オーディオの楽しみ方(その5)
たくましさを喪失していくことで、
毒にも薬にもならない音を求めるようになるのかも──、
そんな気がしてならない。
たくましさを喪失していくことで、
毒にも薬にもならない音を求めるようになるのかも──、
そんな気がしてならない。
金井克子の「他人の関係」は1973年、
1974年には映画「エマニエル夫人」が公開されている。
公開時、私は十一歳だったから、観たくても観れなかった。
けれど、「エマニエル夫人」のポスターのインパクトは強かった、というより凄かった。
映画のポスターは、映画の数だけ、というよりも、
同じ映画でも国によってポスターが違うこともあるし、
何種類かのポスターが用意されたりもするから、
映画の数の数倍のポスターが世に出ているわけで、そのすべてを見ているわけではない。
映画のポスターとしてのデザイン、
どの映画のポスターが優れたデザインとか、そういうことはいえないが、
少なくともインパクトの強さに関していえば、「エマニエル夫人」のポスターだ。
籐の椅子にシルヴィア・クリステル演じるエマニエル夫人が坐っている。
いまでは、当時の各国の「エマニエル夫人」のポスターが、検索すれば見れる。
日本の「エマニエル夫人」のポスターは、評価が高い、らしい。
いま見ても、そうだろうな、と思う。
「エマニエル夫人」のポスターが、ポスター・デザインとして、どう評価されるのか、
そういうことは関係ないところで、これほど印象深く記憶に残っているものはない。
けれど、このポスターは、あの時代だったから、街中にも貼られていて、
当時小学生だった私の目にも留まったわけだ。
いま「エマニエル夫人」がリメイクされて公開されたとしても、
もう、あのポスターは無理であろう。
ラックスのM6000の容積と
マッキントッシュのMC2300の容積を比較すると、M6000の方がわずかに小さい。
重量もMC2300は58.1kgだから、これもM6000のほうが6kgほど軽い。
しかもMC23000はファン付き、M6000はファン無し。
MC23000はオートフォーマーを含めてトランス類の数は三つ、
M60000は電源トランスが二つ。
その分、チムニー型の鋳物によるヒートシンクを持つ。
こんなふうに比較していくと、M6000はMC2300を意識していたように思えてくる。
M6000が登場した1975年のステレオサウンドのムック「世界のオーディオ」のラックス号、
ここで、井上先生がM6000について語られている。
*
私はこのアンプを見たときに、ラックスのハイパワーアンプに対する姿勢が、かなり他社と違っていることを、一番感じたわけです。というのは、いままで、ハイパワーアンプというのは、主として、「業務用」とか、プロフェッショナル用とかいう、お墨付きをもらったもの、もしくは、その方向を志向した製品が多かったでしょう。これが、ラックスの場合には、あきらかに、コンシュマーユースという目的にしぼったデザインをしていますよね。ここに、このM6000の現時点での特異性があると思います。
*
マッキントッシュのMC2300は、管球式のMC3500のソリッドステート版である。
MC2300と、同じマッキントッシュのほかのパワーアンプとは風貌からして違う。
いわゆる「業務用」としての役割を果たせるアンプである。
MC2300を意識しながら、MC2300とは好対照な存在。
それがラックスのM6000というアンプだと思う。
SAEのMark 2500は、というと、
19インチのフロントパネルからも、プロフェッショナルということを意識しているはずだ。
それゆえに強制空冷であるし、
電源トランスの一次側には、通常のフューズだけでなく温度フューズも使われている。
温度フューズを嫌うメーカーは多いなかで、アメリカ製としては珍しい。
Mark 2500の基本設計がジェームズ・ボンジョルノということで、
Mark 2500も動作が不安定で、よくスピーカーを壊すアンプだと思い込んでいる人が、
どうも日本のオーディオマニアはいる。
