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Date: 9月 2nd, 2010
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(その22)

高城氏に質問することはもうできないが、ひとつ確かめておきたかったのは、
再生時の音量について、である。

原音再生を掲げられていて、ずっと追求されてきたわけだから、
少なくともあの場所でピアノを録音し再生するときの音量は、
録音時のピアノが鳴らしていた音量そのままのはずである。
もうその音量よりも、再生時において小さかったり大きかったりしたら、原音再生とは厳密にいえなくなる。

いいかえれば、原音再生に音量設定の自由は存在しない、ということだ。

レコード音楽の再生は、いうまでもなく、そんなことはない。
音量の設定は、聴き手次第で、大きくも小さくもできる。

深夜にどんな大音量を鳴らしてもかまわないという恵まれた環境にあるからといって、
その人が必ずしも大音量で音楽を聴くわけではないし、大音量派といえるひとでも、
昼と夜とでは音量は変ってくることもあるだろうし、深夜ひとりでひっそりとした音で聴く音楽だってある。
反対に、真夜中にひとりきりでマーラーのフォルティッシモを、爆発するような音量で聴きたいときもある。

大音量再生で知られる岩崎先生だって、つねに大音量であったわけでないことは、
書かれたものを読めばすぐわかることだ。

音量をいつでも聴き手の自由に設定できることこそ、レコード再生の大事な因子のひとつである。
この因子が、原音再生にはない、というか、取り除くことによってしか原音再生は成立しない。

原音再生においては、ボリュウムは原音と同じ音量に設定するためのものでしかないわけだ。

Date: 9月 1st, 2010
Cate: 孤独、孤高

ただ、なんとなく……けれど(その1)

ここここで、スミ・ラジ・グラップのことばを引用した。

「人は孤独なものである。一人で生まれ、一人で死んでいく。
その孤独な人間にむかって、僕がここにいる、というもの。それが音楽である。」

またここで引用するのは、
オーディオからの音楽でこのことばを実感するには、孤独(ひとり)でなくてはならないということ、
この、音楽を聴くうえであたりまえすぎることが、不可欠だということを言いたいがためである。

結局、音楽(音)と真剣に対決する瞬間をもてる人にかぎる。

それには,まわりに親しい友人や家蔵がいようとも、孤独とは無縁のように思える場にいたとしても、
スピーカーが鳴らす音楽に対して、その瞬間、たったひとりで、そこでの音楽に没入できなければ、
音楽はスミ・ラジ・グラップのことばからとおいところに行くのではなかろうか。

ひとりきりで音楽に向かうことこそが、実は「孤独」そのものなのではなかろうか。

Date: 8月 31st, 2010
Cate: 4343, JBL
2 msgs

4343とB310(その8)

ずっと以前から、部屋の大きさとスピーカーシステムの大きさを合わせるのが、常識のようにいわれている。
小型スピーカーが、セレッションSL6以降の変化によって、
広い部屋で小型スピーカーを鳴らす人は、もう珍しくなくなってきてはいても、
その逆、つまり狭い部屋に大型のスピーカーシステムを持ち込むのは、バカげたことで意味のないことだ、
いまだ、そんな間違った考えに捕らわれている人はいるようだ。

そんな人たちの言い分のひとつに、狭い部屋では、そういった大型スピーカーの性能を発揮できない、というがある。

たしかに、広く、美しい響きの部屋、しかもつくりもしっかりとしている環境下で鳴らすのと、
狭く、響きの少なく、残響時間も短い部屋で鳴らすとでは、どちらがスピーカーの性能を発揮できるかといえば、
それは前者であることは、私も認める。
だが、スピーカーの性能を発揮させることが、オーディオの第一の目的だろうか。
自分のおかれている環境において、いい音をだすことが第一の目的のはずだ。

このふたつのことは似ていても、けっして同じではない。
このわかりきったことに気づけば、狭い部屋に大型スピーカーを持ち込む行為に、
とやかく言うことはできないはずだ。

そして部屋が狭いから……、などということで、使うスピーカーの選択を自ら狭くすることもない。

Date: 8月 30th, 2010
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その9)

