嬉しい知らせ
月に一二度はステレオサウンドのサイトにアクセスしている。
今年になって、今日最初のアクセスだった。
HEADLINEを溯ってみていると、「ステレオサウンド編集部より新年のご挨拶」というページがある。
ここに嬉しい知らせがある。
「3月1日発売の186号では、いよいよ待望のあの方が誌面に戻ってくる予定です。」
これ以上の情報はなにもないけれど、
待望のあの方は、やはり、ひとりだけである。
そう思って3月1日の発売日を待っていて、いいと思う。
月に一二度はステレオサウンドのサイトにアクセスしている。
今年になって、今日最初のアクセスだった。
HEADLINEを溯ってみていると、「ステレオサウンド編集部より新年のご挨拶」というページがある。
ここに嬉しい知らせがある。
「3月1日発売の186号では、いよいよ待望のあの方が誌面に戻ってくる予定です。」
これ以上の情報はなにもないけれど、
待望のあの方は、やはり、ひとりだけである。
そう思って3月1日の発売日を待っていて、いいと思う。
この理屈からいけば、スピーカーケーブルは短いほうがいい、ということになる。
けれど実際には、必ずしもそうではない、と菅原氏はいわれた。
全体の長さからすると、ほんのわずかとはいえ短くすることで音は良くなる。
さらに短くするともう少し良くなる。もっと短くすると……、
これをくり返していくと、あるところでよい方向への変化が頭打ちになって、
そこから先は短くすることによって音が悪い方向へと変化していく。
それでもさらに短くしていくと、これまた悪い方向への変化も底打ちになって、
そこからは一転よい方向への変化になっていく……。
ちょうどサインウェーヴのようにプラスとマイナスが交互にやってくるような音の変化をする、という。
中野氏と本田氏による、30mのスピーカーケーブルの、10cm単位での長さの調整は、
ベイシーの菅原氏が経験的に感じられていたことを、
意図的に調整に利用された、ともいえるだろう。
ベイシーにて菅原氏が使われているスピーカーケーブルの銘柄・品種はなにか知らない。
でも極端に太く、高価すぎるケーブルではないはず。
おそらくベルデンのスピーカーケーブルなのだと思う。
話は前後するが、トリオの会長だった中野氏と本田氏によるヴァイタヴォックスCN191の調整で注目したいのは、
30mのスピーカーケーブルを10cm単位で調整していった、ということ。
30mは3000cmだから、10cmは割合からいえばほんのわずかでしかない。
にも関わらず、両氏は30mのスピーカーケーブルの長さを10cm単位で調整されている。
1mの長さのスピーカーケーブルを10cm単位で調整するのならばまだしも、
30mのうちの10cmで、そんなわずかなことで音は変らない、という人は常にいる。
けれどオーディオの調整とは、そういうところにも存在しているのは、
そのオーディオ歴の長さではなく、ほんとうに真剣にやってきた人であれば、理解されることのはず。
このことに関係して思い出すのは、
一ノ関のベイシーの菅原正二氏が、やはりスピーカーケーブルについて語られたことである。
ベイシーのスピーカーケーブルが実際にどれだけの長さなのか、私は知らないけれど、
かなりの長さであることはきいている。
菅原氏は定期的に接点のクリーニングを兼ねて、スピーカーケーブルの末端を切り、
新たに被覆を剥いて新しく芯線の露出をやられている。
とうぜん、この作業によってスピーカーケーブルはスピーカー側とパワーアンプ側の両方をやることで、
数cmずつ短くなっていく。
スピーカーケーブルは原則として0mが理想として語られている。
つまりどんなに優れたスピーカーケーブルであってもどんどん短くしていけば、
究極的には(もちろん実際に不可能なことだけど)0(ゼロ)にできれば、
スピーカーケーブルの影響からは逃れられることになる。
オーディオの経験を積んできたから、
グラシェラ・スサーナの歌を最初の手がかりとしたことは間違っていなかったし、
むしろ、そのことがもたらしてくれたものが確実なステップとなっていった、と明言できるのだが、
オーディオをやり始めたときは、迷いに近いものがあったし、
それこそ若者特有の背伸びしたい(そうみせたい)気持もあって、
