「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その34)
まだ書くのか、と思われようが、まだまだ書くことはある。
どこまで書くのかははっきりと決めているわけではない。
どのテーマでもそうなのだが、書いているうちに気づくことがある。
書くほどに出てくる。
気づくこと、思い出すことが出てくる。
書く、といっても、昔のように原稿用紙に筆記用具で書いているわけでなく、
キーボードを叩いているだけである。
その指の動きは、目の前の小さな何かを耕しているようにも思えることもある。
耕すことによって、気づくこと、思い出すことを発見しているのかもしれない。
書きは、ときどき誤変換として掻き、と出る。
書くも、掻く、と出る。
掻くには、犁などで田畑をすき返す、という意味もある。
他の意味もある。
長くなる。
書いていると、長くなってしまう。
(その6)から、この件について書き始めて、
まだ書き続けている。
そうしながら思い出していた人がいる。
私がステレオサウンドで働くようになったのは、
この人のおかげ、といえるNさんのことを思い出していた。
いまも株式会社ステレオサウンドには、同姓のNさんがいるが違う人だ。
そのNさんよりも若く、私よりも七つ年上のNさんである。
当時、Nさんが二人いたため、若い方のNさんはジュニアと呼ばれていた。
私も、ジュニアさんと呼んでいた。その人のことである。