瀬川冬樹
ステレオサウンド 47号(1978年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ’78ベストバイ・コンポーネント」より
もう何年か、もしかしたら10年近い以前か、なにしろ古いことなので記憶が薄れているが、ソニーの盛田会長が、アメリカ・ソニーの社長として派遣された頃の話を何かに書いておられるのを読んで大層興味深かった。
話というのはこうだ。たとえば会社である日、深のひとりが何か重大なミスを犯したとする。翌朝出社しても、椅子に坐って、前日の部下の失態の収拾をいかにすべきか、思っただけで不気嫌になる。それが日本の会社であれば、上司の顔をみたとたんに、社員全員にその意味が通じて、お茶を運んでくる女子事務員の態度にさえ、これ以上上司の機嫌をそこねまいとする様子が読みとれる。要するに上司も部下も、互いの顔色や態度から、無言のうちに相手の気持を読みとって、いかに対処すべきかを全員で考えることができる。
アメリカの会社ではそうゆかなかった。出社して椅子に坐る。周囲で働くのは皮フの色のそれぞれに違うアメリカ合衆国の人間だ。日本語の通じないのはもちろんだが、それ以上に、彼らには日本式に上司の顔色を読んでそれに自然に対処するなどという態度は全く期待できない。それどころか、上司は部下に向かって、こう叫ばなければならない「きのうのミスを憶えているのか。そのことで俺は今朝、機嫌が悪いんだ! 一刻も早くきのうのミスの収拾に全力を尽せ!」
自分がいま、どういう心理にあるのか、何をして貰いたいのか。日本のような古くからの単一民族の集合の国では、会社もまたひとつの同族あるいは家族に近い形をとるので、そんなことをいろいろ説明する必要はないが、アメリカのようにほんの二~三百年ほどのあいだに、あらゆる国からやってきた異民族が集まって成立した合衆国社会では、自分の心理も欲求もその他すべて、言葉に出してはっきり説明しなくては全く相手に通じない、という事実。
この盛田氏の話は、古い記憶なので細かな部分では少々違ってしまっていると思う。しかもここからあとの、かんじんの結論がどうだったか、全く憶えていないのだが、いまここでは、右の話の結論の部分が必要なのではない。
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これもまた古い話だが、たしか昭和30年代のはじめ頃、イリノイ工大でデザインを講義するアメリカの工業デザイン界の権威、ジェイ・ダブリン教授を、日本の工業デザイン教育のために通産省が招へいしたことがあった。そのセミナーの模様は、当時の「工芸ニュース」誌に詳細に掲載されたが、その中で私自身最も印象深かった言葉がある。
ダブリン教授の公開セミナーには、専門の工業デザイナーや学生その他関係者がおおぜい参加して、デザインの実習としてスケッチやモデルを提出した。それら生徒──といっても日本では多くはすでに専門家で通用する人たち──の作品を評したダブリン教授の言葉の中に
「日本にはグッドデザインはあるが、エクセレント・デザインがない」
というひと言があった。
20年を経たこんにちでも、この言葉はそのままくりかえす必要がありそうだ。いまや「グッド」デザインは日本じゅうに溢れている。だが「エクセレント」デザイン──単に外観のそればかりでなく、「エクセレントな」品物──は、日本製品の中には非常に少ない。この問題は、アメリカを始めとする欧米諸国の、ことに工業製品を分析する際に、忘れてはならない重要な鍵ではないか。
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ひと頃、アメリカのあるカメラ雑誌を購読していたことがある。毎年一回、その雑誌の特集号で、市販されているカメラとレンズの総合テストリポートの載るのがおもしろかったからだ。そのレンズの評価には、日本ではみられない明快な四段階採点方の一覧表がついている。四段階の評価とは 1. Excellent 2. Very Good 3. Good 4. Acceptable で、この評価のしかたは、何も右のレンズテストに限らず、何かをテストするとき、あるいは何かもののグレイドをあらわすとき、アメリカ人が好んで用いる採点法だ。
私自身の自戒をこめて言うのだが、ほかの分野はひとまず置くとしてまず諸兄に最も手近なオーディオ誌、レコード誌を開いてごらん頂きたい(もちろん日本の)。その中でもとくに、談話または座談の形で活字になっているオーディオ機器や新譜レコードの紹介または批評──。
ちょっと注意して読むと、おおかたの人たちが、「非常に」あるいは「たいへん」といった形容詞を頻発していることにお気づきになるはずだ。
むろん私はここでそのあげ足とりをしようなどという意味で言っているのではなく、いま手近なオーディオ誌……と書いたが少し枠をひろげて何かほかの専門誌でも総合誌あるいは週刊誌や新聞でも、似た内容の記事を探して読めば、あるいは日常会話にもほんの少しの注意を払ってみれば、この「非常に」「たいへん」あるいは4とても」といった、少なくとも文法的には最上級の形容詞が、私たちの日本人の日常の会話の中に、まったく何気なく使われていることが、まさに〝非常に〟多いことに気付く。