グラシェラ・スサーナの歌よりもクラシックやジャズが上位にあって、
そういう音楽で音を判断していかなければならないのではないか、と思わないではなかった。
1977年秋、ステレオサウンドから別冊として「HIGH-TECHNIC SERIES-1」が出た。
マルチアンプのまる一冊特集した本である。
この本におさめられている瀬川先生の文章のある一節を読んで、なくなった。
*
EMTのプレーヤー、マーク・レビンソンとSAEのアンプ、それにパラゴンという組合せで音楽を楽しんでいる知人がある。この人はクラシックを聴かない。歌謡曲とポップスが大半を占める。
はじめのころ、クラシックをかけてみるとこの装置はとてもひどいバランスで鳴った。むろんポップスでもかなりくせの強い音がした。しかし彼はここ二年あまりのあいだ、あの重いパラゴンを数ミリ刻みで前後に動かし、仰角を調整し、トゥイーターのレベルコントロールをまるでこわれものを扱うようなデリケートさで調整し、スピーカーコードを変え、アンプやプレーヤーをこまかく調整しこみ……ともかくありとあらゆる最新のコントロールを加えて、いまや、最新のDGG(ドイツ・グラモフォン)のクラシックさえも、絶妙の響きで鳴らしてわたくしを驚かせた。この調整のあいだじゅう、彼の使ったテストレコードは、ポップスと歌謡曲だけだ。小椋佳が、グラシェラ・スサーナが、山口百恵が松尾和子が、越路吹雪が、いかに情感をこめて唱うか、バックの伴奏との音の溶け合いや遠近差や立体感が、いかに自然に響くかを、あきれるほどの根気で聴き分け、調整し、それらのレコードから人の心を打つような音楽を抽き出すと共に、その状態のままで突然クラシックのレコードをかけても少しもおかしくないどころか、思わず聴き惚れるほどの美しいバランスで鳴るのだ。
*
グラシェラ・スサーナという固有名詞が出ているのも嬉しかったのだが、
それ以上に、日本語の歌で調整しても、それが「人の心を打つような音楽」として鳴ってくれるのならば、
最新のクラシックの録音も美しいバランスで鳴る、瀬川先生が聴き惚れるほどの音で響いてくれる──、
グラシェラ・スサーナの歌を、私にとっての最初の手がかりとしても、なんら問題がないどころか、
結局、ジャンルに関係なく、素晴らしい音楽がその素晴らしさに見合った音で鳴らなければ、
他のジャンルの音楽を鳴らしたとしても、聴き惚れるような音は出ない。
もちろん瀬川先生の知人の、パラゴンを鳴らされている方ように、
オーディオに関心をもち始めて1年ちょっとの私が同じ聴き方ができるわけがない。
けれど、ひとつだけできることがあった。
「いかに情感をこめて唱うか」──、
このことに関しては間違えようがない。
だから、グラシェラ・スサーナの歌がいかに情感がこめられて鳴ってくれるか、が、
私にとって、最初の重要な判断基準となっていた。
長島先生は1998年6月5日に心不全で亡くなられている。
その約1週間後にステレオサウンド 127号で出ている。
この127号に掲載されている菅野先生の「レコード演奏家訪問」に、長島先生は登場されている。
128号に「長島達夫先生の悼む」が載っている。
菅野先生と柳沢氏が書かれている。
読み返していた。
いろんなことをおもいだしていた。
おふたりの追悼文は、当時読んだ時いじょうに胸に沁みる。
柳沢氏が長島先生の人柄を示すエピソードとして、このようなことを書かれている。
*
長島さんとの付き合いは長い。ぼくがまだデザイン学生だったころ、グループ制作で小型の魚群探知機をテーマにしたとき、学校にはあまり来なかったがまだ籍だけあった、故・瀬川冬樹氏が「エレキとメカの雑学に強い奴がいる」と言って紹介してくれたのが長島さんだった。その付き合いから山中敬三さんとも知り合うことになるのだが、みな他界されてしまった。
瀬川さんが「エレキとメカに強い奴」と言わず「……の雑学に」と言ったのは当を得ていて、結局、魚群探知機でも長島さんから具体的な知識は得られなかったが、やたら何でも知っているおもしろい人だと感心した。
*
ほんとうにそのとおりであって、柳沢氏はさらに
「何事にも旺盛な興味を示す人」
「長島さんの豊富で貴重な雑学が、試聴方法や測定方法に斬新なアイデアを生み、本誌のアイデンティティの確立をバックアップした」
