オーディオは男の趣味であるからこそ(その4)
心にかなった遊びのことを、勝遊ということを、
漢詩にうとい私はさきごろ知った。
名前に勝の字がつく私は、
オーディオはまさしく勝遊だと思ったし、
オーディオはまさしく男の趣味であることを、この勝遊があらわしているともおもった。
心にかなった遊びのことを、勝遊ということを、
漢詩にうとい私はさきごろ知った。
名前に勝の字がつく私は、
オーディオはまさしく勝遊だと思ったし、
オーディオはまさしく男の趣味であることを、この勝遊があらわしているともおもった。
このテーマで、製品か商品かを書き進める前に書いておきたいことがある。
ここでは商品批評、製品批評とは書いているが、
商品評論、製品評論とは書いていない。
例えば試聴記。
ステレオサウンドでやる総テストにおける試聴記は、批評である。
商品批評なのか製品批評なのかを、ここでは書いていこうとしている。
オーディオ評論家による試聴記は、評論ではないのか。
私がオーディオ評論家と認めている人の書いている試聴記であっても、
それは批評である、と考えている。
だから商品批評なのか製品批評なのか、と考えている、ともいえる。
場合によっては、評論に近づいている試聴記もある。
評論と呼んでもよさそうな試聴記もある。
それでも、やはり批評だと感じている。
以前のステレオサウンドでは、総テストの特集の巻頭には、
それぞれの評論家による「テストを終えて」という試聴(テスト)後記があった。
このテスト後記は、評論でなければならない。
私が熱心に読んでいたころのステレオサウンドのテスト後記は、評論といえた。
いまはそうとはいえない。
試聴記という批評も、オーディオ評論家にとっては評論活動のひとつであっても、
それでも批評と評論がごっちゃにされることはなかった、と感じている。
もうひとつ例を挙げれば、ベストバイ・コンポーネントにおける各評論家のコメント。
決して長くはない、というよりも短い文章ではある。
私がいちばん面白かったと感じた43号のベストバイでも、試聴記よりも短い文章である。
だが、ベストバイの、それぞれのオーディオ機器についての文章は、
はっきりと評論でなければならない。
商品批評もしくは製品批評ではあってはならない。
それゆえにベストバイの文章は、書き手にとってひじょうに負担の大きいものである。
もともそういえるのは、ベストバイの文章が評論であると認識しているうえで、
そう書くようにつとめている人に限って、ではあるが。
瀬川先生はベストバイの原稿書きはしんどい、といわれていたそうだ。
そのはずだ。
評論でなければならないからだ。
もうながいつきあいのKさん。
彼もオーディオマニアで、録音関係の仕事もしている。
何年前だったか、B&Wのスピーカーのことが話題になった。
この項で書いていることに近いことを話していた。
Kさんがいうには「Matrixシリーズはいい」ということだった。
仕事(レコーディングのモニター)にも使えるだけでなく、
家庭用スピーカーとしても魅力的である、と。
その後も、ことあるごとにKさんはMatrixシリーズだけは違う、と力説する。
確かにレコーディングスタジオに、いまもまだMatrixシリーズが使われているところはある。
予算がないから最新モデルに買い替えられていのではなく、
あえてMatrixシリーズを使い続けているようである。
いま書店に無線と実験 6月号が並んでいる。
実はひさしぶりに無線と実験を買った。
6月号には「ソニー・ミュージックスタジオ アナログカッティングルーム完成」の記事がある。
3月にオーディオ関係のサイトでニュースになっていたから多くの方が知っているように、
ソニー・ミュージックがアナログディスクのカッティングシステムを導入している。
3月の時点では、ノイマンのカッティングシステムということはわかっても、
それらはどうやって調達したのかまではわからなかった。
ソニー・ミュージックが旧CBSソニー時代のカッティングシステムを、
どこかにしまっていたとは思えない。
無線と実験の記事には、そのあたりのことも載っている。
記事は2ページ。
10点の写真があって、その一枚にマスタリングシステムが写っている。
ここもモニタースピーカーは、B&WのMatrix 801S2である。
スピーカーは、鳴らす人によって、時として別モノのように鳴る。
ずっとずっと昔からいわれ続けている。
このことを否定するオーディオ評論家はいない(はずだ)。
