Archive for category オーディオ評論

Date: 12月 2nd, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その8)

そんな話をきいたのは、昭和のころだ。
いまは平成。しかももう平成も終る。

取次の支払いも昭和のころからすれば改善されていることだろう。
それでも株式会社ステレオサウンドは、物販に積極的だ。
これからもそのはずだ。

そして記事の広告化も積極的だ。
最近の例をあげれば、「老舗ブランドの現在」という連載だ。

この記事の扉には、「創業30年以上」を老舗オーディオブランドの目安と定め、とある。
30年で老舗なのか、と思うわけだが、
東京商工リサーチによれば、創業から30年以上、とあるのは確かだ。

それはわかったうえで、それでも30年で老舗? とおもう。
30年を老舗の目安すれば、いまでは数多くのブランドが老舗にあてはまる。

1988年創業のブランドでも、いまでは老舗となるわけだが、
私の感覚では、単に数字だけで老舗かどうかは判断できないところがある。

「老舗ブランドの現在」は、ほぼ広告とみている。
ここに登場するブランドは、国内・海外問わず、
メーカー、輸入元にステレオサウンド側から積極的に働き掛けてのもののはずだ。

これも憶断にすぎないのだが、
特集記事と、この「老舗ブランドの現在」とでは、記事の成り立ちにずいぶんな違いがあるはずだ。

何も私だけが気づいていることではないはずだ。
編集経験のある方ならば、とっくに気づいていることであろう。

出版社も金を稼がなければやっていけない。
それはよくわかっているつもりだ。
けれど、あからさますぎないか、と感じるわけだ。

やるのならば、もっとうまくやってほしい、と思うし、
そうまでして……、とも感じることから、
原田勲氏自身が、「原田勲氏が亡くなった日が、ステレオサウンドのXデーだ」ということを、
もっとも強く、誰よりも強く、そう捉えていると私はおもっている。

Date: 12月 2nd, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その7)

「原田勲氏が亡くなった日が、ステレオサウンドのXデーだ」のあとに、
補足的なことを話すと、いわれてみれば、と納得してくれる。

それでも、私がこのことを話したのはそう多くはないし、
オーディオマニアの多くは、そういうふうには思っていないことだろう。

それでも、私以外に、私以上にそのことに気づいていたのは、
ほかならぬ原田勲氏のはずだ。
もちろん、これは私の憶断である。

原田勲氏は、季刊誌ステレオサウンドと株式会社ステレオサウンドをつくっている。
編集長でもあったし、社長でもあった。
そういう人だから、誰よりもはやく、そして強く感じていたのではないのか。

ここ数年のステレオサウンドは、出版以外にもそうとうに力をいれている。
それは出版という業種は、本が売れてもお金が入ってくるのに時間がかかるからである。

私がいたころも、原田勲氏から直接、
出版業の、そういうやりくりの大変さを少しばかり聞いたことがある。

本は取次を通して書店に納められる。
本の売上げは、だから取次をとおして出版社に支払われる。

本が売れた、すぐに取次が支払ってくれるのであればいいが、
実際には数ヵ月待たなければならない、ということを聞いている。

だからベストセラー倒産ということが実際に起きる。
ベストセラーを出せば出版社は潤うはずなのに、
売れるならば、すぐさま増刷しなければならない。
けれど、その本の売上げが取次から支払われるのは、ずいぶん先のこと。
資金繰りにいき詰まっての倒産がある。

ゆえに出版社は、いわゆる日銭を稼ぎたい。
株式会社ステレオサウンドは、いまではいろんなモノを売っている。

Date: 12月 1st, 2018
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その5)

(その4)へのコメントが、facebookであった。
そこには、こんなことが書かれてあった。

コメントを書いてくれた人が読んだオーディオ関連の本には、
オーディオ評論家は専門知識に明るくない方がいい──、
そんなことが書いてあったそうだ。

誰が書いたのだろうか。
オーディオ評論家は……、と書いてあるくらいだから、
オーディオ評論家ではないだろう。

どんな人が、どういう立場の人が、このことを言ったかによっても、
受け止め方は違ってくるところがある。

ただ専門知識といっても、生半可な専門知識ではない。
中途半端な知識であれば、確かにないほうがいいと私も思っている。

井上先生がよくいわれていたこと、
頭で聴くな、耳で聴け、
このことはその程度の知識をもっているがゆえに起ることでもある。

もちろん基礎知識は必要である。
けれど専門知識となると、それを身につけるにはどれだけの時間と情熱を要するのか。
それにその過程においては中途半端であるのも確かである。

