Date: 1月 9th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その3)

CDがCDプレーヤーのなかでどういうふうにクランプされているのか、
その状態、それも実際に回転している状態を把握していれば、
CDの内周と外周とで音のニュアンスに変化が生じる理由はすぐに推測できる。

CDプレーヤーのトレイにCDを乗せてPLAYボタンを押す。
音を聴く。そしていちどトレイを引き出す。
このときディスクには手を触れずに、またPLAYボタンを押せば、トレイは引っ込み再び音が出る。

最初の音と二度目の音には、少なからず違いが出ることが、以前は多かった。
こんなことを書くと、またオカルト的なことを書いている、と、
実際に自分のCDプレーヤーで確認すらせずに、いきなり否定する人がいよう。

このCDの問題点を真っ先に指摘されたのは井上先生だった。
かなり早い時期から指摘されていて、
最初何も言わずに、ステレオサウンドの試聴室でこれをやられた。

音が変るぞ、といったことは何も言われずに、
ただ「聴いてみろ」といって、この実験をされた。

たしかに音に違いが出る。たいていの場合二度目のほうが音の拡がりがスーッときれいに出ることが多い。
一度目がいいこともあり、その場合は二度目の音はむしろすこし悪くなる方向に変化する。

これはディスクのクランプの状態がその都度変化しているためであって、
それによるサーボの掛かり方に変化が生じ、音の変化となって聴きとれるわけである。

Date: 1月 8th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その1)

スピーカーはアンプからの電気信号を振動板の動きに変え音を発するメカニズムである。
でも、といおうか、当然、といおうか、スピーカーはしゃべらない。

スピーカーが音にするのは、あくまでもアンプから送られてきた電気信号である。
もしスピーカーが意志があったとしても、その意志を電気信号に変え、
スピーカーにとって前段といえるアンプにフィードバックでもしないかぎり、スピーカーはなにひとつ語らない。

いま、1970年代のオーディオ雑誌を中心に、
レコード会社の広告、オーディオメーカーの広告、輸入商社の広告をもういちど見直している。

オーディオの広告のありかたもずいぶん変ってきた、と感じる。
オーディオ雑誌におけるオーディオの広告とは、
広告というポジションだけに、昔はとどまっていなかったところがある。

すべてとはいわないけれど、一部の広告は、ひとつの記事として読める内容を持っていた。
だから私は、オーディオ雑誌を手にした最初のころは記事はもちろんなのだが、
広告も熱心に読んでいた。広告から学べることもあった。

1970年代の広告といえばいまから40年ほど前のものだ。
いまのオーディオ雑誌に載っている広告を、40年後に見直すとしたら、
どういう感想をもてるだろうか、とつい比較しながらおもってしまう。

そんなことを年末から集中的にやっていた。
ある広告の、あるキャッチコピーが、数多くの広告を集中的に見たなかでひっかかった。

Lo-Dのスピーカーシステムの広告に、こうあった。
あるスピーカーの述懐

これを目にしたとき、ブログのテーマにしよう、と思った。
どういう内容にするのかは何も浮ばなかったけれど、
何も語ることのできないスピーカーが、
そのスピーカーの使い手(鳴らし手)のかける音楽を、どう鳴らすかによって、
スピーカーは間接的に語っている──、
そうとらえれば、「あるスピーカーの述懐」というタイトルとテーマで書いていけることは、
きっといくつも出てくるであろう。

Date: 1月 8th, 2013
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その18)

話は変わりますが、皆さんは、本物の低音というものを聴いたことがあるでしょうか。僕はないんじゃないかと思うんです。本物の低音というのは、フーっという風みたいなもので、そういうものはもう音じゃないんですよね。耳で音として感じるんじゃないし、何か雰囲気で感じるというものでもない。振動にすらならないようなフーっとした、空気の動きというような低音を、そういう低音を出すユニットというのは、今なくなって来ています。
     *
音楽之友社発行の「ステレオのすべて ’77」において、
岩崎先生が「海外スピーカーユニット紳士録」で述べられていることである。

