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Date: 12月 2nd, 2017
Cate: 1年の終りに……

2017年をふりかえって(その1)

今年も残り一ヵ月を切った。

今年も新しい人たちと出あえた。
古い友人との30年ぶりぐらいの再会もあった。
オーディオがもたらしてくれた人とのつながりである。

一年後も、同じことを書いている、とおもう。

2017年のふりかえって、書きたいと思っているのは、
ZOZOSUITの登場である。

いろいろなところで取り上げられているから、ZOZOSUITがどんなものなのかの説明は省く。
それにしても、こんなものが三千円という値段がつけられているが、
実質的には無料で配られていることにも驚く。

無料でなくとも、三千円という価格なのも驚きだ。

ZOZOSUITのニュースを見て、まっさきに思ったのは、
自転車好きとしては、フレームのオーダーメイドが、
より簡単により正確になっていくはずだ、であった。

自転車のポジショニングに関しても、ZOZOSUITで得られた情報を元に割り出していけるはず。

自転車の世界にもたらすものを考えながらも、
オーディオの世界には、なにかもたらしてくれるのかだろうか。

すぐには思い浮ばない。
けれど、ZOZOSUITそのものではなくとも、
ZOZOSUITの技術を理由しての何かは、オーディオの世界でも役に立つはずだ、と思う。

ZOZOSUITのニュース以降、形がはっきりしてこないだけに、もやもやしたものを感じている。

Date: 12月 2nd, 2017
Cate: 基本, 音楽の理解

それぞれのインテリジェンス(その4)

人それぞれだから……、と何度も書いている。
ここ二、三年、そう書くことが多くなった。

人それぞれだから……、という表現を使う時、
私は、そのほとんどが、もうどうにもならないことだから……、
いまさらあれこれいっても……、という気持である。

言葉や時間をどれだけ費やしたところで、
伝わらない相手には、何ひとつ伝わらない、ということを実感している。

オーディオという狭い世界の中でも、そうである。

相手の年齢、職業、性別など、そんなことはまったく関係なく、
伝わらない人が世の中には、いる。

けれど、そんな人ばかりではないことも実感している。
伝わる人には、こちらの拙い表現でもきちんと伝わる。

それぞれのインテリジェンスということを実感している。

Date: 12月 2nd, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その13)

ゲオルギー・グルジェフがいっていた「人間は眠っている人形のようなものだ」は、
生かされている状態ともいえるのではないか。

生きている、といえるわけではない。

ここでいっている「生かされている」は、
神によって生かされている、といった意味ではなく、
ネガティヴな意味での「生かされている」である。

生かされている人間の音楽と、
生きている人間の音楽。
同じなわけがない。

カザルスの音楽を聴きたい、とおもう人間もいれば、
思わない人間もいる。

Date: 12月 1st, 2017
Cate: 広告

広告の変遷(BOSEの広告)

1970年代後半のBOSEの901の広告には、演奏家が登場していた。
ステレオサウンド 48号の901の広告には山田一雄氏が登場されている。

キャッチコピーは、こうだ。
     *
背中で聴いたBOSE
この小さな箱がホールの広さを表現するとは…《山田一雄》
     *
山田一雄氏のリビングルーム(と思われる)に置かれた901と、
ロッキングチェアに坐っている山田一雄氏の写真が、カラー見開きで大きく扱われている。

