Archive for 12月, 2019

Date: 12月 26th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、音の量感のこと(その7)

私が好きな音は、みずみずしい音である。
とはいえ、この「みずみずしい」音の正体がよくわかっているわけでもない。

なぜ、みずみずしい音とそうでない音とがあるのか。
それからヨーロッパのオーディオ機器にみずみらずしい音を感じることが多いのはなぜなのか。

アナログディスクからCDへと移行して、みずみずしい音が、
それまでみずみずしい音を出してくれるスピーカーだと思っていたのに、
あきらかにみずみずしさが減じた音がしてきた。

これはなぜなのか。
デジタルになったからみずみずしい音ではなくなってきたのか。
そうともいえるだろうし、それだけではないはずだとも思ってきた。

MQAの音を聴いて、みずみずしいと私は感じている。
ということはデジタルだから、とはいえないわけである。

そういえば、と思い出すのは、
アナログディスクにおいても、ダイレクトドライヴ型プレーヤーが主流になって、
みずみずしい音は失われつつあったのではないだろうか。

すべてのダイレクトドライヴ型ではみずみずしい音が出ない──、
とまではいわないものの、総じてダイレクトドライヴ型からはみずみずしい音が感じとりにくい。

私がダイレクトドライヴ型以外のアナログプレーヤーを使ってきたのも、
無意識のうちにそのへんのことを感じとっていたからなのか。

Date: 12月 25th, 2019
Cate: デザイン

SG520とC240(その3)

アキュフェーズのC240のデザインは、
JBLのSG520のデザインの、瀬川先生による翻訳なのかもしれない。

コントロールアンプのデザインの象徴の一つとして、
真空管アンプのマランツのModel 7があり、
トランジスターアンプのJBLのSG520がある。

Model 7は、あらゆる模倣デザインが生れてきた。
マランツのトランジスターアンプがまずそうだし、
ラックスのアンプも、その代表的例である。

けれどSG520は、というと、すぐに浮んでくるモデルはない。
SG520がそうであるように、あのデザインを模倣するということは、
内部構造も同じようになり、メインテナンスが困難になるということも、
模倣デザインが続いてこなかった理由として考えられる。

それにModel 7は基本的に左右シンメトリーの配置であるのに対し、
SG520はまったくそうではないことも、模倣デザインが生れてこなかった理由だろう。

そこにあえて挑戦されたのではないのか。
SG520が誕生したころから部品の進歩は続いている。
リレーを多用すれば、SG520と同じデザインであっても、
内部配線はずいぶんすっきりしてくるはずだ。

C240は1979年ごろに登場している。
SG520とは十年以上の開きがある。

SG520ではできなかったことも可能になる。
その意味での、瀬川先生の挑戦でもあった、と考えられる。

挑戦するには、SG520をまず理解しなければならない。
その理解に必要なのが、翻訳という作業だと考える。

SG520の、瀬川先生による翻訳と挑戦。
その結果が、C240である。

Date: 12月 25th, 2019
Cate: High Resolution

MQAで聴けるディヌ・リパッティ

2018年9月、ウルトラセブン最終回50周年を記念して、
劇中で使われたリパッティ、カラヤン/フィルハーモニーによるシューマンのピアノ協奏曲が、
11.2MHzマスターによるSACDが限定で発売になった。

話題になっていたし、
リパッティとウルトラセブンのイラストが描かれたジャケットは、
レコード店では目立つから、記憶されている方も多いだろう。

このSACDには、ダウンロードキーがついているヴァージョンもあった。
DSDの11.2MHz、5.6MHz、PCMの192kHz、96kHzが選べた。

ウルトラセブンの最終回は二週に渡っての放送だった。
モロボシ・ダンがアンヌに、自らがウルトラセブンであると告白するシーンで、
リパッティの演奏が使われていた。

ウルトラセブンをみていたのは、51年前だからまだ小学校にもあがっていなかった。
それでもウルトラセブンの最終回は、強烈だった。

もちろんシューマンのピアノ協奏曲だったことは、当時はなんにもわかっていなかった。
ましてリパッティの演奏だ、ということもわかっていなかった。

こういう特撮ものを子供だましとか、見もせずにバカにする人を知っている。
ほんとうにそうだろうか、と思う。
制作側が、そんな気持でいたら、
ウルトラセブンの最終回で、シューマンのピアノ協奏曲を使うだろうか。
しかもリパッティの演奏を使うだろうか。

