Date: 9月 2nd, 2016
Cate: バッハ, マタイ受難曲
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ヨッフムのマタイ受難曲(その3)

クラシックをながいこと聴いてきた聴き手で、
マタイ受難曲を聴いたことがない、ということはまずないと思う。
もしそういう人がいたら、怠惰な聴き手といってもいい。

他の作曲家の、他の曲でもいいのだが、
マタイ受難曲は、その聴き手が誰の演奏で聴いているのかは、
聴き手の、人となりを語っている、と思ってきた。

今回瀬川先生もヨッフムのマタイ受難曲、ということを聞いて、
その感を深くした。

クラシックという音楽のジャンルには、膨大な曲がある。
マタイ受難曲がどれほど傑作であっても、膨大な数の中のひとつでしかない。
それにも関わらず、たった一曲で相手(聴き手)の人となりを決めつけるのか。
それこそが間違った行為だ、といわれても、
私はそう感じているし、そう思っている。

ブルックナーのよさもわからぬ聴き手のいうことなど、
阿呆臭くて聞いてられない、と思われてもいい。

他の作曲家の、他の曲で感じたことが同じであっても、
マタイ受難曲において、まるで違うのであれば、
結局のところは、表現する言葉が同じだけでしかない……、
そんなふうにも思えてしまう。

私がどうしてもいいとは感じない演奏によるマタイ受難曲を、ある人は絶賛する。
私にもすすめてきた。
その時から、ここに書いていることを思ってきている。

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