Archive for 3月, 2019

Date: 3月 27th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その5)

もう一人はT君だ。

T君は、義務教育の九年で、六年は同じクラスだった。
よく互いの家に遊びに行く仲だった。

T君は、中学のころ、視力回復センターに通うようになった。
理由をきくと、航空自衛隊に、戦闘機のパイロットになりたいから、ということだった。

T君の飛行機好きなのは、小学校のころから知っていた。
飛行機に詳しかったし、プラモデルもよく作っていた。

戦闘機のパイロットになるには、裸眼視力がT君の場合、足りなかった。
視力だけではなく、身長も少し足りなかったようだ。

別に小柄というわけではなかった。
私より少し背が低いだけだったけれど、規定の身長には足りなかった。
T君は、だから中学の部活動はバスケットを選んだ。

特にバスケットが好きなわけではなかった。
それでも身長が少しでも伸びる可能性があるのならば、という理由でのバスケットだった。

T君のことを笑う人もいるかもしれない。
そんなことで視力が回復したり、身長が伸びたりするわけないのに、と。
香ばしい青春だこと、と揶揄することだろう。

そうかもしれない。
けれど、T君は夢に向って真剣だった。
T君は賢かった。

そのT君が、わずかな可能性に賭けていた。
本人が、ほんのわずかしか可能性がないことはよくわかっていたのかもしれない。

T君は、中学卒業のころには諦めていたようだった。
高校ではバスケットはやらなかったし、視力回復センターにも通わなくなっていた。

M君とT君のふたりのことを、
この項を書き始めたころから、どこかで書こうと思い始めていた。

どこで書こうか、もそうだが、ここで書くようなことだろうか、とも思っていた。

Date: 3月 26th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その4)

その1)を書いてしばらくして、小学校時代同じクラスだった二人のことを、
なぜだか思い出していた。

一人はM君という。
小学校三、四年のとき、同じクラスだった。
家が近くだったこともあって、帰りは一緒だったこともあるし、M君の家に遊びに行ったこともある。
とはいえ、特に仲がよかった、というほどではない。

おそらくM君は私のことなど憶えていないだろう。

そんなM君が、ある日、「ラサールを中学受験して東大に行くんだ」と話してきた。
M君が、そういうことを話してきたきっかけがなんだったか憶えていないし、
こちらとしても、ラサール中学・高校が有名な進学校というぐらいは知っていたけれど、
まさか同じ学校に通っている同級生が、中学受験をするなんて、驚き以外のなにものでもなかった。

当時の私の感覚としては、
同級生はみな小学校のすぐ近くにある中学校に進学するものだと思い込んでいた。
中学までは義務教育だから、わざわざ私立の学校に受験して入学するなんて、
東京とか大阪の都会の話だという認識しかなかった。

M君は、たしかに成績は良かった。

でも同級生にはNさんという、学年一の優秀な女の子がいた。
同じクラスになったことはないけれど、それでもNさんの優秀さは伝わってきていたことも、
驚きにつながっていた。

M君は宣言通り、ラサールに入学した。
中学、高校と首席かそれに近い成績だというウワサが聞こえてきた。
模試でも東大合格間違いなし、という成績だった、らしい。

けれどM君は東大受験に失敗した。
一浪して再び受験した。けれどダメだった、らしい。

本番に弱かったのだろうか。
M君は、有名私大に入学した。

ここまではウワサで聞いて知っていた。

いまになってM君のことを思い出して、そういえば、M君の夢はなんだったのか、と考える。
東大に合格することが夢だったのか。
それとも東大に合格して東大で学び卒業して、そこから先がM君の夢だったのか。

小学四年だった私は、M君に「夢は東大に合格すること?」と訊くことはなかった。
そんなこと考えもしなかったからだ。

M君の夢はなんだったのか、
東大には入れなかったけれど、夢は実現しているのかもしれない。

Date: 3月 26th, 2019
Cate: ディスク/ブック

ブラームス 弦楽六重奏曲第一番 第二番(その3)