この事実は、単に言葉の用法の不注意というような表面的な問題ではなく、日本という国では、もののグレイドをあらわす形容が、ごく不用意に使われ、そのことはさかのぼって、ものを作る姿勢の中に、そのグレイドの差をつけようという態度のきわめてあいまいな、あるいは本当の意味でのグレイドの差とは何かということがよくわかっていないことを、あらわしていると私は考えている。さきにあげたジェイ・ダブリン教授の言葉も、まさにこの点を突いているのだと解釈すべきではないか。
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屁理屈をこねるわけでなく、〝非常〟とはまさに〝常に非(あら)ぬ〟状態を指して言うのだから、〝非常に〟が氾濫してしまえばもはやそれは〝平常〟の状態になってしまう。くり返すが私自身への自戒を込めて言っているので、私も書く場合は注意しているつもりでも、しゃべる場合にはつい不用意に〝非常に〟とか〝極めて〟などを連発しているのかもしれない。
だが、何もここで文章論を展開しようというのではないから話を本すじに戻すが、いましがたも書いたように、言葉の不要な扱いは、単に表現上の問題にとどまらない。それがひいては物を作る態度にも、いつのまにか反映している。この言い方に無理があるとすれば、あるいは日本人の中に、ものの質を、アメリカ人のような明確なグレイドの差としてとらえるよりも、もっと別の形でとらえ論じようとする姿勢があるのではないか、と言い直してもよい。そういう見方をしてみると、大まかに言って、アメリカ人はものの良し悪しをグレイドの差でまず論じるが、日本人はそれをニュアンスの差としてまずとらえる、と言っては言いすぎだろうか。
ちょっと待て、アメリカでもしかし近ごろは Excellent を割合安売りしているではないか、という反論が出るかもしれない。だがすでにお断りしているように、いまここでは形容詞の文法上の用法を論じているのではなく、そのことに表われるものの価値判断の態度の根本的な相違を考えてみようというのだ。
Excellent, Very Good, Good と並べてみると、ここには誰の目にも明快な三段階のグレイドの差がつく。
ところが「非常に」「極めて」「大変に」と並べてみたところで、それが最上なのか、おそらく結論は出にくい。要するに日本語、ひいては日本人の思考のパターンには、もののグレイドに明確な差を見出す、という姿勢がもともとあまりないのだ、という結論は性急すぎるだろうか。
このことは何も、日本に最上級の品物がないとか、日本人の作る品物にグレイドの差がないなどと言おうとしているのではない。日本人が作ろうが欧米人が作ろうが、ある品物にグレイドの差だけあってニュアンスの差がない、などということもまたその逆もありえない。
ことがあまり抽象的にならないうちに、いや、もう十分抽象的になってしまっているが、ひとつの身近な具体例としてパワーアンプをとりあげてみる。一台はマランツの510M、もう一台はGASのアンプジラII。この高級アンプ両者をくらべてみると、出力はほとんど同じ、物理特性も大差があるとはいえない。価格も近いし、取扱いや安定度の問題も優劣はつけにくい。つまり採点しようとすればどちらもエクセレントだ。グレイドの形容ではどちらも〝非常に〟良いアンプなのだ。だがこの両者は、音質に目を向けるとずいぶんその音のニュアンスを異にする。その面を論じるとなると、どうも我々日本人の方が、そして日本語の方が、表現が豊富ではないだろうか。むろん豊富さの反面として、形容があいまいになりがちだという弱点はあるにしても。
たとえば、マランツの音は明晰、シャープでやや硬質の、輪郭の明確な解像力の良さ……等といえる。そしてGASの音は充実感、引締った豊かさ、マランツよりはいくぶんソフトなタッチ……。要するにニュアンスの差について細かく聴き分けてゆけばほとんど無限のひろがりがあるといえる。そして、その点こそ、どちらを選ぶか、の別れ目になる。
だがそれをアメリカ人が表現する場合には、日本人のように音質をニュアンスの無限の広がりで言うのでなく、たとえばディストーションではこちらがやや上、パワーバンドワイズではこちらが上……という式に、分析的にではあっても項目ごとにやはりグレイドをはっきりさせたがる傾向がある。「俺は機嫌が悪い」とはっきり言わなくては通じない国の、これはおそらく必要から生まれた表現法なのかもしれないし、ああいう風土に育った人間には、その方がわかりやすいのかもしれない。そしてこれは良い傾向か悪い傾向かいまの私にはまだ判断がつきかねるが、アメリカ流の影響を受けた教育を身につけた最近の日本人の若い世代の中に、こういうふうにグレイドをはっきりさせた説明をしないと納得しない人たちが少なからず育ちはじめていることを、いろいろな機会に感じさせられる。ものニュアンスの方に重きを置いて判断すると言うのは、もはや古いタイプの日本人のすることなのだろうか。
