Archive for category 複雑な幼稚性

Date: 7月 8th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その34)

まだ書くのか、と思われようが、まだまだ書くことはある。
どこまで書くのかははっきりと決めているわけではない。

どのテーマでもそうなのだが、書いているうちに気づくことがある。
書くほどに出てくる。

気づくこと、思い出すことが出てくる。
書く、といっても、昔のように原稿用紙に筆記用具で書いているわけでなく、
キーボードを叩いているだけである。

その指の動きは、目の前の小さな何かを耕しているようにも思えることもある。
耕すことによって、気づくこと、思い出すことを発見しているのかもしれない。

書きは、ときどき誤変換として掻き、と出る。
書くも、掻く、と出る。

掻くには、犁などで田畑をすき返す、という意味もある。
他の意味もある。

長くなる。
書いていると、長くなってしまう。
その6)から、この件について書き始めて、
まだ書き続けている。

そうしながら思い出していた人がいる。
私がステレオサウンドで働くようになったのは、
この人のおかげ、といえるNさんのことを思い出していた。

いまも株式会社ステレオサウンドには、同姓のNさんがいるが違う人だ。
そのNさんよりも若く、私よりも七つ年上のNさんである。

当時、Nさんが二人いたため、若い方のNさんはジュニアと呼ばれていた。
私も、ジュニアさんと呼んでいた。その人のことである。

Date: 7月 5th, 2018
Cate: オーディスト, 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その33)

audist(オーディスト、聴覚障害者差別主義者)という言葉がある。
ステレオサウンドでも、誌面に登場している。
いまから七年前のことだ。
山口孝氏が、使われている。

おそらく山口孝氏は、スラングとしてのaudistに、こういう意味があるのを知らずに使われたのだろう。
このaudist(オーディスト、聴覚障害者差別主義者)については、
別項『「オーディスト」という言葉に対して』で、ある程度は書いている。
書きたいことすべてを書いたわけではない。

まだくすぶっているのを感じている。
そして、そこでまったく触れなかったことがある。

オーディオマニアの中には、
偏見といわれるのは承知のうえだが、ハイエンドオーディオと呼ばれる世界のオーディオマニアの中には、
このオーディストがいる、と感じている。

ただここでのオーディストは、聴覚障害者差別主義者とまではいえない。
聴覚に障碍のある人を差別していないオーディオマニアであっても、
耳が悪い人を、どこか小馬鹿にするところがあるのではないか。

ここでの「耳の悪い」は、聴覚障碍ではなく、
聴覚検査では問題はなく健常な聴覚の持主であっても、
オーディオマニアとして耳が悪いと呼ばれてしまう、
微妙な音の違いがあまりわからない人に対して使われる「耳の悪い」である。

ハイエンドオーディオの世界のマニアの中には、
自分こそが鋭敏で、最先端の感性の耳の持主とでも思い上がっている人がいない、といいきれるか。

別にハイエンドオーディオの世界のマニアだけでなく、
ある程度以上のキャリアの昔からのオーディオマニアの中にもいよう。

それでもハイエンドオーディオを指向しているオーディオマニアの方に、
そんなオーディストが多いと感じていることこそが偏見なのだとわかっていても、
今回のavcat氏の一連のツイートに、
柳沢功力氏の試聴記に対しての反論というより、
柳沢功力氏に向けたかのように読めるツイートに、
そんなオーディストの澱のようなものを感じとれる。

そんなふうに読むのは、私ぐらいかもしれない──、
それもわかったうえで書いている。

Date: 7月 4th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その32)

染谷一氏は、ステレオサウンドの編集長である。
編集長にいきなりなったわけではなく、その前は編集者であった。

私は編集者だけの経験しかないが、
それでも編集者と編集長の違いは、雑誌のあり方を含めてのことであることは感じている。

ステレオサウンドも雑誌のひとつである。
雑誌の編集長とは、将棋の棋士のようにも思う。

将棋の駒は、すべてが同じ動き(力)をもっているわけではない。
歩もいれば飛車、角行もいて、八種類。

これらの駒をどう活かしていくのかが、良き棋士なのではないか(将棋は素人なのだが)。
こう書いてしまうと、編集長の下にいる編集者がそれぞれの駒と受けとられるかもしれないが、
そうではなく、一冊の雑誌に掲載されるいくつもの記事こそが、それぞれの駒にあたる。

