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Date: 10月 8th, 2011
Cate: ユニバーサルウーファー

スーパーウーファーについて(低音再生とは)

低音の波長は長い。
可聴範囲の最下限の20Hzの波長は、音速を340mとすれば17mになる。

オーディオの本には、低音の再生には部屋の一辺の長さが再生したい低音の最下限の半波長分が必要となる、
と書かれている。
つまり20Hzまで再生したければ、当然そこまで再生できるスピーカーが必要になるばかりではなく、
最低では20Hzの波長、8.5mの距離が部屋のどこかになくてはならない、ということだ。
天井高が8.5mの部屋なんて、そうないだろう。
となると部屋の縦方向か横方向の一辺が8.5m。
仮に正方形の部屋とすれば、8.5m×8.5mは72.25㎡になる。40畳ほどの、かなり広い部屋だ。
もうすこし一辺が8.5mより短いとしても、極端に短くなってしまうとプロポーションがひどいものになり、
音響的に好ましくない結果を生むことになる。
となると常識的な比率からもう一辺を決めれば、やはり日本では贅沢な空間となってしまう。

理想をいえば半波長なんてけちくさいことをいわずに20Hzの一波長分、
つまり一辺が17m以上ある部屋ということになる。
17m×17mは289㎡……。もう夢の話になる(私にとっては)。

だから広い空間を用意できない人は、低音再生はあきらめたほうがいい、というふうにも、
ここのことを持ち出していわれる。
そして「部屋が狭いから低音はいさぎよくあきらめました」とか
「質の悪い低音を無理に出すよりも出さない方が、音全体のクォリティは高くなる」などいう人もいる。

半波長の長さを必要とする──、
これは果してスピーカー(ウーファー)から音を出している場合にもあてはまることなのだろうか。

ウーファーのほほすべてはピストニックモーションで空気を、いわば強制駆動している。
実際の楽器が低い音をだしているときの空気のふるまいと、
ウーファーが低い音を再生しているときの空気のふるまいを、同一視していいのだろうか。

共通するところは多い、とは思う反面、音の出し方そのものが大きく異るため、
違う捉え方も要求されるはずである。

私の経験からいえば、たしかに広い空間のほうが、無理を感じさせない、自然な低音を出しやすい。
そのことは否定しないし、広い部屋は欲しいけれど、
狭い部屋だからといって、質の高い低音が出せないわけではない。
ただ難しい、というだけにすぎない。

だから部屋が狭いから……、などという言い分けはせずに、
そして固定観念、それに一般的な常識にはいっさいとらわれずに、
あれこれ挑戦してこそ、低音再生はおもしろい、といえる。

つまり低音再生は、鳴らす部屋込みで考えるべきもの、ということを忘れないでほしい。

Date: 10月 7th, 2011
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その9)

こういうこともあった。

ステレオサウンドにいたころ、M・O君が編集部にいた。私よりもすこし年下で、ロック小僧。
このM・O君が、ある試聴がおわったときにつぶやいた。

「山中先生が(試聴室に)入ってこられるだけで、音、変りますよね」

彼はオーディオに強い関心をもっていたわけでもなく、
「音は人なり」ということについてもまったく知らない。そのM・O君が、そうつぶやいた。

試聴室ではそのとき試聴に使うオーディオ機器のウォーミングアップをかねて、
午前中の準備が済んでずっと鳴らしながら、試聴に来られる方をまっている。

M・O君がつぶやいたときも、そうだった。
あるスピーカーシステムを鳴らしていた。
たしかに、山中先生が試聴室に入ってこられたと同時に、音のただずまいが変ったのは、私も感じていた。
鳴らしていたのは曲名は忘れてしまったが、クラシックだった、と思う。
M・O君はロック小僧だから、ほとんどクラシックは聴かない(カルロス・クライバーだけは例外だったけど)。

そんなM・O君が、山中先生が試聴室に入って来られる前の音と試聴室に入って来られてからの音、
このふたつ音の違いに反応していたことに、正直なところ、驚いていた。
そして、以前からこの時のように音が変ることを感じていたのは、私の気のせいばかりではないことを確認できた。

Date: 10月 6th, 2011
Cate: 名器

名器、その解釈(その5)

ウェストミンスター・ロイヤル/SEを名器と思えないのは、
なにもウェストミンスターが現行製品だから、というのが理由ではない。

JBLのパラゴンは、いまでは製造中止になってひさしいが、
私がオーディオに関心をもちはじめたころ(1976年当時)は現行製品だった。
実物を見たのは数年後であったし、
当時はパラゴンからは私が求めている音は出てこない、という思い込みもあったけれど、
それでもパラゴンは名器である、と感じていた。

