続・再生音とは……(その4)
五味先生は書かれている。
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電気エネルギーを、スピーカーの紙(コーン)の振動で音にして聴き馴れたわれわれは、音に肉体の復活を錯覚できる。すくなくともステージ上の演奏者を虚像としてではなく実像として想像できる。これがレコードで音楽を聴くという行為だろう。
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ここに、答のすべてがある、と初めて読んだときも、
いま(もうどれだけくり返し読んだことか)読んでも、そうおもう。
五味先生にとって肉体を復活を錯覚できる音とは、どういう音なのか。
具体的に書かれているところがある。
そこには「肉体」ということばは出てこないけれど、
そこに書かれている音こそが肉体の復活を錯覚できる音ととらえて、間違いないといえる。
それは20箇条「スピーカーとは音を出す器械ではなく、音を響かせる器械である。」にある。
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たとえば『ジークフリート』(ショルティ盤)を聴いてみる。「剣の動機」のトランペットで前奏曲が「ニーベルングの動機」を奏しつつおわると、森の洞窟の『第一場』があらわれる。小人のミーメに扮したストルツのテナーが小槌で剣を鍛えている。鍛えながらブツクサ勝手なごたくをならべている。そこへジークフリートがやってくる。舞台上手の洞窟の入口からだ。ジークフリートは粗末な山男の服をまとい、大きな熊をつれているが、どんな粗雑な装置でかけても多分、ミーメとジークフリートのやりとりはきこえるだろう。ミーメを罵り、彼の鍛えた剣を叩き折るのが、ヴィントガッセン扮するジークフリートの声だともわかるはずだ。しかし、洞窟の仄暗い雰囲気や、舞台中央の溶鉱炉にもえている焰、そういったステージ全体に漂う雰囲気は再生してくれない。
私は断言するが、優秀ならざる再生装置では、出演者の一人ひとりがマイクの前に現われて歌う。つまりスピーカー一杯に、出番になった男や女が現われ出ては消えるのである。彼らの足は舞台についていない。スピーカーという額縁に登場して、譜にあるとおりを歌い、つぎの出番のものと交替するだけだ。どうかすると(再生装置の音量によって)河馬のように大口を開けて歌うひどいのもある。
わがオートグラフでは、絶対さようなことがない。ステージの大きさに比例して、そこに登場した人間の口が歌うのだ。どれほど肺活量の大きい声でも、彼女や彼の足はステージに立っている。広いステージに立つ人の声が歌う。つまらぬ再生装置だと、スピーカーが歌う。
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ここで大事なことは、「ステージ」である。
ステージがあり、演奏者の足がステージに立っていること、こそ、
肉体の復活を錯覚させてくれる音であり、
どんなに精緻な音像を、現代のスピーカーシステムがふたつのスピーカー間に再現しようとも、
そこにステージはなく、
歌っている、演奏している者の足もなければ、
いくらスピーカーの存在がなくなったように感じられる音だとしても、
それは肉体のない音であり、言葉の上では同じような音とおもえても、まったく別物であるということに、
意外と気がついていない人がいるように感じられてならない。