Date: 6月 22nd, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か
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必要とされる音(その5)

ここ数年、私の中でヴァイタヴォックスの存在が少しずつ大きくなっているようだ。
ちょっとしたことがきっかけで、ヴァイタヴォックスのことを思い出すことが増えている。

別項「日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く)」を書いてるから、ということも、
喫茶茶会記でのaudio wednesdayで、アルテックを鳴らすようになったことも、
それに齢をとったことも、そんなことが関係してのことなのだろう。
とにかくヴァイタヴォックスのことが気になる頻度が、今年は増えている。

そうなると思い出すことも増えてくる。
ヴァイタヴォックスに直接関係のないことでも、思い出す。
たとえば、こんなこともだ。
     *
 そこで再びアルテックだが、味生氏の音を聴くまでは、アルテックでまともな音を聴いたことがなかった。アルテックばかりではない。当時愛読していた「ラジオ技術」(オーディオ専門誌というのはまだなくて、技術専門誌かレコード誌にオーディオ記事が載っていた時代。その中で「ラ技」は最もオーディオに力を入れていた)が、海外製品ことにアメリカ製のスピーカーに、概して否定的な態度をとっていたことが私自身にも伝染して、アメリカのスピーカーは、高価なばかりで繊細な美しい音は鳴らせないものだという誤った先入観を抱いていた。
 味生氏の操作でシュアのダイネティックが盤面をトレースして鳴り出した音は、そういう先入観を一瞬に吹き払った。実に味わいの深い滑らかな音だった。それまで聴いてきたさまざまな音の大半が、いかに素人細工の脆弱な、あるいは音楽のバランスを無視した電気技術者の、あるいは一人よがりのクセの強い音であったかを、思い知らされた。それくらい、味生邸のスピーカーシステムは、とびきり質の良い本ものの音がした。
 いまにして思えば、あの音は味生氏の教養と感覚に裏づけられた氏自身の音にほかならなかったわけだが、しかしグッドマンとアルテックの混合編成で、マルチアンプで、そこまでよくこなれた音に仕上げられた氏の技術の確かさにも、私は舌を巻いた。その少し前、会社から氏の運転される車に乗せて頂いたときも、お宅の前の狭い路地を、バックのままものすごいスピードで、ハンドルの切りかえもせずにグァーッとカーブを切って門の中にすべりこませたそれまで見たことのなかった見事な運転に、しばし唖然としたのだが、音を聴いてその驚きをもうひとつ重ねた形になった。
 使い手も素晴らしかったが、アルテックもそれに勝とも劣らず、見事に応えていた。以前聴いたクレデンザのあの響きが、より高忠実度で蘇っていた。最上の御馳走を堪能した気持で帰途についた。
     *
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のアルテック号掲載の、
瀬川先生の文章「私のアルテック観」からの引用だ。

瀬川先生が味生氏の音を聴かれたのは、昭和三十年代早々、とある。
モノーラルのころだ。

私が、この文章を思い出したのは、
《以前聴いたクレデンザのあの響きが、より高忠実度で蘇っていた》、
ここのところである。

アルテックがクレデンザならば、
ヴァイタヴォックスはさしずめHMVではないか、
そんなことを思って、である。

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