Mark 2500が不安定なアンプだということは、いままで聞いたことがないし、
ステレオサウンド 41号で、瀬川先生は、
《中でも300W×2のMARK2500は、動作の安定なことはもちろんだが、その音質がすばらしく、出力の大小を問わず現代の第一級のパワーアンプである》
と書かれている。
オーディオに限らないのだが、
なにごとも徹底的に楽しむには、たくましくなければならない。
肉体的に、という意味ではなく、人としてたくましく、である。
M6000のことをこうやって書いていると、
DA07のことを思い出す。
1988年に登場した、このD/Aコンバーターは、大きかった。
200W+200Wクラスなみの大きさと重さのD/Aコンバーターだった。
ラックスのずんぐりむっくりのプロポーションは、
いま思えば、このDA07から始まったのかもしれない。
とにかくDA07の筐体は、それまでのラックスのイメージからはほど遠く、
その時は感じられたのだが、いまM6000のことを書いていると、
ラックスという会社は、
いきなり、こういう大きさと重さの製品を出してくるところがあることに気づく。
M6000という超弩級のパワーンア符の存在が、十年以上前にあったのだから、
ラックスはDA07というD/Aコンバーターを世に送り出した──、
というより送り出せたのではないだろうか。そんな気がする。
M6000は前脚は通常の固定脚だが、後脚はキャスターになっている。
多少なりとも扱いやすいように、という配慮だろう。
でも思うのだが、横幅が57cmあるから、そのころ発売されていたラックには収まらない。
収まるようなラックがあったとしても、重量が52kg。
そうとうに頑丈に作られたラックでなければ、やはり無理である。
あの時代、M6000を購入した人たちは、どうしていたのだろうか。
ラックを特註したのか、それとも床に直置きしていたのか。
私は見たことがないが、鉄フレームの専用ラックも発売されていた、ときいている。
そういうモノまで用意するくらいなら、モノーラル構成にしたほうがよかったのでは──、
とは多くの人が思うはず。
M6000の内部は、
電源トランスから左右チャンネルで独立しているデュアルモノコンストラクション。
モノーラル仕様だったら、入出力端子のすんなり設けられただろうし、
専用ラックを用意することもなかったわけだ。
それでもステレオ仕様にこだわったのは、
マッキントッシュのMC2300の存在を意識してのことのようにおもえる。
Amazon Music HDで、金井克子の「他人の関係」を聴いた。
1973年にヒットした歌だから、私は十歳だった。
歌詞の意味を完全にわかっていたわけではなかったけれど、
なんとなくエッチなことを歌っているんだろうな、ぐらいには感じていた。
それに金井克子の振り付けは、学校で流行っていた。
そんな「他人の関係」を久しぶりに聴いた。
1973年当時、聴いていたといっても、
テレビやラジオから流れてくるのを聴いていただけだった。
ディスクを買って聴いていたわけではない。
東京で暮すようになって、テレビもラジオをもたない生活だったから、
「他人の関係」を聴く機会はなかった。
一青窈がカバーした、ということは何かで読んで知っていた。
機会があれば──、というぐらいの関心で、今日まで聴いたことはなかった。
Amazon Music HDには、金井克子、一青窈、どちらの「他人の関係」もある。
金井克子の「他人の関係」に感じられる煽情的な空気感が、
一青窈の「他人の関係」からは、私は感じられなかった。
どちらの「他人の関係」がいいとかわるいとかではなく、
一青窈の「他人の関係」は、
金井克子の「他人の関係」にあった扇情的なところが漂白されてしまっている。
といっても、これは私の感じ方であって、
どちらも、そういうところを感じるという人もいるだろうし、
一青窈の歌に、より強く感じるという人もいるように思う。
それはそれでいいのだが、
金井克子の「他人の関係」と一青窈の「他人の関係」、
どちらに扇情的な空気感を感じるのか。
それによって、音情という言葉の捉え方はそうとうに変ってくるはずだ。
