。
だから本人の好き嫌いなのだから、周りがとやかくいうことではない──、
そうともいえる。
そう思って、私自身、そのことを直接的に指摘することはなかった。
婉曲ないいまわしで、数回伝えたことはあった。
でも、そのくらいで変るものではなかった。
初期衝動を照れることなく、まして恰好つけることなく、
ただただ真っ正面から見ることができなければ、
初期衝動を素直にことばにすることはできない。
それができたとして、誰かに読んでもらうとかそういうことではなく、
ただただ自分のために、初期衝動をはっきりとことばにする必要はある。
ここにきて、やっとそう感じるようになった。
《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》、
黒田先生の、モーツァルトのピアノソナタでのグレン・グールドの演奏について表現。
瀬川先生が、ステレオサウンド 53号でJBLの4343を、
同じころのスイングジャーナルで4350Aを、
それぞれマークレビンソンのML2のブリッジ接続で低域を、
通常の使い方でのML2で中高域を鳴らす、オール・レビンソンによるバイアンプ駆動の音、
これこそまさに《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》だったように思う。
もちろんどちらの音も聴いていない。
ML2のブリッジの音は聴いている。
ML2の音も何度も聴いている。
4343のバイアンプ駆動の音もネットワーク使用時の音も、
4350Aの音も聴いている。
瀬川先生の文章も、何度読み返したことか。
聴いてみたい、と思ったし、いま聴いてみたい、と思う。
聴いてみたいと思っているのは、誰かが鳴らしたML2(六台)によるバイアンプ駆動の音ではなく、
瀬川先生が鳴らした4343、4350Aの音であるのだから、
思うこと自体が馬鹿馬鹿しい、ということになるんだろうが、
どんなに聴きたくとも聴けなかった音があるからこそ、オーディオマニアなんだ、ともいまはおもう。
そういう音をもたない者は、どんなにオーディオ機器にお金を注ぎ込んでいたとしても、
オーディオマニアではない、と断言できる。
聴けなかった──、
けれど、いまは、聴けなかった、その音を
《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》と捉えるようになった。
その音は、きっと《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》の極限、
少なくとも、あの時点(1979年)でのひとつのいきついたところでの音だったはずだ。
けれど《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》ばかりが、
音ではないし、音楽でもないわけだから、
53号の最後に、瀬川先生は《どこか一ヵ所、私の求めていた世界とは違和感があった》
と書かれたのだろう。
「五味オーディオ教室」を最初に読んだ時の初期衝動を、
いま強引におもい出している。
(その8)で引用した黒田先生の表現。
25号に載っていることを見つけ、書き写してみれば、
ほぼ正確に記憶していたことも確認できた。
ならば25号を見つけ出さなくとも書けたのではないか。
書けた。
書けたけれど、黒田先生の書かれたものという記憶がこちらにある以上、
それに手元にステレオサウンドのバックナンバーがある以上、
やっぱり正確に引用しておきたい。
それに黒田先生の文章ということを黙ったまま、
さも自分で考えたかのように、少しだけ変えて書くのは絶対にやりたくない。
オーディオ雑誌には、そういう例がけっこうある。
書いている本人は、自分で思いついたと思っているだけなのだろうが、
パクリといわれてもしかたない、という表現もある。
ほんとうに知らないのか、それとも過去に読んだことを忘れてしまっているのか、
そのへんは定かではない。本人にしてもそうなのかもしれない。
こんなことをあえて書いているのは、ステレオサウンド 207号でも、
気になるところがあったからだ。
傅信幸氏のタンノイのKensington/GRの試聴記に、タンノイ劇場、とある。
これが、菅野先生が以前よく使われていたウェストミンスターホールと、
私の中では、どうしてもかぶってくる。
念のため書いておくが、ウェストミンスター劇場のウェストミンスターとは、
タンノイのスピーカーのことである。
ウェストミンスターホールを、菅野先生が使われていたのは、それほど昔のことではない。
傅信幸氏が読んでいないわけがないし、読んだことを忘れていないはずだ。
忘れていた可能性をまったく否定するわけではない。
仮に忘れてしまっていての、今回のタンノイ劇場なのかもしれない。
だとしても、ステレオサウンド編集部の人たちは、何も思わなかったのか、
何も感じなかったのか、何も思い出さなかったのか。
菅野先生のウェストミンスターホールと傅信幸氏のタンノイ劇場。
何の問題もないとする人がいるのはわかっている。
そんなこと、わざわざ書くことか、と言われるであろうこともわかっている。
それでも、何かひっかかるものを感じている。
私だけなのか。