「長島さんの貴重な雑学が、急成長期の日本のオーディオにさまざまな形で貢献してきた」
とも書かれている。
長島先生と付き合いのあった方ならば、誰しも頷かれることである。
ローインピーダンスのMM型カートリッジには、正直懐疑的だった。
いったいどういうメリットがあるというのだろうか、と考えた。
MC型カートリッジならばコイルも振動系に含まれる。
だからコイルの巻数を減らすことは、わずかとはいえコイル部の質量を小さくすることにモなり、
振動系の実効質量にも関係してくるけれど、
MM型カートリッジではコイル部は振動系には含まれない。
Moving Magnetなのだから振動系に含まれるのはマグネットであり、
コイルの巻数を減らしたところで、カートリッジの自重は多少軽くなることはあっても、
振動系の実効質量には関係してこない。
それにどれだけ強力なマグネットを採用したところで、
推奨インピーダンスが100Ωということはカートリッジのインピーダンスは実際には100Ωよりも低いわけで、
従来の1/2とか1/4といったインピーダンスの低下ではないほど大幅にローインピーダンス化してしまえば、
出力電圧は、インピーダンスとともに低下する。
ピカリングのXLZ7500Sの出力電圧は、たしか0.3mVだった。
この値はMC型カートリッジ並でしかない。
そうなると使用にはなんらかの昇圧手段が必要となる。
ピカリングもスタントンもトランスではなくヘッドアンプを推奨していた。
もしくはハイゲインのイコライザーアンプが必要となる。
いったい、こういうカートリッジにどういうメリットがあるのだろうか、と思った。
音は聴かなければなんともいえないものの、技術的なメリットをすぐには見出せなかった。
いまオーディオ評論家と呼ばれている人の文章を読んでいると、
バックボーンの厚みがほとんど感じられないことがある。
すべての人がそういうわけではないもちろんないけれど、
読んでいて、薄っぺらな文章だと、その文章のつまらなさよりも、
これを書いた人のバックボーンの薄さ(ときには「なさ」でもある)を感じるのは、なぜだろうと思う。
しかも、そういう人にかぎって情報収集に熱心なように、私には見える。
読者に有益な情報を伝えることも書き手の務めだとすれば、
これはこれで評価すべきことなのだろうが、
どんなに情報収集に熱心であっても、どれだけ情報を集めたとしても、
それだけではバックボーンが築かれることはない。
情報収集そのものは悪いわけではない。
集めた情報はいつしかその人の知識になり、それが体系化されていけばバックボーンの一部となっていく。
けれど集めることだけに汲々としていては、または集めただけで満足していたら、
いまつまでたってもその人のバックボーンの一部となっていくことはないはず。
ではなぜ情報を集めただけで終ってしまう人がいるか。
そこまでひどくなくても、
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちと、
私がステレオサウンドの全盛期とおもっているころに書いていたオーディオ評論家の人たちとのバックボーンには、
根本的な違いがあると感じてしまうのは、いかなることなのかと考えていくうちに思いあたるのは、
理想の有無ということである。
そのころのステレオサウンドに初心者用の記事があったわけではない。
そういう基礎的な知識に関しては、他の雑誌なり技術書を読めばいいわけで、
そういうことをステレオサウンドに求めようとは思っていなかった。
ステレオサウンド 41号の特集は「世界の一流品」である。
誌面に登場しているオーディオ機器は、いくつかは比較的安価なものもあったけれど、
多くは高価なものが占めていた。
マークレビンソンのLNP2もあった、JBLの4343も取り上げられていた(表紙でもあった)。
EMTの930st、ヴァイタヴォックスのCN191など、13歳の私にはまったく手の出ない価格のモノばかりであっても、
いつかはLNP2、4343……、そんなことを夢想しながら読んでいた。
これらのモノをいつ買えるようになるかなんて、
13歳の私には見当もつかなかった。
漠然と10年後くらいには買えるのかな……、とおもいながらステレオサウンドに夢中になっていた。