この写真の下に、こうある。
     *
元来、私はあまりレコードを聴かない。つまり「鑑賞する立場の人」とは反対の立場に立っているからかも知れない。音楽を創る立場の身にとっては、雑念なしに他人の音楽に没頭して聴くことは難事であるからだ。
家族が新しいオーディオ装置を欲しがっていることもあって、友人のレコーディング・ディレクターのすすめで《BOSE-901》を手に入れる。そんな私だから、正直なところオーディオとやらのシカケには恥かしいほど無頓着で、無理解だとよく叱られている。
ともあれ、女房子供のおつき合いのつもりで聴いたところが、鳴り出した瞬間から大袈裟にいって「新しい発見」と「開眼」をする。
さて、指揮者というものは客席に背を向けているくせに、常に背中で音を聴いているものだ。つまり、その広さと音のまわり具合いを身体で感じながら演奏している。演奏が巧くいっているときには、音が張り出すというのだろうか、ステージ上の音よりもむしろ客席の方で暖く鳴っているのを私は感じる。
《BOSE-901》での私の「新しい発見」とは、私の家のサロンで、音が背中にまわり込む外国のコンサート・ホールでの、アノえもいえぬ味を味わえたことである。この設計者はよほどの感性をもって音楽を聴き込んでいるのであろう。音楽が生まれる場所の状況を極めて正確にわきまえている。
それにこのスピーカーは、「音出し機械」然としていないところが良い。小型にもかかわらず、生演奏なみのヴォリュームを上げても、ガナリ立てる感じにならない点も大変気に入っている。
これからは、もう少しレコードを聴くとしようか……。
     *
48号は1978年秋号。
私は15歳だった。

山田一雄氏の語られていることを半分も理解できていなかった。
それに、広告だから……、という読みかたもしていたところもある。

いま読み返して、ひとり納得している。

Date: 12月 1st, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その8)

五味先生の「私の好きな演奏家たち」に、こうある。
     *
 近頃私は、自分の死期を想うことが多いためか、長生きする才能というものは断乎としてあると考えるようになった。早世はごく稀な天才を除いて、たったそれだけの才能だ。勿論いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。ほっとけばいい。長生きしなければ成し遂げられぬ仕事が此の世にはあることを、この歳になって私は覚っている。それは又、愚者の多すぎる世間へのもっとも痛快な勝利でありアイロニーでもあることを。生きねばならない。私のように才能乏しいものは猶更、生きのびねばならない。そう思う。
     *
《いたずらに馬齢のみ重ね、才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中はどこの社会にもいるだろう。ほっとけばいい》

そのとおりなのだろう、とおもう。
ほっとけ、ほっとけ、と思う。

でも、それでいいのか、と一方でおもう。
《才能の涸渇しているのもわきまえず勿体ぶる連中》をほっといていいのか、と自問する。

まだ《自分の死期を想うこと》がない私は、
ほっとけばいい、とすっぱりとおもうことはできずにいる。

Date: 12月 1st, 2017
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

生命線上の「島」

週刊新潮 1980年4月17日号の特集2は、五味先生のことだった。
そこに、こうある。
     *
 帰国後、八月に東京逓信病院に入院。二週間にわたる検査の後、千鶴子夫人は担当医師の口から、夫が肺ガンであることを告げられた。
 むろん、この時、本人にはそのことは伏せられ、「肺にカビが生える病気です」と説明することにした。肺真菌症も同様の症状を呈するからである。
 もっとも、かねてから、手相の生命線上に円形の「島」が現われるときはガンにかかる運命にあり、これからガンは予知できるのだ、といっていた当人は、自分の掌を見つめて「ガンの相が出ている」とはいっていた。
 しかし、やはり事が自分自身の問題となると、そう頭から自分の予知能力を信じることは出来なかったらしい。
 九月に手術。十一月に退院。そして、友人たちが全快祝いの宴を開いてくれたが、その二次会の席から、〝全快〟した本人が顔色を変えて帰ってきた。友人の一人であったさる医師が、酔っぱらったあげく、「お前はガンだったんだぞ」と口をすべらしてしまったのである。
「どうなんだ」
 と奥さんを問いつめる。
「冗談じゃありませんよ。なんなら今から先生に確かめてみましょうか」
 奥さんがこう開きなおると、
「いらんことをするな」
 と、プイと横を向いてしまった。
 もともと、入院していた当時からも、見舞に訪れる知人には「肺にカビが生えた」と説明しながら、「ガンらしいと思うんだがな」といって、相手の表情をうかがい、さぐりを入れる、というようなことを繰り返していた。この観相の達人にして、やはり、正面から宣告を受けるのは恐ろしく、さりとて不安で不安でたまらない、という毎日だったのだろう。
     *
五味先生の手相の本は、私も持っていた。
生命線上に円形の「島」ができると……、というところは憶えている。
自分の掌をすぐさま見て、ほっとしたものだった。