つまり編集長は棋士として、それぞれの駒(記事)を活かしていくことである。
ひとつの駒に力を一極集中してしまっては、勝負に勝てるわけがない。

いい記事をつくることは、いい編集者ならばできよう。
だからといって、編集者みなが、金将のような記事ばかりをつくっても、
いい雑誌になるとは限らない。

編集長がいるのは、そういう理由から、と考えることもできる。
編集長の仕事は、他にもあるのはわかっている。

ならば編集長(将棋の棋士)に求められるのは、先を読むこともそのひとつであろう。
行き当たりばったりに駒(記事)をいじっても、どうにもならない。

ステレオサウンド 207号は、特集としてスピーカーの試聴テストがあり、
ソナス・ファベールのパオロ・テッツォン氏による「三つの再生システムを聴く旅」もあり、
その他にも二本の導入記、新製品紹介などの記事がある。

編集長(棋士)としての、それぞれの記事(駒)の配置だとしたら、
なぜ、avcat氏に謝罪したのか──、と思うわけだ。

逆から考えれば、謝罪したことで、
染谷一氏の編集長(棋士)としての資質を疑っているわけでもある。

Date: 7月 4th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その4)

フルトヴェングラーの「音楽ノート」をひさしぶりに読み返していて、
ここをまた一度引用しておこう、とおもうところにであう。

これを引用するのは、これで三回目である。
     *
権力そのものではなく、権力の乱用が悪である。ビスマルクではなくして、ヒトラーが悪なのだ。思考する人間がつねに傾向や趨勢をのみを「思考する」だけで、平衡状態を考えることができないのは、まさに思考の悲劇である。平衡状態はただ感知されるだけである。言い換えれば、正しいものは──それはつねに平衡状態である──ただ感知され、体験されるだけであって、およそ認識され、思考されうるものではない。
     *
このフルトヴェングラーの言葉すら、
受けての「理解」によって、どうなっていくのだろうか。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その3)

丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節を引用するのは、これで四回目だ。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。
     *
この項で、引用の理由は書かなくていいだろう。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その2)

「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」

願望に基づく理解しかできない人がアマチュアであり、
願望と切り離したところで理解できるのがプロフェッショナルであるのは、
オーディオの世界でもいえるはずだ。

Date: 7月 2nd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その32)

ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のマッキントッシュ号。
巻末に「マッキントッシュ対マランツ」という特別テストが載っている。

副題として、〈タイムトンネル〉もし20年前に「ステレオサウンド」誌があったら……、
とついている。

1976年から20年ほど遡って、
当時のマッキントッシュのアンプとマランツのアンプの比較試聴である。

マッキントッシュはC8S+MC30、
マランツはModel 1+Model 6+Model 2である。

この記事を懐古趣味と一蹴するのは、簡単だ。
1976年はすでに40年前、そこからさらに20年なのだから、60年前のアンプについての記事を、
ここで取り上げるのは、ここでの試聴結果が、今回の謝罪の件にも関係してくるからだ。

機会があれば、ぜひ読んでほしい。
ここでは、菅野先生の発言のひとつだけを取り上げる。
     *
菅野 ほんと、そういう感じですよね。この二つは全く違うアンプって感じですな。コルトーのミスタッチは気にならないが、ワイセンベルグのミスタッチは気になるみたいなところがある。
     *
岡先生は《うまい例えだな。これ、ひっくり返したら全然だめだからね》と返されている。
ほんとうにそうである。

クラシックをまったく聴かない人にはわからない例えだろうが、
言い得て妙とは、まさにこのことだ。

コルトーのところは、他のピアニストに変えることはできない。
ワイセンベルグは、ワイセンベルグに限らない。
この記事が1976年ということもあってのワイセンベルグである。

ここでコルトー的なアンプはマッキントッシュであり、
ワイセンベルグ的なのはマランツである。

そして、この例えをマッキントッシュ、マランツのアンプではなく、スピーカーに置き換えてみる。
ワイセンベルグ的(マランツ)をYGアコースティクスのHailey 1.2に、
コルトー的(マッキントッシュ)を、ステレオサウンド 207号で柳沢功氏が高く評価しているモノ、
フランコ・セルブリンのKtêmaにしてみよう。

