アレクシス・ワイセンベルク(その4)
カラヤンとのチャイコフスキーのピアノ協奏曲を聴いたあとで、
ジュリーニとのブラームスのピアノ協奏曲も聴いていた。
このブラームスにも驚いた。
ジュリーニは好きな指揮者だし、よく聴いている。
なのにワイセンベルクとのピアノ協奏曲は知ってはいても、
なんとなく遠ざけていて、聴いたのはついこのあいだが初めてだった。
どう驚いたのかは書こうと思いながら、一ヵ月以上が経っていた。
どんなふうに書こうかな、と考えているうちに、
ここ数ヵ月、ワイセンベルクの演奏にいままでにない関心をもつようになったし、
すごい演奏だ、とも感じている。
それでもワイセンベルクのディスクが、
これから先、私にとって愛聴盤となっていくのだろうか──、
そんなことを考えるようになってきた。
いまのところ、答は、おそらく愛聴盤とはならないだろう、なのだが、
それでは、どうして愛聴盤とならないのかについて考えることになる。
同時に、私にとって愛聴盤といえるのは、どのディスク(演奏・録音)なのか。
そのことを改めて考えることになる。
こんなことを考えている(書いている)と、五味先生の文章を引用したくなる。
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最近、復刻盤でティボーとコルトーによる同じフランクのソナタを聴き直した。LPの、フランチェスカッティとカサドジュは名演奏だと思っていたが、ティボーを聴くと、まるで格調の高さが違う。流麗さが違う。フランチェスカッティはティボーに師事したことがあり、高度の技巧と、洗練された抒情性で高く評価されてきたヴァイオリニストだが、芸格に於て、はるかにまだティボーに及ばない、カサドジュも同様だった。他人にだからどの盤を選びますかと問われれば、「そりゃティボーさ」と他所ゆきの顔で答えるだろう。しかし私自身が、二枚のどちらを本当に残すかと訊かれたら、文句なくフランチェスカッティ盤を取る。それがレコードの愛し方というものだろうと思う。
(「フランク《ヴァイオリン・ソナタ》」より)
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ワイセンベルクの演奏が、ここでのティボーにあたるといいたいのではない。
《レコードの愛し方》。ここである。
REPLY))
ジュリーニ・ワイセンベルグのOp15は、一時期愛聴しました。それにしても、ここに五味康祐のこういう文章を引用なされているのを拝読して、素晴らしいと心から感心しました。「レコードの愛し方、ここである」というのは腑に落ちるカデンツだと思います。
グールドのゴールドベルグを繰り返し聞いていて、ピアノの音が聞きたくなるとワイセンベルグの丁度グールドの2度目と同じ81年の録音を取り出すものの戯言です。