Archive for 9月, 2013

Date: 9月 26th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その24)

日本の、それも1980年代の「598(ゴッキュッパ」と呼ばれたスピーカーシステムは、
すべてブックシェルフ型だった。
イギリスの、このころの598のスピーカーと同じようにレベルコントロールを持たないスピーカーシステムも、
同じようにブックシェルフ型が大半だった。

この時代よりずっと以前のブックシェルフ型は、その名の通り本棚に収めて使うことが可能な、
大きさと重量だったし、そういう使い方を前提としていた。

それが日本では独自のブックシェルフ型というふうに進んでいった。
本棚には収まらないサイズだし、
仮に無理して収めたとしても、このころの598のスピーカーシステムは重量的に無理があった。

だから自然とスタンドとの併用が前提となる。

私が最初に使ったブックシェルフ型、デンオンのSC104のころには、
メーカーから専用スタンドが用意されていることは、なかったといってよい。
まったくなかったわけではないが、
当時のカタログを見てもわかるようにキャスターがついていたり、
当時ブックシェルフ型スピーカーシステムの置き台と一般的だったブロックよりも、
見栄えがいい、という程度のもので、
音質に配慮したスタンドは皆無といってよかった。

598のスピーカーシステムの物量投入がエスカレートしていくのに比例して、
各社からスピーカースタンドが用意されるようになってきて、
それ以前のスタンドよりもしっかりしたつくりがふえていった。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」(余談・エルカセットのこと)

この項を書き始めたとほぼ同時に、「カタログに強くなろう」の入力作業にかかった。
昨日、入力作業は終った。

こうゆう記述があった。
     *
 実は、僕の手元にフィリップスのカセット出現直前の三号リールのついたテープ・レコーダーがあるが、それは、テープ走行メカと、ヘッド・ハウジングの点に関しては、カセットとまったく同じ構造だご。
 そのことから判断しても、カセットというのは、一朝一夕の所産物ではなくて、フィリップスが、テープ・レコーダーを作りはじめてから、二〇年以上の長いキャリア集積ととして創り上げたわけだ。
 だから、フィリップスにすれば、カセット・ハーフをほんのわずかの変更も、改良(?)することも、みとめない、というはっきりした姿勢をもっている。
 それも、このテープ自体のカセット・デッキとの絶妙なるバランスをくずしたくないからだろう。
     *
このくだりを読んで、エルカセットのことが浮んだ。
エルカセットは早くに失敗した。

なぜだったのか。
私は少なからぬ関心はあった。
でも音を聴く前に、事実上なくなっていた。

結局、エルカセットはオープンリールをカセットテープに仕立てたものである。

テクニクスは、RS7500Uの広告でこう謳っていた。
《オープンリールをカセットに入れた。》

岩崎先生の文章を読めば、すでにフィリップスが「オープンリールをカセットに入れ」ていたことがわかる。
既に二番煎じだったのだ。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: Glenn Gould

9月25日(その1)