どのオーディオ評論家は、表現は違っても、同じ趣旨のことをいったり書いたりしている(はずだ)。
B&Wの800シリーズを高く評価しながらも、
決して自宅で鳴らそうとしないオーディオ評論家であっても、そのはずである。
B&Wの800シリーズを仕事(おもにステレオサウンドの試聴室)で聴いている。
ならばこそ、と私などは思う。
ほんとうにB&Wの800シリーズを優れたスピーカーだと高く評価して、
ステレオサウンドの誌面を通じて読者にもすすめているのであれば、
編集部が鳴らす試聴室の音よりも、
別モノのように800シリーズを自分のリスニングルームで鳴らせるはずである。
スピーカーシステムは同じでも部屋がまず違う。
アンプもCDプレーヤーなどのオーディオ機器が違う。
そしていちばんのファクターとしての鳴らし手の違いがある。
B&Wの800シリーズが優れたスピーカーであるならば、
ステレオサウンド試聴室での、いわば仕事モードでの音、
それから自分のリスニングルームでの、自分ひとりのための音、
そういう音も鳴らせるはずではないのか。
なのに「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」が、
現状であるのは、どうしてなのか。
(その2)を書いてから、理由をいくつか考えてみた。
最初に考えたのは、B&Wの800シリーズはウィントン・マルサリス的スピーカーなのか、だった。
私はウィントン・マルサリスの演奏についてあれこれいえるほど、
ウィントン・マルサリスのレコードを聴いているわけではない。
ただウィントン・マルサリスの名前を、
ジャズにあまり関心のなかった私でも耳にするようになったころ、
同じくらい耳にしていたのは、
「ウィントン・マルサリス、うまいけど、つまらないよね」的なことだった。
「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」、
このオーディオマニアの声は、輸入元にも届いていると思うし、
オーディオ雑誌の編集部にも、オーディオ評論家の耳にも届いているであろう。
B&Wの800シリーズの評価が高いのはここ一、二年のことではない。
結構前から評価は高かった。
ステレオサウンド試聴室のリファレンススピーカーとして800シリーズが使われるようになって、
どのくらい経つのだろうか。
誌面での評価が高く、表紙にも何度か登場している。
賞にも選ばれる。
リファレンススピーカーとしても使われる。
それだけ誌面に登場することの多くなっていくとともに、
「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」の数も多くなっていっている。
むしろ、最近ではあまり口にしなくなりつつあるような気すらする。
それでも、この項を書き始めるすこし前に、
「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」を聞いている。
あからさまに、このことを話題にしない人でも、
心のどこかに「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」がひっかかっているんだろう。
それが何かの拍子にフッと出てしまう。
初対面の人から「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」といわれた場合と、
よく話をする友人の口から「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」が出た場合、
こちらが口にする言葉は同じとはいえない。
友人の場合は、何もかも、とまではいかなくとも、
おおよそのことは察しての「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」である。
初対面の人の場合では、
どういう意図で「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」なのかを、
こちらとしては探ってしまうところがあるといえばある。
本当に疑問に感じての「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」なのか、
それとも何か裏情報のようなことを知っているんでしょう、それを聞かせてほしい、