週刊新潮の、この記事を六年前に読んで、やはり「島」が現れるのか、と思ったし、
瀬川先生の掌はどうだったのたろう、とおもった。

「島」が現れていたのか、
瀬川先生は五味先生の「西方の音」、「天の聲」などは読まれていても、
手相の本は読まれていなかったのか……、
おもったところで、どうなるわけでもないのはわかっていても、
どうしてもおもってしまう。

Date: 11月 30th, 2017
Cate: 菅野沖彦

音のマエストロ「菅野沖彦の世界」

平成29年12月9日(土曜日)から平成30年1月20日(土曜日)まで、
東京・杉並区の中央図書館で、特別展示『音のマエストロ「菅野沖彦の世界」』が開催される。

Date: 11月 30th, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その7)

オーディオの聖域とは──、と考える。
同時にオーディオこそが聖域なのだ、とも思っている。

Date: 11月 30th, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その6)

つまらぬ意地の張り合い。

オーディオマニアでない人からすれば、ほんとどうでもいいこと、
もっといえばアホなこと。

それでも、この「つまらぬ意地の張り合い」は、
オーディオマニアの聖域かもしれない。

なんらかの聖域をもつからこそ、オーディオは男の趣味。

Date: 11月 30th, 2017
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(その5)

五味先生が「不運なタンノイ」で書かれていること。
オーディオは、まさしく男の趣味だな、と思わせる。
     *
 さてテレフンケンの音の輝きに恍惚とし、満足し、そのうちステレオが盛んとなるにつれ高音部に不満を見出すようになって、昨秋のヨーロッパ旅行でSABAを得た。
 ミュンヘンに世界的に有名な博物館がある。エジソンの発明になる初期の蓄音機から最新のステレオ装置までが進歩の順次に展覧されている。その最新のステレオはテレフンケンではなくSABAだった。私は勇気と喜びをあらたにして日本へ着くであろうSABAへの期待に夢をふくらませた。
 さて昨年暮にはるばる海を渡ってSABAはわが家に運び込まれた。それを聴いて、どんなに絶望したか。もう一つの新しいテレフンケンの装置は、工場のほうから、不備の点を発見して製造を中止した旨の連絡があった。私は怏々とたのしまなかった。いまひとつロンドンで聴いたデッカ《デコラ》は、テレフンケンがベンツならロールスロイスではあろう、しかし、これはS氏のもので、今さら同じものを取り寄せることは日本オーディオ界のパイオニアを自負する私の気持がゆるさない。人さまはいい音で満悦至極であるのに、私だけがなんでこうも不運なのか。私がどんな悪いことをしてきたというのか? 私は天を怨んだなあ。
     *
デッカのデコラの素晴らしさを知り、認めながらも、それを購えることができても、
デコラは、すでに新潮社のS氏の愛器であるために、《気持がゆるさない》と。

求める音がデコラで得られるならば、それを買えるだけの財力があるのならば、
素直に買えばいいのに……、と思う人は、オーディオマニアではない。

傍からみれば、つまらぬ意地を張っているだけ──、
きっとそう見えるはずだ。

五味先生だけではない。
他の人も、そのはすだ。

瀬川先生は、これを《オーディオ・マニアに共通の心理だろう》と書かれている(「私とタンノイ」より)。
ほんとうにそうである。
意地の張り合いなんてしなければ、ずっと楽になれるのはわかっていても、
それでもオーディオは男の趣味だから……、やってしまう。

Date: 11月 30th, 2017
Cate: audio wednesday

第83回audio wednesdayのお知らせ(誰かに聴かせたい、誰かと聴きたいディスク)

二週間ほど前にセルの「エグモント」について書いた。
今回、このCDを持っていく。

とあるジャズ喫茶は、「エグモント」をリファレンスレコードとしている、ときいている。
その意味で、ジャズ喫茶である喫茶茶会記でどんなふうに鳴ってくれるのかという興味はある。

あるけれど、だからといって「エグモント」を、
喫茶茶会記での隠れたリファレンスディスクにするのは、なんともおもしろくない。
つまらぬ意地なのかもしれないが、また別のディスクにしたい。