9月25日は、グレン・グールドの誕生日である。

グレン・グールドが生きていれば81歳になるわけだが、
グールドの81歳の姿は想像できない。
70歳の姿も想像できない。

60歳の姿も想像し難い。

それは黒田先生が「音楽への礼状」で書かれていることと同じ理由である。
     *
 これは彼の悪戯にちがいない。
 あなたの急逝を知らせる新聞の記事を目にしたときに、まず、そう思いました。困ったもんだ、新聞までかつがれてしまって。あまりに急なことだったので、まさかという思いがありましたし、それに、いかになんでも、あなたは、亡くなるには、若すぎた。それだけではありません。そのとき、ぼくの頭を「グレン・グールド・ファンタジー」のことがかすめました。
 あの「グレン・グールド・ファンタジー」のような悪戯をぬけぬけとやってのけたあなたのことですから、周囲のひとたちすべてをだまして自分が死んだことにするぐらい、朝飯前でしょう。彼は、きっと、十年ほど姿を消していて、その間に、ベートーヴェンの録音しのこしたソナタとか、ぼくらがまさかと思っているショパンやシューマンの作品とか、あるいは新作のピアノ曲とか、あれこれレコーディングしておいて、突如、「グレン・グールドの冥土からの土産」などとタイトルのつけられたアルバムを発表するにちがいない。ぼくは、ひとりひそかに、そう確信していました。
 あなたが亡くなったのは一九八二年ですから、ぼくはまだあなたのよみがえりに対して希望を捨ててはいませんが、しかし、あなたの二度目の「ゴルトベルク変奏曲」のディスクにのっていた写真をみて、ぼくの確信は、ぐらっとよろけました。もし、あの椅子に腰かけているあなたの写真をみてから、あなたの訃報にふれたのであったら、ぼくは、あなたが悪戯で姿を消したなどとは考えなかったにちがいありません。あの写真は暗い予感を感じさせる、ぼくにとってはつらい写真でした。
     *
ゴールドベルグ変奏曲のジャケットのグールドの顔、なによりもその目は、そう思わせる。
ジャケットの撮影が行われたのは50歳の誕生日を迎える前だろうから、
まだグールド49歳のときのものであるはず。

にも関わらず、こういう目をグールドはしていた。
こういう目をしている者が、70、80歳まで生きていられるとは思えない。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: ケーブル

ケーブル考(理想のケーブルとは)

別項「日本の音、日本のオーディオ」の(その31)、(その32)、(その33)にて、
イソダケーブルについてふれている。

イソダケーブルは、単一導体の純度を追求する方向とは異るアプローチをとっている。
どちらが正しいのかは、いまのところなんともいえないし、
これから先も、どちらが正しいと決めることは、おそらくできないはずだ。

ただ思うのは、超伝導(超電導)のことである。
1980年代の後半ごろから、高温超伝導がニュースになるようになった。

よく知られるように金属を非常に低い温度まで冷やしたときに、
電気抵抗がなくなる(0になる)。
それまでは絶対零度近くまで冷やすものだったのが、
それよりもずっと高い温度(それでも人間の感覚からしたら非常に低い温度)で超伝導が起る物質が発見された。

それからしばらくは超伝導に関するニュースが続いたように記憶している。
超伝導が起る温度がどれだけ上ったとか、競争が活発になっていることを伝えていた。

これらの超伝導の物質は、基本的には化合物である。
混ぜ物である。
純度を極端に高めた単一素材ではない。

電気抵抗が0になるのが、オーディオ用のケーブルの理想なのかどうかも、
いまのところはっきりとはいえない。

それでも理想に近付くのだとすれば、
それも化合物が高温超伝導、さらには室温超伝導を実現するのであれば、
オーディオのケーブルも、純度の追求だけが正しいのではなく、
合金(化合物)ケーブルの方向も正しいのではないのか、と思う。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その23)

1980年代のステレオサウンドの、井上先生の使いこなしの記事をじっくり読み、
実践し理解されている方ならば気がつかれることである。

どちらもレベルコントロールがないのに、イギリスのスピーカーシステムにはそのことに対する批判がないのに、
日本の598のスピーカーシステムに対しては批判的なことがいわれる理由について。

それ以前の日本のスピーカーシステムと1980年代の日本のスピーカーシステムは、同じとはいえない。
スピーカーシステムとして性能は向上しているし、音のまとめ方もよくなっている。
にも関わらず、レベルコントロールに対して、ああもいわれたのだろうか。

結局は598のスピーカーシステムに物量を投入しすぎたことで重量バランスを著しく欠いた事で、
セッティングの違いによる音のバランスの出方が、
重量バランスが比較的とれているスピーカーシステムよりもシビアに出てくることになった。

1980年代のイギリスのスピーカーシステムは、
598のスピーカーシステムよりも、輸入品ということも価格は高くとてもそこに投入されている物量は、
たいしたことはない。
重量にしても、598のスピーカーシステムよりもずっと軽い。
スピーカーシステムとしての重量バランスも、
スピーカーユニットがフロントバッフルに取り付けられている以上、
完全なバランスはとりにくいけれども、
重量バランスを著しく欠いたモノではなかった。
それにエンクロージュアの剛性も、それほど高くはなかった。

