オーディオ評論家の才能と資質(その5)
坂東清三氏が書かれている。
(坂清也の名で、主にステレオサウンドの音楽欄に登場されていた)
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瀬川さんを評して、〈使いこなしの名手〉という言葉がある。たぶん岡俊雄さんの評言ではなかったかと思うけれど、たしかに一緒に仕事をしたりしていると、その〈名手〉ぶりには瞠目させられることしばしばだった。ほんの3センチか5センチ、スピーカーの高さを変える、あるいは間隔を、角度を変える。アンプのTREBLEなりBASSのツマミを、ひと目盛り変える。といったことを、何時間もかけて丹念にやっているうちに、とつぜん素晴らしい音で鳴り出す。こういった〈使いこなし〉にかけては、瀬川さんの右にでるひとはいない、といってもいいだろう。
その〈名手〉ぶりを仕事で目の当りにみせつけられたある夜更け、例によって酒場のカウンターでからんでいた。瀬川さん、理想のオーディオ装置って、ポンと置いたら、そのままでいい音が鳴るものじゃないのかなあ──。理想をいえばそうなのかもしれないけど、そんな装置、出来っこないよ、と穏やかに答える。じゃあさ、そういう装置にできるだけ近づくべきだというのが、瀬川さんの仕事じゃあないのかなあ、と暴論を吐いたら、なんどもブゼンとした表情だけが返ってきたのだった。その表情には、オーディオ趣味の真髄がちっとも分かってないなあ、という気配が多分にあったことはまちがいない。
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坂東清三氏がいわんとされていることは、そのとおりだ、と思う。
ポンと置いて、きちんと鳴るオーディオ機器があれば──、と思ったことはある。
でも、それはオーディオと呼べるだろうか、と考える。
坂東清三氏は、続けて書かれているが、いい音で聴きたい気持は強くても、
それはひとりの音楽愛好家としてのものであって、オーディオマニアのそれとは少し違うともいえる。
オーディオ評論家に求められる才能とは、
音を聴き分ける能力、音を言葉で表現する能力──、
これらも必要ではあるのはわかっているが、
それ以上に、そしてそれ以前に必要な才能とは、
スピーカーをうまく鳴らすことである才能である、と(その1)で書いた。
そうだろうかと思う人もいた。
うまくスピーカーを鳴らせなくとも、
耳がよくて、言葉で表現し伝える能力があれば、オーディオ評論の仕事はできるはず──、
果してそうだろうか。
それではオーディオ評論家ではなく、サウンド批評家である。