最新録音から選ぶのも、おもしろくない。
何をもっておもしろいとするのか、おもしろくないとするのか、
それは私の中の勝手な判断でしかなくて、いちいち説明するのはめんどうだ。

候補として考えているのが、ショルティ/シカゴ交響楽団によるマーラーの二番である。
ショルティを理由もなく毛嫌いしていた20代のときに聴いている。
CDで聴いている。

第一楽章冒頭の低弦の鳴り方の凄さ。
実演では聴けそうにない(おそらく聴けないであろう)低弦のこわいまでの鳴り方。

これを録音が生み出した音であって、コンサートホールでは、こんな音は響かない──、
と否定するのは、誰にでもできよう。

そんなことはデッカの録音陣、そしてショルティはわかったうえでの、
この録音であると受け止めるもののはずだ。

ショルティによる二番の最初の録音は、1966年、ロンドン交響楽団によるもの。
このLP(それもオリジナル盤)の、出だしの低弦は、すごかった、と、
岡先生が「マイクログルーヴからデジタルへ」の下巻でふれられているので、引用しておく。
     *
このレコードの開始部の凄まじい低弦の表現力というもは、おそらくどんなコンサートでも聴かれない強烈な効果で聴き手を圧倒する(筆者がこの曲をコンサートで聴いたのは、小沢征爾が日フィルを振った一回しかないが、コンサートでは、ベルリンPOやシカゴSOであろうと、ショルティのレコードのようには鳴らないだろうと思っている)。明らかに低弦にブースト・マイクが置かれており、しかもハイレベルでカッティングされている。このレコードが出た当時のデッカのカッティング・ヘッドはノイマンのSX45であったはずだが、明らかに低域の低次ひずみが存在しており、それがかえって低弦の表現に強烈なダイナミックな効果を添えていたと思う。のちにSX68でリカットされたこの部分は、明らかに低次ひずみが減って音はおとなしくなり、コンサートで聴かれるチェロとコントラバスのユニゾンのフォルテらしい音になっていたけれど、凄まじいまでの迫力は失われていた。
     *
そして14年後の、つまり今回もっていくシカゴ交響楽団との再録については、
こう書かれている。
     *
十四年間の録音系の進歩は、レコードの音質の改善に明らかであるが、ショルティは《復活》の冒頭の低弦を、前回よりもさらに強烈に表現する。低弦に対するマイクは旧録音よりさらに近づけられ、低弦楽器の低次倍音までなまなましくとらえる。
     *
現象としてのマーラーの二番ではなく、
心象としてのマーラーの二番を響かせたい、と考えている。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 11月 29th, 2017
Cate: 再生音, 快感か幸福か

必要とされる音(その12)

Vitavoxがvitae vox(生命の音)から来ているのであれば、
Vitavoxで、カザルスを聴きたい、無性に聴きたい。

チェリスト・カザルス、
それ以上に指揮者カザルスの演奏を、Vitavoxで聴きたい、と思うのは、
聴くということは、生きているからできることなのだ、という、
当り前すぎることを、実感させてくれる。

演奏も、生きているから(生きていたから)こそ、
その演奏が録音として残されたわけだ。

故人の演奏であっても、録音の時は生きていた。
生きていたから、演奏がなされたし、残っている。

これも当り前すぎることだ。

でも当り前すぎることゆえに、実感しにくいのではないか。

Date: 11月 29th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

確信していること(その25)