こういうイギリスのスピーカーシステムと日本の598のスピーカーシステムとでは、
使いこなしの上で大きく違ってくるのは、
スタンドとの相関関係による音の変化量である。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その22)

スピーカーシステムからレベルコントロールをなくしてしまえば、
その分配線材の引き回しが減り、レベルコントロールに必要に可変抵抗を、固定抵抗に置き換えることによる、
コストの削減が図れる。
レベルコントロール用のプレートの要らなくなるし、
製造工程においてもレベルコントロールがなくなることで省ける工程も出てくることになる。

トータルでみれば、製造コストをおさえることになっているはずだ。

598の価格帯のスピーカーシステムは、
ほかの価格帯では考えられないほど原価率が高くなっていたはずだ。
それでも売れ筋の価格帯の製品であるだけに、各社間の競争はおさまるよりも、反対の方向であった。

とにかくわかりやすいところにはコストをかけ、削れるところは削る──、
そういう流れから、598のスピーカーシステムからレベルコントロールが消えていったという見方もできる。

音質的にもコスト的にもメリットがある、レベルコントロール削除。
メーカーが、責任をもって、各ユニットのバランスを調整しているのであれば、
使い手側から文句は出なかったし、オーディオ評論家からもそれに対する批判は出なかった、はず。

にもかかわらず598のスピーカーシステムに対して、
レベルコントロールをなくしたことに、あれこれいわれていた。

なぜ、そんなふうになっていったかについては、
598のスピーカーシステムが物量を投入しすぎたため、重量バランスを欠いたことが大きく影響している、
と私は考えている。

同じレベルコントロールが省かれることの多いイギリスのスピーカーシステムに対しては、
そういったことはいわない人でも598のスピーカーシステムに対しては、いう。

それは598のスピーカーシステムのレベルコントロールが拙いから、ということでは必ずしもない。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その11)

木を採り入れることで、魅力を増すオーディオ機器(というよりもデザイン)があることはわかっている。
だが安易にウッドパネルを取り付けたり、ウッドケースを用意したりするだけでは、
必ずしも魅力は増さないことに気がついていても、
結局は安易にそうしてしまっているオーディオ機器(デザイン)が多かった。

パイオニアのExclusive P3が登場したときの最初の印象は、分厚い、だった。
よくいえば、重厚となるのだが、
EMTの930stが実際のサイズよりも小さくみえるのに対して、
Exclusive P3はより以上大きく見えるところが、好きになる人もいれば、
私のように気になってくる人もいるわけだ。

とはいえ、内部構造の写真をみれば、Exclusive P3の音・性能には、
これだけの大きさと重さが必要だったことが理解できるし、
そうなると、この重厚さ(分厚さ、重々しさ)も仕方ないのかも……、と思えてくる。

それでも、それはあくまでも本体に関してはそう思えてくるのであって、
正直、Exclusive P3のダストカバーについては、重厚さを過ぎて、鈍重さを感じないわけではなかった。

P3のダストカバーが、サイドに木をあしらったデザインでなければそうは感じなかった。
P3のダストカバーはサイドをウッドパネルとしている。
そのため、ダストカバーを閉じたP3を真横から見ると、
本体のウッドキャビネット、ダストカバーのウッドパネルがひと続きとなり、
分厚い印象がより増してくることが鈍重さ、といいたくなる一歩手前まできてしまっている。

Exclusive P3が登場したときは、まだ高校生であり、
ダストカバーを閉じた状態での音まで検討してのウッドパネルの採用というところに考えが及ばなかった。

だからよけいに真横から見た時の分厚すぎる外観に、
なにか言いたくなっていた。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: トランス

トランスからみるオーディオ(その18)

理屈はともかくとして、聴感的・感覚的には周波数特性をひろげると、
つまりワイドレンジにすれば、音の密度が全体に薄まってしまうことが多い。

実際には音の密度が、ワイドレンジにすることで薄まるとは考えられない。
それでも人間という聴き手にとっては、音の密度が薄まる。

このためもあって、いまでも昔のナロウレンジのスピーカーシステムを高く評価する人がいる。

とはいえ、ワイドレンジが間違っているわけではない。
ほんとうにみずみずしい音を出すには、やはりワイドレンジでなければならないし、
ナロウレンジが得意とすると一般には思われているやわらかい音に関しても、
ほんとうのワイドレンジでなければ、
倍音が豊かにきちんと再生されたうえでの、ほんとうのやわらかい音は、まず出ない、ともいえる。