ならば、そういった専門知識はない方がいい。
頭で聴くことはなくなるからである。

けれど、オーディオ評論家は専門知識に明るくない方がいい──、
と書いていた人がメーカーの人だったりすると、受け止め方は違ってくる。

メーカー側にとって都合のいい広報マンとしてのオーディオ評論家ならば、
専門知識に明るくない方がいいのは確かなことだ。

Date: 12月 1st, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(ルールブレイカーか・その2)

11月29日の夜は、われら三人はキリギリス、ということも出てきた。
自業自得の男たち、というのも出てきた。

キリギリスとは、イソップ寓話「アリとキリギリス」のことである。
自業自得であることはわかっている。

そんな表現をききながら、
ルールブレイカーに必要なのは、前回書いたこと(ルールを熟知していること)のほかに、
遊び心を持っていることだな、とも思っていた。

遊び心を失ってしまうと、窮屈な世界になってしまう。

Date: 12月 1st, 2018
Cate: オーディオ評論

オーディオ評論をどう読むか(その4)

繙いていくことが、オーディオに限らず、
その道の評論家と呼ばれる人たちの第一の仕事ではないのか。

あるスピーカーやアンプを聴いて、その音の印象を、ただ書き連ねる。
どんなにことこまかに書かれていようが、
繙くことが、そこでなされていないのであれば、それは単なる感想文でしかない。

評論の「論」のこだわりすぎて、
付焼刃の哲外的なことをあれこれ書いたところで、
そこで、何かが繙かれていることは、ほとんどない、というか、まずない。
それは、往々にして、自己陶酔文であったりする。

オーディオのことを繙くとは、
オーディオの専門家が、読み手が気づかなかったことを気づかせることである。
オーディオ評論家が、オーディオに接している時間は、
読み手(つまりオーディオマニア)よりも、圧倒的に長い。

ほぼすべての新製品を聴いているわけだし、
メーカーの技術者と直接話すことだってある。
海外のメーカーを訪問することもある。

そうやって得られた知識と経験を有機的に体系づけてこその専門知識。
その専門知識なしでは気づかないことが、オーディオにはある。
オーディオだけではないはずだ。

その気づきを読み手に与えるのが、オーディオ評論家の仕事である。

Date: 11月 30th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その6)

2000年の終りに井上先生が亡くなられた。
audio sharingは、その数ヵ月前に公開していた。
それに私が以前ステレオサウンドにいたことを知っているオーディオ関係の知人たちと、
2001年からの数年間、何度かきかされたことは、
「菅野先生が亡くなられた日が、ステレオサウンドのXデーですよね」ということだった。

私と同世代か少し上の人たちの何人かが、言い方は多少違えども、そういっていた。
それに対して私は、「原田勲氏が亡くなった日が、ステレオサウンドのXデーだ」と返した。

これはいまもそう思っている。
ここでのXデーとは、ステレオサウンドの終りの始まりということと受け止めていいだろう。
Xデーという表現を使いながらも、
私に訊いてきた人たちは、Xデーが何を指すのかについては何も語らなかったし、
こちらも特にたずねることはしなかった。

どんな人であっても功罪がある。
功ばかりの人はいないし、罪ばかりの人もいないだろう。
どちらに傾いているかもしれないが、功も罪もある。

ステレオサウンドにも、それはいえる。

ステレオサウンドの功罪について、ここでひとつひとつ書くことはしないが、
確かに功はあった。
それは原田勲氏の功といっていい。

もっとも原田勲氏ひとりの功ではないにしても、
ある時までのステレオサウンドは、ステレオサウンドがあったから──、
といえることがいくつもある。

けれど原田勲氏がいなくなったら……、どうなるのか。
現社長の原田知幸氏だけになってしまったら……。

私一人がそう思っているのかもしれないが、
原田知幸氏に功はない。

だから、現会長の原田勲氏が亡くなったときが、ステレオサウンドのXデーだ、と考える。

Date: 11月 29th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(ルールブレイカーか・その1)

