Archive for 4月, 2018

Date: 4月 23rd, 2018
Cate: 映画

ストリート・オブ・ファイヤー(再上映)

ストリート・オブ・ファイヤー」のことは、昨年末に書いた。
もう一度、映画館でエレン・エイムの歌のシーンを観たい、と思いながら書いていた。

東京でも名画座は減っていく。
映画館で再上映されることはまずない、と諦め切っていた。

なのに7月21日から、デジタルリマスターで、5.1チャンネルでの再上映が始まる。
新宿のシネマートから始まり、全国で順次ロードショーということだ。

1984年、コマ劇場のところにあった新宿プラザで、
「ストリート・オブ・ファイヤー」は観ている。
かなり大きなスクリーンの映画館だった。

シネマートは、新宿プラザほどは大きくない。
それでもいい、もう一度映画館で観られるのだから。

Date: 4月 23rd, 2018
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(その5)

同じことは他のところにもいえる。
同じスピーカー関係でいえば、ネットワークのアッテネーターが挙げられる。

一般的な連続可変型で、どの程度減衰させるか調整したうえで、
同じ減衰量になるように良質の固定抵抗でアッテネーターを作る。

これもスピーカーを平台車に乗せて、あちこち移動して……、と同じ見逃しがあるからだ。

結局、どちらのやり方もおおよその目安がつくだけである。
でも、おおよその目安がつくだけでもいいじゃないか、
十分じゃないか、といわれそうだが、
そんなおおよその目安は、そんなことをやらずにもつくことである。

オーディオはなにかひとつ変えれば音は必ず変化する。
その変化量が大きいか小さいか、
小さい場合には変っていないと思ってしまうこともあるだろうが、
音が変らないということは、まずない。

音は変る。
変るから、どちらがいい音なのか、と判断しがちだ。

これはオーディオの初心者であろうと、キャリアのながい人であろうと同じだろう。
けれど、どちらがいい音なのか判断するということは、
どういうことなのかを、いまいちど考え直してほしい。

いままでの音をA、なにか変えた音をBとすれば、
Aがいいのか、Bがいいのか、
自分で判断することもあれば、微妙な違いであれば、
信頼できるオーディオ仲間に聴いてもらい判断する、ということだってある。

Bの音が良かった、と自分も仲間も同じ意見だとする。
この場合のBは、答である。

大事なのは、その答は、川崎先生がいわれていることなのだが、
応答なのか、回答なのか、解答なのか、である。

Date: 4月 23rd, 2018
Cate: 菅野沖彦
1 msg

「菅野録音の神髄」(その17)

ステレオサウンド 17号(1970年12月)に、
「ディレクター論 ロイ・デュナンを語る」がある。
菅野先生と岩崎先生の対談による記事だ。
     *
岩崎 「ウェイ・アウト・ウェスト」は、じつに素晴らしいレコードですね。ロリンズの最大傑作といってもいい。
菅野 シェリー・マンのドラムもよくとらえらているしね。あれはやはり、ロリンズ
のもっている音にロイ・デュナンのキャラクターがプラスされて、ああいう音になったのでしょうね。
 それでね、この間、油井さんがいっていられたんだけど、日本のジャズ愛好家というのは、ほとんどロイ・デュナンとかルディ・ヴァン・ゲルダーといった人たちの耳をとおしてジャズを聴いてきたようなものだ、と。
 ぼくも、そう思うんだ。やっぱりこういった人たちの感覚のふるいを通して聴いてきた。だから、じっさいにむこうのジャズ・メンが来たときに、その演奏にふれて、あれっとおもったりしてね(笑)。
岩崎 ほんとうに違うんだな。アート・ブレイキーが来たときに、どんなに凄い音なのかと思ったら、意外に爽やかな音でこんな調子じゃなかったと(笑)。圧倒されるような音を期待してたんですね。ほんとうにレコードとは違うんだと思いましたね。ぼくらはヴァン・ゲルダーのとったブレイキーの音に慣れ親しんでいたわけですよね。
菅野 ロイ・デュナンが、最初からブレイキーをとっていたら、はっきりととって、もっと実際に近かったてしょうね。
岩崎 そこが大切なことでしょう。もしブレイキーの音を、ロイ・デュナンが録音したものを聴いていたら、本物を聴いて、なるほどなと思ったに違いない。
 ところが、それまではブルーノートのブレイキーの迫力ある音ばかり聴いていたでしょう。だから、すっかり面喰らってしまったわけ。前から三番目辺で聴いていたのだけれど、タッチは軽やかだし、スカッとした音ですね。
菅野 それはよかったからまだいいんだけれど、逆につまらない場合もあってね。ああ、これならレコードの方がいいやって(笑い)。
 だいたいルディ・ヴァン・ゲルダーが手をかけたミュージッシャンというのは、迫力のあるミュージッシャンだと感じるものね。そして、ロイ・デュナンが手をかけたひとは、みんなハイ・センスで、クールな音をもっていると感じてしまうでしょう。不思議なことですよ。
岩崎 だから音楽をとらえるということは、大変なことなんだな。
     *
こまかな説明は省いていいだろう。
同じことが、ここでも語られているのだから。

