世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その5)
昨晩(その4)を書いたあとにふと思ったことがある。
本には書籍と雑誌とがある。
録音された音楽には、LPやCDやミュージックテープがあるが、
これらはいわゆる書籍にあたる存在だ。
音楽において雑誌にあたる存在はなんだろうか。
ラジオでの音楽番組かもしれない。
古い雑誌を読むということは、
音楽では古い放送をエアチェックしたものを聴くということになるのか。
昨晩(その4)を書いたあとにふと思ったことがある。
本には書籍と雑誌とがある。
録音された音楽には、LPやCDやミュージックテープがあるが、
これらはいわゆる書籍にあたる存在だ。
音楽において雑誌にあたる存在はなんだろうか。
ラジオでの音楽番組かもしれない。
古い雑誌を読むということは、
音楽では古い放送をエアチェックしたものを聴くということになるのか。
「響きに谺けよ」は、四十年ほど前のヤマハのスピーカーシステム、
NS690IIIの広告のキャッチコピーだ。
谺けと書いて、ひびけ、と読ませていた。
谺けは、ふつうは「ひびけ」とは読まない。
谺はこだまだから、ある種の響きであることは確かだ。
「響きに谺けよ」は高校生だった私に、
こんな漢字があるのか、ということで記憶に残っている。
でも、いまこうして憶いだしてみると、「響きに谺けよ」は考えさせてくれる。
数ヵ月前、オーディオマニアではない人数人と話していて、
カセットテープのことが話題になった。
彼らは、いま40代。私よりも十くらい若い。
そんな彼らにとって中学・高校時代によく使っていたカセットテープは、
AXIAだ、とみな口を揃えていう。
そしてコマーシャルに出ていた斉藤由貴がかわいかった、とも、これまた口を揃えていっていた。
AXIAが登場したのは1985年。
それ以前は富士フイルム(のちにフジカセット)だった。
1980年前半には、YMOを広告に使っていたが、
カセットテープ・ブランドとしての知名度は高くなかった。
富士フイルムは以前から磁気テープを手がけていたけれど、
その歴史の割には、TDK、ソニー、マクセルと比較すると、はっきりと地味な存在だった。
私にとって、カセットテープといえば、TDKだった。
そしてADのコマーシャルに登場していたマイルス・デイヴィスが強烈な印象だった。
カセットテープといえばAXIAだ、いう数人は、
富士フイルムだということも知らなかったし、YMOを使っていたことも知らなかった。
私はYMOを使っていたことは知っていたけれど、
斉藤由貴の出ているコマーシャルは見たことがなく知らなかった。
十年でここまで違うのか、
これがジェネレーションギャップなのか、と思うほどに、
富士フイルムの、いわゆるブランディングは成功した、ということなのか。
(その1)は七年前である。
そのぶん歳をとったわけでもある。
「〝言葉〟としてのオーディオ」を、まだ必要としているのか、
それともそうでなくなりつつあるのか。
それすらも、自分でははっきりとしないところがある。
ただ、オーディオ雑誌からは消えてしまっている、と感じているし、
もういまのオーディオ雑誌は、
私とはまったく違う意味で「〝言葉〟としてのオーディオ」は必要としていないし、
考えてもいないのだろう。
若い人が、古い本を読む。
その人が生まれる以前の古い本を読む。
それが書籍ならば、多くの人がそうであろう。
自分が生まれる前に書かれた小説や詩などを読んだりする。
けれど、それが雑誌となると、ちょっと違ってくる。
若い人が、古い雑誌を読む。
その人が生まれる以前の古い雑誌、
さらにその人の親が生まれる以前の古い雑誌を読む。
以前は国会図書館にでも行かなければ、そんな古い雑誌を読むことは難しかった。
けれど、いまではインターネットがあり、
古書店の検索も便利になっているし、オークションもある。
古い雑誌を手に入れる手段は増えているだけでなく、便利になってきている。
(その1)で、
そんな古い雑誌を若い人が読むのは、悪いこととはいえないけれど、
良いことだ、ともいえないことがある──、と書いた。
今回も同じことを感じた。
なぜ、そこまで古い雑誌を手に入れて読むのだろうか。
その気持はわからないでもないが、
ならば、その人と同時代の雑誌も積極的に読んでいるのか、と問いたくなる。
たまたま手に入れた古い古い雑誌を読んで、あれこれ思う。
別に悪いことではない。
そこには、その人なりの発見があったはずだろうから、
その人が興奮するのも無理はないが、
それは時としてエキゾティシズムに近いものに、そんなふうに感じているだけではないのか──、
そんな気がしないでもない。
先日、久しぶりに書店に行った。
そこそこ大きな書店である。
そこにも貼り紙があった。
(その6)で書いているコンビニエンスストアの貼り紙とはちょっと違う。
コロナ関係の貼り紙なのだが、立ち読み禁止ではなく、