e-onkyoで、11.2MHzのDSDは配信されている。PCMでも配信されている。
でも、いつのまにか、MQAでの配信も始まっていた。

いつからなのかはわからないが、192kHz/24ビットでのMQAでの配信である。
リパッティのピアノがMQAで聴ける。

MQAのよさが、リパッティの演奏をひときわひきたててくれる、はずだ。

Date: 12月 25th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、MQA-CDのこと(その5)

MQA-CDは2020年1月にも、ユニバーサルミュージックから発売が予定されている。
e-onkyoでも、MQAでの配信はしっかりとやってくれている。

MQA-CDで発売されいてるタイトルは、大半がe-onkyoでも購入できる。
なのでMQA-CDをあせって買う必要はない、とつい考えがちになるが、
e-onkyoでの配信は、サンプリング周波数がMQA-CDとは違う場合がある。

たとえばバーンスタイン/ベルリンフィルハーモニーによるマーラーの交響曲第九番。
MQA-CDは352.8kHz/24ビット、e-onkyoでは192kHz/24ビットである。
価格は……、というと、MQA-CDは税抜きで3,000円だから3,300円。
e-onkyoでは3,748円となっている。

もうひとつ例をあげると、バド・パウエルの“the scene changes”。
こちらはMQA-CDは176.4kHz、e-onkyoでは192kHz/24ビットである。

ただし、というか、なぜだか、といったほうがいいのだが、
e-onkyoには96kHz/24ビットも用意されている。
しかも96kHz版は3,871円、196kHz版が3,046円、MQA-CDは3,300円(税込み)である。

さらに“the scene changes”から“Cleopatra’s Dream”は、
体験サンプラー盤にも収録されている。

ユニバーサルミュージックがCDとMQA-CDの音を比較試聴・体験できるように、
クラシック、ジャズ、洋楽、邦楽の二枚組のサンプラーを発売している。
二枚組で1,000円(税抜き)という低価格だ。

このサンプラー盤は、352.8kHz/24ビットである。
つまり“Cleopatra’s Dream”に関しては、このサンプラー盤がいちばんサンプリング周波数が高い。
となると、サンプラー盤といって無視することはできない。

Date: 12月 24th, 2019
Cate: pure audio

オーディオと偏愛(その1)

MQA-CDで、グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」を聴いている。
いまのところ、グラシェラ・スサーナのMQA-CDはこれ一枚だけ。

グラシェラ・スサーナのアルバム中もっとも売れた「アドロ・サバの女王」だが、
私が初めて聴いたグラシェラ・スサーナの歌は、このアルバムではない。

1976年秋に聴いた「黒い瞳はお好き?」だ。
秋といっても、かなり寒くなっていたころだ。
MQA-CDで聴いていると、そのことを思い出す。

13歳の秋、毎日、何度もくり返し聴いた。
飽きるまで聴きたい──、そう思う私である。

たとえば食べものでもそうである。
気に入った料理(店)を見つけると、立て続けに何度も通う。
そういう人は少なからずいるだろうが、
私は、気に入った料理ばかりを続けて頼む傾向がとても強い。

若いころは、いま以上にそうだった。
若いころは、いま以上に食欲旺盛だったから、
気に入ったものに、他の料理も頼む。

そうやって気に入ったものを飽きるまで、という食べ方と、
レパートリィを広げていく食べ方を両立させていた。

何もそんな食べ方をせずに、気に入った料理は、
数回に一度くらいにしておけばいいじゃないか、といわれることもあったけれど、
なんだろうか、とにかく味わい尽くしたい、と思ってしまうのか、
自分で納得できる(飽きる)まで同じものを食べてしまう。

ひどく偏っているのだろう。
それは自覚している。

そんな私だから、グラシェラ・スサーナの歌もそうだった。
そのことをMQA-CDで聴いていて思い出しているところだ。

Date: 12月 23rd, 2019
Cate: ディスク/ブック

ノイズ対策を波動・振動の基礎から理解する!