という「800シリーズ、(オーディオ評論家は)誰も使っていないよね」のことだってあろう。
いっておくが、そんな裏情報のようなことは知らない。
なぜ、オーディオ評論家がB&Wの800シリーズを使わないのか──、
本音の理由を、私も訊いてみたいくらいである。
本音の理由を知らないからこそ、こうやって書いているわけだ。
1977年夏に、ステレオサウンドの姉妹誌テープサウンドからRecord’s Bibleが出た。
この別冊の表紙も、
「コンポーネントステレオのすすめ」「コンポーネントステレオの世界 ’78」と似ている。
いくつものオーディオ機器(ここではアクセサリー)をレイアウトしての表紙である。
ただ「コンポーネントステレオのすすめ」と違うのは、一発撮りであるという点。
「コンポーネントステレオのすすめ」ではスピーカー、アンプ、アナログプレーヤーなどを、
正面からの撮影を個別に行った上で、写真を切り抜いてのレイアウトである。
同じようであっても、「コンポーネントステレオのすすめ」とRecord’s Bibleは違う。
Record’s Bibleは表紙デザイン=田中一光、表紙撮影=安齊吉三郎となっている。
Record’s Bibleの表紙がユニークなのは、表4(裏表紙)も、
表紙と続いている、というか、同じ意図でのデザインである。
といっても表4は多くのムック、オーディオ雑誌がそうであるように広告である。
Record’s Bibleの表4も広告。ビクターの広告になっている。
しかも表1(表表紙)と表4にはカバーのようにそれぞれ折り返しがあって、
その10cmくらいのところも広告になっている。
表紙の延長となっているところにはパイオニアの広告、
裏表紙の延長は、そのままビクターの広告である。
もちろんこの部分も表紙と同じ意図のデザインであり、
おそらく表1、表4、それと折り返しのところも含めての一発撮りのはずだ。
オーディオに関する、さまざまな知識、
技術的な知識、オーディオの歴史についての知識、ブランドに関する知識など、
そういった知識をどれだけ多く身につけていたとしても、オーディオの入門書が書けるわけではない。
知識を体系化できていなければ、オーディオの入門書は書けない。
知識の量は少なくとも、体系化できている人と、
知識の量は多くとも、体系化できていない人とでは、
知性があるかないか、ということにつきる。
知識を体系化していくのに必要なのは、想像力である。
想像力がない人は、どれだけ知識を多く、それも正確に身につけようと体系化はできない。
解説書は書けよう、でも入門書は無理である。
書き手にだけいえることではなく、
つくり手側にいる者すべてにいえることで、編集者もそうである。
編集者に想像力が欠如していては、どんなに知識があっても(それもあやしいかったりするが)、
体系化は無理な話であり、入門書をつくることも無理である。
名ばかりの入門書だけが増えていく。
知性の感じられない入門書ばかりが世に出てくるようになった。
知性の感じられない入門書で、広い・深いオーディオの世界を覗きこむことができようか。
オーディオに興味を持ちはじめたころ、
ステレオサウンドをはじめとするオーディオ雑誌を見ては、ため息をついていた。
東京はいいなぁ……、というため息だった。
1970年代後半、東京にはいくつものオーディオ関係のショールームがあった。
よく知られていたのはサンスイ、それからラックス、オンキョーなどがあった。
頻繁に、定期的なものをふくめて催し物が行われていた。
熊本のオーディオ店が瀬川先生を定期的に招いてくれていたといっても、
数ヵ月ごとであった。
それが東京は毎月、いや毎週、行ってみたいと思わせることが開かれていた。
でも、それらのショールームも少しずつ減っていった。
以前は、晴海の見本市会場で一週間ほど行われていたオーディオフェアも、
いまではOTOTENになり、二日だけの開催(それでもやってくれているから批判的ではありたくない)。
1980年ごろからオーディオ業界は斜陽産業であった。
こう書くと、そうじゃないだろう、と思われるだろうが、実情はそうである。
東京にいても、ため息をつくのか、というと、そうとばかりとはいえない。
新しい動きがあるからだ。
5月24日、つまり明日、渋谷にStylus & Grooveがオープンする。
業務内容にはオーディオ機器、アナログディスクの販売も含まれているが、
オーディオショールームがメインといっていい感じである。