ここでは、近所の書店での無線と実験の取り扱われ方を書いている。
今日(10日)は、無線と実験の発売日。
もうここで書くような変化はないだろうな、と思って、その書店をのぞいてみた。
無線と実験は、音楽・オーディオのコーナーにある。
けれど、今月も変化があった。
最新の8月号だけでなく、7月号も並んでいる。
無線と実験は、その書店では面陳列である。
8月号とともに7月号も面陳列になっていた。
7月号は売れ残っているわけだから、棚差しであってもおかしくない。
ふつうは返本されるのだから。
なのに面陳列という扱いである。
ちなみにステレオサウンドの最新号は棚差しになっていた。
こういうのをみかけると、無線と実験を買う時は、ここで買おう、と思うほどに嬉しい。
といっても、無線と実験は二年に一回ほどしか買わなくなってしまったけれど。
国産300Wパワーアンプ、アキュフェーズのM60、ラックスのM6000、サンスイのBA5000、
このなかで、完全な自然空冷はM6000である。
BA5000は空冷ファンを搭載している。
M60はファン無しだが、使用状況に応じて、リアパネルにファンが後付けできる。
M6000は、これら二機種とは比較にならないほど物量投入型のヒートシンクをもつ。
リアパネル全体を占めるM6000のヒートシンクは、チムニー型である。
取り外してみたわけではないが、このヒートシンク単体でもけっこうな重量があるはずだ。
この重量級のヒートシンクが、二基リアパネルに取り付けられているため、
入出力端子が、M6000の場合、別のところに設けられている。
M4000もM6000と同様、チムニー型のヒートシンクで、リアパネルにM6000と同じに配置されている。
けれど、出力が少ないこともあって、ヒートシンクのサイズも小さい。
そのおかげで、左右のヒートシンクの間の隙間が多少ある。
ここに入出力端子がある。
けれど、写真をみるかぎり、太めのスピーカーケーブルは使えない。
この時代の平均的な太さの平行二芯ケーブルぐらいだろう。
それであっても、スピーカー端子に挿し込むのは、指の太い人だと苦労するかもしれない。
M6000の入出力端子はどこに設けられているかというと、アンプ上部である。
M6000のウッドケースは上1/3ほどが取り外せるようになっている。
アンプ上部の中央のフロントパネル裏側に入力端子、その後方にスピーカー端子が並ぶ。
M6000も太いケーブルの使用は難しいはずだ。
M6000の取り外せるウッドケースの裏側も、表面と同じに仕上げられている。
300W+300Wの出力で自然空冷を実現するための大型のチムニー型ヒートシンク。
そのために、横幅が57cmもあるアンプなのに、
リアパネルに入出力端子を設ける余地がない。
JBLのプリメインアンプSA600の入力端子は、
リアパネルではなく底部に設けられている。
SA600は軽いアンプだから、ケーブルを接続して元の状態に戻すのもたやすい。
けれど、M6000は50kgを超える大型アンプだから、
もし底部に入出力端子があったら、たいへんな作業になる。
リアパネルもダメ、底部もダメとなると、アンプ上部しかない。
SAEのMark 2500にCR方法を施す。
電源トランスの一次側と二次側の巻線。
それから別項で書いているようにメーター、この項で書いている冷却ファン。
もう一箇所考えているのが、出力端に入っているリレーである。
リレーは構造上コイルが必要となる。
鉄芯に巻かれているコイルである。
このコイルに電気を流すことで、鉄芯が電磁石になって、
可動鉄片を引き寄せて、この可動鉄板の端にある可動接点を固定接点とがくっつく。
このコイルに対してCR方法をやることで、どれだけ音に変化があるのかはなんともいえない。
まぁ、悪くなることはないだろうぐらいの気持でやるつもりだ。
SAEのMark 2500と同時期に、300W出力のパワーアンプは、
日本のメーカーからも出ていた。
よく知られるところではアキュフェーズのM60がある。
それからラックスのM6000、サンスイのBA5000である。
