つきあいの長い音(その11)
つきあいの長い音は、そうやって聴き手を育てていく。
つきあいの長い音は、そうやって聴き手を育てていく。
オーディオ機器の評価の難しさは、それ単体では音が出せない(出ない)というところにある。
パワーアンプの試聴をするにも、
パワーアンプだけを用意すれば試聴が可能になるわけではない。
必ずアナログプレーヤーなりCDプレーヤーが必要になり、
コントロールアンプ、スピーカーシステムも用意しなければならない。
そしてこれらの機器を接続するためのケーブルも、である。
パワーアンプの音を聴くといっても、
実際にはそこでのトータルの音を聴いているわけである。
いうまでもなく、そこでのトータルの音には、オーディオ機器だけでなく部屋も含まれる。
だからこそ馴染んだ環境がなければ、実のところ試聴は成立しない。
ステレオサウンドの筆者にとっては、ステレオサウンドの試聴室がそういうことになる。
同じ場所で、その試聴室のリファレンス機器での音を何度も聴いて知っているからこそ、
試聴は成り立つといえる。
つまりパワーアンプの試聴は、
同じ場所での同じ機器での音の一部(パワーアンプ)を交換した音を聴いているわけで、
交換した一部以外は、いっさい変更してはならない。
そして交換する一部は、すべての機種を可能なかぎり同条件のセッティングが前提となる。
つまり置き場所、置き方、電源のとり方、その場所、
コントロールアンプとの接続ケーブルの引き回し、スピーカーケーブルの這わせ方など、
すべての機種で同じになるように注意しなければならない。
パワーアンプにはステレオ仕様とモノーラル仕様がある。
注意したいのはモノーラル仕様の場合である。
たいていの壁コンセントには挿込み口が二つある。
私がいたころはステレオサウンドの試聴室では、
ステレオアンプは上の挿込み口から、
モノーラルアンプの場合は、左チャンネルを上、右チャンネルを下の挿込み口からとるようにしていた。
左チャンネルを上、右チャンネルを下にしていたのは、
これがすべての場合において音が良いから、ということではなく、
常に同じセッティングをどの機種に対しても行うための、いわばルールである。
いうまでもないが、電源の極性は合せている。
硬度と書いて気づいたことがある。
水のことだ。
スーパーに行けば、いろいろなミネラルウォーターが並んでいる。
日本のミネラルウォーターだけでなく、世界各国のミネラルウォーターが並んでいる。
どのミネラルウォーターにも硬度が表示されている。
一般的に日本の水の硬度は低い。
いわゆる軟水である。
フランスの水は硬度が高い。硬水である。
エビアンも日本の水よりも硬いけれど、
ヴィッテルはもっと硬いし、コントレックスはさらに硬い。
ミネラル成分の違いによって、水の硬度が違ってくる。
ということは、いわゆる純水は不純物(ミネラルも不純物である)を含まないのだから、
日本のミネラルウォーターよりも、もっと軟水ということになるのだろうか。
だとすれば、水に関しては純度が高くなればなるほど硬度は低くなる。
水の純度とオーディオマニアとしての「純度」は同じには語れないことはわかっている。
それでも純度と硬度の関係について考えていると、
ミネラルにあたるものはなんなのか、となる。
AGIのコントロールアンプ511とQUADのパワーアンプの405の組合せ。
このふたつが、ある時期、良好な組合せ、うまい組合せと評価されてきたのは、
それぞれがもっている枠がうまく合さった結果のような気もする。
どちらのアンプにも枠がある。
ただしQUADの枠は意図的、意識的な枠なのかもしれないし、
AGIの枠は若さゆえに生じた枠だったのかもしれない。
このふたつの枠は、どちらも比較的初期の段階ではうまく合さっていた。
でもどちらのアンプも何度か小改良が施されている。
そのことによって枠に変化が生じる。
QUADの枠は、その枠自体が魅力となっていても、
405の改良、405-2への変更によって枠は少しとはいえ大きくなっている。
AGIの枠は、大きくしようという改良ではなく枠そのものをなくしていこうという改良のようでもある。
ふたつのアンプの枠は方向性にわずかとはいえ違いが出てきた。
AGIのデヴィッド・スピーゲルは20代の若いエンジニア、
QUADのピーター・ウォーカーは老獪といえるエンジニアである。