若いひとが、うまれる前に作られたスピーカーや、そのころの真空管アンプに関心をもつことのすべてを、
時代へのエキゾティシズムのひと言で片付けてしまえるとは毛頭思っていないが、
それでも、違う時代に対するエキゾティシズムを完全に否定することができるひとは、果しているのだろうか。

ふりかえることで、時代時代には、やはりその時代ならではの「音」が存在している。
それは技術の進歩とも大きく関係しているし、もちろんそれだけでは語れないくらい、
多くの要素によってかたちづくられている「音」であるし、その時代の「音」がいつ、どう変っていくのかは、
その時代の中にいると、なかなか気づきにくい性質のものである。

時代時代の音がある、と書いておきながら、ある時代とつぎの時代の音のあいだには、
それを区切るものがあるわけではない。
いつの時代もふりかえってみることで、時代の音があったということを、
おぼろげながらだろうが感じているはずだ。

レコードの音の変化をみてもそうだ。
1950年代前半の真空管アンプ全盛時代のモノーラル録音、それがステレオ録音になり、
60年代にはいり徐々に録音器材が真空管からトランジスターのものへと置き換わっていく。
そしてマルチマイク、マルチトラック録音があらわれはじめ、器材のトランジスター化も次の段階へと進んでいく。
マルチマイク、マルチトラック録音の技術も進歩していっている。

そしてダイレクトカッティングがあらわれ、デジタル録音もはじまっていく。

それらの時代を代表するレコードが必ず登場しているわけだが、けれどそれらのレコードが、
前の時代との境界線かといえば、そうとはいえない。

Date: 8月 29th, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その25)

ロジャースのPM510をスレッショルドの800Aで鳴らすという案は、
けっこういい感じで鳴ってくれたのではないか、といまでも思う。

じつはステレオサウンドの巻末にあるUsed Component Market(売買欄)に「買います」のところに、
800A求む、と出したことがある。おふたりの方から連絡があった。
おひとりは4343を、もうひとりの方はQUADのESL63とタンノイのGRFを鳴らされていた。

あたらめて、いいアンプだと思っていた。
ただ、ハタチそこそこの若造には、PM510を買ったばかりだったこともあり、やはり無理だった。

コントロールアンプはどうするつもりだったかといえば、目標はマークレビンソンのLNP2Lだった。
けれど、これも無理な目標である。LNP2Lを買えるだけのお金があったなら、800Aをまず買っていた。
その800Aが無理だったのだから、LNP2Lはずっと遠くの目標だった。

800AもLNP2Lも、どちらも無理。でもいつかは800Aという気持はまだまだ残っていたから、
LNP2Lは無理でも、800Aに合いそうなコントロールアンプとして私が選んだのは、JBLのSG520だった。

SG520は当時、中古相場はそれほど高価ではなかった。
しかもたまたまある中古を扱っているオーディオ店にSG520があった。
極上品というほどのモノではなかったけれど、
そこそこ程度のいいSG520が、えっ、と思うような値段がつけられていた。

これなら買える、とそう思った。
なぜSG520なのかには、実は理由があった。

Date: 8月 28th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

語り尽くすまで(続・8月7日、そして11月7日)

今日、荷物が届いた。
ダンボール箱の中身は、数冊の本と、オーディオに関心のない人にとっては、古びた紙の束。
けれど、その「古びた紙の束」は、私にとっての宝である。

送ってくださったのは瀬川先生の実妹の櫻井さん。
古びた紙の束は、瀬川先生の原稿執筆のためのメモであったり、試聴テストの際のメモであったり、
スケッチであったり、そして未発表の原稿でもある。

ひとつひとつをじっくりとはまだみていないが、それでもざっとひととおり見て思うのは、
瀬川先生のオーディオ評論家としての誠実さである。

オーディオ評論家としての資質、才能、情熱、知識だけでなく、瀬川先生には「誠実」がそこに加わる。

なぜそう感じたのかについては、まだ書かない。
いずれ、別の「かたち」で書いていく。

Date: 8月 27th, 2010
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その30)

この項の(その26)でのB氏とC氏が、井上先生と決定的に違うところはここらにあるのではないだろうか。

結局のところ、B氏、C氏は、大きな音の変化、目立つ音の変化だけに集中しすぎて、
その陰でひっそりと変化しているところに耳を傾けていなかったので……、と思ってしまう。