波動という言葉が使われると、
いまでは眉に唾をつけて疑いたくなるものがあふれている。

今日見つけた本のタイトルにも波動が使われている。
ノイズ対策を波動・振動の基礎から理解する!」(鈴木茂夫・著 日刊工業新聞社)だ。

でも、この本は、眉に唾をつけなくともいい、と感じた。
とにかく興味深い。

ページをめくると、いたるところに数式が出てくる。
それらの数式を、私はすべて理解しているわけではない。
多くは理解していない。

それでも、この「ノイズ対策を波動・振動の基礎から理解する!」はおもしろい。
リンク先に、目次が紹介されているから、そこだけでも目を通してほしい。

別項で書いているが、SPDIF用とライン用ケーブルとでは、
前者ではデジタル、後者ではアナログ信号が通るわけだが、
おもしろいもので、音の変化においては共通するところがある。

なぜだろう、と考えていくと、結局は振動なのか、と最近では思っている。
振動だとすれば、共振があるはずだし、そこには定在波も存在しているはずだ。

これも別項で書いたことだが、電源回路はまさしく電気的共振回路である。
だからこそ、電源インピーダンスをむやみに低くすることは弊害も大きいと考えられる。

それから電子回路のループについても別項で触れている。
電子回路には大小さまざまなループが存在する。
しかも、それぞれのループに電気的共振が発生しているとしたら……。

私は電子工学を専門的に学んでいるわけではないから、
これらの考えは、さまざまなオーディオ機器に触れて音を聴いての経験から、のものだ。

だからこそ、「ノイズ対策を波動・振動の基礎から理解する!」を手にして、
書店でパラパラとめくっていくと、
私のこれらの考えが間違っていなかった、と確信するとともに、
より発展した考え方が、そこにある、と感じた。

amazonのレヴューでは、なぜだか、この本の評価は低い。
でも、この本は、これまでの経験から導き出してきた考えを発展させてくれる、と予感している。

Date: 12月 22nd, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その14)

あと一ヵ月ちょっとで、また歳をひとつとる。
57になる。

五味先生の享年(58)に近づいていく。
そのことに驚く。

この驚きは、問いを与えてくれる。
自分自身について何かを知る、ということが最近あったのか、
そして、そのことで驚いたことがあったのか、
である。

Date: 12月 21st, 2019
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(韓国、中国は……・その7)

中国のオーディオについてはまだまだ書きたいことがあるが、
そうしていると韓国のオーディオの方に一向に移れなくなる。

韓国のオーディオメーカーはいくつかある。
数年前はタイムロードが輸入していたブランドがあったが、割とすぐに止めてしまった。
日本でよく知られているのは、
アイリバーと、その上級ブランドとしてのアステル&ケルン、
それから最近ではカクテルオーディオがある。

日本では日立、東芝、松下電器、三菱電機といった大手のメーカーがオーディオに参入していた。
韓国にはサムスン、LG電子がある。

サムスンはハーマンインターナショナルを傘下に収めていてる。
けれどサムスン・ブランドのオーディオ機器があるのかもしれないが、
少なくともオーディオマニアを満足させるモノは日本には入ってきていない。

LG電子は2007年にマーク・レヴィンソンを開発に迎えて、
Rhapsody in Music Phoneという携帯電話を出している。
2008年にはマーク・レヴィンソン監修のホームシアターもCESで発表している。

現在は製品開発の協力をメリディアンに求めていることは、
メリディアンのウェブサイトでも公開されている。

そういえば、マランツ・ブランドを韓国のメーカーが手に入れようとしていたこともある。
マランツ・ブランドは、スーパースコープが1980年に資金難に陥り、
アメリカ、カナダ以外のマランツの商標権、販売権、海外資産をフィリップスに売却。

さらに1990年ごろ、アメリカ、カナダにおけるマランツ・ブランドの買収を、
韓国のメーカーが検討しているというニュースが、韓国の新聞に載った。
このことをきっかけに、フィリップスがアメリカ、カナダのマランツ・ブランドも買収することになる──、
と2003年に出ているステレオサウンド刊行の「マランツのすべて」に載っている。