むせかえるような濃密な芳香。

ラルキブデッリによるブラームスの弦楽六重奏曲を聴いた同時に感じたのが、
これだった。

濃密なだけではなかった。
むせかえるような、とつけたくなるほどな芳香の強さだった。

もちろんイヤな芳香だったわけではない。

でも、なせか、私はそういう芳香に、怖れをなすところがあるというだけだ。

聴いていて、ラルキブデッリのブラームスを、もし20代のころ聴いていたら、
さらには10代のころだったら……、そんなことを想像もしていた。

もしかすると、むせかえるような濃密な芳香とは感じなかったかもしれない。
香りたつ、そのぐらいの感じ方だったかもしれない。

少なくとも、怖れをなす──、そんなふうには感じなかったはずだ。

それだけではなかった、感じたことは。
これまでをふり返って、こういう時代が私にはあっただろうか……、
そんなことすらおもっていた。

むせかえるような濃密な芳香といえる時期。
それを、青春と呼ぶのかもしれない。

でも、そうは呼びたくない、という気持も聴いていて感じていた。

菅野先生はよく「若さはバカさ」といわれていた。
「若さはバカさ」といえることは、誰にでもあろう。
思い出して、恥ずかしさでいっぱいになって、音楽を聴いていてひとり赤面するような。

それもラルキブデッリのブラームスを聴いていて、あったことだ。

Date: 3月 26th, 2019
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(先生という呼称・その5)

オーディオショウに行けば、それぞれのブースで、出展社のスタッフが、
オーディオ評論家を○○先生と呼んでいるのが、あちこちで聞ける。

誰が、どの人を先生と呼ぶのか呼ばないのか。
それはその人の勝手だ。

菅野先生が亡くなられたいま、私が先生と呼ぶ人は、オーディオ界にはもういない。
それでも、インターナショナルオーディオショウでは、
あちこちで「先生」がきこえてきた。

その「先生」がきこえてくる度に思うことがある。
ほんとうに、この人たちは、心から「先生」と呼んでいるのか、と。

そう呼んでおけば差し障りがない──、
そんなことで先生と呼んでいるわけではないだろうが、
釈然としないものが、残る。

オーディオマニアのなかには、
オーディオ評論家ごときを先生と呼ぶこと自体おかしい、と主張する人がいる。

そう思っている人はそれでいい。
その人たちを説得する気は私にはまったくないし、
私自身は、先生と呼ぶ人と呼ばない人を、はっきりと区別してきた。

先生と心から呼べる人たちが、かつてオーディオ界にはいた。
その時代を私は知っているし、そこにいて、その人たちと仕事をすることができた。

そういう時代があったことすら知らない世代が、今後、オーディオ業界で増えていく。
そういう世代の人たちは、上の世代、先輩社員が、先生と呼んでいるから、
それに倣っておこう、ぐらいの軽い気持で先生と呼ぶようになるのかもしれない。

仕事だから──、と割り切って先生と呼ぶ。
そうなれば、そこに区別はなくなる。

Date: 3月 26th, 2019
Cate: 映画

Alita: Battle Angel(その4)

「アリータ: バトル・エンジェル」のことを書こうと思うと、
予告編について書いておきたい。

映画館では、必ずといっていいほど本編の前に予告編がある。
本編を観に来ているのだから、予告編など見せるな、という客がいることは知っている。
でも私は本編だけでなく、予告編も映画館で映画を観る楽しみだと捉えている。

1998年ごろからだったか、インターネットでも映画の予告編が見られるようになった。
といってもアメリカの映画の予告編だから、音声は英語、字幕もなし。
それでも新しい予告編が公開されるのを、楽しみにしていた。

そのころ56kbpsのアナログモデムを使ってインターネットに接続していた。
予告編をストリーミングで見ることは、ほぼできなかった。
ダウンロードして見るしかなかった。

そのころの予告編は、ちいさなサイズだった。
横幅480ピクセルだったはずだ。
予告編の容量は20数MB程度だった。

それでもダウンロードするのに二時間程度かかっていた。
しかも20%くらいでダウンロードが終るという時に、接続が切れることもあった。
そういう時は最初からダウンロードし直しだ。

STAR WARS episode Iの予告編もそうやってダウンロードした。
映画が上映されるのは数ヵ月以上先だった。
何度も、ダウンロードした予告編を見ていたし、
友人、知人にも何人かに見せていた。

そのころはPowebook 2400cを使っていた。
小さな液晶サイズだし、予告編はさらに小さなウィンドウで再生される。
フルスクリーンにはできなかったはずだ。

それでもみな「スゴい」といって見ていた。

Date: 3月 25th, 2019
Cate: 「オーディオ」考

時代の軽量化(その11)

別項「正しい聴き方と自由自在な聴き方(self reliance)」で、自由について書いた。

自由を好き勝手というふうに捉えていては、時代の軽量化を感じることはないのかもしれない。

仏教学者の鈴木大拙氏は、「自由」の英訳を、
辞書に載っているfreedomやlibertyではなく、self relianceとした、ときいた。

正しく鍛えられていれば、自由の英訳としてself relianceを選ぶのではないだろうか。
正しく鍛えられていれば、それまでやってきたさまざまなことが結ばれていく、つながっていく。
そうすることで、解答へと近づいていく。