Date: 4月 22nd, 2018
Cate: デザイン

プリメインアンプとしてのデザイン、コントロールアンプとしてのデザイン(その4)

私がオーディオに興味を持ち始めたころは、
セパレートアンプブームが起きはじめていたころでもある。

つまり安価なセパレートアンプが各社から登場しはじめた。
ステレオサウンドを読みはじめのころ(1976年末から)、
プリメインアンプは20万円を超える機種は、例外的だった。

海外製品では、マッキントッシュのMA6100(378,000円)、
ラドフォードのHD250(249,000円)、
ギャラクトロンのMK10(300,000円)といったモデルがあったし、
国産でも、ラックスのL100(235,000円)、サンスイのAU20000(280,000円)、
ソニーのTA8650(295,000円)、ビクターのJA820(250,000円)、
マランツのModel 1200(325,000円)などがあった。

とはいえ、これらの機種は最新機種とはいえなくなっていて、
実際にステレオサウンド 42号のプリメインアンプ総テストには登場していない。

42号から二年後あたりから、20万円を超えるモデルが、
国内メーカーからも登場しはじめてきた。

たとえばマランツのPm8(250,000円)、アキュフェーズのE303(245,000円)、
ケンウッドのL01A(270,000円)、サンスイのAU-X1(210,000円)などだ。
Pm8について、瀬川先生は52号で次のように評価されている。
     *
 今回のテストの中でも、かなり感心した音のアンプだ。この機種を聴いた後、ローコストになってゆくにつれて、耳の底に残っている最高クラスのセパレートアンプの音を頭に浮かべながら聴くと、どうしてもプリメインアンプという枠の中で作られていることを意識させられてしまう。つまり、音のスケール感、音の伸び、立体感、あるいは低域の量感といった面で、セパレートの最高級と比べると、どこか小づくりになっているという印象を拭い去ることができない。しかしPm8に関しては、もちろんマーク・レビンソンには及ばないにしろ、プリメインであるという枠をほとんど意識せずに聴けた。
     *
プリメインアンプの水準が、それまでの枠から踏み出してきて、
同価格帯のセパレートアンプに匹敵するか、部分的には上廻るようになってきた。

そのころのペアで20万円ほどのセパレートアンプといえば、
思い出せないわけではないが、それほど印象深く残っているモノはない、といえる。

つまりセパレートアンプは、プリメインアンプ(一体型)では、
達成不可能なレベルに挑むための形態であり、だからこそセパレートアンプへの要求は、
プリメインアンプへの要求とは比較にならないほど厳しくなる。

このことは、当時のステレオサウンドにも、何度か指摘されていた。
私はそういう時代を経てきている。

Date: 4月 22nd, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その18)