韓国のメーカーがどこなのかまではわからないが、サムスンかLG電子の可能性はある。

Date: 12月 21st, 2019
Cate: Digital Integration

Digital Integration(Mojoを聴いてひろがっていくこと・余談)

今日、amazonでいくつか検索していたら、
ChordのMojoが、おすすめの商品として表示され、現在の価格を偶然知った。

35,500円(税抜き)だった。
価格.comでも検索してみると、四万円を切っているのが大半だった。
並行輸入品ではない。正規輸入品で四万円を切っている。

昨年の夏ごろは、二倍くらいで売られていた。
ほぼ半額近くに、実売価格がなってしまった。

これは新しいMojoが登場するということなのか。
その可能性は十分あるだろう。
だとしたら、2020年1月のCESで発表なのか、と勝手に期待している。

さらに私が勝手に期待していることはもうひとつある。
MojoのMQA対応である。

そういうことになったら、実売価格は昨夏と同じくらいになるであろう。
それはそれでいいと思うし、
いまの実売価格も、また魅力的ともいえる。

マルチアンプ方式で、帯域ごとにMojoを用意する、ということが現実味を増してくるからだ。
そこまで実際にやるかどうかは措くとしても、
Mojoの現状の価格と小ささは、想像と妄想をアクセラレートしてくれる。

Date: 12月 21st, 2019
Cate: 音の良さ

音の良さとは(好みの音、嫌いな音・その6)

帯域バランスを、誰が聴いてもはっきりとくずれているとわかるほどまでに、
グラフィックイコライザーをいじって、嫌いな音を無理にでも抑えていく。

そうやって、彼にとって、到底がまんできないたぐいの音を出さない(抑える)ことで、
その音は、彼にとっての良い音ということになるのか。

私が知っている知人の例では、そうなっていた。
あきらかにバランスが崩れてしまっていても、
彼の耳にはバランスよく聴こえているのかもしれない──。

仮にそうであったとしても、
そうやって得られた音は、音楽の表現力に大きな制約をつくりだしてしまっている。

そうなると、そんな音で聴きたくなる音楽は狭まっていく。
オーディオで音楽を聴く、ということは、
自分の音によって、聴く音楽が影響を受けることでもある。

だからこそ、システム(音)が変れば、聴く音楽も変ってくる、とは昔からいわれている。
けれど私が知っている音の場合は、違う。

システムが変っても、そうやって音を強引にいじってしまうために、
どんなスピーカーであっても、すぐさま彼の望む音になってしまう。

なにも、このことは私だけが感じていたわけでなく、
彼の音を何度も聴いている人も、まったく同じ印象をもっていた。

嫌いな音をできるかぎり排除していく方向での、いきつく音。
それを良い音と信じ込めれば、周りがとやかくいうことではない──、
そうわかっていても、それははっきりと間違った音でしかない。

間違った音が、良い音なわけはない。

Date: 12月 21st, 2019
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その21)

このブログを書き始めたころから、
セッティング、チューニング、エージングがあって、
これらを混同しないようにすべきだ、と書いてきている。

それから、オーディオには三つのingがある、とも書いている。
くり返すが、セッティング(setting)、チューニング(tuning)、エージング(aging)の三つであり、
私は使いこなしという言葉には、この三つを含めての意味で使っている。

その19)で挙げた例では、
エージングを友人に全面的にまかせてしまっている。

オーディオにおける使いこなしは、単純ではない。
複雑系といっていい。
それゆえに手あたり次第やっていても、悪い意味での堂々巡りに陥ってしまう。
そんな堂々巡りのなかでも音は変っていくのだから、
そこでの一喜一憂はまちがいなくあり、
そこに留まっているだけでも楽しいといえば、そうなるのかもしれない。

だから使いこなしにおいて、
セッティングをまずきちんとやることはとても重要であり、
この部分を信頼できる人にまかせるのはありだ、と私も考える。

(その19)での例では、そうではない。
絶対に人にまかせはいけない(私はそう信じている)ところを、
完全にまかせてしまっている。

まかせる方もまかせられた方も、
ほんとうにオーディオがわかっているのか、
オーディオにおける使いこなしとはどういうことなのかを、
ほんとうにわかっているのか。

わかっていないからこそできることだ。
当人たちは、この話をするときに、どこかうっとりしている。
当人たちにしかわからない友情がそこにはあって、
それを再確認しているからなのかもしれない。