ただ鍛えられているだけでは、自由の英訳としてfreedomを選ぶのではないだろうか。
ただ鍛えられているだけでは、それまでやってきたさまざまなことが結びつくとは限らない。
それでは回答へと近づけても、解答には近づけない。

Date: 3月 24th, 2019
Cate: audio wednesday

第99回audio wednesdayのお知らせ(三度ULTRA DAC)

瀬川先生が「続コンポーネントステレオのすすめ」に書かれていることが、
そのままメリディアンのULTRA DACにもあてはまる。
     *
 さて、カートリッジに望む第二条件は、そうしてあらゆる音楽(レコード)をきちんと鳴らしてくれるばかりでなく、そこに、そのカートリッジでなくては聴けない音の魅力がなくてはならない。そうでなくて、どうして、そのカートリッジをあえて選ぶ理由があるのだろう。
 この音の魅力というのを、カートリッジの音のクセと混同して頂きたくない。あらゆる音楽に、その音楽固有の音色の魅力がある。それぞれに異なる音楽の魅力をうまく抽き出しながら、しかもつい聴き惚れてしまうほどの美しい音楽的なバランスの良さが必要だ。どことなく無機的な、いわゆる蒸留水のような音は私は最も嫌う。だいいち、もとの音楽には演奏家の心をこめた気迫もあれば、色や艶もあり、そこにかもし出されるえもいわれぬ深い味わいがある。そういう音楽の魅力を、まるで鳴らしてくれないカートリッジがある。低音から高音までフラットでバランスが良い。ひずみもきわめて少なく、トレースは全く安定していて、どんなレコードも心配なく鳴らしてくれるのに、その音に味わいも艶も余韻の微妙な美しさもなくて、ただ白痴のような美しさだけ聴かせる。そんなカートリッジはどこか間違っていると私は思う。いや、正しいか間違いかなどはこの際問題ではない。そういうカートリッジではレコードの世界の深さを聴き手に伝えてくれないから、思わず時のたつのを忘れてあとからあとからレコードを聴き耽るというような気持にさせてくれない。結構な音でございます、では音楽の魅力は伝わってこない。だが、そういう音だけのカートリッジが、世間では案外、良いカートリッジ、みたいに言われている。
     *
カートリッジをD/Aコンバーターに置き換えて読む。
《思わず時のたつのを忘れてあとからあとからレコードを聴き耽るというような気持にさせて》くれるのが、
ULTRA DACである。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時からです。

Date: 3月 24th, 2019
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その40)

つきあいの長い音は、原風景へとなっていくのか。

Date: 3月 24th, 2019
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンド 210号(その2)

別項「オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(Air Force ZEROのこと・その3)」で、
菅野先生が、オーディオのデザインについての連載を、
「ひどい記事だったね」といわれたことを書いている。

気づいてほしいのは、ひどい記事と思われながらも、
その連載をきちんと読まれていたことである。

私も、その連載は毎回読んでいた。
読んでいたから、菅野先生とふたりして「ひどい記事だったね」となったわけだ。

ひどい記事だと思っても、一度は目を通す。
そのことを思い出したから、今日、ステレオサウンド 210号を手にとっていた。

336〜337ページの、LINNの新製品、
Selekt DSMの記事でページをめくる手が止った。

違和感といったら大袈裟すぎだけど、
あれっ? と思うところがあってだ。

記事にはSelekt DSMの写真がある。
Selekt DSMのディスプレイには、
Shostakovich;
Symphony No.5 in…
96kHz/24bit FLAC
と表示されている。

これ自体におかしいところがあるわけではない。
ショスタコーヴィチの交響曲第五番を、
Selekt DSMを試聴した人は聴いたのだな、と写真を見て思う。

けれど試聴記にはショスタコーヴィチのことはまったくない。
試聴記になくても聴いたんだろうな、と思い、
新製品紹介の最後にある試聴ディスク一覧(399ページ)をみると、
確かに、ショスタコーヴィチ:交響曲第五番とある。

けれどショスタコーヴィチを試聴用に聴いているのは三浦孝仁氏である。
Selekt DSMを試聴しているのは山本浩司氏である。

試聴ディスク一覧は、試聴に使われたディスク(ファイル)のすべてではないことは、
必ず「他」と記されていることからもわかる。

そうであっても、試聴記に一切出てこないディスク(ファイル)を表示させるのか。
Selekt DSMのひとつ前のページでは、dCSのBartók DACを三浦孝仁氏が紹介している。

