Date: 9月 14th, 2011
Cate: 純度
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オーディオマニアとしての「純度」(その1)

なにか書きたいことが浮んできて、このタイトルをつけたわけではなく、
ただ、このタイトルが頭に浮んできたから、タイトルからなにか導かれるものがあるかもしれない……、
そういう気持で、また新しいカテゴリー(テーマ)をつくってしまった。

自分で書いておきながら、なぜ、オーディオマニアの純度、ではなく、オーディオマニアとしての、としたのかも、
すこし不思議に思っている。

たとえばピュアリスト、という言葉がある。
オーディオの世界では、肯定的な意味あいで使われることが多い。
音質追求のために使い勝手は無視する、ことも、ピュアリスト・アプローチとして受けとめられる。

入力切換えのセレクターの接点が音質をわずかとはいえ損なう。
だから接点をひとつで減らしていくために、
いい変えれば音質劣化をきたすところをひとつで減らすために入力切換えはいらない。
入力切換えが必要になるときは、ケーブルの差し替えで対応する。

そう説明されれば、納得できないことではない。
だからといって、それが果して、オーディオマニアとしての純度が高い、
といえるのだろうか、と疑問に思うことがある。

私には、こういう行為は、別項で書いている「複雑な幼稚性」ではないか、
もしくはそれに近いことではないか、と最近思えてきている。

私自身も、以前はそういうふうに考えて、そういうことをやっていたことがある。
音質劣化をきたす、と思われるところをできるだけ排除していく──。
だからというわけでもないが、こういうことを体験することを否定はしない。
積極的にすすめはしないが、やりたいと思ったならば一度徹底的にやってみるのはいいことだと思う。

オーディオは、ときにはそういうバカげたこと、幼稚なことに夢中にやって、
それこそが正しいと思えて、視野が狭くなっていることがあり、
いつかそれに気がつくものだ。

そして、こんな日々の積み重ねがバックボーンとなり、
このバックボーンこそが純度と関係している。
つまり重厚なバックボーンをもつことこそ、オーディオマニアとしての純度が高い、といえよう。

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