Archive for category テーマ

Date: 6月 21st, 2017
Cate: バイアス

オーディオとバイアス(その2)

CDが登場したころ、よく耳にしたことがある。

LPはジャケットがまずCDよりも大きい。
そのジャケットから内袋に入ったディスクを手稲に取り出す。
さらに内袋から、丁寧にディスクを取り出す。
指紋や手の脂がディスクにつかないように、ディスクの縁とレーベルでディスクを支える。

それからターンテーブルにディスクを置く際も、
レーベルにヒゲ(センタースピンドルの先端でこすった跡)がつかないように、である。

レコードのクリーニング、カートリッジ針先のクリーニングを経て、
ようやくカートリッジをディスクに降ろす。
とうぜん、この作業も慎重に、である。

CDは、というと、片手でケースを開けることもできるし、片手で持ち、
CDプレーヤーのトレイに置く際も、LPのように神経質になることはない。
クリーニングも基本しない。
取り扱いは、ずっと気楽にできる。

そのことをよし、と捉える人もいれば、
LPをかけるときの、一種の儀式的な行為が必要なくなったから、
聴く前の気構えのようなものがなくなってしまった──、
そんなことがよくいわれていた。

LPをかけるときの一種の儀式、
これもバイアスのひとつであり、
バイアスを必要とする聴き手がいる、ということである。

Date: 6月 21st, 2017
Cate: バイアス

オーディオとバイアス(ブラインドフォールドテスト・その1)

その1)を書いて約一年半。
(その2)を書く前に、ふと思いついたことがでてきた。

ステレオサウンド 58号での、瀬川先生によるSMEの3012-R Specialの記事である。
     *
 ホンネを吐けば、試聴の始まる直前までは、心のどこかに、「いまさらSMEなんて」とでもいった気持が、ほんの少しでもなかったといえば嘘になる。近ごろオーディオクラフトにすっかり入れ込んでしまっているものだから、このアームの音が鳴るまでは、それほど過大な期待はしていなかった。それで、組み合わせるターンテーブルには、とりあえず本誌の試聴室に置いてあったマイクロの新型SX8000+HS80にとりつけた。
 たまたま、このアームの試聴は、別項でご報告したように、JBLの新型モニター♯4345の試聴の直後に行なった。試聴のシステム及び結果については、400ページを併せてご参照頂きたいが、プレーヤーシステムはエクスクルーシヴP3を使っていた。そのままの状態で、プレーヤーだけを、P3から、この、マイクロSX8000+SMEに代えた。カートリッジは、まず、オルトフォンMC30を使った。
 音が鳴った瞬間の我々一同の顔つきといったらなかった。この欄担当のS君、野次馬として覗きにきていたM君、それに私、三人が、ものをいわずにまず唖然として互いの顔を見合わせた。あまりにも良い音が鳴ってきたからである。
 えもいわれぬ良い雰囲気が漂いはじめる。テストしている、という気分は、あっという間に忘れ去ってゆく。音のひと粒ひと粒が、生きて、聴き手をグンととらえる。といっても、よくある鮮度鮮度したような、いかにも音の粒立ちがいいぞ、とこけおどかすような、あるいは、いかにも音がたくさん、そして前に出てくるぞ、式のきょうび流行りのおしつけがましい下品な音は正反対。キャラキャラと安っぽい音ではなく、しっとり落ちついて、音の支えがしっかりしていて、十分に腰の坐った、案外太い感じの、といって決して図太いのではなく音の実在感の豊かな、混然と溶け合いながら音のひとつひとつの姿が確かに、悠然と姿を現わしてくる、という印象の音がする。しかも、国産のアーム一般のイメージに対して、出てくる音が何となくバタくさいというのは、アンプやスピーカーならわからないでもないが、アームでそういう差が出るのは、どういう理由なのだろうか。むろん、ステンレスまがいの音など少しもしないし、弦楽器の木質の音が確かに聴こえる。ボウイングが手にとるように、ありありと見えてくるようだ。ヴァイオリンの音が、JBLでもこんなに良く鳴るのか、と驚かされる。ということは、JBLにそういう可能性があったということにもなる。
 S君の提案で、カートリッジを代えてみる。デンオンDL303。あの音が細くなりすぎずほどよい肉付きで鳴ってくる。それならと、こんどはオルトフォンSPUをとりつける。MC30とDL303は、オーディオクラフトのAS4PLヘッドシェルにとりつけてあった。SPUは、オリジナルのGシェルだ。我々一同は、もう十分に楽しくなって、すっかり興に乗っている。次から次と、ほとんど無差別に、誰かがレコードを探し出しては私に渡す。クラシック、ジャズ、フュージョン、録音の新旧にかかわりなく……。
 どのレコードも、実にうまいこと鳴ってくれる。嬉しくなってくる。酒の出てこないのが口惜しいくらい、テストという雰囲気ではなくなっている。ペギー・リーとジョージ・シアリングの1959年のライヴ(ビューティ・アンド・ザ・ビート)が、こんなにたっぷりと、豊かに鳴るのがふしぎに思われてくる。レコードの途中で思わず私が「おい、これがレヴィンソンのアンプの音だと思えるか!」と叫ぶ。レヴィンソンといい、JBLといい、こんなに暖かく豊かでリッチな面を持っていたことを、SMEとマイクロの組合せが教えてくれたことになる。
     *
試聴を始める前にはあった「いまさらSMEなんて」という気持。
それを、出てきた音がきれいさっぱり吹き飛ばしている。