立ち読みはソーシャルディスタンスを維持してください、とあった。
ゴールデンウィーク中だったにもかかわらず(だからなのか)、
客はまばらだった。
ソーシャルディスタンスに気をつける必要がないほどに、人がいなかった。
いまでは書店に行かずとも、本を購入できる。
インターネットで注文すれば、場合によっては書店に注文するよりも手元に早く届く。
それに電子書籍に移行しはじめている人が増えてきているのだろうか。
(その1)で、ステレオサウンドのバックナンバー、それもかなり古い号が、
たまにではあっても、ひじょうにキレイな状態で古書店に並んでいることを嘆いた。
それは読まれていないからこそのキレイさであるからだ。
つんどく。
ステレオサウンドのキレイなバックナンバーも、つんどくだったからである。
つんどく状態の本が一冊もない、という本好きの人は、そうはいないのではないだろうか。
電子書籍の割合が増えていくということは、つんどくも増えていくことになるかもしれない。
実際の本をつんどくにしておくと、視覚的にも気になってくるものだが、
電子書籍だと、どれだけつんどくの本がたまってこようと、
さほど気にならないといえばそうだろう。
つんどくの傾向がましてくることを嘆く編集者のほうが多いと思うが、
そうでない編集者もいてもおかしくない。
定期購読者の多い雑誌ならば、
つんどくぐらいの読者のほうがありがたいといえば、そうともいえる。
買ってくれる。けれど読まない。
とりあえず見映えのいいように仕上げていればいい。
つまり読者ではなく、買者がいればいい──、という考えである。
アンチテーゼとしての「音」には、
アンチ「自己」としての音もある。
「JUDY」のサウンドトラックから、
最後の曲“Over The Rainbow”を、5月6日のaudio wednesdayでもかけた。
MQAで鳴らした。
レネー・ゼルウィガーの歌唱は素晴らしい。
「JUDY」の撮影のためにトレーニングをしたのだろうが、
それにしても見事である。
この見事さはトレーニングと才能のたまものといってしまえば、そうなのだろうが、
ここでのレネー・ゼルウィガーの歌唱の見事さは、
レネー・ゼルウィガーが才能ある女優であるからではないのか、という疑問もわいてくる。
映画とまったく関係ないところでレネー・ゼルウィガーが、歌を歌ったとしよう。
もちろんトレーニングを積んで、であっても、「JUDY」のような見事な歌唱となるだろうか。
ならないのではないか、という気がするのだ。
そこが本職の歌手と、本職の女優の歌唱の違いのような気さえする。
つまりレネー・ゼルウィガーは歌うということを演じている。
モーツァルトのピアノ協奏曲、第20番を初めて聴いたのは、
ハスキルとマルケヴィチ/コンセール・ラムルー管弦楽団だった。
名盤の誉れ高い一枚だった。
ひところ、モーツァルトの二短調のピアノ協奏曲といえば、こればかり聴いていた。
ほかのレコードを持っていなかった、ということもあった。
ハタチ前後のころは、他にも聴きたい(買いたい)レコードが山ほどあった。
同じ曲がダブるのはしかたないとしても、できるだけ多くの曲を聴きたいころでもあった。
それにお金もそれほどあったわけでもない。
そんな事情で、グルダとアバド/ウィーンフィルハーモニーも素晴らしいという評判なのは知っていても、
買う順番として後回しにしていた。
ハスキルとマルケヴィチの演奏の次に印象深かったのは、
内田光子とジェフリー・テイト/イギリス室内管弦楽団による演奏だった。
録音も素晴らしかったので、これまたくり返し聴いた。
そうなると、なんとなく私のなかにはモーツァルトの二短調のピアノ協奏曲は、
女性ピアニストがいい、というひとりよがりなイメージができあがりつつあったから、
よけいにグルダとアバドは後回しになっていった。
グルダとアバドによる録音は、1974年。
グルダは1930年、アバドは1933年の生れだから、
どちらも40代の演奏・録音ということになる。
内田光子とテイトによる演奏・録音とは、ずいぶん性格の違うものだった。
もっと早く聴いていれば──、そんなことも思いもしたが、
いい演奏は、結局いつ聴いてもいい。
あえていえば、ハスキルとマルケヴィチ、内田光子とテイトをくり返し聴いていたからこそ、
よけいにグルダとアバドのよさが感じとれたともいえるかもしれない。
25番と27番のカップリングも、だから期待して聴いた。
けれど20番と21番のカップリングだけでもいい、といいたくなるところも感じた。
ドイツ・グラモフォンから、グルダとアバド/ウィーンフィルハーモニーによる
20番、21番、25番、27番を、CD(二枚)+Blu-Ray Audio(一枚)で、5月に出る──、
ということは、e-onkyoでの配信も始まるのでは……、(その1)で書いた。
今日が、その発売日である。
やはり同時にe-onkyoでの配信も始まった。
flacとMQAでの、192kHz、24ビットである。