仲良しチーム(三人)で会っていた。
あれこれ話していたから、こんな時間にブログを書き始めているわけだが、
話の中にルールブレイカーという言葉が出てきた。

話をききながら、新しいオーディオ評論家とはルールブレイカーかもしれない──、
そんなことをおもいながら、
ルールブレイカーは、いわば喧嘩師であり、
ルールを熟知しているからこそのブレイカーでもあるのか、と考えていた。

Date: 11月 24th, 2018
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(先生という呼称・その5)

宝塚ときいて、宝塚歌劇を思い浮べる人のほうが多いだろうけど、
私は手塚治虫であり、宝塚市立手塚治虫記念館である。

今回の上原晋氏のリスニングルーム訪問が決ったときから、
手塚治虫記念館に行こうと決めていた。
しかも今年は、手塚治虫生誕90周年でもある。
(そういえば手塚治虫は1928年生れ、岩崎先生もそうである。)

手塚治虫はマンガ家である。
マンガ家は、編集者から先生と呼ばれている、ときいている。
マンガ家同士も、先生とつけて呼び合っている、ともきいている。

オーディオ評論家と、そのへんは同じようである。

手塚治虫も先生と呼ばれている。
手塚治虫記念館に行くと、そのことがよくわかるし、
手塚先生と呼ぶ人たちは、心から先生とつけていることが伝わってくる。

いまのオーディオ評論家の先生とは、まったく違う。

Date: 10月 28th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その5)

その1)を書いたのが、五年半ほど前。
(その4)は三年半ほど前。

思い出して続きを書き始めたのは、菅野先生が亡くなられたからでもある。
facebookにオーディオ関係のグループはいくつもある。
そのなかのいくつかは、おそらく菅野先生が亡くなられたことについて、
書いている人がいると思う(見てないので知らない)。

ブログで書いている人もいるはずだ(こちらも見ていない)。
SNSもブログも、あえて検索しなかった。

しなかったけれど、
「オーディオの一つの時代が終った」的なことを書かれている人がいるとは思っている。
どのくらい、そう思っている人がいるのかも私にはわからない。

でも、ほんとうに「オーディオの一つの時代が終った」のだろうか。
ここでのオーディオは、何を指すのか。

オーディオ評論ということでも、一つの時代が終ったようには感じていない。
1977年に岩崎先生、1980年に五味先生、そして1981年に瀬川先生が亡くなられて、
私は、オーディオ評論の一つの時代が終った、と感じていたからだ。

もうとっくの昔に終りを迎えていた。

一つの時代が終りを迎えたら、新しい時代が始まるのだろうか。
少なくともオーディオ評論の世界では、そういうことは起らなかった。

でも変化は起こるはず、といわれるかもしれない。
けれど、その変化にしても、瀬川先生が亡くなられたことで始まっていた。
それは決していい変化とはいえなかった。

「オーディオの一つの時代が終った」と感じ、
新しいオーディオの時代が始まる──、
そう感じ、そう信じれる人は信じればいい。

私はそうでないだけ、の話だ。

Date: 9月 15th, 2018
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その5)

商品と製品。
この二つを、何気なく使い分けているし、
場合によっては、ただおもいつくままにどちらかを選択していることだってあろう。

商品と製品。
二つの違いを考えていると、
ある製品がレッテル貼りをされると、商品となっていくような感じを受ける。
そして、貼られたレッテルによって売られていく。

商品すべてにレッテル貼りがなされているわけではない。
それでも、日本においては、レッテルが貼られているかいないのか、
その貼られたレッテルによってあれこれ語られていることが、
ずっと以前から続いているのではないのか──、
商品と製品について考えていると、そんなことを感じていた。

