Date: 6月 15th, 2017
Cate:
Tags:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その18)

6月のaudio wednesdayで聴いた八代亜紀のCD「VOICE」は、
グラシェラ・スサーナ、藤圭子、美空ひばりの日本語の歌とは、はっきりと異質だった。

八代亜紀も昔の録音のCDならば、そんなことはなかったはずである。
今回聴いた八代亜紀のCDに関してのみなのか、それとも最近の録音がそうなのか。
そのへんははっきりとしないが、ふたつのスピーカーの中央から聴こえてくる八代亜紀の声には、
いわゆる肉体がなかった。

グラシェラ・スサーナ、藤圭子、美空ひばりにおいて、
十全な肉体の再現ができていた、とはいわないが、
少なくとも肉体を感じたし、その気配ははっきりとあった。

そこにグラシェラ・スサーナなり、藤圭子なり、美空ひばりがいるという、
ある種のリアリティがあった鳴り方だった。

ところがグラシェラ・スサーナ、藤圭子、美空ひばりよりも新しい録音の八代亜紀では、
リアリティが感じられなかった。
左右のスピーカーの中央から八代亜紀の声がしている、ただそれだけである。
しかもその日本語が不鮮明である。

音として不鮮明なのではない。
日本語ということばとしての不鮮明さがあった。

日本語を全く解さぬ者による、
しかも人の声も楽器の音も、明確な区別のないままの録音──、
そんなこと想像してしまうほど、日本語の歌を聴きたいと思っている者をがっかりさせる。

今回、八代亜紀のCDに感じたことは、J-POPと呼ばれる曲でも、
ここ最近何度か感じていた。
でも、それは、初めて聴く歌手の歌ということもあって、
そういう歌い方なのかもしれない……、と思っていた。

でも八代亜紀は、ずっと以前はテレビから流れる歌を聴いていたし、
「舟歌」はあるところでじっくり聴く機会もあった。

八代亜紀は、そういう歌い方をする歌い手ではない。
それとも八代亜紀の歌い方が変ってしまったのか……。
私はそうとは思えず、原因は録音側にあるよう気がしている。

Leave a Reply

 Name

 Mail

 Home

[Name and Mail is required. Mail won't be published.]