さらに、JBLの4345、マークレビンソンのアンプについての、ある種の思い込みまでも、
吹き飛ばしている。

ほんとうに優れたオーディオ機器は、ブラインドフォールドテストでなくとも、
思い込みを聴き手から排除してくれるものだ、ということを、
この文章を読んで、当時感じていた。

だから無理して、3012-R Specialを買ったのだ。

ブラインドフォールドテストとオーディオ評論(その1)

別項「ステレオサウンドについて(その38)」で、
ステレオサウンド 48号について、私の中で決着のついていない号、だと書いた。

最近、ようやく決着がついた。
別項「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か、を書き進める前に)」を書いて、
気づいたことがあるからだ。

ブラインドフォールドテストは、どんなに厳密に行っても、
大がかりであっても、それだけではオーディオ評論にならないからである。

これも以前に書いているが、
私はステレオサウンドはオーディオ評論の本と認識している。
このへんは人によって違ってくるところで、私と同じ人もいれば、
いわゆるお買い物ガイドとして認識している人もいる。

ステレオサウンドをどう捉えるかによって、
ブラインドフォールドテストの記事に、どんな感想を抱くかは変ってくる。

ブラインドフォールドテストは、いうまでもなく、
ただ音を聴いているだけであり、
製品批評とも、実のところいえない段階の試聴テストである。

どれがいい音なのか、ただそれだけを知りたいという人にとっては、
ブラインドフォールドテストこそが、唯一の試聴テストで信頼できるということになっても、
私にとっては、まったく違う。

ブラインドフォールドテストは試聴を行う側のオーディオの力量が、徹底して問われる。
つまりステレオサウンドにおいては、ステレオサウンド編集部の力量が問われるわけで、
試聴者の力量と同等か、それ以上でなければ、厳密な意味でのブラインドフォールドテストは成立しない。
このことに関しては、別項にてもう少し詳しく書く予定でいる。

つまり音質評価としても、場合によってはまったく信用できない結果になってしまう。
ブランドフォールドテストを否定はしない。
正しく、厳密にやれればであるが、これが難しく、
その難しさを理解していない人のほうが、
ブランドフォールドテストこそが……、といっているのが実情といえよう。

しかもくり返すが、ブラインドフォールドテストだけでは、オーディオ評論にはならない。
一工夫も二工夫もしなければ、誌面のうえにオーディオ評論として展開・提示することはできない。
ここでも、編集部の力量が、通常の試聴テスト以上に問われるし求められる。

Date: 6月 19th, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(アルテック604・余談)