それにしても、なぜナロウレンジでの密度の高い音は、ワイドレンジでは得にくいのだろうか。
たとえばワイドレンジと呼ばれている音、
しかも密度の薄いと感じられる音を、意識的に帯域を狭くしてみる。

たとえば抵抗とコンデンサーでローパスフィルターとハイパスフィルターを形成し、
周波数帯域を適度なところでカットしてみたところで、音の密度が高くなることはない。
密度の薄いままナロウレンジになり、
ナロウレンジの良さのない、ただナロウレンジなだけの音になってしまうことが多い。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: 録音

PCM-D100の登場(その5)

これは、4チャンネル再生についても同じことがいえる。
テープという系は、モノーラルからステレオになるのが、
ディスクの系よりもずっと容易だったように、
基本的にはトラック数を増やすことがそのままチャンネル数を増やしていくことにもなる。

オーディオには、昔から、サラ派(アナログディスク)、ヒモ派(テープ)と区分けの表現がある。
テープをプログラムソースの中心におく人、ディスクを中心におく人がいる、ということだ。

これは、それぞれの音の特質とも関係しているし、ノイズとも関係がある。

アナログ時代には、ノイズがつきまとう。
テープには持続的なヒスが、ディスクにはプチッ、プチィといった断続的なスクラッチノイズがある。
人によって、どちらのノイズが許容できるかは違いがあるようで、
私は持続的なノイズは我慢できないところがあるから、自然とサラ派(ディスク中心)となった。

私は反対に断続的なノイズが苦手という人は、ヒモ派(テープ中心)となっていくわけだ。

もちろんテープには自分で録音するという楽しみもあるけれど、
プログラムソースを購入してきて、再生を楽しむということに関しては、
持続的なノイズ、断続的なノイズ、このノイズの出方の違いは無視できない問題だった。

とにかく私はサラ派だったわけだが、
それでも、新たに登場してきた技術による音を聴きたければ、テープのほうが早いということはわかっていた。

モノーラルからステレオになったとき、
4チャンネルが登場したときは、まだオーディオマニアではなかった。

dbxというイズリダクションシステムを体験しようと思ったら、
まずはテープしかなかった。
dbxによるアナログディスクも登場したけれど、テープの方が早かった。

デジタルに関しても、PCM1がそうであるように、やはりテープである。

Date: 9月 25th, 2013
Cate: 録音

PCM-D100の登場(その4)

ソニーのPCM1を、業務用以外として、
つまりオーディオマニアが趣味として購入した例はいったいどれぐらいなのだろうか。
極端に少ないような気がする。

録音を仕事としている人ならば、PCM1の購入も検討するだろうが、
そうでなければPCM1を買っても、ソニーのビデオデッキも同時に購入しても、
自分で録音しないかぎり、ミュージックテープは出ていなかったはずだから、
音を聴くことはできない。

プログラムソースを買ってきてかける、という行為は、
PCM1の世界にはなかった。
自分でもう一歩の行動をして、はじめてその「音」が聞ける。

そういうシステム(機器)であっても、
1977年当時、デジタルの音を聴きたければ、
PCM1とソニーのビデオデッキを購入する以外に手はなかった、といえる。

つまりデジタルという、当時の最先端の音(それがいい音なのかどうかは別問題としても)を聴きたければ、
PCM1を買うしかなかった。

このことは、つまりはオーディオの世界・歴史において、
最新技術による音を聴きたければ、まずはテープを録音媒体とするものが先に登場する、ということでもある。

ステレオ録音が登場してきたときも、そうだった。
アナログディスクのステレオ化がなされる前から、
テープの世界ではすでにステレオ録音・再生が実現されていた。

もっともこれは正確にいえば、実用化こそ無理だったけれど、
イギリスのブルームラインがすでに1930年代に45/45方式のステレオ録音システムを考え出している。

ビーチャムによる録音が、実験的に行われて、
そのSP盤は1980年代後半に、イギリスのレーベル”Symposium”から復刻された。

実際に、この復刻盤を聴いているけれど、
聴けば、なぜステレオ盤の登場が20年以上後になったのかもわかる。

こういう例はたしかにあるけれど、
ステレオ録音・再生が実用化といえるレベルに達したのは、テープにおいて、である。

Date: 9月 24th, 2013
Cate: 録音

PCM-D100の登場(その3)