私が染谷一編集長の立場だったら、avcat氏への説明に、この例えを使うかもしれない。
avcat氏がクラシックを聴かない人だったら、この例えは役に立たないが……。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その1)

「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」

別項「ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(その20)」でも引用している。
映画「イノセンス」序盤での荒巻大輔のセリフである。

今回の件は、ほんとうにそうだな、と実感しているところだ。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その31)

「音の美」と忠実性について、ここではこれ以上ふれない。
別項で書く。

avcat氏はオーディオのプロフェッショナルではない。
アマチュアである。
だから、ステレオサウンド掲載の試聴記をどう読もうと、avcat氏の自由(というより勝手)である。
それにその不満、不愉快になったことをツイートするのも自由(勝手)でいい。

問題にしているのは、そのことに対して、
ステレオサウンドの染谷一編集長がどうして謝罪したかということだ。

染谷一編集長とavcat氏の関係は知らないが、少なくとも顔見知りであることは間違いない。
親しい間柄なのかもしれない。
ならば、謝罪ではなく、説明をすべきだった、と私は考える。

説得できるかどうかはわからない。
それでもきちんと説明すべきだった。

ステレオサウンド 207号には、
ソナス・ファベールのパオロ・テッツォン氏による「三つの再生システムを聴く旅」が載っている。
パオロ・テッツォン氏が、柳沢功力、小野寺弘滋、ベイシーの菅原正二、
三氏の音を聴いての印象を綴った記事だ。

この記事こそ、三氏のそれぞれの「音の美」について語っている。
染谷一編集長が、この記事の担当がどうかはわからない。

担当していたとしよう。
染谷一編集長は、こういう記事をつくる一方では、
「音の美」を否定するかのようにavcat氏に謝罪している。

それともこの記事の担当者は別で、
染谷一編集長は、この記事をどう思っているのか。
知りたいところである。

Date: 7月 1st, 2018
Cate: 複雑な幼稚性
1 msg

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その30)

avcat氏の一連のツイートは筋が通っているといえば、そうである。
avcat氏の年齢ぐらいは知りたいと思った理由は、ここにある。

avcat氏は以前はTAD-M1を、いまはYGアコースティクスのスピーカーを鳴らされているようだ。
どちらのスピーカーも安価ではない。
それなりの経済的余裕がなければ買えない。
学生が買えるモノではない。

学生といっても、起業していたり、富裕層であったりすれば簡単に買えたりするだろうし、
実際にそういう学生もいよう。

avcat氏がそうとは思えなかった。
なのに一連のツイートを遡って読んでいると、
青年の主張とでもいおうか、高校生の弁論大会のようとでもいおうか、
そのへんに通じるものを感じていた。

もしかするとavcat氏は、かなり若いのかも……、と。
私が筋が通っている、と感じたのは、そういう筋の通り方だったのだ。

「ワカいな」と思ったのは、
一連のツイートには、(その28)で書いた「音の美」に通じることが、
まったく感じられなかったし、
柳沢功力氏の「音の美」を認めた上での発言とは思えなかったからだ。

ステレオサウンドはオーディオ雑誌だ。
雑誌の読み方ぐらい、読む側の自由であってもいいだろう。
どんな読み方もしてもいいだろう。

それでもオーディオ雑誌は、そういうものだろうか、というおもいがある。
この項に限らず、このブログでは最近のステレオサウンドには批判的なことを書いている。

今回207号をひさしぶりに購入して読んでいた。
一見、良くなってきているように見えても、そう見えるだけだというのが、
徐々にはっきりしてくる。

もう、こうなってしまったステレオサウンドは完全に見捨てていいのではないか……、
そういう気持もあるけれど、それでもステレオサウンドは、やはりステレオサウンドであって、
そこでの試聴記を、書き手の「音の美」を認めずに読むのか、とひとこと言いたくなる。

avcat氏のツイートは、柳沢功力氏の「音の美」を認めずに、
ただ一方的に忠実性の点からだけでの筋が通っている、のである。

Date: 6月 30th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(英断なのかもしれない……)

英断とは、思いきりよく物事をきめること、すぐれた決断、
と大辞林にはある。

今回の、ステレオサウンドの染谷一編集長の謝罪は、
だからまったく英断とは言えない。

それでも……、と思うことがある。
今回の謝罪の件を書き始めてすぐに友人から電話があった。
そこで話したことなのだが、
染谷一編集長は、あえて謝罪をしたうえで、
avcat氏にツイートしてもらうようにしたのかもしれない。

