JBL SA750(その14)
別項「Falstaff(その3)」で、
夢中になって聴くことについて触れた。
JBLの新製品SA750は、夢中になって楽しめる新製品なのだろうか。
SA750についての関心は、私の場合、ただこの一点のみにある。
それというのも、瀬川先生の影響である。
(その11)で書いているように、
瀬川先生はSA600を借りてきての自宅での試聴(もう試聴ではないのだけれど)をされている。
ステレオサウンド 52号の特集の巻頭で、
《SA600を借りてきて最初の三日間というものは、誇張でなしに寝食を惜しみ、仕事を放り出して、朝から晩までその音に聴き耽った》と、
1981年、ステレオサウンド別冊の巻頭では、
《およそあれほど無我の境地でレコードを続けざまに聴かせてくれたオーディオ機器は、ほかに思い浮かばない》
と書かれている。
まさしく夢中になって聴かれていたわけだ。
ステレオサウンド 220号掲載のSA750の記事をようやく読んだ。
小野寺弘滋氏が書かれている。
そこには《本機SA750は、SA600へのオマージュモデル》とある。
ステレオサウンドよりも先に出ていたオーディオアクセサリーの記事(小原由夫氏)にも、
オマージュモデルとある。
何をもってオマージュなのか。
アピアランスが似ていれば、そういえるのか。
オマージュモデルに関しては項を改めて書きたいぐらいだが、
私には、ステレオサウンド(小野寺氏)とオーディオアクセサリー(小原氏)、
どちらを読んでも、まったくそうとは感じなかった。
私にとってSA750がSA600のオマージュモデルであるためには、
《最初の三日間というものは、誇張でなしに寝食を惜しみ、仕事を放り出して、朝から晩までその音に聴き耽った》
そういう音を、いまの時代に聴けるかどうかである。
夢中になって音楽を聴ける音。
ただそれだけをSA750には求めていた。
でも、それは無理なこと、とは最初からわかっていたといえばそうである。
それでも、どこか期待していた。
だから音はどうなのか。
小野寺弘滋氏の文章は、あっさりしたものだ。
まったく熱っぽさがない。
小野寺氏を責めたいのではない。
SA750が、そういう音であった、というだけのことだ。