世田谷・砧に建てられた瀬川先生のリスニングルームにあったテーブルは、
EMTの930stの専用インシュレーター930-900の上にガラスの天板が置かれたものだった。

930-900を知らない人は、ちょっと変ったテーブルとしか思わないだろう。
930-900を知っている人は、その値段も知っているわけで、ニヤッとされるだろう。

マネしたいな、と思ったことがある。
トーレンスの101 Limitedを使っていたから、
930-900も持っていたけれど、テーブルの脚として使うわけにはいかなかった。

マネはしなかった、というよりマネできなかった。
それでも他のモノで同じことができないものか、と考えたことがある。

アルテックの604のことが浮んだ。すぐに浮んだ。
604の正面を上に向けて立てる。

604を安定させるために台座のようなモノは必要になると思うが、
604の上にガラスの天板を置く。
一本脚のガラスのテーブルになる。

Date: 6月 19th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

ホーン今昔物語(その2)

audio wednesdayでやろうと考えているホーンの比較試聴。
JBLの537-500と2397の比較。
どちらのホーンも、いまや古い世代のホーンになってしまった。

537-500はウェスターン・エレクトリック時代からある。そうとうに古い。
2397にしても、実のところ、けっこう古いホーンである。

岩崎先生がスイングジャーナル増刊「モダン・ジャズ読本 ’76」掲載の
「理想のジャズ・サウンドを追求するベスト・コンポ・ステレオ25選」に書かれている。
     *
 使い慣れたJBLをシステムとして生かすべく考えたのがこの2397ホーンと375ユニットの中高音用を組込んだシステムだ。52年発行の米国のあるオーディオ文献に掲載してあったウェスターン・エレクトリック社無響室の写真で、技術者の横に置いてあるスピーカー・システムが眼に止った。この、小型フロアー型とも思えるシステムに、大きさといい、形状といい、JBLの木製ラジアル中高音用ホーン2397をそっくりの高音ユニットが使われているではないか!
     *
当時、JBLのホーンで2397だけが木製だった。
しかももっとも薄いホーンでもあった。
家庭用ホーンとして、2397がいちばん適しているように思えた。

その2397でも、古いのだ。
ホーン型スピーカーには、その構造からくる特有のクセがどうしてもある。
それは古い世代のホーンのほうが、より強い、ともいえる。

そんな古いホーンの比較試聴をしようというのだから、
ホーン型そのものを認めていない人からみれば、バカなことをやろうとしている、とうつろう。

現在のJBLのホーンは、バイラジアルホーンと呼ばれる、
定指向性ホーン(Constant-Directivity Horn)である。

CDホーンと呼ばれることもあるし、アルテックはマンタレーホーンとも呼んでいた。

Date: 6月 19th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

ホーン今昔物語(その1)

1976年に登場したJBLの4343は、
ペアで100万円をこえるスピーカーシステムにも関わらず、驚くほどの数が売れている。

当時の輸入元の山水電気が正確な数を発表していないが、
伝聞では、ほんとうに驚く数である。
それに当時は並行輸入もけっこうあった。

今後、もしオーディオブームが来たとしても、
4343のような売行きをするモノは、もう現れないであろう。

でも、夢よ、もう一度、と思うわけだ。
JBLの輸入元がハーマンインターナショナルになってから、
4343に匹敵する売行きのモノはなかった。

ハーマンインターナショナルには、山水電気でJBLの担当だった人たちが移っている。
彼らにとって、夢よ、もう一度は、4343の新ヴァージョンだったのかもしれない。

これも伝聞ではある(とはいっても確度の高い)。
日本のハーマンインターナショナルは、JBLに、4343をもう一度と要求した、ときいている。
4343の新ヴァージョンである。

日本のハーマンインターナショナルの、その要求には音響レンズ付きのホーンの採用があったそうだ。
つまり4343のデザインそのままで、リファインされたモデルというわけだ。

JBLからは、音響レンズといった時代遅れのモノは採用しない、という返答だった(そうだ)。
そのはずだ。

JBLのホーンは、1981年登場のバイラジアルホーンから、新しい時代に突入している。
スピーカーの測定にコンピューターが導入され、
それまでは見えてこなかった様々な現象が可視化されている。