オーディオに関心をもち始めるときも人によって違う。
私と同じように10代前半で、という人もいれば、
もっと早い時期からという人も20代になってから、という人もいる。
私がそうだったからだけど、
ステレオサウンドに関係している人ならば、
編集者も筆者も、やはり10代のころからオーディオにのめり込んでいたのではないだろうか。
そうだとしよう。
そして、問いたいのは、いま10代の自分がいたとして、
果して、いまのステレオサウンドをわくわくしながら読んでいる、といえるのかということだ。
私は「五味オーディオ教室」からオーディオにはいってきた10代だったから、
いまのステレオサウンドには、あのころのステレオサウンドと同じような面白さは感じない、とおもう。
いま私はステレオサウンドとは関係のない人間だから、
それはそれでいい。
でもいまステレオサウンドに書いている筆者、編集者の人たちは、
オーディオに興味をもち始めた自分を振り返って読者として想定してみてほしい。
そのころの自分をわくわくさせる「本」をつくっているのか、と。
毎日ブログを書いている。
ある読み手を想定して書いている。
その読み手とは、10代の私である。
オーディオに興味をもち始めたころの私に対してのブログでもあるわけだ。
それ以外の読み手のことは想定していない。
読み手の想定など、ということは実際には無理である。
私は最初に手にしたステレオサウンドは41号だったのだが、
創刊号から読んでいる人もいれば、10号ぐらいからの人、20号ぐらいからの人、30号ぐらいからの人といたわけで、
創刊号から読んでいた人にしても、皆が同じ年齢というわけでもなく、
オーディオのキャリアも異る。
41号といえば創刊から10年、
いまステレオサウンドは創刊から46年が経過している。
いま書店に並んでいる185号が最初のステレオサウンドという人もいることだろう。
創刊号からずっと買い続けている人もいる。
つまりさまざまな読み手がいる。
そのすべての読み手を満足させる本をつくることができるのか、といえば、無理であろう。
だから、どうするのか。
同じことはブログについてもいえる。
テーマによって、想定する読者を変える、というのもひとつの手ではある。
けれど、私は、もういちど書くけれど、10代のころの、オーディオに興味をもち始めた私、
もうすこし具体的に書けば「五味オーディオ教室」を読んでオーディオの世界にはいってきた私に対して、
ブログを書き続けている。
13歳の私は、「五味オーディオ教室」を読んだ数ヵ月後にステレオサウンド 41号と、
別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」を読んだ。
わくわくしながら読んだ。
そこに書いてあることすべてを理解できていたわけではないが、
読むのが楽しかったし、少しでも多くのことを理解しようとくり返し読んだ。
SUMOのThe Goldの前に、SL600を鳴らしていたのはアキュフェーズのP300Lだった。
そのP300Lでも、すこしだけアルテックの405Aを鳴らしてみた。
そのときの音の違いから、SL600にThe Goldを接いで鳴らしたら……、と期待に胸ふくらましながらの一週間だった。
3日目ぐらいから何度The Goldに接ぎかえようと思ったことか。
問題ないはず、という確信はあったものの、
それでも最初に決めた1週間を405Aで通したのは、
意外にも405Aで聴く、人の声の気持ちよさに魅かれるところがあったためである。
ほーっ、やっぱり小さくてもアルテックなんだなぁ、と感じつつの1週間がすぎ、
いよいよThe GoldでSL600を鳴らす日が来た。
いままで何の不安も感じさせなかったから大丈夫だ、ということはわかっていても、
それでも最初にSL600を接いで電源スイッチをいれるときは、すこし緊張した。
いい音だった。
P300Lに、これといった大きな不満はなかった。
SL600はパワーアンプを選り好みするという印象を持っている人が少なくないので意外な感じもするのだが、
特別なパワーアンプを持ってこなければ、うまく鳴ってくれない、というスピーカーシステムではない。
とはいえ、The Goldけで鳴らしたSL600の音はよかった。
SL600のほうが405Aよりも周波数レンジも広い。