しかもアナログディスクを主体とした運営が行われるようだ。
詳しいことはリンク先のStylus & Grooveのウェブサイトをごらんいただきたい。
その人個人の説をつらぬいたオーディオの入門書は、主観的にならないのか。
オーディオの入門書ならば客観的であるべき──、と考える人はいると思う。
そういう人たちがつくり手側にいるから、あたりさわりのない入門書まがいの本が出てくる。
考えてほしいのは、オーディオの入門書はオーディオの解説書か、ということだ。
解説書であるならば、客観的なことが書けよう、解説書なのだから。
だが入門書は、解説書ではない。
同じ意味では、評論は解説ではない。
評論に客観性を求める人がいるが、
そういう人は評論を解説だと勘違いしているのではないのか。
オーディオ評論とオーディオ解説をいっしょくたに捉えて、
オーディオ評論に対して主観的すぎる、客観的でない、ということ自体がおかしい、と私は思っている。
オーディオのシクミについて分かりやすく解きました──、
それは解説書である。どこまでいっても解説書であって、入門書とはいえない。
入門書とは、オーディオの入門書とは、(その14)で引用している瀬川先生のあとがきにすでに書かれている。
その中の「第二に」のところを.もういちど読んでほしい。
これからオーディオの世界に入ってこようとしている者が、
オーディオという広い・深い趣味の世界を覗くことはまず無理である。
誰かの目を借りて、その広い・深い世界を覗きこむことしかできない。
誰の目を借りるのか。
これは読み手側にとって大事なことであり、
書き手側にとっては読み手の目となることをどれだけ意識しているのか、
そのために大事なことは、その人個人の説をつらぬくこと、それ以外になにがあるのか。
いま書店で購入できるオーディオの入門書で、
ひとりの筆者による本はあるのだろうか。
あったような気はするが、誰が書いていたのかを目を通していたはずなのに思い出せない。
思い出せないというのは、その入門書が「コンポーネントステレオのすすめ」とは、
根本的に違っているから、と私は思っている。
瀬川冬樹が書いていないから「コンポーネントステレオのすすめ」とは違う、とか、
「コンポーネントステレオのすすめ」的内容でないから──、そんな理由からではない。
あとがきにある
《「結局瀬川個人のものの見方しかないのだから当りさわりのない入門書ではなく、瀬川個人の説をつらぬきなさい」と強くはげましてくださった坂東清三氏》、
これにつきる。
当りさわりのない入門書だから、「コンポーネントステレオのすすめ」とは違うのである。
筆者個人の説をつらぬきとおしていないから「コンポーネントステレオのすすめ」とは違う。
この項で取り上げた岡先生の「レコードと音楽とオーディオと」も、まさしくそういう本である。
当りさわりのない入門書ではない。
岡俊雄個人の説をつらぬきとおしている入門書である。
「コンポーネントステレオのすすめ」のあとがきの最後に、
参考書として二冊を挙げられている。
一冊は、オーディオに関する全般的な知識の体系化に──、ということで、
オーム社から出ていた「オーディオ百科」(全四巻、荻昌弘篇)。
もう一冊は、レコードに関するユニークな解説書として──、ということで、
岡先生の「レコードと音楽とオーディオと」。
私をオーディオの世界に導いてくれた入門書も、
五味康祐個人の説がつらぬきとおされていた。
井上先生がフランスのスピーカー、キャバスを選ばれたのは、
日本語の「色」とフランス語の「色」が近いという理由からではない。
声の臨場感、生々しさ、それに定位をシビアに要求した場合に、
中高域を受け持つユニットの振動板が金属であれば、どうしても金属製の音は避けられない。
そこで高分子系のマイラー、フェノールの振動板のユニットをもつモノとして、
第一に選択されたのがロジャースのLS3/5Aで、
この延長線上でもう少しスケール感の出せるスピーカーとしてのBrigantinである。
このころの私にとってBrigantinは、JBLの4343以上に気になる存在だった。
JBLは地方の、少し大きなオーディオ店にはたいてい置いてあった。
一方のキャバスはどこにもなかった。
当時のキャバスの輸入元は成川商会。
JBLの輸入元の山水電気との規模の違い、
ブランドの知名度の違い、それらが重なってのことなのだろうが、
Brigantinを聴くことはついになかった。