これは1976年終りごろの発言であり、
このときまでに岩崎先生はエレクトロボイスのパトリシアン、
JBLのパラゴンにハーツフィールドといった、
1950年代から60年代にかけてのアメリカの大型スピーカーシステムを相次いで導入されたあとの発言でもある。

これらはスピーカーシステムと呼ぶよりも、ラッパといったほうがより的確な表現である構造のものばかりで、
どれもウーファーを直接見ることができない。
中高域のみだけでなく低域までホーンを採用したシステムである。
しかもパトリシアン、ハーツフィールド、パラゴン、いずれもホーンもストレートではなく折曲げ型である。

これらのラッパ以前に岩崎先生のメインであったのはD130をおさめたハークネス。
これもまたバックロードホーンであり、いうまでも折曲げ型である。

こういうラッパをいくつも鳴らされていた岩崎先生が、
「本物の低音というのは、フーっという風みたいなもの」といわれている。

岩崎先生がヤマハのAST1を聴かれたら、長島先生、原田編集長と同じように喜ばれたように思う。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続×五・Electro-Voice Ariesのこと)

後になって(といってもかなり後のこと)読み返してみると、
「エレクトロボイスの音は、クラシック向きで、たいへんおとなしい音だとよく誤解される」とある。
以前のエレクトロボイスとは印象の変化があったことが読みとれるわけだが、
そのことに気づかされるのは、少し先のことであり、それも少しずつであった。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」には、もうひとつエレクトロボイスのスピーカーシステムが登場している。
Interface:Aである。菅野先生の組合せにおいて、である。
Interface:Aも外観も、やはり黒っぽい。

1976年暮の時点でのエレクトロボイスのスピーカーへの私の印象は、
私が好んで聴く音楽とは無縁と思われる、そういうスピーカーであった。

エレクトロボイスの歴史について少し知るきっかけとなったのは、
ステレオサウンド 45号の「クラフツマンシップの粋」で、エレクトロボイスのPatricianが取り上げられたことだ。

エレクトロボイスが過去に、こういう大型の、
それもSentryやInterfaceシリーズとはまったく異る趣のスピーカーシステムを作っていたことを知った。
そして、この「クラフツマンシップの粋」を読んでいくと、
エレクトロボイスのドライバーのダイアフラムは、
JBLやアルテックに採用されている金属系ではなく、フェノール系だということを知り、
エレクトロボイスへの興味がさらに増していった。

フェノール系のダイアフラムの音について、井上先生が記事の最後に語られている。
     *
現在は、ホーンドライバーはウェスタン系が主流になっているから、ホーン型というとカッチリしたクリアーで抜けが良くて、腰の強い音という認識があるけれど、これに対してEVのホーン型ユニットの音は、むしろ柔らかくてもっとしなやかですね。特に弦の再生がウェスタン系とは決定的に違って、すごく滑らかでキメの細かい音でしょう。メタルダイアフラムでは絶対に出ない音です。
     *
ステレオサウンド 45号は1977年暮に出ている。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」からちょうど1年後のことであった。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続々続々・Electro-Voice Ariesのこと)

「ステレオのすべて ’77」とほぼ同じ時期に書店に並んでいて、
どちらにしようか迷ったすえ購入したのが
ステレオサウンド別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
組合せだけの一冊である。

岩崎先生の組合せも載っていて、エレクトロボイスのスピーカーシステムが使われている。
Sentry Vだった。
25cm口径のウーファーとホーン型トゥイーターによるブックシェルフ型。
エンクロージュアの両サイドは木目仕上げだが、フロントバッフルは黒。
しかもウーファーの前面は写真で見る限り一般的なコーン型にはみえない。
Sentry Vは実物を見たことがないので、実際にどうなっているのかなんともいえないが、
艶のある黒いホーンといい、外観的にも特徴のある、というより個性の強いスピーカーである。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」は読者からの手紙が元になって組合せがつくられている。
Sentry Vがつかわれた組合せは、ジェームス・ブラウン、ウィリー・ディクソン、ジミ・ヘンドリックスなど、
読者の手紙の文面にもあるように「黒っぽい音楽」、「黒っぽい音」を黒っぽく感じられるものと選ばれている。