PCM-D100の登場について書いていて思い出すのは、1977年だったと記憶しているが、
PCM1の登場のことである。

PCM1の型番が示しているように、
このモデルもソニーが他社に先駆けて発表している。

PCM1は、デジタルプロセッサーという、
当時としては新しいジャンルのオーディオ機器だった。
PCM1だけを買ってきても意味をなさない。
ソニーのビデオレコーダーとの組合せで、デジタルレコーダーを形成するものだ。

1977年当時、50万円近い価格だった。
当時のビデオレコーダーも、高価だったはずだ。
しかも大型だった。
録音媒体となるビデオテープも安くはなかった。

この大がかりなシステムによる音は聴く機会がなかった。
それに冷静になって考えればすぐに気づくことなのだが、
一アマチュアが、このシステムで何を録音するというのか。

ポータブルデッキのように簡単に持ち運べるものではない。
気軽に録音に使おうというものではない。

それでも当時、デジタルの音を家庭で聴くには、この大がかりなシステム以外には選択肢がなかった。

Date: 9月 23rd, 2013
Cate: トランス

トランスからみるオーディオ(その17)

池田圭氏は「盤塵集」に、こうも書かれている。
     *
アンプが広帯域であればあるほどいいという根拠があるかどうかも知らない僕が、その是非を論ずるのも当を得ない話であるが、最近超広帯域形アンプの二、三を使ってみたが、どうにも納得が行かない。使っているうちにこれまでお話した方法でLを使って、狭帯域にして使うことになる。相当数の人がこの方法で実験された話を聞くと、音に落ち着きがでるとか、迫力を生じて音が前へ出る……ということは音量を絞って満足感が得られる。苛立たしさがなくなる。やわらかい味を増す。軽く澄んでしかも深い音になる。騒々しさがなくなって明瞭度が上る。……など、とり止めもなく書くとこうなる。
     *
もちろんこれらの結果は、池田圭氏の使われていたスピーカーでの結果であるし、
同じ方法で試された方が、どういうスピーカーなのかはわからないものの、
「盤塵集」は30年以上前の本だし、いまどきのスピーカーではないから、
ここでの結果と同じ結果、同じような結果が得られる保証はない。

それでもトランスをうまく使うこと──、
池田圭氏の「これまでお話した方法」というのは、トランスをトランスとして使うのもあれば、
鉄芯入りのコイルとしての使用方法も含まれている。
トランス嫌いの人でも、池田圭氏の方法のひとつは、
それほどアレルギー的なことを感じずに実験できることでもある。

トランスはバンドパスフィルターであるから、信号系のどこかに挿入すれば、帯域幅は狭くなる。
それは池田氏も「狭帯域にして使うことになる」と書かれているとおりである。
ならば、トランスを使わずにコンデンサーと抵抗によるフィルターで、
トランス使用時と同じ特性をつくり出して狭帯域にすれば、もっといいのではないか、と思うかもしれない。

Date: 9月 23rd, 2013
Cate: トランス

トランスからみるオーディオ(その16)

トランスは、真空管アンプには付きモノである。
コントロールアンプでも600Ωのライン出力にするには、
カソードフォロワーという手もあるけれど、やはりライントランスを使う。

そしてパワーアンプでは、一部のOTLアンプをのぞけば、
真空管式であるならば必ず出力トランスをしょっている。

真空管アンプを自作する人の中にも、出力トランスを嫌い、
OTLアンプに挑戦する人はいる。
私などは昔の記事を読んで知っているだけであるが、
真空管アンプ全盛時代には、真空管のOTLアンプに合せてインピーダンスの高いスピーカーユニットも、
特注で存在していた。