同じタンノイのスピーカーシステムなのに、
オートグラフを名器として感じ、ウェストミンスターを名器とは思えない、
現行製品であってもパラゴンは名器と直感したのに、ウェストミンスターはそうではなかった。

誤解のないようにことわっておくが、
ここであげている3つのスピーカーシステム(オートグラフ、ウェストミンスター、パラゴン)では、
名器とは思えないウェストミンスター・ロイヤル/SEは完成度が高いところにあるといえるし、
鳴らしていくうえでの、いわゆるクセの少なさもウェストミンスターである。

ウェストミンスター・ロイヤル/SEはよく出来たスピーカーシステムだ、と思う。
なのに、どうしてもウェストミンスターは、私にとって名器ではない。

オートグラフに感じられてウェストミンスターに感じられないもの、
パラゴンに感じられてウェストミンスターに感じられないもの、
つまりオートグラフとパラゴンに共通して感じられるもの、とはいったいなんなのか。

「スケール」だと思う。

Date: 10月 6th, 2011
Cate: 快感か幸福か

快感か幸福か(その8)

あと1ヵ月もすれば、インターナショナルオーディオショウがはじまる。
このインターナショナルオーディオショウの各ブースの音は、原則として、
そのブースの出展社(国内メーカー、輸入商社)の人たちが出している。

3日間の開催、各ブースでは評論家のによる音出しと話(つまりはイベント)が行われる。
一般的には、オーディオ評論家による講演、と呼ばれているし、以前は私もそう書いていたけれど、
さすがに「講演」という言葉は、菅野先生が不在になったいま、もう使わないことにした。

このときの音は、基本的には、そのブースの担当者の音、ということになる。
自分のイベントの時間だからといって、時間的余裕をもってそのブースに行き、
そこで鳴っている音を確認したうえで調整している人はいない。
これは当然のことであって、他の人もイベントを行うわけだから、
調整したいと思っていても、ノータッチが原則となる。

つまりあるブースで複数のオーディオ評論家によるイベントが行われるわけだが、
そこで、基本的にはイベントを行う人によって音が違ってくる、ということはまずないわけだ。

だが実際には、無視できない範囲で音が変ることがある。
こんなことをいうと、そのイベント目当てで来た人の数が違うのだから当り前だろう、という人もいるだろう。
たしかにそうなんだけれども、そういった要素による音の変化とは思えない音の変化がある、こともある。
これが、ないこと(感じにくいこと)もある。

そのブースのシステムを、そのときイベントを行っている人は調整していなくても、
それでも「音は人なり」ということを感じさせる音の変化が、
すべてのブース、すべてのイベントではないにしても、はっきりとある、といえる。

これはいったいなぜなんだろうか。

Date: 10月 5th, 2011
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(その39)

ケイト・ブッシュの12インチ・シングルがもつ音のよさは、聴くたびに魅了されていくところがあった。
これは人によって異ることなのかもしれない。
私が12インチ・シングルに感じていた良さを、
とくにアナログディスク再生において重要視されない方もいて不思議ではない。

アナログディスクは、こう再生されなければならない、というものではない。
それは私というひとりの中にも、EMT・927Dst的世界でのアナログディスクの再生と、
ノッティンガムアナログスタジオのAnna Logで求めたい世界とが、両極としてあるのだから。

12インチ・シングルのように、33 1/3回転の通常のLPを鳴らしたい、
そういうふうに鳴らしてくれるアナログプレーヤーはなると、これはもう927Dstにしか、私にはなかった。
それまで使ってきた930st(トーレンス101 Limited)に、大きな不満があったわけではないし、
むしろ非常に満足して使っていた。
それでも930stで聴いた12インチ・シングルの音は、
それだけの魅力をもっていた──、927Dstを購入させるほどの魅力と力を。

927Dstの音は、930stと比較してもなお底力の凄さを感じさせる。
この底力を土台として音が構築されているから、フォルティッシモで音が伸びていくとき、
通常のアナログプレーヤーよりも、グンという感じで、その先に音が伸びる。
それは伸びきる、といいたくなるほど、ひとまわりもふたまわりもの違いがある。

一枚のアナログディスクから得られるエネルギーの総量が、
927Dstではあきらかに増大している、そんな印象を聴くたびに受ける。
再生するアナログプレーヤーが変っても、レコード(アナログディスク)そのものは変化するわけではない。
だから、927Dstで、明らかにエネルギーとして感じとれる、聴こえてくる要素は、
実のところ927Dstがつくり出している要素、といえないこともない。

そう考えることもできるし、他のアナログプレーヤーが十全にディスクから拾い出していない、ともいえなくもない。

Date: 10月 4th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その10)

