「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その32)
染谷一氏は、ステレオサウンドの編集長である。
編集長にいきなりなったわけではなく、その前は編集者であった。
私は編集者だけの経験しかないが、
それでも編集者と編集長の違いは、雑誌のあり方を含めてのことであることは感じている。
ステレオサウンドも雑誌のひとつである。
雑誌の編集長とは、将棋の棋士のようにも思う。
将棋の駒は、すべてが同じ動き(力)をもっているわけではない。
歩もいれば飛車、角行もいて、八種類。
これらの駒をどう活かしていくのかが、良き棋士なのではないか(将棋は素人なのだが)。
こう書いてしまうと、編集長の下にいる編集者がそれぞれの駒と受けとられるかもしれないが、
そうではなく、一冊の雑誌に掲載されるいくつもの記事こそが、それぞれの駒にあたる。
つまり編集長は棋士として、それぞれの駒(記事)を活かしていくことである。
ひとつの駒に力を一極集中してしまっては、勝負に勝てるわけがない。
いい記事をつくることは、いい編集者ならばできよう。
だからといって、編集者みなが、金将のような記事ばかりをつくっても、
いい雑誌になるとは限らない。
編集長がいるのは、そういう理由から、と考えることもできる。
編集長の仕事は、他にもあるのはわかっている。
ならば編集長(将棋の棋士)に求められるのは、先を読むこともそのひとつであろう。
行き当たりばったりに駒(記事)をいじっても、どうにもならない。
ステレオサウンド 207号は、特集としてスピーカーの試聴テストがあり、
ソナス・ファベールのパオロ・テッツォン氏による「三つの再生システムを聴く旅」もあり、
その他にも二本の導入記、新製品紹介などの記事がある。
編集長(棋士)としての、それぞれの記事(駒)の配置だとしたら、
なぜ、avcat氏に謝罪したのか──、と思うわけだ。
逆から考えれば、謝罪したことで、
染谷一氏の編集長(棋士)としての資質を疑っているわけでもある。