ステレオサウンド「世界のオーディオ」のタンノイ号、
瀬川先生の「私とタンノイ」にこう書かれている
     *
 はじめてタンノイの音に感激したときのことはよく憶えている。それは、五味康祐氏の「西方の音」の中にもたびたび出てくる(だから私も五味氏にならって頭文字で書くが)S氏のお宅で聴かせて頂いたタンノイだ。
 昭和28年か29年か、季節の記憶もないが、当時の私は夜間高校に通いながら、昼間は、雑誌「ラジオ技術」の編集の仕事をしていた。垢で光った学生服を着ていたか、それとも、一着しかなかったボロのジャンパーを着て行ったのか、いずれにしても、二人の先輩のお供をする形でついて行ったのだか、S氏はとても怖い方だと聞かされていて、リスニングルームに通されても私は隅の方で小さくなっていた。ビールのつまみに厚く切ったチーズが出たのをはっきり憶えているのは、そんなものが当時の私には珍しく、しかもひと口齧ったその味が、まるで天国の食べもののように美味で、いちどに食べてしまうのがもったいなくて、少しずつ少しずつ、半分も口にしないうちに、女中さんがさっと下げてしまったので、しまった! と腹の中でひどく口惜しんだが後の祭り。だがそれほどの美味を、一瞬に忘れさせたほど、鳴りはじめたタンノイは私を驚嘆させるに十分だった。
 そのときのS氏のタンノイは、コーナー型の相当に大きなフロントロードホーン・バッフルで、さらに低音を補うためにワーフェデイルの15インチ・ウーファーがパラレルに収められていた。そのどっしりと重厚な響きは、私がそれまで一度も耳にしたことのない渋い美しさだった。雑誌の編集という仕事の性質上、一般の愛好家よりもはるかに多く、有名、無名の人たちの装置を聴く機会はあった。それでなくとも、若さゆえの世間知らずともちまえの厚かましさで、少しでも音のよい装置があると聞けば、押しかけて行って聴かせて頂く毎日だったから、それまでにも相当数の再生装置の音は耳にしていた筈だが、S氏邸のタンノイの音は、それらの体験とは全く隔絶した本ものの音がした。それまで聴いた装置のすべては、高音がいかにもはっきりと耳につく反面、低音の支えがまるで無に等しい。S家のタンノイでそのことを教えられた。一聴すると、まるで高音が出ていないかのようにやわらかい。だがそれは、十分に厚みと力のある、だが決してその持てる力をあからさまに誇示しない渋い、だが堂々とした響きの中に、高音はしっかりと包まれて、高音自体がむき出しにシャリシャリ鳴るようなことが全くない。いわゆるピラミッド型の音のバランス、というのは誰が言い出したのか、うまい形容だと思うが、ほんとうにそれは美しく堂々とした、そしてわずかにほの暗い、つまり陽をまともに受けてギラギラと輝くのではなく、夕闇の迫る空にどっしりとシルエットで浮かび上がって見る者を圧倒するピラミッドだった。部屋の明りがとても暗かったことや、鳴っていたレコードがシベリウスのシンフォニイ(第二番)であったことも、そういう印象をいっそう強めているのかもしれない。
 こうして私は、ほとんど生まれて初めて聴いたといえる本もののレコード音楽の凄さにすっかり打ちのめされて、S氏邸を辞して大泉学園の駅まで、星の光る畑道を歩きながらすっかり考え込んでいた。その私の耳に、前を歩いてゆく二人の先輩の会話がきこえてきた。
「やっぱりタンノイでもコロムビアの高音はキンキンするんだね」
「どうもありゃ、レンジが狭いような気がするな。やっぱり毛唐のスピーカーはダメなんじゃないかな」
 二人の先輩も、タンノイを初めて聴いた筈だ。私の耳にも、シベリウスの最終楽章の金管は、たしかにキンキンと聴こえた。だがそんなことはほんの僅かの庇にすぎないと私には思えた。少なくともその全体の美しさとバランスのよさは、先輩たちにもわかっているだろうに、それを措いて欠点を話題にしながら歩く二人に、私は何となく抵抗をおぼえて、下を向いてふくれっ面をしながら、暗いあぜ道を、できるだけ遅れてついて歩いた。