ステレオサウンド 48号特集
「ブラインドテストで探る〝音の良いプレーヤーシステム〟」では、
ダストカバーが付属する機種に関しては、開いた状態での写真が撮影・掲載されている。

当時の広告は、というと、ダストカバー付きの写真のメーカーは少ない。
ダストカバーは外した状態、しかもヒンジまで取り外した状態での撮影もけっこうある。

ステレオサウンドも、組合せの記事、
たとえば年末の別冊「コンポーネントステレオの世界」では、
ダストカバーは取り外しての撮影である。

瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」でも、
ダストカバーは外しての撮影である。

だから48号でのダストカバー付きの撮影は、
しかも掲載されている写真はダストカバーの一部がカットされることなく、
そのプレーヤーの全景が掲載されているのは、評価すべきことである。

これが55号の「ハイクォリティ・プレーヤーシステムの実力診断」では、
ダストカバーを外した撮影となっている。

ダストカバーとは、ヤッカイモノなのか。
そんな印象を、知らず知らずのうちに植え付けられていたかも……、と思えなくもない。

国産のプレーヤーならば、安い製品であってもダストカバーはついていた。
アクリル製のダストカバーがついているのだが、
だからといって、ダストカバーを特註しようとすると、意外に高くつく。

ステレオサウンドにいたころ、ある人が、
ダストカバーなしのプレーヤーのために、アクリル製のダストカバーを、
アクリル加工を専門とするところに見積もりを出してもらったことがある。

もう正確な金額は忘れてしまったが、ちょっと驚くほどの金額だった。
「アクリルなのに、そんなにするんですか?」と訊きなおしたほどだった。

大量生産だから安くできていたのであって、一品製作となると、
アクリル製ダストカバーは決して安くはない。

Date: 4月 22nd, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その17)

瀬川先生のリスニングルームの写真をみても、
ダストカバーは取り外されている。

ステレオサウンド 38号特集での写真では、
EMTの930stとラックスのPD121があるが、
930stはもともとダストカバーはないし、PD121もダストカバーは取り外されている。

その少し前の写真では、PD121ではなくテクニクスのSP10があるが、
こちらもダストカバーは取り外された状態で写っている。

世田谷のリスニングルームでは、EMTの927DstとマイクロのRX5000+RY5500。
どちらにもダストカバーはもともとない。

中目黒のマンションではパイオニアのExclusive P3だった、ときいている。
ここではダストカバーはどうされていたんだろうか。
やはり外されたままで使われていたのか、それとも……。

私もダストカバーがないプレーヤーを使ってきた。
高校生のころはデンオンのダイレクトドライヴ型で、もちろんダストカバーはついていた。
最初のころは開閉していたが、途中から取り外していた。

閉じた状態の音、開けた状態の音、取り外した状態の音を比較して、
ダストカバーはヒンジにつけることもせず、
使わない時はプレーヤーにかぶせたままにしていた。

デンオンの後に使ってきたアナログプレーヤーは、いずれもダストカバーがもともとないモノばかり。

例外はテクニクスのSL10だ。
これはダストカバーにあたる部分を含めての全体構造であるため、
取り外したりはできないからである。

Date: 4月 21st, 2018
Cate: ユニバーサルウーファー

SLOT-LOADED DESIGN

The Slot Loaded Open Baffle Project
ネルソン・パスの動向に注目している人ならば、知っている人もいよう。

詳しいことはリンク先のPDFを読んでいただきたい。
当然英語だ。

The Slot Loaded Open Baffle Projectの記事は、
数年前のラジオ技術に日本語訳が掲載されていた。

いま書店に並んでいるラジオ技術 5月号には、
スロットローディッド型ウーファーの製作記事が載っている。
しかも巻末には、The Slot Loaded Open Baffle Projectの日本語訳が再掲載されている。