違いがあって当然であろう。
そのため、ある時期から511と405の組合せは、ステレオサウンドの誌面にも登場してこなくなっていった。
タンノイのIIILZとラックスのSQ38Fの組合せは、黄金の組合せと呼ばれていた。
けれど、IILZの後継機Eaton、SQ38Fの後継機 SQ38FD/IIの組合せは、誰も黄金の組合せとは呼ばなかった。
この理由も、改良にともなう枠の変化だったのではないだろうか。
(その1)の冒頭に書いているように、
書きたい内容があって書き始めたわけではない。
オーディオマニアとしての「純度」というタイトルが思い浮んで書き始めた。
それだけに、ここから先、どんなことを書いていくのかまだ見えてきていない。
それでもオーディオマニアとしての「純度」とは、
どこまでオーディオマニアとしてのわがままを貫き通せるかどうかではないだろうか。
そして、この「純度」とは、オーディオマニアに共通するものなのか、
共通する何かがあるものだろうか、
オーディオマニアひとりひとりまったく違うものなのか。
オーディオを趣味として長くやっているから、
オーディオマニアとしての「純度」が高いということになるのだろうか。
オーディオマニアとしての「純度」が高いとは、そもそもどういうことなのか。
音は人なりというのだから、
オーディオマニアとしての「純度」が高くなれば、純度の高い音を鳴らしているのか。
純度の高い音は透明度の高い音とイコールではないはず。
純潔という言葉がある。
純潔なオーディオマニアとはどういうことなのか。
ただひとつのスピーカーだけ、他のスピーカーにはまったく関心をもたずに、
そのスピーカー一筋で鳴らしてきた人を純潔なオーディオマニアと呼べるのか。
呼べるとしたら、その人はオーディオマニアとしての「純度」が高いのか──、
私にはそうは思えない。
オーディオマニアとしての「純度」とは、なんなのか。
「わがまま」なのだろうか。
純度が増すということは硬度が増すということでもある。
ならばオーディオマニアとしての「硬度」が増すということは、
やはり「わがまま」ということなのか、硬度があるから「わがまま」を貫き通せるのか。
アキュフェーズの創業者である春日二郎氏の「オーディオ 匠のこころを求めて」、
この本の中に、ピュアオーディオについて書かれているところがある。
「オーディオはバラスト」とつけられた短い文章だ。
*
船舶は、転覆をしないように重心を低くするため、船底に重いバラスト(底荷)を積んでいる。これは直接的な利潤を生まない「お荷物」ではあるが、極めて重要なものである。
歌人の上田三四一(みよじ)氏は、「短歌は高い磨かれた言葉で的確に物をとらえ、思いを述べる、日本語のバラスト(底荷)だと思い、そういう覚悟でいる。活気はあるが猥雑な現代の日本語を転覆から救う、見えない力となっているのではないか」、このように書かれている。
純粋オーディオも、人類にとって大切なオーディオ文化を守る重要なバラストの役目をしているのではないだろうか。
*
オーディオはバラストといえる、と思う。
けれど、それはオーディオ文化を守るバラストというよりも、音楽文化を守るバラストのように思っている。
「オーディオはバラスト」について、
そして「オーディオのバラスト」についても、いずれ書いていく。
テクニクスがもしSL10、SL15といったLPジャケットサイズのアナログプレーヤーを開発していなければ、
ビクター、ソニー、デンオンと同じように、電子制御のトーンアームを出していただろうか。
SL10はリニアトラッキング方式で、電子制御である。
ただし一般的なリニアトラッキング方式では、
ストレートのトーンアームパイプがある。
SL10とほぼ同時代の他社のリニアトラッキングアームのプレーヤー、
ヤマハのPX1、パイオニアのPL-L1のように。
テクニクスのジャケットサイズでは、
同じリニアトラッキング方式ではあっても、このパイプはない。
テクニクスがSP10との組合せを前提としたリニアトラッキングアームを開発したとしたら、
どんな形になっていただろうか。
パイプのないリニアトラッキングになっていたのだろうか。
パイプがなかったとしたら、
パイプに起因する問題もなくなる。
つまり低域共振の問題もほとんど無視できるはずであり、