たとえばブランドも、一つのレッテルといえば、そうなる。
型番にしても、一つのレッテルになる。
価格すら、レッテルとも思えてくる。

これらのレッテルは、メーカー側によって製品に貼られる。
レッテルは、メーカー側によるものばかりではない。

オーディオ雑誌によるレッテルもあれば、
オーディオ店によるレッテルもある。
いまではSNSによるレッテルも出てきている、ともいえる。

その商品を見ている人すべては共通のレッテルは、メーカー側によるものだけである。
ブランド、型番、価格というレッテルは、すべての人が目にする。

それ以外のレッテルとなると、どのオーディオ雑誌を読んでいるのか、
行きつけのオーディオ店はあるのか、
インターネットにどれだけ接続し情報を得ているのか、などによって違ってくる。

Date: 9月 13th, 2018
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その24)

前回(その23)を書いたのは、一年半前。
そこでも、「今日facebookを見ていたら」と書いている。

今日も、そう書く。
今日facebookを見ていたら、やっぱりそうなんだ、と強く確信したことがある。

この項のタイトルは「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか」である。
ここまで読まれた方の中には、すでに気づかれている人もいよう。

「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか」は、はっきりと読み手である。
「ミソモクソモイッショにしたのは読み手である」。

オーディオ雑誌、オーディオ評論をここまでダメにしたのは、
もちろんオーディオ雑誌の編集者、オーディオ評論家を名乗っている書き手も含まれるのだが、
もっともミソモクソモイッショにしているのは、実のところ、読み手である──、
ともうずっと以前から感じていた。

今日、ほんとうにそうなんだなぁ、とダメ出しを喰らったような感じである。
もうどうしようもないくらいに、そうなんだなぁ、と感じていた。

私は、はっきりといまのステレオサウンドに否定的・批判的である。
けれど、多少は同情もしている。

そんな読み手なんだから……、という気持が編集者にあるのかどうかはわからないけれど、
あってもおかしくない、と思うほどに、今日は強烈なダメ出し的なことを目にした。

私が、そんな読み手と思う人たちは少数派なのかもしれないが、多数派なのかもしれない。
どちらなのかはなんともいえないが、少なくないようにも感じている。
そんな人たちは目立つ(目立ちがり屋なのだろう、きっと)からだ。

だからこそ「ミソモクソモイッショにしたのは何なのか」を考えていかなければならない。

Date: 8月 6th, 2018
Cate: オーディオ評論

はっきりと書いておく

オーディオは楽しい。
いくつになっても楽しい。
けれど、オーディオ雑誌がつまらなくなって、もうどのくらい経つか。
オーディオ評論が色褪てしまって、ずいぶん経つ。

オーディオはいまも楽しい。
これから楽しいはずだ。
オーディオ雑誌は、今後も期待できそうにない。
オーディオ評論に関してもそうだ。

オーディオは楽しいのに、なぜそうなってしまったのか、
さらにそうなっていくのか。

その理由は、はっきりとしている。
瀬川先生がもういないからだ。

何をバカなことを書いている、と思う人には、
どれだけ言葉を費やして説明しても無駄だ。

オーディオは楽しい。
なのにオーディオ雑誌、オーディオ評論が……、と感じている人は、
その理由を考えてみればいい。
いくつか思いつくだろう。

そのいくつか思いついた理由を、さらにどうしてそうなったのか、と考えてみればいい。

瀬川冬樹がいなくなった。
オーディオ雑誌は、そこからつまらなくなっていった。
オーディオ評論は色褪るだけである。

このことがわからない人に、
おもしろいオーディオ雑誌はつくれない、
オーディオ評論は書けない。
はっきりしていることだ。

Date: 8月 3rd, 2018
Cate: オーディオ評論

「商品」としてのオーディオ評論・考(その9)

その5)から少しそれてしまったが、本題に戻ろう。

その4)の最後に、
出版社が直接関係しない試聴が、オーディオ評論家にはある、と書いた。

オーディオ評論家は、オーディオ雑誌の試聴室でしか試聴しないわけではない。
メーカー、輸入元の試聴室ですることもあれば、
自身のリスニングルームで試聴することもある。