といってもラジオ技術 5月号はまだ読んでいないので、
どういう内容なのかは知らない。

The Slot Loaded Open Baffle Projectを読めばわかるように、
このプロジェクトは、もともとESSに在籍していたネルソン・パスが、
ハイルドライバー採用のスピーカーシステムのウーファーとして取り組んでいたものだ。

結局製品化はならなかった。
ATM3として開発されていた、このスピーカーシステムが登場していれば、
ハイルドライバーの評価は大きく変っていた可能性があった、と思う。

slot loadedということでは、
エド・メイがJBL時代に手がけていたSLOT-LOADED DESIGNがある。

この方式については、別項で触れている。
ネルソン・パスとエド・メイとでは、同じslot loadedであっても、少し違う。

コーン型ウーファーの前面に、振動板と凹凸の関係にある形状のLOADING PLUGがある。
ネルソン・パスのThe Slot Loaded Open Baffle ProjectにはLOADING PLUGはない。

Date: 4月 21st, 2018
Cate: 戻っていく感覚

好きな音、好きだった音(その6)

この項のカテゴリーは「戻っていく感覚」である。

カテゴリーについては、はっきりと最初から決って書き始めることもあれば、
書いている途中でカテゴリーを決めることもあるし、
書き終ってから、ということもある。

そうやって決めるわけだが、スパッと決められるときもあれば、
どれにしようと迷うこともある。
新しいカテゴリーは、これ以上増やしたくない、とも思っているから、
できるだけこれまでのカテゴリーからあてはまりそうなものを選びもする。

この項のカテゴリーは、あえて選ぶならば、これかな、ぐらいの気持だった。
でも書いていくうちに、「戻っていく感覚」にしておいてよかった、と感じはじめている。

その感は強くなっていくとともに、
五味先生の「五味オーディオ巡礼」の一回目を思い出す。
ステレオサウンド 15号に掲載されている。

野口晴哉氏と岡鹿之介氏が登場されている。
「ふるさとの音」とつけられている。
「音のふるさと」とも書かれている。

最初に好きになった音は、そうなのか。
好きだった音は、そうなのか。
そんなことを反芻している。

Date: 4月 21st, 2018
Cate: JBL

JBLのユニットのこと(続々2397の匂い)

四年前に「JBLのユニットのこと(2397の匂い)」のことを書いている。

今年も、ここ数日2397から、JBL特有の匂いがしてきている。
けれど四年前は六月くらいからだった。
今年は、まだ四月。

例年よりも早くから暖かくなってきていることを、
鼻でも実感している。

Date: 4月 20th, 2018
Cate: 使いこなし

丁寧な使いこなし(その4)

オーディオの使いこなしにおいて、
もっとも頭を悩ませるのは、スピーカーのセッティング位置ではないだろうか。

部屋の大きさとスピーカーの大きさによっては、
ほぼこの位置にしか置けない、という場合もある。
そういう場合は、その位置でやっていくわけだが、
部屋のどこでもスピーカーを置ける、という場合もある。

そうなると、いったいどこが、そのスピーカーにとってのベストポジションなのか。
それを探り出すためにはどうすればいいのか。

フロアー型で、しかも床に直接、何も介さずに置いている場合であれば、
スピーカーを移動して音を聴いて、どこがベストなのかを探っていけばいい。

けれど、フロアー型でもスピーカーと床とのあいだにいろんなアクセサリーが挟まっていたり、
なんらかのブロックやベースの上に置かれていることだってある。
そうなるとスピーカーの移動は、とたんに難しく、面倒になってくる。

いま、いい感じで鳴っている。
スピーカーをとくに動かす必要はないようにも感じている。
それでもオーディオマニアはならば、もっといい位置があるのではないだろうか……、
そう思ってしまう。