62年前の「その日」のことについては、「Why? JBL」では6ページ割いてある(85〜90ページにかけて)。
その一部だけ引用しておく。
     *
彼の死後、JBL社は保険金一万ドルの支払いを受けた。そのおかげでウイリアム・トーマスはその後の会社経営を堅実なものにすることができたという。生命保険に加入した時期がその日の数年前であることを見ると、どこかランシングの計画的な死であったような気がしてくる。
     *
ランシングが加入していた生命保険の契約がどうなっていたのかわからないが、
自殺の場合の支払いの条項はあったはず。

それに、ランシングは、この時期、アルテック・ランシングに在籍していた弟のビル・マーティンを、
毎週金曜日に訪れ、技術的なコミュニケーションをとっていた。

1949年の9月29日は木曜日にもかかわらず、ランシングはビル・マーティンを訪れている。

これらのことから、「Why? JBL」の筆者、左京氏も書かれているように、
ランシングの死は計画的であったように思える。

1949年、JBLの負債総額は2万ドルになっていた。

ランシングの死について、ほんとうのところは知りようがない。
それでもランシングが別の道を選択していたら、JBLという会社は、いまはなかった可能性もある。

ランシングは自分の死によって会社(JBL)を守った。
デヴィット・ステビングは会社(チャートウェル)をつぶしてしまった。

ランシングが生きた時代はふたつの世界大戦があり、大恐慌もあった。
ステビングとは生きた時代が違う。
ふたりのスピーカー・エンジニアの、その時の選択を比較する気はない。

ただふたりとも会社を経営していく才はなかった。

ステビングはその後、ベルギーのKMラボラトリーというスピーカーメーカーの社長になっている。
ただしKMラボラトリーでつくっているのは普及クラスのスピーカーばかりのようで、
ステビングがチャートウェルで目ざしていた方向とは違っている。

Date: 10月 3rd, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その9)

1982年夏に、「Why? JBL」という本が出た。
オーディオとはまったく関係のない出版社(実業之日本社)から、
しかも女性(佐京純子氏)によるJBLについて書かれた本だった。

この「Why? JBL」はステレオサウンド編集部内でも話題になった。
編集部でも購入していたし、編集部員も個人で数人購入していた。私も購入した。

11章から、この本は成り立っている。
 一章  ダウンタウンから約一時間ロスへの郊外へと走る
 二章  ランシングは最も古いアマチュア無線マニアの一人だった
 三章  シャラーホーン・システムが映画芸術科学アカデミー賞を受賞
 四章  アルテック・ランシング・コーポレーションの始まり
 五章  ジェイムズ・B・ランシング社設立
 六章  ジェイムズ・バロー・ランシングの死
 七章  一九五〇年代、商標『JBL』の誕生
 八章  一九六〇年代、JBLスタジオ・モニターシリーズに進出
 九章  JBL日本上陸
 十章  サウンドとヒューマンライフ
 十一章 そして現在のJBL

オーディオマニア的にはもの足りないと感じるところもあるものの、
それでもこの「Why? JBL」で知ることのできた情報は多かったし、
それまではっきりとしなかった事柄のいくつかが、この本によって明らかになったこともある。

「Why? JBL」は永らく絶版だったため、
一時期、ヤフー・オークションでけっこうな値がつくこともあったようだが、
改訂版といえる「ジェイムズ・B・ランシング物語」が、
「Why? JBL」と同じ実業之日本社から2008年に出ていて、いまも入手可能である。

「Why? JBL」の64ページには、こう書いてある。
     *
ランシングについて、そのすべてを研究している現在のJBL社の副社長の一人であるジョン・アーグルは、
彼についてこう述べている。
「ランシングは機敏なビジネスマンではなく、彼のもとでは会社は繁栄しなかった」と。

Date: 10月 2nd, 2011
Cate: audio wednesday

第9回公開対談のお知らせ(「オーディオのデザイン論」を語るために)

ステレオサウンドをどう受けとめているかは人それぞれで、
オーディオのお買い物ガイドとして読んでいる人もいれば、
私は、オーディオの本、というよりも、オーディオ評論の本として認識している。

現在の編集部が、ステレオサウンドという本を、
お買い物ガイドブックとして編集しているのか、
オーディオの本として編集しているのか、
それとも私と同じように、オーディオ評論の本として認識して編集しているのか、
それは正直、はっきりしない、と私は思ってしまう。

そのステレオサウンドは、約1ヵ月前に出た号で創刊45年を迎え、
これまでに180冊のステレオサウンドが出ている。
別冊・増刊を含めると、ゆうに200冊をこえている。
そのなかで、「オーディオのデザイン論」が語られたことは、ほとんどなかった。
期待していた川崎先生の連載は、わずか5回で終ってしまった……(このことが象徴している、といえるだろう)。