そんなことはないはずだ。ものの良し悪しは、まず大掴みにはグレイドの差であらわせる。だが同じようなグレイドの品物の差をあらわすには、ニュアンスの、といっては問題点があいまいになりそうなでもっと端的に、その製品の個性の方が、それを選ぶ個人にとっては重要な項目であるはずだ。
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ずいぶん廻り道をしてものを言っている。いったい、表題のベストバイとは! に対する答えは、いつ出てくるのか。
ベストバイ、という言葉も、これを日本語の「お買徳品」という言葉に直してしまうと、いささか意味あいが違ってくる。
「俺は機嫌が悪い」をわざわざ口に出して相手に伝えなくてはならない合衆国で、あるいは国境という見えない線で陸続きの欧州諸国で、互いに異民族のあいだで取り引きが行われるとき、たったひとつの拠りどころは、そのものの客観的価値であった。その品物を購入するために、どれだけの代価を支払うのが妥当か──。そのためには、誰がみても明確なグレイドの差をつけることが必要だ。高価な品と安い品とでは、誰がみても、どこかに明確な差がついている。高価な品はとうぜんそれだけの良さを持っている。それを承知でどこまでも良いものを求める人間もいれば、少しぐらい性能が悪くともよいからできるだけ安く買いたい人もある。同じ街の中で、ひとりは毛皮を着こんで、また別のひとは半そでのシャツで、すれ違う国に住む民族には、日本人のような単一民族には想像のつきにくい多様性がある。そこでひとつだけはっきりしているのは、価格の差、だけだ。高いものは必ずどこか良い。それは、支払った代価に価する品物を提供したかどうか、という冷静な取引きを何百年もくりかえしてきた異民族どうしのあいだに、確立された考え方だ。
そこから、「この価格にしては」良いか悪いか、また、「この性能にしては」高いか安いか、という判断の姿勢が明確になってくる。いわゆるコスト・パフォーマンスの考え方だ。そして、仮にそれが100万円でも1万円でも、その価格に見合ったその時点で一般的な水準に照らし合わせて、その水準を多少なりとも抜いた製品を「ベストバイ」──良い買物──と名づける。
要するにベストバイという言葉自体には、価格の絶対値としての高価とか廉価といった概念は含まれない。100万円出してもこれはいい。あるいは1万円だがそれにしては良い。そのどちらもが「ベストバイ」なのだ。
しかしもうひとつの視点がある。オーディオパーツに限ったことではないが一般的に、日本人の作る工業製品には、欧米のそれとくらべてみてローエンドからハイエンドまでの製品の性能の幅が狭い。性能的にも価格的にも、欧米製品のようなまさにピンからキリまでのダイナミックな幅広さ、またその個性の多様性にくらべて、日本の製品は概して、中級の上、ぐらいのところに大半が集中して、思い切ったローコスト品や、反対にもうこれ以上望めない最高級品、が生まれにくい。
ローエンドからハイエンドにかけて少しずつ製品の質が上がってゆくその価格とのかねあいで、このあたりが支払った代価に対して最も性能向上の著しい価格帯がある。性能の向上は、ふつう直線的でなくS字カーブを描く。最低クラスの性能は、価格が多少上ってもそれほど目立った向上をみせない場合が多い。するとローエンドの価格帯でのベストバイは、むしろ中途半端に価格の上った点でよりも、思い切って安いところから探す方が利口だ、ということになる。
中クラスになってくると、価格に対しての性能向上カーブは急峻な立ち上がりをみせて、ある価格帯ではほんのわずかの価格の上昇にもかかわらず性能の飛躍的に向上する部分がある。このポイントが、もうひとつの意味で、あるいはほんとうの意味で、ベストバイ、と言えるのかもしれない。
そこを過ぎると、価格の方は幾何級数的に上昇するが性能の向上カーブは次第に寝てきて、価格の差ほど目立った向上をみせなくなる。このランクがいわゆる高級品で、コストパフォーマンスという見方をすれば効率のよくない価格帯ということになる。すると高級品の中にはベストバイはありえないということになるのだろうか。
そんなことはない。どんなに高価な品ものの中にも(逆にどんなローコストの品ものの中にも)それを手に入れて日常使いこなしてゆくうちに次第に愛着を憶えて、やがてそれが限りない満足感に変ってゆくというものが、数少ないながら確かに存在する。仮にそれが冷い機械(メカニズム)であっても、自分の分身のような愛着が湧いてくれば、ものそのときは支払った価格のことなど忘れて、ただひたすら満たされた気持になる。そういう品物こそ、真のベストバイといえるのではないだろうか。
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