そんなことまったく思わないという人は、少なくともオーディオマニアではない。

そう思っても、スピーカーを実際に動かすのは、大変なことだ。
ひとりでやるのは、特に大変である。

だからといってオーディオ仲間数人に来てもらって、というのも、
そう何度も何度も来てもらうわけにはいかないし、
ひとりでじっくりとやっていきたい、と思う人だっている。

20代のころ、スピーカーのセッティング位置をどうすれば探り出せるのか。
平台車にスピーカーを乗せて、部屋のあちこちに移動してみるということを考えたことがある。
そうやって音を聴いて、よさそうに思えた位置にスピーカーを置いて、
じっくりとセッティングを見直し、チューニングしていく。

これといった問題はない──、思いついた時にそう考えていた。
けれど実際はそうではなかったことに、すぐに気づいた。

Date: 4月 20th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その16)

(その14)で引用した保柳健氏の発言に、
菅野先生はこう返されている。
     *
菅野 自信というか、自信を意識しない、自分なりにこうありたいという、むしろ願望でしょう。
保柳 私は主観を怖れるというか、いや、片寄りを怖れるんですね。
菅野 客観、主観の問題ですけれど、これは今までに古今東西で論じられていますが、私の考えでは、一人の人間が、自分以外の宇宙になり切れない。客観というものは主観に比べると弱いもので、それこそ存在理由が弱い。主観というのは悪い意味で使われることが多いんです。主観を主張するときは、ある普遍性を持った主観であるかないかが問題になるわけで、結果的には一番重要な問題になってきます。立派な作品が残っている作家は、皆、強烈な主観を持つが故に強烈な個性を持つといえます。それがまた、洋の東西を問わず普遍性を持っています。主観というのは、ある優れたレベルに達したときは、必ず普遍性を持つものでしょう。
保柳 ある意味では、あなたは非常に非常に衝動的に動けるんです。だから、作るものが短期間にできる。ところが、こちらは、ネッチリ型で、録音すると、その瞬間こわくて出せないときがある。これには客観的なものがないわけです。
菅野 それでいて、人が録音すると、それはいい、あまり考えないでやった方がなんておっしゃる。今でも覚えているのでずか、清水高師のヴァイオリンのレコード。どうも私は気になって仕方がなかった。あの時、あなたは、そんなことないといってね。
保柳 それは私の中にないものが、あなたの中にあって、それが燃えるのは、私にとって全く素晴らしいことなのです。
菅野 だから私の中にもいやだとおもうことはあるのです。つまり、そこまで無我夢中というわけでもないんですよ、私は。
保柳 でもね、私にとっては、菅野さんみたいな行き方は羨しいと思いますよ。飛行機のレコードのことになりますが、あんなにたくさん出たわけです。一番最初に何を見たか、録音日を見ました。全部最近になって、一日か二日で録音しているんです。これはね、感性豊かな人間がパッとやるんなら認めるんです。そうじゃなくて思いつきが行動と短絡している。これは大事なことだと思うんですが、あなたの場合、時に瞬間的にやられるにしても、バックが長いんですよ。ピアノなら、ピアノに対するバックが長いわけです。
菅野 仕事というものは、そういうものですね。それが一分の仕事であっても、四十何才と何ヵ月の一分ですから。
     *
このあとに(その11)で引用した対話に続いていくわけだが、
「そこで聴いた音」とは、「そこで聴きたい音」でもある。
そして(その10)での青山ホールについてのことにつながっていく。

「そこで鳴っている音」を録ろうとした青山ホールでの録音は、だから失敗している、といえよう。
「そこで聴いた音」、「そこで聴きたい音」を録るのであれば、
青山ホールでの録音はうまくいくのであろう。

Date: 4月 19th, 2018
Cate: 「本」

雑誌の楽しみ方(書店の楽しみ・その2)

2月に、渋谷の山下書店にのことを書いた。
田舎で馴れ親しんだ書店らしい書店だと感じていた。

ステレオサウンドは、私がいたころは六本木にあった。
青山ブックセンターも六本木にあった。

ステレオサウンドで働くことで、青山ブックセンターを知った、といってもいい。
これが東京の書店なのか、と、
三省堂や紀伊國屋書店に初めて入ったときとは、また違う感想をもったものだった。