聴きたくとも聴けなかったスピーカー、
スピーカーにかぎらず、アンプもカートリッジもそうだけど、
特にスピーカーは聴けなかったものの存在は、時としてずっと心に残ってしまう。
Brigantinが、そうだった。
そうだったからレコード芸術での内田光子のインタヴューを読んで、
日本語の「色」とフランス語の「色」の話が、私においてはBrigantinとつながっていき、
内田光子のインタヴューの、そのところだけを強く憶えてしまっていた。
そして考えるのは、ヤマハのNS5000の試作機が、
日本語の歌において精彩を欠いていたのは、「色」の再現ができていなかったのか。
NS5000は昨年発売になっている。
2016年のインターナショナルオーディオショウでのNS5000の音については、
私にとってはどうでもいい音になってしまっていた。
その後もじっくり聴く機会はないから、これ以上のことは書かないし、
日本語の歌がきちんと鳴るようになったのかも確認していない。
十年は経っていないと思う。
七、八年前のレコード芸術(だったと記憶している)に、
内田光子のインタヴュー記事が載っていた。
来日時のインタヴューのはずだから、2009年のころだろうか。
掲載誌のレコード芸術が手元にないので、はっきりとはいえないが、
このあたりのインタヴューで間違いないと思う。
そこでのインタヴューで、内田光子は、
言葉と「色」は深く結びついている、と語っていたのが強く記憶に残っている。
言葉と「心」も切り離せない、ともいっていた。
そしてヨーロッパの言語の中で、日本語に近いのがフランス語である、とも。
内田光子は他のインタヴューでも語っているが、
日本語を特殊な言語として、英語がイエス、ノーをはっきりと相手に伝える言語に対し、
日本語は八方丸くおさめるための曖昧なところを残す言語である、と。
レコード芸術でのインタヴューは言語の「色」なのだから、
日本語とフランス語の「色」が近い、ということだろう。
なぜ、このインタヴューの、この部分を憶えているのかというと、
オーディオとの関係においてである。
私が最初に手にしたステレオサウンドは40号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」である。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」に、井上先生による組合せがある。
フランスのキャバスのスピーカー、ブリガンタン(Brigantin)を、
AGIの511とQUADの405、それにカートリッジはAKGのP8ESで鳴らす、というものだった。
この組合せは、女性ヴォーカル、それも日本人による日本語の歌をひっそりと聴く、というものだった。
ジャニス・イアンのレコードも含まれていたから、
必ずしも日本語の歌というわけではないが、
そこでの組合せの記事で山崎ハコの印象が強かったため、そんなふうに受けとめてもいた。
ヤマハ、こういった場でのプレゼンテーションはソツがない。
かけるディスクの選択もそういえる。
でも2015年のインターナショナルオーディオショウでの一枚だけは、
少し気になるところというか、疑問に感じるところがあった。
山口百恵の歌だった。
よく知られている曲ではなく、私は初めて聴く山口百恵の歌だった。
まったく冴えない音が鳴っていた。
初めて聴くわけだから、録音のせいかもと思うわけだが、
他のディスクの鳴り方からすると、そうとも思えない。
山口百恵の歌がうまく鳴らなかったから、
ヴォーカルの再生がNS5000の試作機は苦手としていたのか、というとそうではない。
誰だったのか忘れてしまったが、外国人歌手による歌はなかなかよかった。
それに、これも誰だったのか忘れてしまったが、
日本人による日本語の歌でも、歌謡曲と呼ぶよりもJ-POPと呼んだほうがいい、
そういった歌においては、えっ、と思うほど、山口百恵の歌の時とは違う鳴り方をしていた。
山口百恵の歌での精彩のなさが、そこにはないのだから。
実はプレゼンテーションが始まる前、
つまり開始時間の前に、数曲鳴らされていた。
その中にも、日本語の歌はあった。
クラシックの歌い手による日本語の歌で、
実はこれもうまく鳴っていなかった。
山口百恵の歌を聴いていて、この時の音を思い出すほどに、同じように精彩の欠けた鳴り方だった。
思うに、日本語の発音として、
クラシックの歌い手と山口百恵は問題なく、
