Date: 10月 27th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その5)

オーディオにおける音の追求は、あくまでもいい音で聴きたい、なのであって、
人よりいい音で聴きたい、と思う気持ちが、人よりもいいモノを持ちたい、という気持を生んでしまう。

人よりいい音で聴きたい、という気持を全否定はしたくない。
こんな気持も、必要な時期が人にはあるだろうし(私にはあった)、
この気持を持ったことがない、という人よりも、そんな時期があったな……、という人の方がいい。

けれど、そんな気持も行き過ぎてしまうと、別項で書いた人のようになってしまうかもしれない。

誰かに自分の音を聴いてもらう、
今度は誰かの音を聴かせてもらう、
けっこうなことではある。

けれど、このことが「いい音で聴きたい」気持よりも「人よりいい音で聴きたい」気持を肥大させはしないだろうか。
そして「人よりもいいモノを持ちたい」気持へとなっていく。

この「人よりもいいモノを持ちたい」気持をもってしまった人を見逃さない人がいる。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: ステレオサウンド特集

「いい音を身近に」(その19)

「あきらかに、頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた。」
黒田先生は、「そういう経験がこれまでなかった」だけに、びっくりされている。

この時の黒田先生は「疲れをとるためにさまざまなことをしてみた。にもかかわらず、
あいかわらず後頭部がなんとなく重く、身体もだるかった。
疲れはちょっとやそっとのことではぬけそうになかった」ほどに疲労されていた。

音楽を家庭で聴くという行為は、レコードを選ばなければならない、ということで能動的な行為である。
この時の黒田先生は、レコードを選ぶのが億劫だった、と書かれている。

レコードなんて、すぐに選べるではないか。
そう思ってしまえる人と黒田先生とは、レコードの選び方に違いがあるのではないか。

「ミンミン蝉のなき声が……」が載ったステレオサウンドは52号。
1979年9月に出ている。黒田先生は1938年1月1日生れだから、この時41歳。
30代の黒田先生であったら、レコードを選ぶのを億劫がられることもなかったかもしれない。
     *
 ききたいレコードに対しては、どうしても身がまえる。身がまえる──という言葉が正しいかどうかはともかくとして、音楽に対して正座する。正座したいと思う。しかし、場合によっては、関節のあたりがいたくて、正座できないこともある。本当は、正座がしたくともできない状態でも、きいてしまって、結果として正座してしまうのがいいのだろう。これまでは、そうやって、きいてきた。ただ、今回は、それができなかった。
 そのために、ふいをつかれて、よろめいて、身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさに気づいた。そうしてそのことは、必然的に、音楽をきくことの微妙さ、むずかしさ、きわどさにかかわる。そうか、疲れれば、ミンミン蝉のなき声しかきけないこともあるのかと、わかりきっていることを、あらためて思った。
     *
若ければ、「身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさ」に気づくこともないだろう。
けれど人は誰もが歳をとる。
歳をとることで「身体のコンディションがきくというおこないに与える影響の大きさ」に気づく。

「頭の半分では、音楽をききたがっていて、もう一方の半分では、音楽をきくことを億劫がっていた」ことを、
私も体験している。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その16)

電気工事の人が使うアナログ式テスターは、小さいとはいえない。
かなり大きいサイズであることが多い。

電気工事の人が使う工具はテスターだけではない。他にもいろいろな工具を必要とする。
だから必要な性能であれば、工具は小さくて軽い方がいい面もある。
アナログ式テスターは、どうしても大きくなってしまう。
サイズ(小さいということ)では、デジタルテスターの方が有利である。

にも関わらずアナログ式テスターの方がいい、と言っていた人は、
「針が振れるから」ということだった。

正確な測定値を読みとるということではデジタルテスターの方が便利なのだけど、
そうではなく、導通があるのかないのか、電気が来ているのかそうでないのか、
そういった測定値が必要なのではなく、状態を確認する場合には、針が振れることが重宝する、ということだった。

あとはおそらくデジタルテスターは、電圧・電流を測る時でも電池を必要とする。
電池がなければデジタルテスターは動作しない。

アナログ式テスターは、抵抗値を測る時には電池が必要となるが、
電圧・電流の測定には電池は必要としないこともあってだと思う。

アナログ式テスターが大きくなってしまうのはメーターのためである。
アナログ式テスターのメーターの文字盤にはいくつもの目盛りが描かれている。
電圧・電流・抵抗を測るのがテスターの基本なのだから、少なくともこれだけは必要となり、
さらにアナログ式テスターではレンジの切替えもやる。