山下書店と青山ブックセンターは、ずいぶん違う。
あのころ青山ブックセンターは深夜まで営業していた。
山下書店の渋谷店も、一時期まで24時間営業だった。

あるときから青山ブックセンターのコピーのような書店が、東京に増えてきた。
そのすべてとはいわないが、スカした書店が増えてきた。
スカした書店は、スカした品揃えで、スカした客が集まる。

優れた本でも、スカした書店で、スカした品揃えのように並べられると、
スカした客の手に渡る。

こうしたスカした書店は、エロ本は当然のことながら、置いてない。
エロ本がないからスカした書店なわけではない(念のため)。

スカした客が集まる書店では、
いったい誰が買うんだろう……、という本もある。
私が何度か目にした範囲では、スカした客が手にしていた。

話は飛躍するが、こうしたスカした人たちが、
デザインのパクリを平然とやっているように見えるのだ。

渋谷の山下書店は、4月26日で閉店する。
このあたりは渋谷の再開発に含まれるのだろうか。

渋谷から山下書店がなくなる。
こういう書店は減っていくだけなのか。

Date: 4月 19th, 2018
Cate: オーディオマニア

ドン・ジョヴァンニとマントヴァ侯爵(その2)

ドン・ジョヴァンニとマントヴァ侯爵。

真にドン・ジョヴァンニといえる人を、私は知らない。
マントヴァ侯爵といえる人ならば、よく知っている。

その人は、女性との出逢いは受動的ではなく、つねに能動的でありたい、といっていた。
自分の好みにぴったりとあう人を見つけるために、その人はさまざまな努力をしていた。
その人は、自慢気にその努力について、その成果について話してくれた。

つい「成果」と書いてしまったが、
その人の口調は「成果」と思わせるものだったからでもある。

その人の好みは、こまかい。
うるさ型である。

好みがはっきりしすぎているし、
ダメなタイプも、またそうである。

その人はけっこうモテていた。
けれど、その人はけっしてドン・ジョヴァンニではなかった。

だから地獄に堕ちることはなかった。
何度目かの奥さんとシアワセに暮らしているようである。

黒田先生はステレオサウンド 47号掲載の「さらに聴きとるものとの対話を」、
ここでは「腹ぺこ」というタイトルがついている文章で、
マントヴァ侯爵の方法は、
《条件さえととのえば、そんなにむずかしいことではない》とされている。

その人をみていると、たしかにそうだな、と思う。

ドン・ジョヴァンニの方法は、
《この場合、生き方というべきだろう》とされたうえで、容易ではない、と。

ドン・ジョヴァンニは空腹でありえたのだろう、
マントヴァ侯爵は、空腹だったことはないのだろう、
その人もそうなのかもしれない。

Date: 4月 19th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その15)

菅野先生と保柳健氏との対談、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」を読み返しているわけだが、
ほんとうにおもしろい、と思って読んでいるところだ。

40年前の記事である。
当時も、興味深い記事だとは感じていたが、
すんなり理解できていたわけではなかった。

読みながら、いろんなところがひっかかってくるんだけれど、
だから何度か読み返しもした。
それでもすんなりと理解はできなかった。

理解するには時間が必要だ、ということだけはわかった。

40年経つと、よくわかる。
そういうことだったのか、とも頷ける。

こんなことを書くと、また嫌味なことを……、と思われるだろうが、
それでも書いておく。

いまのステレオサウンドに載っている記事で、
40年後(そこまでいかなくてもいいが)に読み返して、
古さを感じさせないどころか、ほんとうにおもしろいと思えるのがあるのか。

もっといえば40年後に読み返す人が、はたしているだろうか。

その意味で、40年後に読み返させて、しかもおもしろいと読み手に思わせる人こそが、
オーディオ評論家(職能家)であり、
それ以外のオーディオ評論家は、オーディオ評論家(商売屋)でしかない。