 古い記憶は、いつしか美化される。S家の音を聴かせて頂いたのは、後にも先にもそれ一度きりだから、かえってその音のイメージが神格化されている――のかもしれない。だが反面、数えきれないほどの音を聴いた中で、いまでもはっきり印象に残っている音というものは、やはり只者ではないと言える。こうして記憶をたどりながら書いているたった今、S家に匹敵する音としてすぐに思い浮かぶ音といったら、画家の岡鹿之介氏の広いアトリエで鳴ったフォーレのレクイエムだけといえる。少しばかり分析的な言い方をするなら、S氏邸の音はタンノイそのものに、そして岡邸の場合は部屋の響きに、それぞれびっくりしたと言えようか。
 そう思い返してみて、たしかに私のレコード体験はタンノイから本当の意味ではじまった、と言えそうだ。とはいうものの、S氏のタンノイの充実した響きの美しさには及ばないにしても、あのピラミッド型のバランスのよい音を、私はどうもまだ物心つく以前に、いつも耳にしていたような気がしてならない。そのことは、S氏邸で音を聴いている最中にも、もやもやとはっきりした形をとらなかったものの何か漠然と心の隅で感じていて、どこか懐かしさの混じった気持にとらわれていたように思う。そしていまとなって考えてみると、やはりあれは、まだ幼い頃、母の実家であった深川・木場のあの大きな陽当りの良い二階の部屋で、叔父たちが鳴らしていた電気蓄音器の音と共通の響きであったように思えてならない。だとすると、結局のところタンノイは、私の記憶の底に眠っていた幼い日の感覚を呼び覚ましたということになるのか。
     *
瀬川先生の音とピラミッド型の音のバランスとが、イメージとして重ならないという人は、
瀬川先生が愛用されたオーディオ機器を思い出してほしい。

アナログプレーヤーならば、EMTの930st、927Dst、
それに購入されたわけではないが、とても気に入られていたトーレンスのReference。

音の入口にあたるアナログプレーヤーにおいて、
瀬川先生はまさしくピラミッド型の音のバランスのモノをつねに選ばれていた。

EMTのカートリッジ単体の音を聴いても、あまり意味がない。
やはりEMTのプレーヤーシステム込みでの音、
最低でも930st、その上の927Dst、
EMTの純正プレーヤーとはひと味ちがう魅力を抽き出したReference、
これらのプレーヤーの音を聴いても、
ピラミッド型の音のバランスがとういうものかわからない人には、
何を言っても無駄だし、瀬川先生の音をイメージすることはできない。

Date: 11月 29th, 2017
Cate: 戻っていく感覚

好きな音、好きだった音(その4)

新品のスピーカー、
それも封を切ったばかりのスピーカー、
特に中高域に金属の振動板を採用したスピーカーは、
耳障りな音を出す傾向が、ままある。

特にホーン型は、鳴らし込みが必要だ、といわれてきた。

鳴らし込みはエージングともいわれる。
エージングは、agingである。老化とも訳せる。

鳴らし込みには時間がかかる。
ある意味では、老化といえる。

スピーカーは振動によって音を発しているわけだから、
自らが発する振動によって、エージング(老化)が進むところもある。

スピーカーを構成するあらゆるところがヘタッてくる。
いつしか耳障りな音がしなくなり、音がこなれてくる。

鳴らし込みとは、たしかにそういうものなのだが、
力みを取り去っていくことでもあるように、10年ほど前から感じるようになった。

人と同じで、若いころほど力みがある。
力があり余っているから、ともいえる。

それが歳をとり、力も少しずつ衰えていく。
けれど、一方で力みも消えていくのではないだろうか。

すべての人がそうだとはいわないが、気がつけば力みが少なくなっている、
消えている、ということは、50を過ぎている人であれば、感じているのではないだろうか。

以前できなかったことが、いつのまにかすんなりできるようになっている。
特に練習したとか、そんなことはしていないのに……。

それはおそらく力みがなくなってきたからだ、と私は思っているし、
スピーカーの鳴らし込み(エージング)の肝要な点は、まさにここのはずだ。

Date: 11月 29th, 2017
Cate: デザイン

鍵盤のデザイン(菅野邦彦氏のライヴ)

菅野邦彦氏による、新しいピアノの鍵盤のデザインについて、4月に書いた。
この新しいピアノ鍵盤(未来鍵盤)での菅野邦彦氏の演奏を聴いてみたい、と思っていた。

2018年1月24日、
三軒茶屋のJazz & Cafe Gallery Whisperで、
横溝直子氏(ヴォーカル)とのデュオ・ライヴが行われる。

先月も行われていたけれど、都合がつかなくて行けなかった。
今回は行こうと思っている。

このライヴが、新しい鍵盤での演奏なのかどうかは、確認していない。