デジタルテスターではそんなことは必要としない。
電圧を測るのか電流なのか、抵抗値なのかを指定するだけである。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: prototype

prototype(8Kを観て)

オーディオ・ホームシアター展でのNKHの8Kは、プロトタイプといえよう。
NHKのブースに運び込まれていた器材はかなりの数だった。

考えてみれば音声でも22.2チャンネルなのだから、
スピーカーシステムは22本プラスサブウーファーが2本、
それを駆動するパワーアンプも同じ数だけ必要になるし、
それ以外にも信号処理のために必要な器材もあったのだろう。

どの器材が、どういう働きだったのかは、見ただけではほとんどわからなかった。
とにかくすごい数の器材が置いてあり、ほとんどすべてが動いていたように感じていた。

器材の数、消費電力の多さ、発熱量の多さ、その他、家庭におさまるようにするためには、
クリアーしなければならないことが数多くあるはずだ。
それらは2020年の東京オリンピックまでにはクリアーされるはずだ。

とにかく、現時点でやれることをやってみた。まさしくプロトタイプだと思う。
こういうプロトタイプが、オーディオ関連のショウで展示されることが久しくなかった。

プロトタイプのみが味わわせてくれる昂奮が、8Kにはあった。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その4)

価格も数字である。はっきりとした数字である。
これも数字なのだ、と実感している。

数字といえば、カタログに記載されているスペックがある。
周波数特性、歪率、S/N比、インピーダンスなど、さまざまな項目の数字(数値)が並ぶ。

価格もカタログ・スペックも数字が並んだものだ。

スピーカーシステムのスペックに、再生周波数帯域がある。
これをとても気にする人がいる。
たとえばあるスピーカーシステムが25Hz〜20kHz、別のスピーカーシステムが30Hz〜20kHzだとしよう。
こんな差は、私はまったく気にしないけれど、
そうでない人にとっては、前者のスピーカーシステムの方が低域の再生能力に優れている、
ということになるようだ。

これはほんの一例で、他にもいくつかの例を聞いたり見たりすることがある。
数字のもつ力を無視できない、と思う。

数字(数値)によって、選択が決定されることもあるように感じられる。
つまり重要な判断材料なのだろう。

そうであれば、価格という数字(数値)もそうなのだろう。
人よりもいいモノを持ちたい、という気持が、どこかで、人より高いモノを持ちたい、
そんなふうにすり変ってしまうのだろうか。

そうでなければ「もっと高くした方が売れますよ、高くしましょう」ということにならないはずだ。

Date: 10月 27th, 2014
Cate: 理由

「理由」(その28)

白川静氏が書かれている。

【きよし(浄・清)】純粋で美しい。余分のものや汚れのないことをいう。対義語の【きたなし】はもと「形無し」の意で本来の形が崩れること。これに対して「きよし」は、本来の生気を保っている状態をいうものであろう。もとは人の生きざまをいう語であろうが[万葉]では山川についていうことが多い。

ならば「音楽を聴いて、涙した……、浄化された」ということは、
本来の生気を保っている状態になることであるはずだ。
本来の生気を保っている状態以上にはならないのではないか。

「音楽を聴いて、涙した……、浄化された」と頻繁に口にする人の中には、
どうも勘違いされている方がいるように感じる。
浄化を、あたかも本来の生気を保っている状態以上にしてくれるのだ、と。

【きたなし】はもと「形無し」の意で本来の形が崩れることならば、
浄化によって、本来の生気を保っている状態とは、本来の形をとり戻す、ということになるだろう。

本来の形がいびつなものであったなら……、と考えてしまう。
浄化とは、己のいびつな形から目をそらすことではない、と。

Date: 10月 26th, 2014
Cate: VUメーター

VUメーターのこと(その15)

平面であることがすべて悪いわけではなく、
平面であることの良さが感じられるメーターであれば、OPPOの液晶によるメーターをひどいとはいわない。
けれどOPPOのヘッドフォンアンプについているメーターは、平面であることの良さがまったく感じられなかった。

その12)で、メーターに時計と共通するものを感じる、と書いた。

メーターも時計も文字盤と針があるだけでなく、透明なガラス(もしくはプラスティック)が前面にある。
奥から文字盤、中間に針、手前にガラスが、それぞれの間隔をもって配置され、閉じた空間を形成している。
この間隔が、時計というモノに対しての感覚をつくっているのではないか。