井上先生の使いこなしを傍で見ている(聴いている)だけで、井上先生が聴かれていたであろう、
聴き逃さずきっちりと捉えておられたであろう音の変化──つまりB氏、C氏が聴き逃していた、
注意を払っていなかった部分での音の、微細な変化──を、
大きな変化に気を奪われることなくしっかりと、井上先生と同じレベルで聴きとっていれば、
井上先生の使いこなしによる音の変化は、なんらマジックではないことが理解できるはずだ。

この大事なところを聴き逃していては、井上先生の使いこなしは、その人にとってマジックでしかない。

もういちど、(その26)で引用した瀬川先生のことばを書いておく。
     *
スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなくその音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
     *
音に境界線はない、と書いた。便宜的に低音・中音・高音というけれど、
実際にはどこにも低音と中音のあいだに境界線はないし、中音と高音のあいだにも境界線はない。
そして、「音」と「音楽」にも、境界線はあるようにみえて、その実、曖昧でしかない。
ない、とはいまのところ言い切れない。だからといって、あるとも断言できない。

「音」と「音楽」の差違はなんなのか、そして「音」と「音響」、そして「音楽」について考えてみることこそ、
使いこなしを自分のものとすることにつながっていっているはずだ。

Date: 8月 26th, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その24)

ロジャースのPM510をなんとか自分のものにしたけれど、惚れ込んだスピーカーだけに、
とにかく手もとにあるアンプをつないで、とりあえず音を出してみる、ということはしたくなかった。
少なくともPM510に見合うもの、ふさわしいアンプで鳴らしたい、
とくに最初の音出しは、できるかぎり良質のパワーアンプで鳴らしたい、
それがこのスピーカーに対する気持のあらわれ、であるとそんなふうに考えていた。

価格はとりあえず無視して、PM510にふさわしいパワーアンプはいったい何があるのか。

もちろんスチューダーのA68、ルボックスのA740のことは頭にあったが、
他に必ずいいアンプがあるはずだ、とすこしムキになっていたのは、若さゆえだったのかもしれない。

たとえばSAEのMark 2500はたしかにいいパワーアンプではあったけれど(すでに製造中止になっていたが)、
PM510に合うかといえば、試すまでもなく合うようにはどうしても思えない、思い込むこともできない。

マークレビンソンのML2Lも、4343をスピーカーに選んでいれば、迷わずこのアンプをどうやって手に入れようか、
その購入計画を立てたことだろう。でもPM510には、ML2Lも合うとは思えない。

スレッショルドのSTASIS1は、あまりにも高価すぎて検討の対象には最初から外れていた。
その下のモデル、STASIS2、STASIS3はどうだろうか、といったところで、やはり浮かんできたのは800Aである。

800Aだったら、かなりいい感じで鳴ってくれる、そういう予感が湧いてきた。

Date: 8月 25th, 2010
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(その8)

若いひとが、以前に聴いた体験がないにもかかわらず、
真空管アンプ(それも古典的な回路のもの)で鳴らすフルレンジスピーカーの音に、
惹かれるものがある、という話をきく。なつかしい音だ、という。

ほんとうに、それは「なつかしい音」なのだろうか。
たとえば私の幼いころ、実家にあったテレビは真空管式でスピーカーはフルレンジということもわずかだがあった。
それにラジオはもちろん、はじめて自分で小遣いを貯めて買ったラジカセも、スピーカーはフルレンジ型だった。

そういう経験が多少なりともある私の世代、そしてもっと真空管式のテレビやラジオを聴いてきた時間の長い、
私より上の世代、さらにアクースティック蓄音機から聴いてきた、もっと上の世代にとっては、
昔ながらの真空管アンプフルレンジ・スピーカーの組合せの音は、「なつかしい音」である。

けれど、私よりも下の世代で、ラジカセは最初からステレオで、もちろんトランジスター式で、
しかもスピーカーはラジカセだけでなくテレビも2ウェイだった、という経験だけならば、
彼らにとっては「なつかしい音」ではなく、いままで聴いたことのない音のはずだ。
じつのところ、時代の違いによるエキゾティシズムに惹かれているのではなかろうか。