そこの試聴記にはショスタコーヴィチと出てくる。

Date: 3月 24th, 2019
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(その3のその後)

日本民間放送連盟が総務省に、
ラジオのAM放送の廃止を求める方針を決めた、というニュースが二日前にあった。

すでにAM放送の一部はワイドFM対応のチューナーで受信できるようになっている。
ノイズがFM放送よりも多く、音質面でもAM放送は不利である。

しかもAM放送は1992年にステレオ放送となったが、
いろいろな事情から元のモノーラル放送に戻っている。
一方でインターネットのストリーミングを利用したradikoではステレオで聴ける。

そういう状況においてAM放送が廃止に向うのは仕方ないことなのかも、と思いながらも、
AM放送が終ってしまったら、鉱石ラジオも無用の長物と化してしまう。

電源を必要としない鉱石ラジオ(ゲルマニウムラジオ)。
いまでもキットが売られているようだから、
若い世代の人たちでも作ったことのある人は少なくないかもしれない。

もっともプリミティヴな受信機である。
ゆえにFM放送は受信できないものだと、二日前まで思い込んでいた。

一応確認のためと思い、検索してみると、
かなり技術的に難しい面もあるが、鉱石ラジオでのFM放送の受信もできないわけではない。
AM放送用の鉱石ラジオの手軽さは、ないといえる。

九年前に(その3)を書いている。
そこである方のツイート、
「ゲルマニウム(ラジオ)でなければ復調できない類の記憶」を引用している。

AM放送がほんとうに廃止されれば、ノイズに関する一つの記憶が、
そこから先の世代には存在しなくなる。

Date: 3月 23rd, 2019
Cate: デザイン

プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン(その10)

ここではヤマハのコントロールアンプC5000を取り上げているが、
なにもC5000だけが、プリメインアンプ的なデザインのコントロールアンプなわけではない。

たまたま、このテーマを書いている途中でC5000が登場したこと、
それとCI、C2といった以前のヤマハのコントロールアンプ、
同時代のCA2000、 CA1000IIIなどのヤマハのプリメインアンプのデザインは、
はっきりと、それぞれにコントロールアンプ的であり、
プリメインアンプ的であった記憶がいまも残っているからだ。

C5000のデザインを見て、私と同じようにプリメインアンプ的だと感じる人もいれば、
そんなふうには感じないという人もいるはずだ。

私自身、どうしてそんなふうに感じるのか、その理由を知りたくて、このテーマを書いている。
まだはっきりと理由を見つけられているわけではないが、
書き始めたころから結論のひとつとして見えているのは、
コントロールアンプとしてのデザインに必要なことは、
オーディオ・システムのデザインの中心として存在できる、ということだ。

それはわかっていたから、別項「オーディオ・システムのデザインの中心」を書いている。

セパレートアンプならば、コントロールアンプがオーディオ・システムのデザインの中心なのはわかるけれど、
プリメインアンプならば、オーディオ・システムのデザインの中心ではないのか──、
そういわれそうである。

いまのところ、ここをうまく言葉として説明できないでいる。
ゆえにもどかしさを感じているが、
プレーヤー、プリメインアンプ、スピーカーといったシステムと、
プレーヤー、コントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカーといったシステムとでは、
デザインの中心の意味あいが微妙に、しかしはっきりと違ってくるところがある、と感じている。

この感じているところを、はっきりと掴めたら、
ここでのテーマに、はっきりとした答を出せるはずだ。

Date: 3月 22nd, 2019
Cate: きく

ひとりで聴くという行為(その2)

映画「アリータ: バトル・エンジェル」を観終って、
友人のAさんにすぐにショートメールを送った。

IMAX 3Dで、ぜひ観てほしい、と。
Aさんも「アリータ: バトル・エンジェル」には興味を持つだろうと思って、だった。
Aさんからの返事は、ちょっと意外だった。

音楽ライヴ、落語、遊園地などは平気でも、
なぜか映画館は苦手というか苦痛に感じる、とのこと。

この返事を受けとったのは先月末。
いまになって、「ひとりで聴くという行為(その1)」をそのままにしていたことを思い出した。

これも続きを書こうと思っていたのに、
ついつい他のテーマを書き始めて忘れてしまっていた。

(その1)では、ある記事を紹介している。
映画のシーンによって、人は異なる化学物質を放出している:研究結果」という記事である。

タイトルが、かなり内容を伝えている。
この研究が事実なら、Aさんは人が放出する化学物質に対して、かなり過敏なのではないのだろうか。

おそらく落語や音楽でも、人はなんらかの化学物質を放出しているのだろうが、
落語で、たとえばきわめて残酷なシーンとか悲しいシーンとかはないだろう。
非現実的なシーンもないといえる。