空間の存在しない表示をしてしまう液晶表示のメーターは、何を模倣しているのか。
ただ針の動きを模倣すれば、液晶でメーターが表示できる、というものではないはずだ。

時計もメーターも閉じた空間の中で針が動く。
直読ということでは、針と文字盤による表示よりも、数字での直接表示が有利だろう。
なのに、なぜ針の動きに惹かれるのか、針で表示することにメリットはなにかあるのだろうか。

メーターはアンプやカセットデッキの他にも、テスターにもついている(いた)。
私が最初に買ったテスターは、いわゆるアナログ式テスターである。
大きなメーターがついていた。

そのころデジタルテスターも登場していたかもしれない。
だがデジタルテスターは、当時は高価だった。いまとは違っていた。

デジタルテスターもどんどん安価になっていき、いま秋葉原に行けば、デジタルテスターの方が数多く並んでいる。
私もデジタルテスターを使っている。

どのくらい前になるだろうか。
デジタルテスターがシェアを逆転しはじめたころだった。
ある電気工事の人が、テスターの話をしているのが聞こえてきた。

デジタルテスターも良くなっているけれど、まだまだアナログ式テスターだ、ということだった。

Date: 10月 25th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その45)

格付けが悪いわけではない。
すべてのオーディオ機器、どれも素晴らしいですよ、と横並びで紹介するのは無理なことであり、
そんなことをやって何になるというのだろうか。

だが、こんな項をたてて書こうとしているのは、
賞(格付け)を否定したいからではない。
賞(格付け)が変ってきていると感じているからである。

State of the Art賞もベストバイも、
瀬川冬樹という存在があったころまでは、納得できる格付けであった。
ステレオサウンド 49号での第一回のState of the Art賞のすべての機種が、
State of the Artの名にふさわしいとは思えないまでも、
複数の人の投票による選考なのだから、その結果は理解できる。

このころまではステレオサウンドによる格付け、とはっきりといえた。
ステレオサウンドのメイン筆者による格付け、ともいえた。

ここで私よりも一世代、二世代下の人たちとは違ってくるのかもしれない。
49号でのState of the Art賞の選考委員は、
岡先生を委員長に、井上卓也、上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹、長島達夫、柳沢功力、山中敬三だったが、
現在のStereo Sound Grand Prixでは柳沢氏だけで、あとは皆入れ代っている。

49号は1978年12月発売だから、30年以上の月日が経っているのだから、入れ代りは当然である。
けれど賞は格付けである以上、どういう人がどういう考え・基準で選ぶかがことさら重要なことである。

はっきりと書こう。
以前はステレオサウンドによる格付けだった。
だが、いまはステレオサウンドのための格付けに変ってきている。
さらに書けば、ステレオサウンドを格付けするための賞になってきている。

Date: 10月 25th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その44)

格付けということで、ステレオサウンドのベストバイの変化をみれば、
はっきりと格付けの性格が強くなっていることがわかる。

47号から、星による点数が導入されている。
「’78ベストバイ・コンポーネントを選ぶにあたって」で、瀬川先生はこう書かれている。
     *
 同じたとえでいえば、購入して鳴らしはじめて数ヵ月を経て、どうやら調子も出てきたし、入手したときの新鮮な感激もそろそろ薄れはじめてなお、毎日灯を入れるたびに、音を聴くたびに、ああ、良い音だ、良い買物をした、という満足感を与えてくれるほどのオーディオパーツこそ、真のベストバイというに値する。今回与えられたテーマのように、選出したパーツにA(☆☆☆)、B(☆☆)、C(☆)の三つのランクをつけよ、といわれたとき、右のようなパーツはまず文句なしにAをつけたくなる。そして私の選んだAランクはすべて、すでに自分で愛用しているかもしくは、設置のためのスペースその他の条件が整いさえすればいますぐにでも購入して身近に置きたいパーツ、に限られる。
     *
ステレオサウンド編集部は、ベストバイの選考者に対して、
星の数によって、「三つのランクをつけよ」と依頼している。

ベストバイという記事も、
ベストバイに選ばれるか選ばれないか、という意味、
点数がどれだけ入るのか、何人の人によって選ばれるのか、
どこにも賞とは書かれていないけれど、いわばベストバイ賞であり、格付けが行なわれている。