そうなると他社の電子制御のトーンアームで行っていた低域共振の制御は不要となる。
ブラインドフォールドテストを絶対視し、
いわゆるオープンテストは信用できないと主張している人の多くは、
ステレオサウンドがやってきた試聴というものを一度も体験したことのない人なのだろう。
試聴というものは、オーディオ雑誌を読んでいた時と、
実際に試聴室という現場で仕事をするようになってからでは、認識がそうとうに変ってくる。
これはいくら言葉で説明しても伝わりにくいものであるようで、
私も読者だった時代、
ステレオサウンドの特集記事のテストの方法は毎回きちんと読んでいた。
それでも、試聴という仕事をあまく捉えていたことを、
ステレオサウンドで働くようになって気づいた。
試聴の方法として、どういうやり方がいいのか。
ブラインドフォールドテストがいちばんいいやり方ではない。
そのことははっきりしている。
他のやり方すべてに問題点があることもわかっている。
これはすべてのテスト(試聴)方法に共通していえることだが、
いったい何をテストしているのかを明確にしていかなければならない。
何をバカなことをいっているんだ、と思われた方は、
試聴というものがよくわかっていないといえる。
例えばパワーアンプのテスト。
試聴順(ステレオサウンドの場合、価格順が多い)にアンプを聴いていく。
CDプレーヤー、コントロールアンプ、スピーカーシステムは試聴の間、変更はしない。
変っていくのはパワーアンプのみである。
そうやってかなりの数のパワーアンプを聴く。
果して、この試聴はパワーアンプの試聴とはっきりといえるだろうか。
パワーアンプの試聴だといえるには、どういうことが条件となってくるのか。
実際に試したわけではないが、テクニクスのSB-M1から把手を外して、
レベルコントロールの凹みを良質の自然素材(たとえばウール)で埋める。
これだけで聴感上のS/N比はそうとうに高くなるはずだ。
凹み部分からの不要輻射を吸音し、把手部分の共鳴もなくしてしまえるからだ。
この手の実験はステレオサウンドの試聴室でかなりやってきた。
だから確実に、そうなると断言できる。
聴感上のS/N比が高くなることは、多くの人の耳が認めることだろう。
けれど、その音をいいと判断するかどうかは、また違ってくる。
聴感上のS/N比は確実に良くなっているのだから、
音は良くなっている──、とはいえる。
それでもメーカーは、把手込み、レベルコントロールの凹み込みで音を追い込んでいたのであれば、
聴感上のS/N比が高くなったかわりとして、音のバランスが若干変化するし、
音のアクセントといえるものがなくなり、印象としてもの足りなさをおぼえてしまうことも考えられる。
いわゆるノイズも音のうち、ということだ。
この点が、SB-M1とAPM6の大きな違いである。
スピーカーシステムにおける聴感上のS/N比の向上は、
SB-M1、APM6登場以降のスピーカーにおける潮流となっていく。
この視点からみれば、
SB-M1は1970年代までのスピーカーシステムのひとつとしての登場であり、
APM6は1980年代のスピーカーシステムのはじまりとしての登場といえる。
同じエスプリのAPM8は、SB-M1と同じといえる。
あのころは新製品が出るたびに、かなりわくわくしていた。
まだ学生で自由になるお金はほとんどなかった。
それでも目標だけは大きかった。
社会人になれば、そう遠くないうちに買えると思っていたからだし、
実際に当時憧れていたオーディオ機器は、頑張れば買えない価格ではなかった。
ステレオサウンドの新製品紹介のページを読んでは、
目標が少し変ったり、また元に戻ったりということがあった。
そんなふうに読んできた申請非紹介のページだったが、
いつのころからか、こちらの読み方が変ってきた。
変ってきた理由のひとつには、ステレオサウンドで働いていたことも関係している。
でもそれだけではない。
すべての新製品をそういう視点で見ているわけではないが、
いわゆる話題の新製品、そのブランドのトップクラスの新製品、
それから超高額といえる新製品が出た時には、
これらはいったい何年使えるのだろうか、とふと思ってしまうようになっていた。
スピーカーシステムで、ペアで一千万円前後するモノがある。
そういったスピーカーが、仮にいい音を聴かせてくれたとしよう。
けれど、それはいったい何年使えるのか。