「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」から、もうすこし引用していきたい。

Date: 4月 18th, 2018
Cate: 世代

世代とオーディオ(その表現・その1)

「菅野録音の神髄」のためにステレオサウンド 47号を、開いている。
47号の特集はベストバイで、
瀬川先生が「オーディオ・コンポーネントにおけるベストバイの意味あいをさぐる」を書かれている。

こんなことを書かれている。
     *
 これもまた古い話だが、たしか昭和30年代のはじめ頃、イリノイ工大でデザインを講義するアメリカの工業デザイン界の権威、ジェイ・ダブリン教授を、日本の工業デザイン教育のために通産省が招へいしたことがあった。そのセミナーの模様は、当時の「工芸ニュース」誌に詳細に掲載されたが、その中で私自身最も印象深かった言葉がある。
 ダブリン教授の公開セミナーには、専門の工業デザイナーや学生その他関係者がおおぜい参加して、デザインの実習としてスケッチやモデルを提出した。それら生徒──といっても日本では多くはすでに専門家で通用する人たち──の作品を評したダブリン教授の言葉の中に
「日本にはグッドデザインはあるが、エクセレント・デザインがない」
 というひと言があった。
 20年を経たこんにちでも、この言葉はそのままくりかえす必要がありそうだ。いまや「グッド」デザインは日本じゅうに溢れている。だが「エクセレント」デザイン──単に外観のそればかりでなく、「エクセレントな」品物──は、日本製品の中には非常に少ない。この問題は、アメリカを始めとする欧米諸国の、ことに工業製品を分析する際に、忘れてはならない重要な鍵ではないか。
     *
 ひと頃、アメリカのあるカメラ雑誌を購読していたことがある。毎年一回、その雑誌の特集号で、市販されているカメラとレンズの総合テストリポートの載るのがおもしろかったからだ。そのレンズの評価には、日本ではみられない明快な四段階採点方の一覧表がついている。四段階の評価とは 1. Excellent 2. Very Good 3. Good 4. Acceptable で、この評価のしかたは、何も右のレンズテストに限らず、何かをテストするとき、あるいは何かもののグレイドをあらわすとき、アメリカ人が好んで用いる採点法だ。
 私自身の自戒をこめて言うのだが、ほかの分野はひとまず置くとしてまず諸兄に最も手近なオーディオ誌、レコード誌を開いてごらん頂きたい(もちろん日本の)。その中でもとくに、談話または座談の形で活字になっているオーディオ機器や新譜レコードの紹介または批評──。
 ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ。
 むろん私はここでそのあげ足とりをしようなどという意味で言っているのではなく、いま手近なオーディオ誌……と書いたが少し枠をひろげて何かほかの専門誌でも総合誌あるいは週刊誌や新聞でも、似た内容の記事を探して読めば、あるいは日常会話にもほんの少しの注意を払ってみれば、この「非常に」「たいへん」あるいは4とても」といった、少なくとも文法的には最上級の形容詞が、私たちの日本人の日常の会話の中に、まったく何気なく使われていることが、まさに〝非常に〟多いことに気付く。
 この事実は、単に言葉の用法の不注意というような表面的な問題ではなく、日本という国では、もののグレイドをあらわす形容が、ごく不用意に使われ、そのことはさかのぼって、ものを作る姿勢の中に、そのグレイドの差をつけようという態度のきわめてあいまいな、あるいは本当の意味でのグレイドの差とは何かということがよくわかっていないことを、あらわしていると私は考えている。さきにあげたジェイ・ダブリン教授の言葉も、まさにこの点を突いているのだと解釈すべきではないか。
     *
47号は1978年だから、40年前だ。
《ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ》
とある。

いまはどうだろう。
フツーにうまい、とか、フツーにかわいい、といった表現が頻繁に使われている。