ホーンの開口部を塞ぐようなモノの存在は、
もうメリットよりもデメリットの方が大きい、という判断は正しいし、
それが時代の流れでもある。

おそらく4348は、日本のハーマンインターナショナルの要望に応えてのモデルのはずだ。
だからこそ、4343と4348を比較することで、JBLのホーンに対するポリシーがうかがえる。

Date: 6月 18th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その20)

グラシェラ・スサーナの日本語の歌と出逢ったのは1976年秋だった。
「五味オーディオ教室」とほぼ同じころに出逢っている。

そのころも歌のうまい歌手はいた。
テレビから流れてくる日本人の歌手の歌唱を聴いて、うまいと思ったことはある。
いい歌だ、と思ったこともある。

でもグラシェラ・スサーナの日本語の歌を聴いたとき、
これが歌なのか、とまいってしまった。
たった一枚のシングル盤を、その日を何度も何度も聴いた。

それから夢中になって聴いてきた。
聴けば聴くほど、不思議に思うことがあった。

グラシェラ・スサーナは1953年生れで、
1971年に初来日している。つまり18最で日本に来ている。
翌’72年に最初のアルバム「愛の音」が出ている。

よく知られる「アドロ・サバの女王」は’73年のアルバムだ。
グラシェラ・スサーナが18、19のころの録音である。

1970年代の終りごろ、テレビにもグラシェラ・スサーナは出ていた。
初来日から八年くらい経っていたはずなのに、日本語はたどたどしかった。

「愛の音」「アドロ・サバの女王」のころのスサーナは、
日本語はまったく話せなかったはずである。
なのに、グラシェラ・スサーナの日本語の歌に、
他のどんな歌手による日本語の歌よりも、私は感動した。

感動しながらも、なぜ? と疑問があった。
日本語が話せないのに……、という疑問である。

スサーナは、日本語の歌の「色」を感じとっていたのだろう。
最初に聴いてから40年が経っての結論である。

同時にアルテックでの日本語の歌が素晴らしかったのは、
アルテックのスピーカーが、”The Voice of the Theatre System”だから、
といってしまうと、あまりにも当り前すぎるが、
”The Voice of the Theatre System”の優れているのは、
声の明瞭度だけでなく、言葉の「色」の再現にあるのだろう。

Date: 6月 18th, 2017
Cate: マッスルオーディオ

muscle audio Boot Camp(その14)

アンプのカタログに載っているダンピングファクターではなく、
スピーカーユニットからみた実効ダンピングファクターには、
スピーカーに内蔵されているLCネットワークの出力インピーダンスも関係してくる。

ウーファーの場合、6dB/octスロープのネットワークでは、コイルが直列に入る。
コイルのインピーダンスは高域にいくにしたがって高くなっていく。
こういう特性をもつコイルが関係してくるし、
コイルも銅線を巻いたものだから、そこには直流抵抗も存在する。

12dBスロープだと、コイルに対し並列にコンデンサーがあり、
コンデンサーのインピーダンスは高域にいくにしたがって低くなる。
18dBスロープだと、もうひとつコイルが直列に入る。

ネットワークの次数の違いは、スロープの違いだけでなく、
出力インピーダンスについても考える必要がある。

実効ダンピングファクターには、これらの要素も含めて考えなければならない。
さらにスピーカー内部配線の具合によっても、ダンピングファクターは変化する。

よくアンプで、新型になって内部配線を見直したり、
保護回路のリレーを交換したりすることで出力インピーダンスの、これらによる上昇を抑え、
ダンピングファクターの数値を向上させた、と謳うことがある。

確かにアンプの出力端子でのダンピングファクターは向上している。
このことは、そんなわずかなことでも影響を受けるということを暗に語っている。

にも関わらず、
スピーカーシステム内部の、もっともっと影響を与える要素について触れられることは稀である。

それにアンプ単体でみても、ダンピングファクターはそう簡単に語れるものではない。

Date: 6月 18th, 2017
Cate: innovation

2016年に考えるオーディオのイノヴェーション(その3)