M60はモノーラル仕様で、ステレオ仕様のMark 2500とはもともとからして規模が違う。
ステレオ仕様として、Mark 2500と比較したいのはM6000である。
BA5000に関しては知っているというぐらいで、実機をみたこともない。
まわりに聴いたことがあるという人もいない。
M6000もその点に関しては、BA5000と似たような感じではある。
実機はみたことがある。
オーディオ店で見ている。
といっても、音は聴いているのかといえば、
まったく聴いていないわけではないが、じっくり聴いたわけでもないから、
聴いていないのと同じじゃないか、といわれれば反論しようがない。
それでもM6000の印象は、BA5000よりもはるかに強い。
M6000は300W+300Wで、弟分としてM4000(180W+180W)、M2000(120W+120W)がある。
1976年当時の価格は、M2000が225,000円、M4000が350,000円に対し、
M6000は650,000円とランク的にも一段上であった。
価格だけではない。
外形寸法/重量においてもだ。
M2000はW48.3×H17.5×D29.5cm/18.0kg、M4000はW48.3×H17.5×D39.0cm/30.0kg。
Mark 2500は規模的にはM4000と同じといえる。
M6000はW57.0×H22.0×D42.5cm/52.0kgと、
マッキントッシュのMC2300と同等であり、サンスイのBA5000もこれに近い。
M6000は、19インチのラックに収まらない規模である。
けれど、写真でみるかぎり、うまくまとめられているおかげもあって、
さほど大きくは感じられない。
写真で見るだけならば、M4000もM6000も横幅は同じだと思ってしまう。
でも実機をみると、
それもオーディオ店で、比較対象となるパワーアンプがあったりすると、
家庭用のアンプとしての枠を超えていることを実感することになる。
ファンの影響をなくしたければ、最初からファンがついていない、
自然空冷のパワーアンプを選択することこそ解決方法──、
そうなのはわかっていても、だからといって自然空冷のパワーアンプが、
ファン付き(強制空冷)のパワーアンプよりも優れているのかというと、
このあたりはなかなかに難しいところである。
自然空冷にするのであれば、必然的にヒートシンクの規模は大きくなる。
この部分が大きくなるということは、配線が延びるということである。
出力段とドライバー段との間隔が、強制空冷のアンプよりも長くなる。
出力段とドライバー段を一つのヒートシンクにおさめると、
今度はドライバー段と前段との間隔が長くなる。
高周波特性に優れたトランジスターを使用するほど、
この配線が長くなる影響(インダクタンスの上昇の影響)は、より顕著になる。
1980年ごろ、国産アンプでヒートパイプが使われ出した。
以前書いているので詳細は省くが、この時代、
パワートランジスターの特性が向上した時期でもある。
ヒートパイプの採用は、アンプ回路全体のサイズ(これも以前書いてる)を、
小さくまとめることにつながっている。
ヒートパイプが根付かなかった理由も、その時書いている。
同時にヒートシンクの大きくなるということは、
パワートランジスターとヒートシンクは、振動源と音叉の関係に近いことからいっても、
音への影響は大きくなる。
あちらを立てればこちらが立たず、なのだ。
結局、手に入れたアンプが強制空冷(ファン付き)であれば、
ファンの影響をできるだけ抑えることを考える。
その一つとして、ファンはモーターであり、コイルが中にあるわけだが、
ここにもCR方法が効果的なのではないか、と。
五味先生の「ピアニスト」に、コーネッタのことは出てくる。
もう何度か引用している。
*