Sentry Vの外観は、まさしく黒っぽい。
黒っぽい音が、これで出てこなかったら、おかしいだろう、といいたくなるほど、黒っぽいスピーカーである。

岩崎先生も組合せについて語られているなかで、Sentry Vは
「アメリカのディスコティックなんかでブラック・ミュージックの再生に活躍している」と説明されている。

私の中のエレクトロボイスのスピーカーはイメージは、だからここから始まっている。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(続々続・Electro-Voice Ariesのこと)

1976年暮に音楽之友社から出版された「ステレオのすべて ’77」に、
「海外スピーカーユニット紳士録」という記事が載っている。
岩崎先生が語られたものを編集部がまとめたものである。

記事タイトルが表している通り、
海外各国のスピーカーユニットについて語られている。
エレクトロボイスのスピーカーユニットについても語られている。
     *
 エレクトロ・ヴォイスのSP8とか、あるいはSP12というスピーカーを見ますと、今はなくなってしまったけれども、グッドマンのユニットによく似ています。あるいはワーフェデール系のユニット。メカニズムですと、リチャード・アレンなんかも外観から見てね、コルゲーションの付いた、しかもダブル・コーンということでね、大変よく似ているわけです。
 で、その辺からもエレクトロ・ヴォイスというのが、先程ヨーロッパ的と言いましたが実はヨーロッパ的というよりも、これは英国的なんです。ですからアメリカにすれば、英国製品というのは、やっぱり舶来品でね、非常に日本における舶来礼賛と同じように、アメリカにおいてはかつて、ハイファイ初期において、非常に英国製品がアメリカを席巻していた時期が、これはオーディオの最初ですから、大体一九五〇年の前半から、終わり近くまでということになるんですからね。つまりステレオになってからARがのし上がる、その前の状態では、ワーフェデールにしたって、グッドマンにしたって、アメリカでは最高でまかり通っていたわけで、その辺のスピーカーとエレクトロ・ヴォイスの場合は、非常によく似ているわけです。実を言うと、音色にもそういう面があって、それからパワーの、高能率であってパワーを必要としないという点でも、エレクトロ・ヴォイスというのは極めて英国的な要素を持っていたと思うんです。で、外観から言うと、コイルの大きさとか、そういう点で非常にぜいたくな、金のかかったシステムなんで、ヴォイス・コイルも英国系と違って、ずっと太い。そういうところもアメリカ的には違いないんですけどね。音響的な性格というんですか、あるいは振動系の基本的な考え方というのは、英国オーディオ・メーカー、あるいは英国のスピーカー・メーカーと共通したところがあると思うんです。で、中音の非常に充実感の感じさせるところもね。いかにもその辺も英国的なわけですよ。
     *
エレクトロボイスについて語られている、といっても、
ここではフルレンジユニットのSP8、SP12のことであり、
このふたつのフルレンジに対してもっておられた印象が、
そのままエレクトロボイスのスピーカーシステムに対しても同じであったのかどうかは、
この記事だけではなんともいえないものの、そう大きくと違っていないはずだ。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: 4343, JBL

4343とB310(その22)

1985年12月にSUMOのThe Goldを導入したとき、
鳴らしていたスピーカーシステムはセレッションのSL600だった。

The Goldが届いてまずしたことは分解掃除だった。
そして、いきなりSL600を鳴らすのはコワイと思い、
チェック用として用意していたアルテックの10cm口径のフルレンジユニット405Aを収めたスピーカーで鳴らした。
無事、音が出た。スピーカーが飛ぶこともなかった。