ところが映画はそうではなかったりする。
一本の映画のなかに、さまざまなシーンがある。
一本の映画のシーンがかわるごとに、観客は異なる化学物質を放出する。

それに最新のCGを使った映画は、どこまでが現実に撮影したことなのか、
その判断がほとんどつかない、といえるレベルに達してる。

もうつくれないシーンはない、ともいえる。
そういう映画では、人が放出する化学物質も強くなるのだろうか。

人気のある映画、つまり大勢の観客がいる映画では、
放出される化学物質の量も増えるわけで、
そういった化学物質に過敏症の人がいるとしたら、
映画館での映画鑑賞は苦痛になるであろう。

Date: 3月 22nd, 2019
Cate: ディスク/ブック

La Voix humaine

フランシス・プーランクのオペラ“La Voix humaine”。
オペラといっても歌手は一人。

先日、対訳に気になってGoogleで検索していたら、
いま日本では「人間の声」と訳されているのを知った。

私が“La Voix humaine”を知ったのは、CDが登場したからだった。
この曲の名盤として知られているジョルジュ・プレートル/パリオペラ・コミーク管弦楽団、
ドゥニーズ・デュヴァル(ソプラノ)による演奏が、CD化された。

このころ、“La Voix humaine”は「声」と訳されていた。
1980年代後半の話だ。

フランス語はまったくな私でも、“La Voix humaine”をみれば、
「声」ではなく「人間の声」が正確な訳だということはわかる。

それでもずっと「声」で日本では通じるものと思い込んできた。
30年以上そうだった。

それがいつのころからなのかはわからないが、「人間の声」が一般的になっているようだ。

“La Voix humaine”では電話がなくてはならない存在である。
なので、当時出たCDも電話がジャケットに描かれていたし、
昨年廉価盤で登場したワーナークラシック版も、ジャケットは電話である。

「声」に馴染んでいた私には、
なんとも生々しい印象を受けてしまう。

もちろん“La Voix humaine”では、
電話の受話器を手にしての背の語りは進んでいくわけで、
デュヴァルの声は電話を通した声ではない。

だからこその“La Voix humaine”なのかもしれないし、
「人間の声」のほうが、より“La Voix humaine”という作品のことを正確に表わしている──、
そうなのかもしれないとわかっていても、やっぱり私には「声」のほうがしっくりくるし、
「声」だけのほうが、電話の存在を「人間の声」とあるよりも感じてしまう。

このへんになると、感じ方の違いなのであって、
「人間の声」のほうがいいと感じる人のほうが多いのだろうから、
いまでは「人間の声」が一般的なのだろう。

些細なことである。
些細なことついでに書けば、“La Voix humaine”では、
最後に受話器のコードを首に巻きつけて……、という場面がある。

注釈つきでなければ、通用しない時代になるんだろうな、と思う。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: バッハ, マタイ受難曲

ヨッフムのマタイ受難曲(その4)

ヨッフムのマタイ受難曲。

いまでは多くのマタイ受難曲がCDとなっている。
でも、私がマタイ受難曲を初めて聴いたとき、
マタイ受難曲のLPの数は少ないとはいわないが、多くはなかった。

名演といわれていたのはリヒターであり、
クレンペラーも高い評価を得ていた。
あとはメンゲルベルク、カラヤン、リリングなどの演奏があった。

ヨッフムのマタイ受難曲は、さほど注目されていなかった、と記憶している。
レコード芸術の恒例の特集となった名曲名盤の企画。

私が20代のころ、ヨッフムのマタイ受難曲に点を入れている人は佐々木節夫氏だけだった。
そういうものなのか、と思ったから、いまもはっきりと憶えている。

私は五味先生の影響で、ヨッフムのマタイ受難曲を最初に聴いている。
そうそう頻繁に聴くわけではないが、こちらが歳をとるとともに、
ヨッフムのマタイ受難曲の美しさが、いかに深いかを感じる。

その3)は二年半ほど前に書いた。
(その4)を思い出したように書いているのは、
メリディアンのULTRA DACで聴きたい一枚だからだ。

Date: 3月 21st, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(埋められないのか・その2)

三年前に「あるスピーカーの述懐」の(その8)と(その9)を書いた。

そこで「手強い」スピーカーと「難しい」スピーカーの違いについて書いた。
この違いをわからなければ、私がいいたい「毒」についてはわかってもらえないような気がする。

その違いを理解するには、結局、「手強い」スピーカーと出逢い、
自分の手で鳴らしてみるしかない。