JBLのうしろに、タンノイIIILZをステレオ・サウンド社特製の箱におさめたエンクロージァがあった。設計の行き届いたこのエンクロージァは、IIILZのオリジナルより遙かに音域のゆたかな美音を聴かせることを、以前、拙宅に持ち込まれたのを聴いて私は知っていた。(このことは昨年述べた。)JBLが総じて打楽器──ピアノも一種の打楽器である──の再生に卓抜な性能を発揮するのは以前からわかっていることで、但し〝パラゴン〟にせよ〝オリンパス〟にせよ、弦音となると、馬の尻尾ではなく鋼線で弦をこするような、冷たく即物的な音しか出さない。高域が鳴っているというだけで、松やにの粉が飛ぶあの擦音──何提ものヴァイオリン、ヴィオラが一斉に弓を動かせて響かすあのユニゾンの得も言えぬ多様で微妙な統一美──ハーモニイは、まるで鳴って来ないのである。人声も同様だ、咽チンコに鋼鉄の振動板でも付いているようなソプラノで、寒い時、吐く息が白くなるあの肉声ではない。その点、拙宅の〝オートグラフ〟をはじめタンノイのスピーカーから出る人の声はあたたかく、ユニゾンは何提もの弦楽器の奏でる美しさを聴かせてくれる(チェロがどうかするとコントラバスの胴みたいに響くきらいはあるが)。〝4343〟は、同じJBLでも最近評判のいい製品で、ピアノを聴いた感じも従来の〝パラゴン〟あたりより数等、倍音が抜けきり──妙な言い方だが──いい余韻を響かせていた。それで、一丁、オペラを聴いてやろうか、という気になった。試聴室のレコード棚に倖い『パルジファル』(ショルティ盤)があったので、掛けてもらったわけである。
大変これがよかったのである。ソプラノも、合唱も咽チンコにハガネの振動板のない、つまり人工的でない自然な声にきこえる。オーケストラも弦音の即物的冷たさは矢っ張りあるが、高域が歪なく抜けきっているから耳に快い。ナマのウィーン・フィルは、もっと艶っぽいユニゾンを聴かせるゾ、といった拘泥さえしなければ、拙宅で聴くクナッパーツブッシュの『パルジファル』(バイロイト盤)より左右のチャンネル・セパレーションも良く、はるかにいい音である。私は感心した。トランジスター・アンプだから、音が飽和するとき空間に無数の鉄片(微粒子のような)が充満し、楽器の余韻は、空気中から伝わってきこえるのではなくて、それら微粒子が鋭敏に楽器に感応して音を出す、といったトランジスター特有の欠点──真に静謐な空間を持たぬ不自然さ──を別にすれば、思い切って私もこの装置にかえようかとさえ思った程である。でも、待て待てと、IIILZのエンクロージァで念のため『パルジファル』を聴き直してみた。前奏曲が鳴り出した途端、恍惚とも称すべき精神状態に私はいたことを告白する。何といういい音であろうか。これこそウィーン・フィルの演奏だ。しかも静謐感をともなった何という音場の拡がり……念のために、第三幕後半、聖杯守護の騎士と衛士と少年たちが神を賛美する感謝の合唱を聴くにいたって、このエンクロージァを褒めた自分が正しかったのを切実に知った。これがクラシック音楽の聴き方である。JBL〝4343〟は二基で百五十万円近くするそうだが、糞くらえ。
*
このとき、4343を鳴らしていたのは、
コントロールアンプがGASのThaedra、パワーアンプがマランツのModel 510Mである。
カートリッジはエンパイアの4000とあるから、4000D/IIIだろう。
この組合せの状態で、スピーカーだけを4343からコーネッタに替えられている。
そしてショルティの「パルジファル」を聴かれて、
《恍惚とも称すべき精神状態》に五味先生はなられた。
私は、この文章を読みながら、
瀬川先生が鳴らされていた──、とついおもってしまった。
瀬川先生ならば、アンプはLNP2とMark 2500だっただろうし、
カートリッジもクラシックを鳴らすのであれば、4000D/IIIは絶対に選ばれない。
ヨーロッパ製のカートリッジを組み合わされていたはずだ。
この瀬川先生の組合せで、
4343からコーネッタに替えられた音を聴かれたのであれば──、
そんなことを当時読みながらおもっていた。
そのことを今回おもい出した。
瀬川先生は、SAEのMark 2500で、JBLの4341、4343を鳴らされていた。
私は、Mark 2500で何を鳴らすかといえば、タンノイのコーネッタである。
コーネッタにMark 2500?