そうすることで私のような者が、そのことについて何かを書く。
今回の謝罪の件が、それによってさらに拡がり、ステレオサウンドを廃刊の一歩手前まで堕とす。

オーディオ業界からも、読者からも、筆者からもソッポを向かれる。
そして、これかもっとも重要なことだが、ステレオサウンド内の広告営業部も見向きもしなくなる。
そういう状況を自らつくりだすことで、
ステレオサウンドを根底から生れ変らせよう──、
そういう戦略があってことだったら、それは英断といいたい。

創刊から50年。
想像で書くことだが、さまざまなしがらみでがんじがらめになっていて、
ステレオサウンドを変えていこうとしても、それは表面的なところでの変化に留まってしまう。

本質的なところで、根幹から変える必要があると感じていても、
無理なのかもしれない。

ならばどうするか。
もう徹底的にダメにしてしまうのも手のひとつと、私は考える。

それでavcat氏に協力を請い、ああいうツイートをしてもらう。
そしてアナログオーディオフェアという、多くの人があつまる場所で謝罪する。
そのうえでavcat氏に、謝罪の件もツイートしてもらう。

だとしたら立派な策略だ。

Date: 6月 29th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その30を書く前に)

(その29)へのコメントがfacebookであった。
(その29)の冒頭「ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪は英断ではないか」、
最後の「avcat氏のツイートは筋が通っている」のコメントの方からだった。

(その29)への、皮肉を込めたコメントであった。
くり返し読んでも、私はそのコメントには納得できない。

それはそれでいい。
コメントの方も、私の書いているものに納得されていないようだから。

文章の読み方というか、受けとめ方は、あらためていうまでもないことだが、
人それぞれだ。
どんなに言葉を尽くしても、「えっ、そんなふうに受けとるの?」と思うこともあるし、
言葉を省略した文章であっても、こちらの意図を読み取ってくれる人もいる。

さらには(まれではあっても)、こちらの意図以上のものを読みとってくれる人もいる。
これもある種の誤読なのかもしれないが、
そういう人のコメントには、大いに刺戟されるし、意欲もわいてくる。

私の文章だけが誤読されているのではない。
五味先生の書かれたものだって、誤読している人を少なからず知っている。
もう、そういう世の中なのだ、と諦観している。

それでも書いている。
書かなければならないと、私がひとり感じていることを優先して書くようにつとめている。

この項で書いていることを、ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪行為を、
ひたすらくり返す非難することに対して、別の見方もあり得る、ということでの、
「ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪は英断ではないか」だったそうだ。

これを読んでも、別の見方をしても、英断では、絶対にない。
絶対にやってはいけないことを、染谷一編集長はやってしまった。

このことをコメントの方に納得してもらう気も、私にはまったくない。
英断だと思われるならば、それでいい。
それだけのことだ。

「avcat氏のツイートは筋が通っている」のコメントも、
avcat氏のあるツイートに関してものであって、
どのツイートかの指摘は、先のコメントにはなかったものだから、
私はavcat氏の一連のツイートに対して、筋が通っている、と受けとった。

ここでも、私は、その特定のツイートのほうが、筋が通っていない、と思う人間だ。
(その30)以降で、一連のツイートに関係してくことを書く。
ただし、これは先のコメントで私が感じたことを書いていく。

正直、後出しじゃんけんのようなコメントに感じた。
こう書くと、そんなつもりはない、あなたが勝手にそう解釈しただけ、
といわれるだろうが、そういう人はそういう人だ、と思うしかない。

そして、この項はまだまだ続く。
どんなに書いたところで、染谷一編集長は、なんとも感じてないのかもしれないし、
これから先、ステレオサウンドがよくなっていくとも思えない。

それでも書いていく。

Date: 6月 29th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性
1 msg

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その29)

facebookへのコメントで、
YGアコースティクスは優秀な製品であって、
柳沢功力氏の試聴記が不適切であるならば、
ステレオサウンドの染谷一編集長のavcat氏への謝罪は英断ではないか、と。