ただ知識として、そういうモノが古いということが頭の中にあるために、
ほぼ条件反射的に「なつかしい音」と判断している──、これを否定できるだろうか。

若いひとのなかに、こういう音に惹かれることがあるのはけっこうなことだと思っている。
ただ、それは古い世代のひとたちが惹かれるのとは、また違う意味がある。そう思う。

Date: 8月 24th, 2010
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(その29)

オーディオシステムのどこかを変える。
接続ケーブルを、他のものに交換してみる、インシュレーターの類を使ってみる、
お金をかけなくてもできることは多数あり、スピーカーの設置場所・仕方を変えてみる、
など、とにかくやろうという気になれば、音を変える要素は、無数といっていいくらいある。

どこでもいい、とにかく何かかが変れば(替れば)、音は必ず変化している。
大きな変化もあれば、小さな変化もあるが、音が変化しないということは絶対にあり得ない。
その変化を聴きとれるかどうかは聴き手の問題でしかない。

そして音の変化は、どこか部分的ではないということ。
ずっと以前から言われ続けていることだが、スピーカーシステムでトゥイーターを他の物に交換してみたら、
そのトゥイーターの受持帯域だけでなく、低音まで変化する。
その逆にウーファーを交換する、もしくはサブウーファーを追加することで、
低域の鳴り方だけでなく高域(もちろん中域も)も、それにつれて変化している。

つまりどんな場合にも部分的な変化だけにとどまることはなく、全体が変化している。
ただ変化の目立つところと、そこに隠れて、それほど目立たない変化がある。
音に「境界線」はないからだ。
どこかに境界線が存在すれば、変化は部分的なものでおさまるだろうけど。

どうしても大きな変化の方に機をとられがちになってしまうが、
そんな大きな目立つ変化に隠れてしまいがちの、小さく目立たない音の変化を、
きちんと把握して、おろそかにせず磨き積み上げていくことが、音を良くしていくことである。

Date: 8月 23rd, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その23・余談)

いまやっている、このブログとはちがう作業中に、PM510についての瀬川先生の記述を見つけた。
ステレオサウンド 57号である。
この号の特集記事はプリメインアンプ34機種の試聴で、瀬川先生は試聴用のスピーカーとして、
メインはJBLの4343。それにアンプのスピーカーへの適応性をさぐるためにアルテックの620Bも使われている。

少々話ははずれるが、このプリメインアンプ試聴における瀬川先生の「しつこさ」は、
なぜ、ここまでやられるのか? という想いがしてくる。

ACプラグの極性のよる音の差、から、
カートリッジも5機種用意され、そのうちMC型カートリッジの昇圧手段として、
トランスを3種類、適宜つなぎかえられている。
いったいひとつのアンプを聴くに、どれだけ時間を費やされていたのだろうか。

カートリッジを5機種交換して調整して、という手間だけでも、
いくらオーディオ機器の扱いに慣れているといっても、
34機種のプリメインアンプを聴くとなると、それだけでもけっこうを時間になる。

ここの調整がいいかげんであれば、アンプの差を聴いてるのか、
カートリッジの調整のバラつきによる音の差を聴いているのか、はっきりしなくなってくる。

瀬川先生ほどのキャリアがあれば、これほどの時間をかけなくても、編集部が要求してくる原稿枚数を、
編集部が満足するだけの質の高さで書きあげるだけの「もの」はお持ちのはずだ。
なのに、しつこいほどに、アンプを各部、細部にわたり試聴されている。

「なれあうな」という声がきこえてきそうである。

このテストでスピーカーはJBLとアルテックと書いたが、じつは1機種用意されている。
発売になったばかりのロジャースのPM510である。
ただ、これはうまく鳴るであろうと確信をもてるアンプだけで使われている。

なぜかといえば、
PM510が「アンプのクォリティおよびもち味によって、鳴り方の大きく左右される」スピーカーだから、である。

瀬川先生の試聴記には「スピーカーへの適応性」という項目があった。
そこにアルテックについては、すべてのアンプで書かれている。
ところが、PM510がどう鳴ったのかについては、1機種のみである。

最初に確信がもてるアンプだけで鳴らされた、
とあるようにそう多くの機種で試されたわけでないことはわかるが、
それでも試聴記に書けるだけの音で、PM510を鳴らしたのは、その1機種だけということになる。
しかも、そのアンプは、34機種最高価格のものではなかった。108,000円のビクターのA-X7Dなのだった。