トランスは高価だし、大きいし重い。
出力トランスがなくなれば、ステレオアンプではその分だけ軽く、そしてコンパクトに作ることができる。
これだけでも自作をする上では、けっこう楽になる。
真空管のOTLアンプは、また別の難しさはあるけれども。

出力トランス、ライントランスを省ければ、アンプ製作のコストは下る。
良質のトランスは安くはない、だいたいが高価だし、
しかもいまの時代、見つけてくるだけでもけっこうな手間である。

トランスではなくカソードフォロワーにしたり、トランジスターアンプであればバッファーアンプ、
さらにはOPアンプを使ったりすれば、コストのことは別にしても、特性的にはぐんと有利になる。

特性が向上することは、基本的には良いことである。
ではあるけれど……、というところがないわけでもない。

Date: 9月 23rd, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その10)

以前のオーディオ機器では、ウッドケースにおさまっていたり、
サイドにウッドパネルを採用することが、ひとつ格上の製品というイメージにつながっていたし、
高級感を醸し出すためにもよく使われていた手法であった。

たとえば私が高校生の時に無理して買い、愛用していたサンスイのプリメインアンプAU-D907 Limitedも、
サイドにウッドを採り入れていたし、天板の一部は木目仕上げとなっていた。

ベースとなったAU-D907はブラック仕上げの、木はどこにも使っていなかったけれど、
その限定版で、磁性体をできるだけ追放したことを強調する意味でも、
AU-D907 Limitedにはウッドのサイドパネルが採用された。

このアンプを手に入れたばかりのころは、初めてのウッドパネル採用のオーディオ機器だっただけに、
素直に嬉しく思っていた。
ウッドパネル採用のオーディオ機器を手に入れることができた、という感じだった。

けれど、それも数ヵ月も経てば、冷静にAU-D907 Limitedを眺めるようになる。
そうするとAU-D907の、あの洗練こそされていないけれど、精悍な感じのするフロントパネルに、
果してウッドのサイドパネルは似合うのだろうか、と思えてくる。

限定版であることを外観でもはっきりと表していることは、
ユーザーとしては嬉しいことではあるものの、その手法がうまくいっていないと、
その部分が、逆に気になってしまう。

どうも私はウッドケースやウッドパネルに、あまり魅力を感じないのかもしれない。
そんな私でも、QUADのコントロールアンプの33とチューナーのFM3を横一列に並べておさめることができる、
木製のスリーブは、美しいといまでも思っているし、
33とFM3、それにスリーブの組合せはいつかは欲しいし、
もっといえば、この組合せで満足できるような聴き手になれれば、
どんなにしあわせだろうか、とも思っている。

Date: 9月 22nd, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その9)

ラックスはLX38のモデルチェンジはせずに、
SQ38の型番をのちに復活させている。
そしてウッドケースも、やはり復活した。

一般的な認識として、ラックスのSQ38はウッドケースを纏っていなければならない、ということなのだろう。
それでも、私はLX38の、あえてウッドケースを脱いでいるところに好感がもてる。

LX38でウッドケースを省いたのは、おそらくはウッドケースにかかる原価が高くなったからではないのか。
SQ38と同等のウッドケースを標準装備してしまうと、価格を上げざる得ない。

事実、SQ38FD/IIは168000円だったが、LX38はウッドケースがオプション扱いにもかかわらず198000円だった。

ただラックスはウッドケースをオプションにしたわけではなかった。
フロントパネルの色調も、ウッドケースを纏わないことを意識してことのなのだろう、
やや明るい感じへと変更されている。

LX38と同時期に発表・販売されたコントロールアンプのCL36も、
フロントパネルの色調が変更され、ウッドケースがオプション扱いになっている。

SQ38FD/IIが秋もしくは晩秋のイメージだとすれば、LX38は初夏のイメージといえる。

真空管アンプということにノスタルジー的なものを強く求めるのであれば、
SQ38FD/IIの外観もウッドケースも音もぴったりとはまる。
けれど、そういうイメージの真空管アンプの音とは違う、
真空管アンプならではの音を、トランジスターアンプの音に馴れた耳に、
新鮮に響かせるためのアンプとしての外観は、LX38のほうに私は魅力を感じる。