オーディオマニアとしての「純度」(その12)
(その1)の冒頭に書いているように、
書きたい内容があって書き始めたわけではない。
オーディオマニアとしての「純度」というタイトルが思い浮んで書き始めた。
それだけに、ここから先、どんなことを書いていくのかまだ見えてきていない。
それでもオーディオマニアとしての「純度」とは、
どこまでオーディオマニアとしてのわがままを貫き通せるかどうかではないだろうか。
そして、この「純度」とは、オーディオマニアに共通するものなのか、
共通する何かがあるものだろうか、
オーディオマニアひとりひとりまったく違うものなのか。
オーディオを趣味として長くやっているから、
オーディオマニアとしての「純度」が高いということになるのだろうか。
オーディオマニアとしての「純度」が高いとは、そもそもどういうことなのか。
音は人なりというのだから、
オーディオマニアとしての「純度」が高くなれば、純度の高い音を鳴らしているのか。
純度の高い音は透明度の高い音とイコールではないはず。
純潔という言葉がある。
純潔なオーディオマニアとはどういうことなのか。
ただひとつのスピーカーだけ、他のスピーカーにはまったく関心をもたずに、
そのスピーカー一筋で鳴らしてきた人を純潔なオーディオマニアと呼べるのか。
呼べるとしたら、その人はオーディオマニアとしての「純度」が高いのか──、
私にはそうは思えない。
オーディオマニアとしての「純度」とは、なんなのか。
「わがまま」なのだろうか。
純度が増すということは硬度が増すということでもある。
ならばオーディオマニアとしての「硬度」が増すということは、
やはり「わがまま」ということなのか、硬度があるから「わがまま」を貫き通せるのか。