正しいもの(その15)
いまオーディオ評論家と呼ばれている人の文章を読んでいると、
バックボーンの厚みがほとんど感じられないことがある。
すべての人がそういうわけではないもちろんないけれど、
読んでいて、薄っぺらな文章だと、その文章のつまらなさよりも、
これを書いた人のバックボーンの薄さ(ときには「なさ」でもある)を感じるのは、なぜだろうと思う。
しかも、そういう人にかぎって情報収集に熱心なように、私には見える。
読者に有益な情報を伝えることも書き手の務めだとすれば、
これはこれで評価すべきことなのだろうが、
どんなに情報収集に熱心であっても、どれだけ情報を集めたとしても、
それだけではバックボーンが築かれることはない。
情報収集そのものは悪いわけではない。
集めた情報はいつしかその人の知識になり、それが体系化されていけばバックボーンの一部となっていく。
けれど集めることだけに汲々としていては、または集めただけで満足していたら、
いまつまでたってもその人のバックボーンの一部となっていくことはないはず。
ではなぜ情報を集めただけで終ってしまう人がいるか。
そこまでひどくなくても、
いまオーディオ評論家と呼ばれている人たちと、
私がステレオサウンドの全盛期とおもっているころに書いていたオーディオ評論家の人たちとのバックボーンには、
根本的な違いがあると感じてしまうのは、いかなることなのかと考えていくうちに思いあたるのは、
理想の有無ということである。