このアルテック405Aで1週間何事もなかったらSL600を安心して接続できるだろう、と決め、
それからの1週間は405Aの(エンクロージュアも凝ったものではない)、
上等とはいえないスピーカーで聴いていた。

10cmのフルレンジで、しかもアルテックのユニットだから低域も高域も伸びてはいない。
ナローレンジな音で、音量はかなりあげられても、
そうすると今度はエンクロージュアの共振が気になってくるような代物だったから、
音量をあげるといっても、それほど大音量で鳴らせたわけではなかった。

このとき感じていたのは、音像定位の安定度の高さ・確かさである。
それは精緻な音像定位といった感じなのではないのだが、
とにかく中央に歌手が気持ちよく定位してくれる。

1週間が経ち、SL600にした。
405Aよりもすべての点で上廻る音が鳴ってくれるものと期待していた……。

Date: 1月 7th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その34)

オルトフォン(Ortofon)は、
ギリシャ語で正確を意味するオルトと音を意味するフォンを組み合わせた造語で、
正確な音になり、オルトフェイズは正確な位相ということになる。

カートリッジに関係する造語ではシュアーのトラッカビリティがもっとも有名で、
いまもこのトラッカビリティが技術用語のひとつだと思っている人もいるくらいに、
一時期広く知れ渡った。

トラッカビリティと比較するとオルトフェイズは、それほどうまい造語とはいえない。
けれど、わざわざオルトフェイズという言葉をつくったということは、
オルトフォンとしては、3Ωという低インピーダンスのメリットの中で、
位相の正確さを重視していたと受け取ることもできる。

カートリッジのインピーダンスの低くとることのメリットは、なにもMC型カートリッジだけにいえることではなく、
MM型、MI型でも1980年代にはいり、
ピカリング、スタントンからローインピーダンス型のカートリッジが登場している。

スタントンは1980年に良質の低ロスのコア材に太めのワイアーを、
できるだけ巻数を少なくして、オルトフォンのMC型カートリッジと同じ3Ωという980LZSを、
1985年にもLZ9S(型番がローインピーダンスであることを謳っている)を発表している。
どちらも推奨負荷インピーダンスは100Ωとなっている。

ピカリングは1983年にXLZ7500Sを出している。
XLZ7500Sも、スタントンの980LZSとほぼ同じ技術内容を謳っているのは、
スタントンがピカリングのプロ用ブランドとして誕生しているわけだから、当然といえよう。

Date: 1月 6th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その2)

そのころよく聴いていた内田光子のCDで、そのことに気がついた。
内周ではこまかなニュアンスがよく再現されるのに、
外周(ディスクの終り)ではニュアンスの再現があまくなってしまう。
つるんとした表情のピアノの音になる。

ほかのディスクでも同じ傾向の音の変化をみせる。
こうなると、もう気のせいではなく、あきらかに音が変っているわけだ。

実はこのことをステレオサウンドにいたとき編集後記に書いた。
原稿には「内周のほうが、こまかいニュアンスがはっきりききとれる」と書いたけれど、
活字になったときには「はっきりききとれるような気がする」と書き換えられてしまった。

CDは内周でも外周でも音は変らない、ということがまだ信じられていたのだから、
はっきりと断言したかったのだが、
結局「はっきりききとれるような気がする」というおかしな表現のまま載ってしまった。

長島先生は、その私の編集後記を読んでくださっていた。
その編集後記が掲載された号が出てしばらくして長島先生がステレオサウンドに来られたときに、
「なぜ、CDは内周と外周で音が変る(内周のほうが音がいい)と思う?」ときかれた。

長島先生も、CDのその問題点に気づかれていていた。

Date: 1月 6th, 2013
Cate: 長島達夫

長島達夫氏のこと(その1)