405Aに感じた粗さもない。
けれど人の声、それも男性の声のリアリティが、405Aほど濃厚に出ない。
SL600での男性の声がよくないわけではない。
うまく鳴っている。鳴ってはいるいるけれど、405Aで感じられた、気配のようなものがすこし足りない。
SL600だけで聴いていればそんなことを思わなかったであろう。
でも1週間、405Aで聴き続けた時間がすでに存在していた。
五味先生は書かれている。
*
電気エネルギーを、スピーカーの紙(コーン)の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。すくなくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。
*
ここに、答のすべてがある、と初めて読んだときも、
いま(もうどれだけくり返し読んだことか)読んでも、そうおもう。
五味先生にとって肉体を復活を錯覚できる音とは、どういう音なのか。
具体的に書かれているところがある。
そこには「肉体」ということばは出てこないけれど、
そこに書かれている音こそが肉体の復活を錯覚できる音ととらえて、間違いないといえる。
それは20箇条「スピーカーとは音を出す器械ではなく、音を響かせる器械である。」にある。
*
たとえば『ジークフリート』(ショルティ盤)を聴いてみる。「剣の動機」のトランペットで前奏曲が「ニーベルングの動機」を奏しつつおわると、森の洞窟の『第一場』があらわれる。小人のミーメに扮したストルツのテナーが小槌で剣を鍛えている。鍛えながらブツクサ勝手なごたくをならべている。そこへジークフリートがやってくる。舞台上手の洞窟の入口からだ。ジークフリートは粗末な山男の服をまとい、大きな熊をつれているが、どんな粗雑な装置でかけても多分、ミーメとジークフリートのやりとりはきこえるだろう。ミーメを罵り、彼の鍛えた剣を叩き折るのが、ヴィントガッセン扮するジークフリートの声だともわかるはずだ。しかし、洞窟の仄暗い雰囲気や、舞台中央の溶鉱炉にもえている焰、そういったステージ全体に漂う雰囲気は再生してくれない。
私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番のものと交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
*
ここで大事なことは、「ステージ」である。
ステージがあり、演奏者の足がステージに立っていること、こそ、
肉体の復活を錯覚させてくれる音であり、
どんなに精緻な音像を、現代のスピーカーシステムがふたつのスピーカー間に再現しようとも、
そこにステージはなく、
歌っている、演奏している者の足もなければ、
いくらスピーカーの存在がなくなったように感じられる音だとしても、
それは肉体のない音であり、言葉の上では同じような音とおもえても、まったく別物であるということに、
意外と気がついていない人がいるように感じられてならない。
生の音(原音)にはあって、再生音には存在しないもの。
まっさきに浮ぶのは、肉体である。
私が聴くのは、その多くがクラシックで、あとジャズが少し、
それ以外の音楽ももちろん聴くけれど、
私が聴く音楽のほとんどに共通しているのは、
演奏者の肉体があって、ある空間に音が発せられているということである。
この演奏者の肉体は、再生音にはない。
再生系のメカニズムのどこにも肉体の介在する余地はないのだから、
再生音に肉体がないのは、至極当然のことである。
それに録音の過程においても、
マイクロフォンがとらえているのは演奏者が己の肉体を駆使して発した音であり、
録音系のメカニズムのどこにも肉体を記録できる箇所はない。
再生音には肉体がない──、
こう書きながら思い出しているのは、
これもまた「五味オーディオ教室」の最初に出てくることである。
私にとってのオーディオの出発点に、また戻ってしまうことになる。
このブログを書き始めの最初のころ「再生音に存在しないもの」を書いている。
これも、13歳のときに「五味オーディオ教室」を読んだときから、ずっと頭のどこかにありつづけている。
「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と考えるのも、