2017年になっているのに、タイトルに2016年とある理由は、(その1)に書いている。

スマートフォンからなのだろうか、
その分野の先端のモノに、スマート(smart)がつくようになったのは。

オーディオの各コンポーネントでは、スピーカーがいちばん遅れているといわれ続けてきた。
そのスピーカーに、いまではスマートがつくようになっている。

スマートスピーカー。
AppleからもHomePodというスマートスピーカーが登場した。
日本での発売は先になるようだが、これから各社からスマートスピーカーなるモノが登場してくるのか。

そうなったとしてしも、オーディオマニアがメインスピーカーとして、
スマートスピーカーを使うことは、まず考えられない。

いまのところはBGMとして音楽を簡単に流すシステムとしての存在であっても、
これから先はどうなるかは、なんともいえない。

スマートスピーカーは一台から使えるし、二台をペアリングして使えるモノもある。
それ以上の数になってもペアリングできるだろうし、
iPhoneが登場した10年前と、現在とではスマートフォンの機能・性能が違ってきた──、
というより存在そのものが変ってきた、といえる。

スマートスピーカーも、現在は10年前のiPhone的存在であっても、
10年後はどうなっているのかは、わからない。

そんなことを考えていたけれど、ここで書くつもりは最初はなかった。
けれど先日、Appleの新社屋をかなり離れたところから撮った写真を見た。

こんなに大きな建物なのか、と思うとともに、
オーディオ最後のイノヴェーションのカタチは、これなんだ、と直感した。

Date: 6月 18th, 2017
Cate: audio wednesday

audio wednesday(今後の予定)

確定しているわけではないが、近いうちにホーンの比較試聴をやりたいと考えている。
ドライバーはJBLの2441、
ホーンは、これまで何度か鳴らしている2397、
それに蜂の巣の愛称で知られる537-500(HL88)の比較である。

実は私も、このふたつのホーンを直接比較試聴したことはない。

1981年のステレオサウンドには、ユニット研究という連載記事があった。
JBLのホーンの比較試聴も行われていたし、
それぞれのホーンは、いくつかのところで別個に聴いてはいるから、
おおよその想像はつくというものの、それでも比較試聴できることは、いまから楽しみである。

トゥイーターも075を借りられそうである。

ウーファーはアルテックの416-8Cのままであるが、
ユニットであれこれ楽しめそうである。

Date: 6月 17th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(歴史の短さゆえか・その1)

ステレオサウンド 38号の特集「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」、
その中で、井上先生が最後に語られている。
     *
 ほとんどすべての人間が生まれながらに現実の音に反応しているはずです。それが再生音になると、どうしても他人の手引きや教えばかりをもとめるのか。いい音というのは、あなたがいまいいと思った音なんてすよ、とぼくはいっておきたい。つまり結局は、ご自分で探し出すことでしかないんです。
     *
なぜ再生音になると、そうなってしまうのか。
ひとつには、再生音の歴史が短いということが深く関係しているのかもしれない。

エジソンの発明から140年。
このころは録音・再生に電気を必要としなかった。

電気録音が行われるようになり、電蓄が登場するようになってからは、100年ほどしか経っていない。
SPの時代であり、モノーラルの時代でもある。

ステレオの時代になってからだと、まだ60年ほどである。
ステレオとは虚像である。
虚像の再生音を聴くようになってから、まだ60年と考えれば、
人がその判断に迷ってしまうのは、むしろ当然なのかもしれない。

Date: 6月 17th, 2017
Cate: ちいさな結論

理外の理(ちいさな結論)

ここにきて、オーディオとはとことん理外の理だ、と心底おもうようになってきた。

Date: 6月 17th, 2017
Cate: ディスク/ブック

THE DIALOGUE(その2)

別項で書いているように30年ぶりに「THE DIALOGUE」を聴いた。
それほど長くない時間で、しつこいくらいくり返し聴いた。
そのことを『30年ぶりの「THE DIALOGUE」』で書いた。
その8)まで書いて気づいた。