ステレオサウンド 56号のPM510の記事を読んで以来、次に買うスピーカーはPM510と決めていた。
そのとき使っていたスピーカーからすると一気にグレードアップすることなる。
それでも途中で段階を踏むよりも、PM510までよそ見をすることなくつき進んだほうがいいと考えたからだ。

PM510を買う、なんて高校生にとっては無謀な計画をたてる一方で、
アンプはセパレートアンプなんてとうてい無理だから、そのとき使っていたサンスイのAU-D907 Limitedか……。
現実的に考えていた。でもPM510と合うかといえば、そぐわない気もしていた。
そこに、A-X7Dの、瀬川先生の試聴記。

こう書いてあった。
     *
ロジャースPM510のように、アンプへの注文の難しいスピーカーも、かなりの満足度で鳴らすことができた。テスト機中、ロジャースを積極的に鳴らすことのできた数少ないアンプだった。
     *
これだ、A-X7Dを買おう! と、そのときは決めていた。なのに……、である。

Date: 8月 22nd, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その23)

ステレオサウンドで働きはじめたころ、うまいぐあいにロジャースの PM510があった。
仕事が終ったあと、先輩編集者のNさんと試聴室で、アンプをいくつか替えながら PM510を鳴らしたこともある。

そのころのステレオサウンドのリファレンスアンプはマッキントッシュの C29と MC2255の組合せだった。
これでも鳴らしてみた。それからたまたまあったマイケルソン&オースチンの TVA1も接いでみた。
そのほか、いくつか聴きながら思っていたのは、少なくとも私にとって、
アンプの違いによる音の差がはっきりと聴きとりやすいのは、JBLの4343よりもPM510だということ。

4343で聴いていたときには気づかなかった、気づきにくかったところが PM510では、
しかっりと提示される。だからといって、これみよがしではなく、さりげなくであるところが、またいい。

もちろんすべの面において、4343よりもPM510のほうが音が聴き分けやすいわけではなかろう。
アンプの音の違いにしても、また違う側面に関しては4343のほうが明瞭に鳴らし分けるところもあるだろうし、
また人によっては4343のほうが聴きとりやすい、と感じてもなんら不思議ではない。

とにかく買える買えないは関係なく、そのとき試聴室の倉庫にあり、気になるアンプは片っ端から試してみた。
そして私の中に芽生えた結論は、スレッショルドの800Aで鳴らしてみたい、だった。

瀬川先生はステレオサウンド 56号の記事中では、スチューダーのA68を接いで「うまくいった」と書かれている。
PM510の「音が立体的になり、粒立ちがよくなってくる」のは、アメリカ系のアンプや国産のアンプではなく、
スチューダーのA68で鳴らしたとき、である。

瀬川先生は、「ルボックスのA740をぜひとも比較したいところ」とも書かれている。
スチューダーのA68か、そのコンシューマー版のルボックスのA740。
そのどちらかで鳴らすことで、PM510の音の世界が完結するだろうけど、
瀬川先生は4343も所有されている。だからそ対極の世界として、こういう組合せはたしかに素晴らしいだろうけど、
私にとってはPM510しかない。
これがメインスピーカーシステムだけに、
もうすこしその「世界」を拡大したい、と欲張った気持、若さゆえの諦めの悪さみたいなものもあって、
素直にA68もしくはA740にしようとはまったく考えていなかった。

Date: 8月 21st, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その22)

800Aに対する私の思い入れは、続いていてた。
ステレオサウンドで働くようになってからも続いていた。

1982年、まだ19歳の時にロジャースのPM510を買った。
ステレオサウンドで働いていたおかげで、輸入元オーデックスのYさんのご好意によって、なんとか手が届いた。

ステレオサウンド 56号に掲載された瀬川先生による紹介記事を読んだときから、
PM510は4343とともに、自分のものにしたいスピーカーシステムの筆頭候補になっていた。
     *
全体の印象をまず大掴みにいうと、音の傾向はスペンドールBCIIのようなタイプ。それをグンと格上げして品位とスケールを増した音、と感じられる。
     *
瀬川先生のPM510の文章の中で、音については、まずこういう表現からはじめられている。
このわずか数行だけで、もう魅了されていた。