CDが登場したときに期待したのは、
ディスクの内周と外周とで音の変化がない、ということだった。

LPだと角速度一定なため外周と内周とでは線速度に違いが出てきて、
しかもそればかりが原因ではないのだが、外周の溝のほうが内周よりも音がいい。
これは円盤状であるかぎり、LPでは解消できない問題点でもあった。

それがCDになれば線速度一定だからLPのような問題は原理的にも発生しない。
アナログからデジタルになったことへの問題を認識していてもなお、
外周と内周で音の違いが起り得るわけがない、
ということはCD(デジタル)ならではのメリットだと私は受けとめていた。

ディスクの最初から最後まで音質が変化しないで聴ける──、
そう期待していたし、そう思い込んでもいた。
けれど、自分のシステムでCDを聴いていると、
ステレオサウンドの試聴室では気づかなかったことがあることがわかった。

残念なことにCDでも内周と外周において音の違いが発生する、ということに気がついた。

ステレオサウンドの試聴ではCDを一枚最初から最後まで聴くと言うことは、まずない。
試聴ディスクのある一部分をくり返し聴くわけだ。
だからステレオサウンドの試聴室ではなく、自分のシステムで気がついたわけだ。

LPは外周から音楽が始まるのに対し、CDは内周から始まる。
LPでは外周、CDでは内周、どちらも音楽の始まりのほうが音がいい。
なんという皮肉なんだろう、と、そのことに気がついたときに思ったことだ。

Date: 1月 6th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×七・VITAVOXの復活)

二流の音楽家は、芸術性と倫理性の区別をあいまいにしたがる、そんな意味のことを言ったのはたしかマーラーだったと記憶するが、倫理性を物理特性と解釈するなら、この言葉は、オーディオにも当てはまるのではないか、と以前、考えたことがあった。
     *
51号掲載の「続オーディオ巡礼」は、この書き出しではじまる。
結局は「マーラーの言ったことはオーディオには実には該当しない」とされながらも、
次のように続けられている。
     *
下品で、たいへん卑しい音を出すスピーカー、アンプがあるのは事実で、倫理観念に欠けるリスナーほどその辺の音のちがいを聴きわけられずに平然としている。そんな音痴を何人か見ているので、オーディオサウンドには、厳密には物理特性の中に測定の不可能な音楽の倫理的要素も含まれ、音色とは、そういう両者がまざり合って醸し出すものであること、二流の装置やそれを使っているリスナーほどこの点に無関心で、周波数特性の伸び、歪の有無などばかり気にしている。それを指摘したくて、冒頭のマーラーの言葉をかりたのである。
     *
そして、このあとに続くのが、
この項の(続・VITAVOXの復活)で引用した「H氏のクリプッシュ・ホーンを聴いて痛感したのが……」である。

ヴァイタヴォックス復活のニュースを知ったときに、
まず浮んだのは、バックハウスのベートーヴェンを聴いてみたいだった。
ヴァイタヴォックスのCN191でできれば聴きたい。
堅固なコーナーのある部屋にCN191をセットして聴くことができれば、
どんなにか、それは素晴らしい音楽体験になるであろう──、
そんなことをおもっていた。

だからヴァイタヴォックス復活のことを、あえてこの項にて書くことにした。
ヴァイタヴォックスが復活して、バックハウスを聴きたい、
ただそのことだけをさらっと最初は書くつもりだった。

なのに、いざ書き始めてみると、書いておきたいことがあふれでてきた。
まだまだ書きたいことはある。でも今回はこのへんにしておこうと思う。
ヴァイタヴォックスのスピーカーの音が聴けるようになれば、また項を改めて書きたい。

世の中には、ヴァイヴォックスなんて時代遅れのスピーカーが、
また出て来た、とおもう人がいるのはわかっている。
私はまったく逆のことをおもっている。

この時代に、よくぞ復活してくれた、と。

ヴァイヴォックスが、これから先どれだけ売れるかを考えたら、そう多くはないであろう。
にも関わらず今井商事がまた取り扱ってくれる。ありがたいことだ。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×六・VITAVOXの復活)

