使いこなしのこと(その30)
この項の(その26)でのB氏とC氏が、井上先生と決定的に違うところはここらにあるのではないだろうか。
結局のところ、B氏、C氏は、大きな音の変化、目立つ音の変化だけに集中しすぎて、
その陰でひっそりと変化しているところに耳を傾けていなかったので……、と思ってしまう。
井上先生の使いこなしを傍で見ている(聴いている)だけで、井上先生が聴かれていたであろう、
聴き逃さずきっちりと捉えておられたであろう音の変化──つまりB氏、C氏が聴き逃していた、
注意を払っていなかった部分での音の、微細な変化──を、
大きな変化に気を奪われることなくしっかりと、井上先生と同じレベルで聴きとっていれば、
井上先生の使いこなしによる音の変化は、なんらマジックではないことが理解できるはずだ。
この大事なところを聴き逃していては、井上先生の使いこなしは、その人にとってマジックでしかない。
もういちど、(その26)で引用した瀬川先生のことばを書いておく。
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スピーカーから出る「音」は、多くの場合「音楽」だ。その音楽の鳴り方の変化を聴き分ける、ということは、屁理屈を言うようだが「音」そのものの鳴り方の聴き分けではなくその音で構成されている「音楽」の鳴り方がどう変化したか、を聴き分けることだ。
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音に境界線はない、と書いた。便宜的に低音・中音・高音というけれど、
実際にはどこにも低音と中音のあいだに境界線はないし、中音と高音のあいだにも境界線はない。
そして、「音」と「音楽」にも、境界線はあるようにみえて、その実、曖昧でしかない。
ない、とはいまのところ言い切れない。だからといって、あるとも断言できない。
「音」と「音楽」の差違はなんなのか、そして「音」と「音響」、そして「音楽」について考えてみることこそ、
使いこなしを自分のものとすることにつながっていっているはずだ。