「THE DIALOGUE」はまさしく対話だ、と。
その1)で、あるジャズ好きの人から、
「音はいいけど、音楽的(ジャズ的)にはつまらない……」といわれた、と書いた。
そこには、ジャズではないというニュアンスも含まれていた。

30年前は、それに対して何もいえなかった。

30年ぶりに聴いて、楽器による対話だということを、実感した。
「THE DIALOGUE」というタイトルを忘れていたわけでもないし、
対話という意味があるのも知ってはいたが、それはあくまでも知識としてでしかなかった。

30年のあいだに、いくつもの「対話」をきいてきた。
それらがあったからこその、実感かもしれない。

「THE DIALOGUE」はまさしく対話だ、
だからこそジャズだ、といまならそういえる。

Date: 6月 16th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その19)

日本語を全く解さぬ者、と書いた。

日本語の歌を録音するには日本人でなければならない、という意味ではない。
日本で生まれ、日本で育ってきた日本人でなければ、
日本語の歌を録音することはできない、などとは思っていない。

日本語が話せなくとも、見事な日本語の歌を録れる人はいるはずだ。
一方で、どんなに日本語を流暢に話せる日本人であっても、
日本語の歌を見事に録れるとはかぎらない。

ここでも、内田光子の、言葉と「色」は深く結びついている、と語っていたことが頭に浮ぶ。
言葉と「心」も切り離せない、ともいっていたことも浮ぶ。

結局、そこなのだ、と思う。
日本語の「色」を録れる人とそうでない人とがいる。
それは、日本語の「色」を感じとれない人には、日本語の「色」は録れない、ということだ。
その意味での、日本語を全く解せぬ者、である。

「音楽 オーディオ 人々」という本がある。
トリオ(現ケンウッド)の創業者である中野英男氏の著書である。
この本に「日本人の作るレコード」という章がある。
そこにアンドレ・シャルランのことが書かれてある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之——N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
 事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
ここに出てくる
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」
というアンドレ・シャルランの言葉は、日本語の歌にもいえることのはずだ。

Date: 6月 15th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その18)

6月のaudio wednesdayで聴いた八代亜紀のCD「VOICE」は、
グラシェラ・スサーナ、藤圭子、美空ひばりの日本語の歌とは、はっきりと異質だった。

八代亜紀も昔の録音のCDならば、そんなことはなかったはずである。
今回聴いた八代亜紀のCDに関してのみなのか、それとも最近の録音がそうなのか。
そのへんははっきりとしないが、ふたつのスピーカーの中央から聴こえてくる八代亜紀の声には、
いわゆる肉体がなかった。

グラシェラ・スサーナ、藤圭子、美空ひばりにおいて、
十全な肉体の再現ができていた、とはいわないが、
少なくとも肉体を感じたし、その気配ははっきりとあった。

そこにグラシェラ・スサーナなり、藤圭子なり、美空ひばりがいるという、
ある種のリアリティがあった鳴り方だった。

ところがグラシェラ・スサーナ、藤圭子、美空ひばりよりも新しい録音の八代亜紀では、
リアリティが感じられなかった。
左右のスピーカーの中央から八代亜紀の声がしている、ただそれだけである。
しかもその日本語が不鮮明である。

音として不鮮明なのではない。
日本語ということばとしての不鮮明さがあった。

日本語を全く解さぬ者による、
しかも人の声も楽器の音も、明確な区別のないままの録音──、
そんなこと想像してしまうほど、日本語の歌を聴きたいと思っている者をがっかりさせる。

今回、八代亜紀のCDに感じたことは、J-POPと呼ばれる曲でも、
ここ最近何度か感じていた。
でも、それは、初めて聴く歌手の歌ということもあって、
そういう歌い方なのかもしれない……、と思っていた。

でも八代亜紀は、ずっと以前はテレビから流れる歌を聴いていたし、
「舟歌」はあるところでじっくり聴く機会もあった。

八代亜紀は、そういう歌い方をする歌い手ではない。
それとも八代亜紀の歌い方が変ってしまったのか……。
私はそうとは思えず、原因は録音側にあるよう気がしている。