CD(二枚)+Blu-Ray Audio(一枚)では、四曲まとめて、
e-onkyoでの配信は20番と21番、25番と27番とわかれている。
グルダとアバドのモーツァルトのピアノ協奏曲、
それも20番と21番のカップリングがMQAで聴けるようになったのは、ほんとうに嬉しい。
嬉しいのだけれども、e-onkyoでの価格は4,451円である。
四曲すべてを聴くには、その倍、8,902円となる。
一方、CD+Blu-Ray Audioは、輸入盤ということもあって、3,000円前後である。
e-onkyoのほぼ三分の一ですむ。
それでもMQAで聴くにはe-onkyoしかないので、しかたないなぁ……、思う。
けれどflacでしか聴かない人は、CD+Blu-Ray Audioの輸入盤を買った方がいい。
芸術にお金のことを話題にするのはけしからん、という意見もあるが、
前回のミケランジェリのドビュッシーのときも、ほぼ同じだった。
CD+Blu-Ray Audioの輸入盤のほうが、お得だった。
CD+Blu-Ray AudioはMQAではないから、私は文句をいいながらも、e-onkyoで買うことになる。
MQAでの音を聴くと、払った金額のことは忘れてしまう。
おそらくe-onkyoの価格は、e-onkyoが決めているわけではない、と思っている。
レコード会社側が決めていることだろう。
(その3)で書いたことと深く関係することを、書いておく。
熊本のオーディオ店で、瀬川先生がきかせてくれたKEFのModel 105でのバルバラの口の小ささは、
いまでもはっきりと思い出せるほどにリアルで見事だった。
けれどくり返すが、そこにバルバラの肉体を感じとることはできなかった。
このことと関係してくるのが、その口の位置である。
もちろん左右のスピーカーの中央に、ぴしっと定位している。
けれど、その口の位置がどうにも低いのだ。
バルバラの身長を知らない。
けれど、そこで歌っているバルバラの身長は、小学生くらいにしか思えなかった。
Model 105はフロアー型とはいえ、それほど大型でもないし、背の高いスピーカーでもない。
けれど、バルバラの口の位置の低さは、そういうことだけで決定されることではない。
たとえば、これがLS3/5Aを手を伸ばせば届くぐらいの位置において、
ひっそりと聴くのであれば、口が小さくて、その位置が低くてもまったく気にならない。
けれどModel 105クラスのスピーカーとなると、もうそういう聴き方をしなくなる。
そうなると口の位置の低さは、気になってくる。
ましてリアルにバルバラの口が再現されているだけに、
そして肉体を感じさせないだけに、よけいに不気味でもある。
理想は、Model 105並に口が小さくて、
しかもバルバラの肉体が感じられ、さらには口の位置が実際のバルバラと同じであること。
けれど、そう簡単に実現できるわけではなく、そこには優先順位がある。
私はまず肉体を感じたい、けれどその肉体のデッサンが狂っていては、絶対にイヤだ。
口はあるべき位置になければならない。
そのうえで口を小さくしていきたい──、
そういう優先順位をもっている。
口が大きくなるくらいならば、低音はいらない。
それも優先順位ゆえのこととわかっていても、
そういう口の小ささは、往々にして低い位置にありがちだ。
次回のaudio wednesdayは、6月3日。
テーマは未定。
111回のaudio wednesdayは、告知していた通りのテーマ、218+αで昨晩行った。
誰も来ないことは予想していたし、実際誰も来なかった。
喫茶茶会記も、こういう状況下なので早じまい。
ということで、店主の福地さんといっしょに聴いていた。
通常通りだったら、最初に218をそのままで聴いてから、
一つずつプラスアルファを試していく、という試聴をやるのだが、
誰も来ないと予想していたから、最初から218+αのフルの状態で鳴らした。
誰も来ないとわかっているのであれば、
今回も中止にしようかな、とも少しは考えたが、それ以上に、
218+αの音を、喫茶茶会記でどんなふうに鳴るのかを聴きたかった。
本来ならば4月1日に鳴らす予定だった。
それがコロナ禍で5月に延ばした。
6月にしてもよかったけれど、それ以上に聴きたかった。
誰も来ないのならば、感染リスクは低くなる。
昨晩は楽しかった。
とはいっても、+αのすべてをやったわけではない。
秋葉原で部品を買ってこなければならないことが、あと一つ残っている。
なので、6月3日のaudio wednesdayでは、あと一つ加えた218+αを鳴らす予定。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。
こまかな使いこなしと丁寧な使いこなしは、
似ているようであって、実のところ、そうとうに違っている。
何度も書いているように、
オーディオは何か(どこか)ひとつ変えて、音は変化する。