ここで使えるのか、という意味は、
新製品として登場した時点での最先端にあったであろう音は、
数年後には最先端ではなくなっていることが多い。
それは仕方のないことなのだが、毎日、そのスピーカーで音を聴いてきて、
10年、20年、30年……と使っていけるのだろうか、という意味でだ。
この新製品のモノとしての「耐久性」はいったいどの程度なのか。
このことを、高額なオーディオ機器に対しては冷静に判断するようになっていた。
2ちゃんねるのステレオサウンドのスレッドでリンクされていた個人のサイトには、
ステレオサウンドは172号で初めてブラインドフォールドテストを行った、と書いてあった。
172号のアンプの試聴が、ステレオサウンド初めてのブラインドフォールドテストではない。
それ以前にも数回行ってきている。
調べればすぐにわかることなのに、調べもせずに書く。
(その1)で書いた、
172号のブラインドフォールドテストに参加しなかったから小野寺弘滋氏は信用できないという人、
この人も調べればすぐに分ることなのに調べもせずに書いている。
このふたりが同じ人なのか違う人なのか、
2ちゃんねるは匿名の掲示板だからわからない。
おそらく違う人だろうが、
ブラインドフォールドテストが絶対で、
ブラインドフォールドテスト以外の試聴は信用できない、と主張する人たちの中に、
このふたりのような人がいるのだろうか、と思ってしまう。
わずかなサンプルだから、
ブラインドフォールドテストを支持する人、もっといえば絶対視している人が、
すべてそうだとはいえないことはわかっている。
けれどブラインドフォールドテストにはブラインドフォールドテストゆえの問題点もあり、
通常の試聴(オープンテスト)よりも、その結果が信頼できるわけではない決してない。
ブラインドフォールドテストは、何をテストしているのか、誰をテストしているのか、
この点が曖昧になってしまう。
50年を半世紀ともいう。
私も半世紀ちょっと生きている。
ステレオサウンドも来年秋、50年(半世紀)を迎える。
このことはステレオサウンドが創刊されたころ、
すでに世の中に登場していたオーディオ機器も半世紀を迎えるということでもある。
例えばマランツのコントロールアンプ、Model 7も登場して50年以上経っている。
いまもModel 7で聴いている人は少なからずいる。
いまもコンディションのいいModel 7は高値で取り引きされている。
高値で取り引きされているからコンディションがいいわけでは決してないのだが、
そういうコンディションのModel 7も高値がついていたりする。
50年(半世紀)経っているわけだから、
新品を購入し、どれだけ大事に使ってきたとしても、メンテナンスは必要である。
どんなメンテナンスを施されてきたのかでも、コンディションは変ってくる。
いま現在、どれだけきちんとしたコンディションのModel 7があるのか、
はっきりとしたことはわからないけれど、
そういう状態にあるModel 7が、その語、登場した数多くのコントロールアンプよりも、
優れているところを持っているからこそ、いまも愛用する人がいるわけだ。
つまりModel 7は50年生き残っている。
Model 7だけではない、他にも50年生き残っているオーディオ機器がある。
ウエスギ・アンプのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1で、
女性ヴォーカルを聴いたとする。
どちらのKT88プッシュプルアンプが、情感をこめて鳴るだろうか。
この項の(その1)で引用した上杉先生の発言のように鳴ってくれるだろうか。
私は、この対照的なふたつのKT88プッシュプルアンプを最初に聴いたときは、
TVA1の方が、より情感のこもった歌が、そこで鳴ってくれる、聴けると感じていた。
だから疑問のようなものを感じていた。
上杉先生は、ステレオサウンド 60号で、
《恐らく歌手があなたにほれているという歌を歌うとすると、それは全身ほれているような感じにならないといかんと思うんです。全身ほれるということになれば、もっと極端なことを言うと、女性自身に愛液がみなぎって歌うときがこれは絶対やと思います。そういう感じで鳴るんですよ》
といわれているのは、
おそらく自宅でマッキントッシュのXRT20をご自身のアンプ、