10年とは、
結局、一つのスピーカーの出す音の美しさを聴き出すまでに必要な時間なのかもしれない。
五味先生のいわれたことを、この歳になってなぞっていることを実感している。

五味先生はステレオサウンド 51号で、
「ハーモニーの陰翳とでも言うほかないこの音のニュアンスは、かなり使いこまねば出てこない」
と書かれている。

一つのスピーカーを鳴らすのに10年もかかるなんて、よほど使いこなしの腕が未熟なんだろう、
そんなことを言う人も、きっといるはず。
そういうことではない。

そういうことではない、ということをわかっていない人が、
短ければ数ヵ月、長くても1年程度で、このスピーカーを鳴らしきった、と勘違いしたまま、
次のスピーカーへと目移りし買い替える……。

そういう人は、
愛情をこめて10年鳴らしてきたスピーカーが出す、
ハーモニーの陰翳を聴きとる耳をもつことが生涯できないのかもしれない。

10年、一つのスピーカーで音楽を聴いてくるということは、
そういう耳を、スピーカーとともにつくっていくことなのではないのか。

だから私は、スピーカーを買い替えていくだけの者の耳を、
そういう意味ではまったく信用していない。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続×五・VITAVOXの復活)

結局、10年かかるのだとおもう。

ひとつのスピーカーを10年間鳴らし続ける──、
たやすいことのようでもあり、そうでもなかったりする。

スピーカーを頻繁に買い替える人がいる。
たぶん、ずっと以前から、そういう人はある一定数いたのだと思う。
ただ以前は、そういうことが伝わってこなかったから、そうでもないと思われていただけなのかもしれない。

いまはインターネットがあり情報の伝達の速度も速い。
しかも自ら、スピーカーを交換した、と書く人も少なくない。
決して安価ではない(むしろ高価な部類の)のスピーカーを、
短ければわずか数か月で手離す人もいる。

買い替える、その理由がまったく理解できないわけでもない。
ほんとうに10年以上、じっくりとつきあっていけるスピーカーとめぐり合うために買い替えている、
そういう人もいることはわかっている。

でも、いつまでも自分にはもっと理想的なスピーカーがある、と思い続け、
次から次へ、とスピーカーを買い替えていっていては、
いつまでたっても理想と思えるスピーカーとは出合えないのではないだろうか。

本人は能動的な出合いを、ということで買い替えを続けているのかもしれない。
受動的な出合い、受動的なスピーカー選択なんてしたくない──、
それは思い上りなのかもしれない、と、
五味先生とタンノイ・オートグラフ、H氏とヴァイタヴォックスのCN191、
ふたりのスピーカーとの関係をみていくと、そう思えてきてしまう。

Date: 1月 5th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々続々・VITAVOXの復活)

つまり五味先生もH氏も、音を聴くこともなく実物を見ることもなく、
それぞれオートグラフとCN191をイギリスから取り寄せられたわけである。

いまとは時代が違うから、と人はいうかもしれない。
でも時代が違うだけであろうか、と私はおもう。

半信半疑であったはず。
五味先生は「わがタンノイ・オートグラフ」に「S氏にすすめられ、半信半疑でとった」と書かれている。

誰だって損はしたくない。
しかもそれが大金であれば、慎重でありたい。
だから、そのスピーカーに関する情報をあれこれ調べて、
オーディオ店で試聴したり、そのスピーカーを鳴らしている人がいれば、そこへ出向いて聴かせてもらう。
さらに、誰かに信頼出来る人に意見を求める人もいることだろう。

実物を見ず(音も聴かず)、ほとんど情報らしき情報も得られぬまま、
1963年当時で165ポンド(輸入して邦貨で約40万円)という買物をするのは、賭けであろう。

H氏がCN191を取り寄せられたのがいつなのかはっきりとしないが、
ステレオサウンド 51号に五味先生は「十年前」と書かれている。
51号は1979年に出た号だから、1969年あたりのことになる。