なんどか書いているように、熊本のオーディオ店で瀬川先生は定期的に「オーディオ・ティーチイン」という、
あるテーマによる試聴会を行われていた。

その中で、スペンドールのBCIIとJBLの4341を鳴らされた回があった。
たしかに4341はすぐれたスピーカーだ、ということは、それが万全な調子で鳴っていなくても明らかだった。
それにくらべると、BCIIの鳴り方は、どことなくこじんまりしている。

スピーカーそのものの大きさの差以上に、BCIIはこじんまりと鳴る。
音の表現の精確そのものが対照的であるために、よけいにそう感じたのだろうが、
それでもBCIIのほうを「いいスピーカーだなぁ」と思っていた。

4341(4343)まではいかなくても、これがもう少しスケールが大きくなってくれたら、
どんなに素晴らしいだろうか、とBCIIの音をはじめて耳にしたときからずっと思い続けてきていた。

Date: 8月 21st, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その21)

The Gold の記事が載ったステレオサウンド 55号は、1980年6月に出ている。
日本に輸入された台数は、おそらくそれほど多くないであろうスレッショルドの800Aなのに、
想い続けていると不思議と縁もうまれてくるのか、
800Aよりも多く輸入されていたはずの GAS のアンプジラを聴く機会はなかったのに、
このときまでに800Aは地元のオーディオ店で聴く機会が二回あった。

思い入れたっぷりだっただけに、どれだけ冷静に聴いていたのは、いまとなってははなはだあやしいけれど、
それでも800AとJBLとの組合せから鳴ってくる響きには、清楚な心地良さがあったように記憶している。

あぁ、やっぱり、素晴らしいアンプなんだぁ……、と感じていた。
だから「スレッショルド」というブランドへの思い入れも深くなっていた。

なのに、そのスレッショルドのSTASIS1(おそらく800Aを超えるであろうアンプ)よりも、
The Gold のほうがすぐれている、とは信じたくなかった。

だから瀬川先生が、The Gold と STASIS1 をどう評価されるのかが、とにかく一日でもはやく知りたかった。

Date: 8月 20th, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その20)

スレッショルド STASIS1の記事が載ったステレオサウンド 53号の表紙は SUMO の The Gold だった。
そのThe Goldの記事がのるのは半年後の55号。

ちなみに The Power は52号の新製品紹介記事と
53号の特集記事「いま話題のアンプから何を選ぶか」に登場している。

このふたつの記事を読んでいて、SUMOのことがすこし気になっていた。
そこに55号の The Gold の記事。この記事もやはり井上・山中両氏による対談で構成されている。

いくつか気になるところを抜き書きしてみる。
「音の深み、切れ込みなどもザ・パワーと比べて格段のクォリティが得られます。特にエネルギー感は比類のないもので、これまでに聴いたアンプの中でも抜群といっていいと思います。」(山中)

「力で押すタイプのザ・パワーに対して、ザ・ゴールドからはいくらでもエネルギーが出てくる。」(井上)
「レコードの録音の差も明確にわかります。」(井上)
「こういうアンプは言葉では表現しにくいですね。一定の姿形がありませんからあらゆるいい言葉がいえてしまう。」(井上)

「このしなやかな反応は大変なものですね。(中略)反応が非常にフレキシブルなためにどれが本当の持味なのかわからないのです。」(山中)

読んでいくと、STASIS1で語られたことがもっとよくなっている感じを受けるし、
おふたりの発言にも熱がこもっている、そんな感じを受けた。

そして井上先生のつぎの言葉。
「以前紹介したスレッショルドのステイシス1とよく似た印象がありますが、このアンプはもっと反応が速いしより変化自在だと思います。」

ショックだった……。
STASIS1よりも、すぐれたパワーアンプが、ボンジョルノによるSUMOのアンプだということが。

ほんとうは素直に喜ぶことである。
STASIS1の予価はペアで3,000,000円。The Gold は1,450,000円とほぼ半分なのだから。

なのに、そのころの私は、そうじゃなかった。
私のなかでイチバンのアンプは、つねにイチバンであってほしかったから、ということも関係している。