J-POPの歌い手においては、いわゆる巻舌っぽい日本語であった。
(その15)で黒田先生の、ステレオサウンド 59号の文章を引用している。
もう少し、別のところを引用したい。
*
なんといったらいいのでしょう。すくなくともぼくがきいた範囲でいうと、これまでマーク・レヴィンソンのコントロールアンプのきかせた音は、適度にナルシスト的に感じられました。自分がいい声だとわかっていて、そのことを意識しているアナウンサーの声に感じる嫌味のようなものが、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプのきかせる音にはあるように思われました。針小棒大ないい方をしたらそういうことになるということでしかないのですが。
アメリカの歴史学者クリストファー・ラッシュによれば、現代はナルシシズムの時代だそうですから、そうなると、マーク・レヴィンソンのアンプは、まさに時代の産物ということになるのかもしれません。
それはともかく、これまでのマーク・レヴィンソンのコントロールアンプをぼくがよそよそしく感じていたことは、きみもしっての通りです。にもかかわらず、きみは、雨の中をわざわざもってきてくれたいくつかのコントロールアンプの中に、ML7Lをまぜていた。なぜですか? きみには読心術の心得があるとはしりませんでした。なぜきみが、ぼくのML7Lに対する興味を察知したのか、いまもってわかりません。そのことについてそれまでに誰にもいっていないのですから、理解に苦しみます。
(中略)
ML7Lの音には、ぼくが「マーク・レヴィンソンの音」と思いこんでいた、あの、自分の姿を姿見にうつしてうっとりみとれている男の気配が、まるで感じられません。ひとことでいえば、すっきりしていて、さっぱりしていて、俗にいわれる男性的な音でした。それでいて、ひびきの微妙な色調の変化に対応できるしなやかさがありました。そのために、こだわりが解消され、満足を味ったということになります。
*
黒田先生が、よそよそしく感じられたマークレビンソンのアンプとは、
LNP2やJC2のことである。
59号で聴かれているML7は、回路設計がジョン・カールからトム・コランジェロにかわっている。
JC2(ML1)とML7の外観はほぼ同じでも、
回路構成とともに内部も大きく変化している。
そこでの大きな変化は、とうぜん音への変化となっていあらわれている。
黒田先生が「マーク・レヴィンソンの音」と思いこまれていた
《自分の姿を姿見にうつしてうっとりみとれている男の気配》、
こういう音を出すアンプが、健康な心をもった聴き手に合うか(向いているか)といえば、
《すっきりしていて、さっぱりしていて、俗にいわれる男性的な音》のML7の方がぴったり合うし、
黒田先生がML7に惚れ込まれ購入されたのも、至極当然といえよう。
小林利之氏の文章を読んですぐには、そうとは思えなかった。
カラヤン好きの知人がいて、彼を見ていると、どうにもそうは思えないことも関係していた。
数年後、1987年1月、ウィーン・フィルハーモニーのニューイヤーコンサートにカラヤンが登場した。
それまではマゼールだった。
ボスコフスキーが1979年秋にニューイヤーコンサートを辞退してからの七年間、マゼールだった。
私がNHK中継で見るようになったのも、マゼールの時代だった。
いつまでマゼールなのだろうか、と思いながら見ていた。
そこにカラヤンの、いきなりの登場だった。
このころのカラヤンは相当に体調が悪かったともきいている。
それでもカラヤンは登場している。
カラヤンのニューイヤーは、これ一回きりである。
カラヤンもそうなるとわかっていたのかもしれないし、
ウィーン・フィルハーモニーのメンバーもそう思っていたのかもしれない。
1987年のニューイヤーコンサートから、録音も再開されるようになったし、
毎年リリースされるようになった。
カラヤンのニューイヤーコンサートを聴いて、
小林利之氏の文章を思い出してもいた。
確かに、カラヤンの演奏が、健康な心を持った聴き手のため、ということに、
完全ではないものの同意できるようになった。
カラヤン好きの知人は、そういえばクーベリックはほとんど聴いていなかったなぁ、と思い至った。
小林利之氏は、クーベリックの演奏もカラヤン同様に、と書かれていた。
カラヤンとクーベリックの演奏を、好んで聴く人は、健康な心を持っているのかもしれない。
ならば、ここでの組合せに選ぶアンプも、そういうアンプを持ってこよう。