49号のState of the Art賞からはじまり、Components of the year賞、現在のStereo Sound Grand Prix賞、
すべて賞を与えることによる格付けである。
Components of the year賞からGolden Soundを、さらに選ぶようになっている。
さらなる格付けである。

いずれも格付けであるからこそ、
読者は自分の使っているオーディオ機器が選ばれれば、嬉しいものであろう。
どんな人であろうと、まったく嬉しくない、ということはないはずだ。

つまりベストバイもState of the Art賞も、
ステレオサウンドのメイン筆者による格付けであった。

Date: 10月 25th, 2014
Cate: ショウ雑感

2014年ショウ雑感(ヘッドフォン祭)

ヘッドフォン祭に行ってきた。
ヘッドフォン祭に行くのは、今回が初めてである。

大盛況である、とか、若い人が多い、とか、そんなことは耳に入っていた。
実際に会場である中野サンプラザに行くと、若い人が多い。
ものすごく人が多いのかと思っていたら、大混雑というほどではなく、
活気もあって、いい具合の人の入り方だったように感じた。

先月開催されたインターナショナルオーディオショウとは、こんなに雰囲気が違うのか、と、
誰もが思うに違いない。
こんなことを書くと、ヘッドフォンで聴くのは、オーディオではない、という人がいる。

私はそうは思わないけれど、帰途の電車の中で気づいた。
ヘッドフォン祭は、ヘッドフォン祭という名称であって、ヘッドフォンオーディオ祭ではなかったことに。

ヘッドフォン祭の主催は、フジヤエービックという販売店である。
ヘッドフォン祭をヘッドフォンオーディオ祭としなかったのは、意図的なのかたまたまなのか。
あえてオーディオを外しているとしたら、客商売をしている人ならではの感覚によるものなのか。
そんなことを思っていた。

オーディオの催し物は、インターナショナルオーディオショウ、ハイエンドオーディオショウ、
オーディオ・ホームシアター展と、必ずどこかにオーディオという単語が入る。
それを当り前にこれまで受けとめてきた。

けれど、オーディオに強い関心はないけれど、
家庭で音楽を楽しみたい、という人たちにとって、オーディオとつかないほうがいいのかもしれない。

Date: 10月 24th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その43)

AU-D907 Limitedが届いた日、
箱から取り出してラックにセット。
ケーブルの接続を行ない、電源をいれる。

これがState of the Art賞に選ばれたプリメインアンプだ、
State of the Art賞を受賞したオーディオ機器を、私も手に入れた、
そんなふうに喜んでいた。

ケンウッドのL01Aも、State of the Art賞にノミネートはされていた。
もしL01Aも選ばれていたら、アンプの買い替えは先延ばししてL01Aを買ったかもしれない。

ステレオサウンド 53号で、AU-D907 Limitedについては菅野先生が書かれている。
     *
例えは悪いかもしれないが、新製品にはどこかよそよそしい、床屋へ行きたての頭を見るようなところがある。きれいに整ってはいるが、どこか、しっくりこないあれだ。AU-D907リミテッドにはそれがない。刈ってから一〜二週間たって自然に馴染んだ髪型を見るような趣きをもっている。中味を知って、音を聴けば、一層、その観が深まるであろう。
     *
自分のシステムで聴くState of the Art賞のプリメインアンプの音は、
まさにこんな感じでスピーカーを鳴らしてくれた。

いまふり返れば、あの時、ふたつのプリメインアンプを比較試聴していたら、L01Aを選んでいたはずだ。
買えるかどうかは別にしても。
だから聴かずに買って良かった、と思う。
AU-D907 Limitedはいいアンプだった。

ようするに私は、State of the Art賞によって、
聴いていない(聴く機会のなかった)ふたつのプリメインアンプに対して格付けを行っていたのだ。

Date: 10月 24th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その42)

ステレオサウンド 53号のState of the Art賞で、
サンスイのプリメインアンプ、AU-D907 Limitedが選ばれている。

49号が第一回だったState of the Art賞、
プリメインアンプで最初に選ばれたのがAU-D907 Limitedだった。

私が高校二年の時、かなり無理して、このプリメインアンプを手に入れたのは、
State of the Art賞に選ばれたオーディオ機器を、
とにかくひとつ自分のモノとしたかった、ということが理由として強くあった。

いいアンプが欲しい、と思っていた。
とはいえセパレートアンプには手が出せない。
プリメインアンプで、最高のモノとなると、
そのころはトリオがケンウッド・ブランドで出したL01Aと、AU-D907 Limitedがあった。