10年──、
「わがタンノイ・オートグラフ」で、こう書かれている。
     *
今おもえば、タンノイのほんとうの音を聴き出すまでに私は十余年をついやしている。タンノイの音というのがわるいなら《一つのスピーカーの出す音の美しさ》と言い代えてもよい。
     *
ステレオサウンド 51号の「続オーディオ巡礼」でも書かれている。
     *
「十年かかりましたよ」
と本人は言う。そうだろうとおもう。
     *
わずか二行の、わずかな文字数だから、さらっと読んでしまいがちだが、
「十年かかりましたよ」への、五味先生の「そうだろうとおもう」は、
五味先生とH(原田勲)氏の間柄があっての「そうだろうとおもう」であり、
ステレオサウンド 51号を読んだとき(まだ16歳だった)にはそれほど感じることのできなかった「重さ」を、
いま、こうして書くために読み返して感じている。

「そうだろうとおもう」と言ってくれる人がいるH氏も、
「そうだろうとおもう」と言える相手がいる五味先生も、
仕合せなオーディオの人生だったようにおもえてならない。

Date: 1月 4th, 2013
Cate: CN191, VITAVOX, Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(続々続・VITAVOXの復活)

五味先生にとってタンノイのスピーカーとのつきあいは、オートグラフから始まっているわけでないことは、
「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」の読者であれば、ここでくり返す必要のないことである。

1952年の秋に、五味先生はS氏宅で、
フランチェスカッティの、ベートーヴェンの『ロマンス』を聴かれたことから始まっている。
モノーラル時代の話で、まだ芥川賞をうけられる以前のことでもある。
最初のタンノイを手にされたのは芥川賞から3年経った1956年、
帰国するアメリカ人から譲り受けられたタンノイである。

このタンノイについては、
「当時街で売っている和製の『タンノイ指定箱』とずさんさにおいて異ならない」もので、
S氏邸とは比較にならないひどい音、と書かれている。

そのあとにコンクリートホーンの中域のみにタンノイを使われている時期もあった。
そして1963年渡欧の機会に恵まれた五味先生は、スイス人のオーディオマニアからHiFi year Bookをもらわれた。
そこにオートグラフとCN191が、165ポンドという、
「ミスプリントではないかと思った」この高価なスピーカーシステムを、
S氏の
「英国でミスプリントとは考えられない。百六十五ポンドに間違いないと思う。そんなに高価なら、よほどいいものに違いない。取ってみたらどうだ。かんぺきなタンノイの音を日本ではまだ誰も聴いた者はないんじゃないか」
に決意されたわけだ。

もしS氏がタンノイを使われていなかったら、
五味先生とタンノイとの、ながいつきあいもなかったのかもしれない。
もしかするとHiFi year Bookを見て、
オートグラフではなくCN191を選択された可能性だって考えられなくもない。

仮にそうなっていたとしたら、H氏はCN191ではなくオートグラフを選択されていた、とも思う。
そういう意味合いのことをきいているから、そういえる。

そういえば、五味先生もステレオサウンド 47号の「続オーディオ巡礼」の最後に、こう書かれている。
     *
二十年余、お互いに音をくらべ合って来た間柄であるが、こうなればオーディオ仲間も一種の碁敵(がたき)のようなものか。呵々。
(47号の「続オーディオ巡礼」登場されているのは奈良の南口重治氏)
     *
一種の碁敵でもあるわけだから、相手がどんなにいい音を出していて、
その音に聴き惚れて、自分の音として出したいと思っても、
だからといって同じスピーカーシステムは選ばない、という矜恃に近いものがあるからだ。

五味先生はオートグラフを選ばれた。
それも先に選ばれた。
ならばH氏は、CN191となる。

H氏のオーディオマニアとしての矜恃があったからこそ、
ヴァイタヴォックスのCN191は日本に紹介され、作り続けられたともいえる。