YGアコースティクスのスピーカーを、
私はインターナショナルオーディオショウでしか聴いていない。
その精度の高い音に感心するし、なるほど優秀な製品ではある。

YGアコースティクスのスピーカーを、だから欲しいかと問われれば、
欲しい、とは一度も思ったことはない。
Hailey 1.2を買えるだけの余裕があるならば、私は別のブランドのスピーカーを選ぶ。

よくオーディオの世界では、個人の好みではなく、高忠実性を重視すべきだ、という意見がきかれる。
わからないわけではないし、エンジニア側であれば、それはもっともな理屈である。

けれど、そのもっともな理屈を、オーディオマニア側に求める、
というよりも、中には押しつけているのではないか、と感じさせる人もいる。

これもずっと以前からさんざんいわれていることだが、
われわれオーディオマニアが聴くのは、なにも最新録音、優秀録音ばかりではない。
そういう録音を、その録音がなされたときと同じ音量での再生が可能であり、
常にそういう再生を求めている人ならば、いわゆる忠実性を重視したスピーカーを選択するのもわかる。

けれどわれわれが聴くのは、そういった録音ではない。
むしろ、そういう録音を聴くことはキャリアを重ねるとともに減ってくるのではないか。

古い録音も聴く。
優秀録音とはお世辞にもいえない録音も聴く。
音量も、大きな音を出せる環境にいても、好む音量は別である。

──こんなことは昔、よくいわれてきた。
それが家庭で音楽を聴く、という行為である。

facebookのコメントでは、avcat氏のツイートは筋が通っている、とあった。
それは否定しない。
でも筋が通っている、ということは、どういうことなのか。

Date: 6月 28th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その28)

その8)に、試聴記は聴いた音の解釈であるべき、と書いた。
試聴記を、聴いた音の印象記ぐらいに思っている人が、どうも多いようだ。
多いからこそ、オーディオ評論なんて、自分にもできる、と思うのではないのか。

しかもいまは簡単に、手軽に情報発信ができるものだから、
印象記にしかすぎない試聴記を、オーディオ評論と勘違いして、公開する人がいる。

だからといって、オーディオ雑誌に載っている試聴記すべてが、
解釈といえるレベルにあるとは思っていない。

音の解釈を書くというとは、
結局は美について書くことだ。

ここでの「美」とは、英語でのbeautyではない。
別項「デコラゆえの陶冶(音楽に在る死)」で書いている。

美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、といわれても、
最初は、なかなか実感はわかなかった。
まず、なぜ羊なのか、と多くの人が思うだろう、私も思った。

大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。

神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。

羊+大としての「美」。
それは英語のbeautyとイコールではない。

柳沢功力氏の試聴記が、そこまでのレベルにある、とはいわないし、思っていない。
それでも柳沢功力氏の試聴記、そして「試聴を終えて」を読めば、
柳沢功力氏なりの音の美について書こうとされていることは感じとれるはずだ。

私は、このブログで、柳沢功力氏のことを柳沢先生とは書いていない。
そんな私でも、柳沢功力氏なりの音の美にこめる想いは読みとれる。

そこに気づかずに、低次元と言い放つ人こそが、実は低次元である。

Date: 6月 28th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その27)

その6)では、YGアコースティクスのHaileyを鳴らされている人からのコメントがあった。

柳沢功力氏の試聴記は気にならない、とある。
そうだろう、と思う。

YGアコースティクスのHaileyユーザーすべてが、
柳沢功力氏の試聴記で不愉快になるわけではない。
なのにavcat氏は、YGユーザーさん、という表現を使われている。

最初、avcat氏のツイートを読んだ時、
YGユーザーというハンドルネームのオーディオマニアがいるんだな、と思った。
YGユーザーさんは、特定の個人ではなく、
YGアコースティクスのスピーカーのユーザーを指している。

これは、おかしな話だ。
YGアコースティクスのスピーカーに惚れ込んで鳴らしている人でも、
それぞれ感性は違うし、感じ方、鳴らし方も違う。
共通するところはあっても、違う。

なのに十把一絡げ的に捉えての「YGユーザーさん」の使い方である。

柳沢功力氏の試聴記を読んで不愉快になるYGアコースティクスのユーザーもいれば、
そうでないYGアコースティクスのユーザーがいるということは、
すぐにわかることなのではないか。

YGアコースティクスのユーザーはみんな同じだ、と思い込めることこそ、
低次元の話ではないだろうか。