音を表現するということ(その11)
自己表現について考えていく前に、自己顕示について考えてみたい。
自己顕示欲については、ここで触れたように、
自己顕示欲を全否定するわけではない。
ただ……、と思う。
自分の音を誰かに聴かせることになったとする。
そのとき、この自己顕示欲を意識することにならないだろうか。
誰にも聴かせない──、どんな人に頼まれたとしても断わることができさえすれば、
そして家族にさえも聴かせない。
その音を聴くのは、世界に自分ひとりだけという状況をつくり維持していければ、
そこで鳴っている音は、自己顕示欲から解放され、無縁でいられるのかもしれない。
けれど、そこに誰かが存在することになれば、そうもいかなくなる。
ここで毎日書いている文章も、結局は誰かに読まれている。
つまりは、読んでくださっている方に向けての表現といえるところも当然あって、
そこ(そして底)には自己顕示欲が、どういうかたちにしろ、存在している。
あと何年こうやって文章を書いていくのかは私にもわからないけれど、
ひとつはっきりいえることは、最後まで自己顕示欲から完全に解放されることはない、ということ。
けれど、音の表現に関しては、もしかすると、自己顕示欲からの完全な解放が可能なのかもしれない。
それとも、誰にも聴かせなかったとしても、無理なことなのだろうか。
もうひとつ思うのは、自意識なき自己顕示欲は存在するのか、ということ。