つまりウエスギ・アンプで鳴らされた場合の音について語られているのだから、
上杉先生にとっては、ウエスギ・アンプは、つまりはそういう音で鳴ってくれるわけだ。
だが、私にはTVA1の方がそういう音で鳴ってくれるように感じていた。
いま思うと、そのときの私は若かった。
恋愛の、男女関係のくさぐさな経験があったわけではなかった。
そんな「若い」聴き手の耳にはTVA1の方が、よりそう聴こえた面もあることに、
いまは気づいている。
そのことに気づかさせてくれたのは、
グラシェラ・スサーナの歌う「抱きしめて」だった。
ウエスギのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1は、
KT88のプッシュプルアンプということで比較しがちだが、
確かにこのふたつのKT88のプッシュプルアンプは比較してみることが興味深い。
シャーシーは、TVA1はクロームメッキ、U·BROS3はアイボリーといったらいいのか、塗装仕上げである。
そのシャーシーの上にトランス、真空管が配置されるわけだが、
その配置もU·BROS3は四本のKT88を前面に横一列に並べている。
KT88の後方に電源トランスと出力トランスが、これまた横一列に並んでいる。
電圧増幅管はトランスの後に控えている。
TVA1は出力トランスと電源トランスをシャーシーの両端に振り分けている。
真空管はシャーシー中央に集められている。
手前から電圧増幅管、出力管と縦二列で並ぶ。
入出力端子も配置も対照的だ。
U·BROS3ではシャーシー後部にある。シャーシー前部にあるのは電源スイッチ。
TVA1ではシャーシー前部に電源スイッチの他に入出力端子を配置している。
U·BROS3は左右対称に整然と主要パーツを配置している。
TVA1は電源トランスを左右独立させ二電源トランスであったならば、ほぼ左右対称のコンストラクションとなるが、
電源トランスはひとつで、そこには電源の平滑コンデンサーが二本立っている。
二列の真空管も、よく見ると出力トランス側にやや寄っている。
出力トランス(二つ)と電源トランス(一つ)、
計三つのトランスが使われているのはU·BROS3もTVA1も同じだが、
U·BROS3はラックス製のケースにおさめられたトランス、
TVA1は巻線のところにクロームメッキのカバーをつけただけで、コアは露出したまま。
こういった外観の違い以上に内部の配線は、もっと対照的といえる。
素晴らしい、という。
素晴らしい音、素晴らしいスピーカー、そんな使い方をする。
これまで素晴らしいに関して、何の疑問も感じていなかった。
けれど別項の「素朴な音、素朴な組合せ」を書き始めて、
素朴、素晴らしいに共通する「素」の原意を辞書でひくと、
素晴らしいがなぜ、素晴らしいと書くのかがわからなくなってくる。
素晴らしいの意味は、どう書いてあるのか。
大辞林には、こう欠いてある。
(1)思わず感嘆するようなさまを表す。
(ア)(客観的評価として)この上なくすぐれている。際立って立派だ。「—・い眺望」「—・いアイデア」
(イ)(主観的評価として)きわめて好ましい。心が満たされる。「—・い日曜日」「—・いニュース」
(2)程度がはなはだしいさまをいう。
(ア)現代語では,多く好ましい状態について用いられる。驚くほどだ。「—・く広い庭園」「—・く青い空」
(イ)近世江戸語では,多く望ましくないさまをいうのに用いられる。ひどい。「此女故にやあ—・い苦労して/歌舞伎・与話情」
意外だったのは、近世江戸語では、多く望ましくないさまをいうのに用いられる、とあることだ。
それがいつしか誤解され、現在のような好ましい意味で使われるようになったらしい。
とはいえ、素晴らしいと使うのをやめるべきとは思わないけれど、
以前以上に、素晴らしいと使うことに抵抗を感じるようにはなっている。
となると、素晴らしいではなく、なんと表現するのか。
美事(みごと)を使おう。
みごとは見事と書く。
大辞林で「みごと」をひくと、見事・美事の両方が載っているが、
美事は当て字である、と書いてある。
この当て字がいつから使われるようになったのかは知らない。
けれど、オーディオこそ「美」であると考えれば、
私は、いまのところ素晴らしいよりも美事のほうが、オーディオがどういうものかを深く表していると思っている。