美事であること
素晴らしい、という。
素晴らしい音、素晴らしいスピーカー、そんな使い方をする。
これまで素晴らしいに関して、何の疑問も感じていなかった。
けれど別項の「素朴な音、素朴な組合せ」を書き始めて、
素朴、素晴らしいに共通する「素」の原意を辞書でひくと、
素晴らしいがなぜ、素晴らしいと書くのかがわからなくなってくる。
素晴らしいの意味は、どう書いてあるのか。
大辞林には、こう欠いてある。
(1)思わず感嘆するようなさまを表す。
(ア)(客観的評価として)この上なくすぐれている。際立って立派だ。「—・い眺望」「—・いアイデア」
(イ)(主観的評価として)きわめて好ましい。心が満たされる。「—・い日曜日」「—・いニュース」
(2)程度がはなはだしいさまをいう。
(ア)現代語では,多く好ましい状態について用いられる。驚くほどだ。「—・く広い庭園」「—・く青い空」
(イ)近世江戸語では,多く望ましくないさまをいうのに用いられる。ひどい。「此女故にやあ—・い苦労して/歌舞伎・与話情」
意外だったのは、近世江戸語では、多く望ましくないさまをいうのに用いられる、とあることだ。
それがいつしか誤解され、現在のような好ましい意味で使われるようになったらしい。
とはいえ、素晴らしいと使うのをやめるべきとは思わないけれど、
以前以上に、素晴らしいと使うことに抵抗を感じるようにはなっている。
となると、素晴らしいではなく、なんと表現するのか。
美事(みごと)を使おう。
みごとは見事と書く。
大辞林で「みごと」をひくと、見事・美事の両方が載っているが、
美事は当て字である、と書いてある。
この当て字がいつから使われるようになったのかは知らない。
けれど、オーディオこそ「美」であると考えれば、
私は、いまのところ素晴らしいよりも美事のほうが、オーディオがどういうものかを深く表していると思っている。