Date: 6月 16th, 2017
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日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その19)

日本語を全く解さぬ者、と書いた。

日本語の歌を録音するには日本人でなければならない、という意味ではない。
日本で生まれ、日本で育ってきた日本人でなければ、
日本語の歌を録音することはできない、などとは思っていない。

日本語が話せなくとも、見事な日本語の歌を録れる人はいるはずだ。
一方で、どんなに日本語を流暢に話せる日本人であっても、
日本語の歌を見事に録れるとはかぎらない。

ここでも、内田光子の、言葉と「色」は深く結びついている、と語っていたことが頭に浮ぶ。
言葉と「心」も切り離せない、ともいっていたことも浮ぶ。

結局、そこなのだ、と思う。
日本語の「色」を録れる人とそうでない人とがいる。
それは、日本語の「色」を感じとれない人には、日本語の「色」は録れない、ということだ。
その意味での、日本語を全く解せぬ者、である。

「音楽 オーディオ 人々」という本がある。
トリオ(現ケンウッド)の創業者である中野英男氏の著書である。
この本に「日本人の作るレコード」という章がある。
そこにアンドレ・シャルランのことが書かれてある。
     *
シャルランから筆が逸れたが、彼と最も強烈な出会いを経験した人として若林駿介さんを挙げないわけにはいかない。十数年前だったと思うが、若林さんが岩城宏之——N響のコンビで〝第五・未完成〟のレコードを作られたことがあった。戦後初めての試みで、日本のオーケストラの到達したひとつの水準を見事に録音した素晴しいレコードであった。若くて美しい奥様と渡欧の計画を練っておられた氏は、シャルラン訪問をそのスケジュールに加え、私の紹介状を携えてパリのシャンゼリゼ劇場のうしろにあるシャルランのスタジオを訪れたのである。両氏の話題は当然のことながら録音、特に若林さんのお持ちになったレコードに集中した。シャルランは、東の国から来た若いミキサーがひどく気に入ったらしく、半日がかりでこのレコードのミキシング技術の批評と指導を試みたという。当時シャルラン六十歳、若林さんはまだ三十四、五歳だったと思う。SP時代より数えて、制作レコードでディスク大賞に輝くもの一〇〇を超える西欧の老巨匠と東洋の新鋭エンジニアのパリでの語らいは、正に一幅の画を思わせる風景であったと想像される。
 事件はその後に起こった。語らいを終えて礼を言う若林さんに、シャルランは「それはそうと、あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」と尋ねたのである。録音の技術上の問題は別として、シャルランはあのレコードの存在価値を全く認めていなかったのである。若林さんが受けた衝撃は大きかった。それを伝え聞いた私の衝撃もまた大きかった。
     *
ここに出てくる
「あなた方は何故ベートーヴェンやシューベルトのレコードなんか作るのですか」
というアンドレ・シャルランの言葉は、日本語の歌にもいえることのはずだ。

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