鳴らし込みをまかされた男は、
自分のオーディオの腕にうっとりしているところがある。
それにプラスして、友人にそこまで信頼されている、というところでもそうなのだろう。
はっきりとナルシシストであり、
スピーカーの鳴らし込みをまかせた男は、友人のナルシシズムに陶酔しているのか──。

勝手に私がそう思っているだけなのだが、
そこに気持悪さを感じてしまうし、
スピーカーが、そんな友情(?)ごっこの犠牲になってしまっている気がしてしまう。

Date: 12月 21st, 2019
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その16)

汚れることを、ひどく嫌う人がいる。
嫌う、というよりも、どこか怖れているのではないか──、
時にはそう思えるほどに、汚れることを嫌う人がいる。

汚れたら洗えばいいではないか、と私は思ってしまうし、
むしろ汚れまい、とするればするほど、汚れたりするものだ、とも思っている。

それにしても、そこまで汚れることを嫌うのは、なぜなのだろうか。
おもしろいもので、そういう人がオーディオマニアだったりして、
清潔な音を望んでいる。

清潔な音を目指している、清潔な音を出したい(出している)と、
汚れることを極端に嫌う、その男はいっていたことを思い出す。

そういう男の音を、幾度となく聴いている。
清潔な音、わかったようでいて、よくわからないところがある。

どうも、彼の言う清潔な音は、温度感の低い、切れ味のよい音のようでもある。
どこかクールな印象のある音は、キリッとしたところを感じさせる。

それが、どうも清潔な音のようだった。
消毒用のアルコールをふくんだ脱脂綿が肌に触れたような感触が、
清潔ということに結びついての、清潔な音だったのか。

ほんとうのところはよくわからない。
彼自身、よくわかっていたのかどうかもあやしい。

ただ、彼は汚れた音をいっさい出したくなかったのかもしれない。
けれど、そんな音を出そうとすればするほど、
隠れたところが汚れてしまうのかもしれない、と彼は思わなかったようだ。

Date: 12月 20th, 2019
Cate: 孤独、孤高

バルトークと「美」という漢字

十日ほど前に「アーノンクールのマタイ受難曲」でも、
「美」という漢字について書いた。
もう何度も書いているから、くり返しはしない。

「美」という漢字のもつ残酷な一面と、
バルトークの写真とが、重なってくる。

バルトークのモノクロの写真。
初めてみたのは、高校生のころだったか。

美しい人だな、と感じた。
いまもバルトークの写真をみると、そう思うが、
その美しいには、「美」という漢字のもつ残酷な一面を、いまは感じてしまう。

Date: 12月 20th, 2019
Cate: 書く

毎日書くということ(10,000本を間近に迎えておもうこと)

2008年9月から始めた。
つまり十年以上書いている。

十年という月日は、独り暮しと家族とともに暮らしている人とでは、
けっこう違うように、最近になって感じている。

以前会った時は小学生だった子供が、大学受験を迎えている、
ハタチになった、
結婚した、
そんなことを友人、知人からきくと、
十年という月日の変化の大きさを実感することになる。

独り暮しでも、鏡をみれば白髪が増えてきたなぁ、とか、
それから坐りっ放しから立ち上ろうとすると、身体がかたくなっていることを感じたりする。

これも十年の月日における変化なのだが、
子供の成長とくらべれば、小さい変化でしかないようにも思えてくるし、
どこか取り残されているような感覚もないとはいいきれない。

Date: 12月 19th, 2019
Cate: audio wednesday

第108回audio wednesdayのお知らせ(ウィーンの休日)

108回目のaudio wednesdayは、1月1日。
なのでニューイヤーコンサートということで、
クナッパーツブッシュ/ウィーンフィルハーモニーによる「ウィーンの休日」をかける。

当然MQA-CDである。
1月1日のaudio wednesdayは、「ウィーンの休日」を皮切りに、
MQAのみをかける予定でいる。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。