再生音には存在しないものがあるから、である。
けれど、それがなんなのか、がいまひとつはっきりとしてこない。
もしすこしでつかめそう、というより、指がそこに届きそうな感じはしているものの、
まだまだ、はっきりと把握するにはそうすこし時間はかかりそうである。
「再生音に存在しないもの」では五味先生の文章を引用した。
そこにはルノアールの言葉を、五味先生は引用されている。
「画布が光を生み出せるわけはないので、他のものを借りてこれを現わさねばならない」とある
「光は存在しない」ことは、再生音でいえばいったいなんなのか。
これがわからなければ、「他のもの」を借りてくることもできない、といえる。
何を借りてきていいのかもわからず、やみくもになにもかも借りてきたところで、なんになろうか。
何がいったいないのか、
借りてくる「他のもの」とはなんのなのか──、
このことについて考えていくときに、ずっと以前の大型スピーカーシステムにあって、
いまのハイエンドと呼ばれているスピーカーシステムにないものが、たしかにある──、
そんなふうにも思えてくる。
CDプレーヤーはサーボ回路を停止させてしまうと、
まったく機能しなくなる。音の出なくなる。
このへんが同じデジタル機器でもDATとの違いがある。
DATではサーボ回路を停止しても、すぐには音が出なくなるわけではない。
CDとDATでは16ビットというところは同じだが、サンプリング周波数は44.1kHzと48kHzという違いがある。
この違いが、CDとDATの音の違いに大きく影響している、というよりも、
サーボ回路なしでもほんのわずかとはいえ音を出すことが可能なDATと
サーボ回路なしではまったく音を出すことのできないCDでは、
信号読みとりの安定度に根本的な違いがある、ともいえる。
そんなCDプレーヤーだから、
サーボ回路とその電源部(アースを含めて)が重要となることは容易に想像がつくわけだが、
CDプレーヤーが登場したころ、よくいわれたいわゆるデジタル臭さがどこに起因しているのか、
それを音楽信号と相関性のないサーボ回路電流の変動によるノイズの発生にある、と指摘されたのは、
1980年代後半、ラジオ技術誌において、富田嘉和氏であった。
ここで見落してならないのは、音楽信号と「相関性がない」ノイズが発生している、ということである。
慧眼とは、こういことをいうのだと思ったことを、いまでも憶えている。
つまりはディスクの偏芯の問題である。
CDだけでなく、アナログディスクでも偏芯の問題はあり、
ナカミチのTX1000は、この偏芯の度合いを検知して補正するメカニズムを搭載していた。
CDでもアナログディスクでもディスクの中心とスピンドルの中心がぴったり一致していれば、
こんな問題は発生しないわけだが、実際にはどちらにも誤差があって、
そのわずかな誤差があるからこそすっとディスクの中心穴をスピンドルにいれることができるわけだが、
この誤差が音質上問題になることがある。
アナログディスクであれば、偏芯が多いな、と感じたら、すぐにカートリッジを持ち上げて、
ディスクをセットし直せる。
使い馴れたアナログプレーヤーであれば、
自然と偏芯がそれほど大きくならないようにディスクをセットできるようになるものである。
また、そういうふうになれるプレーヤーは、よく出来たプレーヤーともいえる。
ところがCDプレーヤー、それもトレイ式ではトレイにCDを置くまでしか管理できない。
トレイとともにCDがCDプレーヤーに取り込まれてからは手をくだすことはできないわけである。
だからトレイを一度引き出して、もう一度、ということをやることになってしまう。
ほんとうは、こんなことで音が変るのはなくなってほしい、と思っている。
思っていても、現実にはこんなことで音が変化する。
それも使い手が管理てきないところで音が変るわけである。
このディスクの偏芯の問題は、
CDプレーヤーならばクランプの仕方(メカニズムの精度を含めて)と
サーボのかけ方(回路を含めて)を検討することで、そうとうなところまで解消できる。
でも、私がCDの内周と外周の音のニュアンスの違いに気づいた1980年代半ばすぎでは、
まだまだ問題点を残したままだった。