おそらく私の望む音としてはL01Aの方かな、とは思っていたけれど、
当時、このふたつのアンプを比較試聴できるところはなかった。
AU-D907 Limitedは型番の末尾が表すように、限定品でもある。
なくなってしまったら、もう買えない。

それにL01Aは270000円、AU-D907 Limitedは175000円。
約10万円の差は、高校生の私にはどうしようもなかった。
53号ではケンウッドのチューナーL01Tは選ばれていた。
なのにL01Aは選ばれていなかった。

結局、このことが決定打となった。サンスイを選んだ。
つまり、一度もAU-D907 LimitedもL01Aも聴かずに決めた。

20万円程度の買物だろ……、という人もいようが、
1979年の高校二年の私にとっては、20万円前後は大金であった。
にも関わらず、音を聴かずに決めた。

Date: 10月 24th, 2014
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その27)

昔のオーディオ入門書には、スピーカーの高さについて、
3ウェイならばトゥイーターとスコーカーの中間位置を耳の高さに合せる、とか、
トゥイーターを耳に高さに合せる、とか、そんなふうに書かれていた。

いまでもこんなことをいう人がいるようだが、
実際にスピーカーを前にして、頭を上下させてみるとすぐにわかることだが、
帯域バランスがうまくとれているのは、意外にもっと下の位置にある。

1980年代後半の598のスピーカーシステム、
30cm口径のウーファーに、ハードドーム型のスコーカーとトゥイーターという構成、
クロスオーバー周波数も、メーカーによって大きく違っていたわけではない。
たいていの場合、この手のスピーカーシステムでは、
ウーファーとスコーカーの間あたりが、いいバランスできける上下位置である。

となると椅子に座って聴く場合、スピーカースタンドはかなり高さのあるものにしなければならない。
一般的な高さのスタンドでは、トゥイーターとスコーカーあたりが耳の高さに来る。

当時市販されていたスタンドを使った場合、
598のスピーカーから帯域バランスのとれた音を聴こうとしたら、
椅子ではなく床に坐って聴くことになる。

当時、598のスピーカーが家庭におさめられたときに、どういう使い方をされていたのかについては、
ほとんど知らない。
床に坐って、という人はどれだけいたのだろうか。

Date: 10月 24th, 2014
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その5)

現代のスピーカーシステムと古き良き時代のスピーカーシステムと比較して、
古き良き時代のスピーカーシステムがはっきりと優っていることがある。
能率である。変換効率という能率である。

古き良き時代のスピーカーシステムを鳴らす当時のアンプは、今の基準からすればすべて小出力アンプとなる。
マッキントッシュのMC275の75W+75Wが大出力と呼ばれていたし、
MC275ですら1962年に発売されているのだから、
それ以前、モノーラル時代まで遡れば、MC275の半分以下の出力でも大出力であった。

だから古き良き時代のスピーカーシステムの能率は高く、出力音圧レベルは100dB/W/mが珍しくなかった。
とにかく高能率であることが、まずスピーカーには求められていたからだ。

そのこともあってか、いまでは高能率のスピーカーは古いスピーカーであり、
性能的に劣っているスピーカーということになっている。

けれどスピーカーは電気信号を音に変換する変換器であり、
変換器である以上、変換効率もまた重要な性能のひとつである。
ならば、高能率のスピーカーは、この点において高性能のスピーカーということになる。

にも関わらず、いまではアンプの出力がほぼ無制限に得られる感覚があるため、
高能率であることは、どうでもいいことのように扱われつつある。
特に現代のスピーカーシステムを使っている人の多くは、
出力音圧レベルという項目はさほど気にしていないようだ。

この項の(その4)で、
技術の進歩は拡張といいかえたほうがしっくりくる、と書いた。
ならばとにかく高能率であることを目指したスピーカーを古いといって切って捨てることもできるけれど、
古き良き時代のスピーカーは、集中というアプローチがとられたモノとして認識すべきではないのか。

新しい/古い、ではなく、拡張/集中なのではないか。

2014年ショウ雑感(プロフェッショナルとは・その4)

何をもってオーディオのプロフェッショナルというのか。
こまごま書く気は、いまはない。

ただひとつだけ書きたいことがある。
ハイエンドオーディオショウで言い訳ばかりしていた人、
オーディオ・ホームシアター展で隣の出展社の悪口を、来場者に聞こえるようなところで話していた人、
このふたりに決定的に欠けていたのは、清しさだと思う。