オーディオ雑誌の編集部からの依頼で、そういうところでの試聴もあれば、
そうでない場合もある。

これが悪いこととは考えない。
オーディオ評論家の仕事は、何もオーディオ雑誌に原稿を書くだけではない。

ただ考えたいのは、ここでも試聴料という名の対価を得ていることに関係してくる。
対価を得ること自体が悪いことではない。
その金額が高いとか、そんなことも問題にはしない。

そこでの試聴が、そのオーディオ評論家が書くものに関係してきた場合を考えたいだけである。
その2)で、オーディオ評論家という書き手の商取引の相手は、誰かというと出版社である、と書いた。
読み手ではない。

オーディオ評論家と出版社との商取引のあいだに、
メーカー、輸入元との商取引が関係してくることになる。

その3)で、
季刊誌ステレオサウンドという商品は、読み手とのあいだの商取引、
広告主とのあいだの商取引、このふたつの商取引をもつ。
これが雑誌という商品の特徴でもある、と書いた。

オーディオ評論という商品も、雑誌という商品と同じで、
ここではふたつの商取引をもつ。

Date: 6月 10th, 2018
Cate: オーディオ評論

テクニクス SP10R、SL1000Rとオーディオ評論家

5月発売の管球王国、
6月になってからステレオサウンド、無線と実験、
すべて表紙はテクニクスのSL1000Rだった。
おそらく今週発売のanalogの表紙も、そうであろう。

表紙だけでなく、話題の新製品としても取り上げられている。
絶賛されている、といっていいだろう。

ダイレクトドライヴの代名詞といえるSP10の復活なのだから、
表紙になるのもわからないわけではないし、
それぞれのオーディオ雑誌の取り上げ方も、
少しばかり勘ぐりたくなる面もあるけれど、まぁ当然だろう、とは思う。

書く人みなが絶賛というオーディオ機器は、以前にもいくつもあった。
テクニクスのSP10R、SL1000Rが、初めてというわけでもないし、
いまのオーディオ評論家の世代からすれば、SP10の存在の大きさというものもある。

でも読んでいて、なんだか、いままでの絶賛ばかりの記事とは違う感触があるように思っていた。
これまでも絶賛ばかりの評価記事を読んでいると、妙に白けてしまうことはあった。
そんな感じとは少し違う感触をあるように感じていた。

なんだろうか……、笑いたくなるような感じであった。
オーディオ評論家(商売屋)の提灯芸を競い合わせているんだ──、
そう思えたからだった。

Date: 5月 27th, 2018
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その7)

メーカーの人の中には、
オーディオ評論家を徹底的に軽蔑している人がいる。

古くからのメーカーで、オーディオ評論家とのつきあいがながいところよりも、
新しいメーカーのほうに、そういう人はより多いように感じている。

確かに軽蔑されても仕方ない──、と私だって思う。
軽蔑されても、そのメーカーに利用価値があれば、
心の奥底ではどう思っていようが、オーディオ評論家とつきあっていくのかもしれない。

けれど、そういうメーカーのなかには、利用価値すらないと思っている人たちがいる。
だからオーディオ評論家には、まったく頼らない。

そういうメーカーが日本でも登場してきている。
そういうメーカーは、いまオーディオ評論家と名乗っている人たちにはまったく連絡をとらないので、
そういうメーカーが登場していることに、
いまのオーディオ評論家たちは気づいていないのかもしれない。

オーディオ評論家を軽蔑する人たちは、なにもメーカーだけにいるわけではない。
オーディオマニアのなかにも、昔からいる。

オーディオ評論家のいうことなんてあてにならない。
そんなのをあてにするようなオーディオマニアは、
自分の耳、感性に自信がないから、他人の耳、感性に頼ろうとする──、
そんなことも、昔からいわれ続けている。

オーディオ評論家には、オーディオ評論家(職能家)とオーディオ評論家(商売屋)がいる。
私は、ここにはしっかりと線を引いているが、
オーディオ評論家を軽蔑する人のなかには、
どちらもいっしょと受け止めている人もいるように感じているし、
オーディオ評論家(職能家)のいうことを信じているオーディオマニアも、
軽蔑・侮蔑の対象なのだろう。

おそらく私も、そう見られている、であろう。
そう思われようがまったく気にならないのだが、
ひとついっておきたいのは、人に憧れることはないのか、である。