そう思う人がいるだろうし、私も自分のことでなければ、そう思うだろう。
「コンポーネントステレオの世界 ’77」での瀬川先生の組合せ。
室内楽を静謐な、しかも求心的な音で聴きたい、というレコード愛好家のための組合せで、
スピーカーはタンノイのアーデン、
これを鳴らすためにスチューダーのA68、マークレビンソンのLNP2を選ばれている。
このころの瀬川先生はLNP2にはMark2500を組み合わせることが常だった。
だから、この組合せの記事でも、なぜMark2500ではなくA68なのか、について語られている。
*
マーク・レビンソンのLNP2に組合せるパワーアンプとして、ぼくが好きなSAEのマーク2500をあえて使わなかった理由は、次の二点です。
第一は、鳴らす音そのものの質の問題ですが、音の表現力の深さとか幅という点ではSAEのほうがやや優れているとおもうけれど、弦楽器がA68とくらべると僅かに無機質な感じになる。たとえばヴァイオリンに、楽器が鳴っているというよりも人間が歌っているといった感じを求めたり、チェロやヴァイオリンに、しっとりした味わいの、情感のただようといった感じの音を求めたりすると、スチューダーのA68のほうが、SAEよりも、そうした音をよく出してくれるんですね。
*
《ヴァイオリンに、楽器が鳴っているというよりも人間が歌っているといった感じ》、
レコード音楽が、こんなふうに鳴ってくれれば、これほど嬉しいことはない。
ここでの組合せのスピーカーは、アーデンである。
私が鳴らすのはコーネッタ。
アーデン搭載のユニットよりも、コーネッタのユニットは二まわり口径が小さい。
ならば、A68で充分すぎるのではないか。
だからA68を探していたわけだが、
今回、Mark 2500がやって来た。
コーネッタと組み合わせて、ということは、ほとんど考えずにヤフオク!で落札した。
コーネッタにはミスマッチなのかもしれないと思いながらも、
やって来たのだから、コーネッタをMark 2500で鳴らすことになるわけだが、
《弦楽器がA68とくらべると僅かに無機質な感じ》、
これさえ払拭できれば、わりといい組合せになるんじゃないか──、
そう思い込もうともしている。
すると、五味先生の文章を思い出した。
トーンコントロール、グラフィックイコライザー、
パラメトリックイコライザーなど、周波数特性を変化させる機器は昔からある。
音を聴いて、トーンコントロールを調整する。
曲のはじめで、トーンコントロールを調整したとしよう。
曲が展開していくにつれて、トーンコントロールの調整はそのままでいいのか。
そう思うことが、10代のころからあった。
かといって、曲を聴いている途中で、またトーンコントロールをいじるということはしたくない。
そういう気持も強かった。
トーンコントロールやイコライザー等の難しいところは、このところにあるといっていい。
音楽は常に変化して、展開していく。
その音楽に対して、その曲のさわりのところをだけを聴いて、
トーンコントロール、イコライザーを調整したところで、
それがどんなにうまくいったとしても、
一分後、五分後、十分後……まで、そのままでうまくいくという保証は、どこにもない。
ならば曲の展開に応じて、カーヴが対応・変化していくことができないものだろうか。
デジタル技術が登場した時に、そんなことを妄想したことがある。
従来のトーンコントロール、イコライザーをスタティックバランスとすれば、
それはダイナミックバランス・イコライザーとも呼べる。
音楽信号を、メモリーに一旦バッファーしておいて、カーヴを対応させていく。
デジタル信号処理ならば、不可能ではないはず。
そう思いながらも、そのための勉強をしようとは思わなかった。
けれど、世の中には同じことを考えただけでなく、それを可能にする人(たち)がいる。
音楽に奉仕する音がある。
音楽に奉仕しない音もある。
音楽に奉仕させる音も、ある。