その変化量は大きかったり小さかったりして、
極端に小さな場合には、人によっては、音なんて変らないじゃないか──、
そんなふうになったりするであろうが、それでも音は変っている。
ほかの人が見落しがちな、そんなこまかな音の変化に気づくことが、
丁寧な使いこなしにつながっていくとは考えていない。
これも何度か書いていることなのだが、
オーディオマニアは、その場で判断しがちである。
何を変える。その音を聴いて、パッとどちらがいいかを判断できることを、
耳がいい、かっこいいと思いがちな傾向があるが、
オーディオを職業としているのならば、そんなことも必要となってくるが、
自分の音に対して、そのことがもたらすメリットは、そんなにない、ともいえる。
なぜ、人は判断しがちなのだろうか。
判断するよりも大事なことは、そこでの聴き較べの結果を、
どちらがいい悪いではなく、そのまま自分の裡に蓄積していくことである。
それは武道をこころざす人が、
何度も何度も、毎日基本的な型を積み重ねていくのと同じなのかもしれない。
それでもただ漫然とくり返していく人と、
そうでない人との違いは、時間が経てばたつほどにはっきりと開いていく。
蓄積、積み重ねる。
これの意味をわかってのことでなければ、
比較試聴をどれだけ行ったところで、それほど身につかない。
サプリーム No.144(瀬川冬樹追悼号)の巻末に、
弔詞が載っている。
ジャーナリズム代表としては原田勲氏、
友人代表として柳沢功力氏、
メーカー代表として中野雄氏、
三氏の弔詞が載っている。
柳沢功力氏の弔詞の最後に、こうある。
*
君にしても志半ば その無念さを想う時 言葉がありません しかし音楽とオーディオに托した君の志は津々浦々に根付き 萠芽は幹となり花を付けて実を結びつつあります
残された私達は必ずこれを大樹に育み 大地に大きな根をはらせます 疲れた者はその木陰に休み 渇いた者はその果実で潤い 繁茂する枝に小鳥達が宿る日も遠からずおとずれるでしょう
*
瀬川先生の志は大樹になったといえるだろうか。
そういう人も、オーディオ業界には大勢いるような気がする。
見た目は大樹かもしれない。
でも、何度か書いているように、一見すると大樹のような、その木は、
実のところ「陽だまりの樹」なのではないか。
「陽だまりの樹」は、陽だまりという、恵まれた環境でぬくぬくと大きく茂っていくうちに、
幹は白蟻によって蝕まれ、堂々とした見た目とは対照的に、中は、すでにぼろぼろの木のことである。
真に大樹であるならば、コロナ禍の影響ははね返せるだろう。
「陽だまりの樹」だったならば……。
フルレンジユニットと真空管アンプとの相性はいいのか。
ステレオサウンド別冊のHIGH TECHNIC SERIESのフルレンジ特集号では、
通常の試聴記事の他に、アルテックの755E、シーメンスのCoaxial、フィリップスのAD12100/M8を、
マランツの510MとマッキントッシュのMC275で鳴らす、という記事があった。
トランジスターか真空管か。
それ以前の違いとして、いくつもの要素が存在しているわけだから、
単純に真空管のパワーアンプとの相性がいい、とは誰にも断言できないことなのだが、
それでも試聴記(岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹の鼎談)を読めば、
魅力的な音を聴かせてくれたのは、MC275のほうだったことが、
こちら側にも伝わってくる。
三つのユニットとも、その時点でも現代的なフルレンジユニットはいい難い。
それゆえにMC275、真空管との相性がよかったのではないか、という推測もできなくはない。
それでも現代のフルレンジユニットであっても、
真空管のほうがうまく鳴らしてくれる面はある。
ここでいう真空管のパワーアンプとは、出力トランスを背負っているアンプである。
世の中には、信号系にトランスが介在することを極端に嫌う人がいる。
わからないわけではないが、トランスにはトランスのよさがある。
別項で書いているところだが、ダンピングファクターをやたら気にする人がいる。
そういう人のなかには、トランス付きの真空管アンプは……、となろう。
どうやって出力トランス付きのパワーアンプでは、
出力インピーダンスを極端に低くすることはできない。
ダンピングファクターをを高くすることはできない。
けれど、である。
出力トランスの場合、二次側の巻線が、
スピーカーユニットのプラスとマイナスの端子を直流的にはショートしているのと等価だ。
もちろん巻線にも直流抵抗があり、スピーカーケーブルにもある。
なので完全な0Ωでショートしていることにはならないが、
それでも出力トランスの二次側の直流抵抗とスピーカーケーブルの直流抵抗を足しても、
さほど高い値にはならない。
フルレンジユニットであれば、
パワーアンプとユニット間にLCネットワークはない。
だからこそ、この出力トランスによる直流域におけるショート状態が活きる。