2008年春の166号の特集は「オーディオコンポーネントの美」だった。
ここにも「オーディオのデザイン論」はなかった。
あったのは、デザイン観・デザイン感だった。

「オーディオのデザイン論」を語る文章があれば、
それにつづくデザイン観・デザイン感の文章が息づいてきたはずなのに……、と読んでいて思っていた。

残念といえば、2006年秋に出た「JBL 60th Anniversary」がある。
ステレオサウンドのウェブサイトで、この別冊の予告ページをみて、実は期待していた記事があった。
アーノルド・ウォルフのインタビュー記事だ。
これだけが読みたくて、「JBL 60th Anniversary」を買ったようなものだ。

こちらが勝手に期待していたのが悪いといえば悪いということになるのかもしれないが、
これはインタビュー記事なのか、とがっくりしてしまった。
アーノルド・ウォルフとインタビュアーとの対談のような記事が読みたかったわけではない。

ここにもやはり「オーディオのデザイン論」は不在だった。

10月5日(水曜日)の公開対談は、
「オーディオのデザイン論」を語るために
をテーマにして、工業デザイナーの坂野博行さんと行います。

「オーディオのデザイン論」を語る、ではなく、
「オーディオのデザイン論」を語るために、としたのは、
私が私が読みたい「オーディオのデザイン論」の記事をつくるために、ということもある。

公開対談は、これまでと同じ夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 10月 1st, 2011
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その16)

ウラディミール・ホロヴィッツは、
「頭はコントロールしなければならないが、人には心が必要である。感情に自由を与えなさい」
と語っている、ときく。

ストイックな姿勢で、音に臨むことが求められるときは、ある。
けれどつねにストイックでいては、
ときに感情の自由を自ら手放してしまう、ときには押し殺してしまうのではないだろうか。

音楽を聴くという行為は、感情に自由を与える行為でもあるかもしれない。

そう考えたとき、レコードでオーディオを介して音楽を聴くことは、
演奏会に行き音楽を聴くことよりも、
聴く時間、聴く音楽(曲目だけでなく演奏者もふくめて)を自分で決められるため、
適切に選択されたときの、感情が受け取る自由の純度は、より高いものである、といえるところもある。

感情の自由なくして、オーディオを楽しむことは実のところ無理なのかもしれない。
そして、別項で書いている、オーディオマニアとしての「純度」にも関係してくる。

Date: 9月 30th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その8)

読者だったころは、マーク・レヴィンソンに経営者としての側面が強く出はじめていても、
「それでもマーク・レヴィンソンはマーク・レヴィンソン」と思っていた。
でもステレオサウンドで働きはじめると、
マーク・レヴィンソン個人についてのウワサが耳に入ってくるようになった。

ウワサだから、いい話ではないことのほうが多かった。
でも、だからといってマーク・レヴィンソンが経営者としての側面を強くしてきたことは、
責められることではないはず。

マークレビンソンという会社には、あれだけ成功した会社だから少なからぬ人たちが働いていて、
彼らの生活を保証していくためにも、マーク・レヴィンソン自身、優れた経営者でいることが求められていたはず。

たとえばチャートウェルというスピーカーメーカーが、イギリスにあった。
ハーベスの創立者ハーウッドの下で、
BBCで働いていたデヴィット・ステビングというスピーカー・エンジニアが1974年に興した会社だ。

ステビングが、
BBC在籍時代に特許をとったポリプロピレン振動板のスピーカーユニットを開発・製造するための会社として作った
チャートウェルは、チャート(chart = 特性図のこと)、ウェル(well = 優れていること)を足したもので、
「優れた特性をもつ」という意味である。

それだけに彼は、より優れたスピーカーユニットの開発にあけくれていた。
そしてLS5/8の原型となったPM450を完成させたわけだが、
このスピーカーシステムが日本に紹介されたのは、ステレオサウンド 49号で、だった。

49号は1978年の暮に出たステレオサウンドである。
もっともPM450が完成したのは1976年のことのようで、これをステビングはBBCに持ち込み認められたことで、
BBC技術研究所との共同開発をおこない、1年ほどの年月をかけてPM450を改良したことで、
正式なBBCモニターとして認められ、LS5/8のモデルナンバーを得ている。
そして日本に紹介されたその年、スイストーン(ロジャース)に買収されてしまう。

経営困難に陥ってしまったためである。
ステビングは、スピーカー・エンジニアとして優秀な男であったのだろうし、
満足すべきモノをつくりあげるまで製品化しない、としていたのだろう。
それは、ある一面素晴らしいことではあるものの、結果として会社をつぶしてしまう。

Date: 9月 29th, 2011
Cate: 「本」

瀬川冬樹氏のこと(CDに対して……余談)

瀬川先生が書かれていた「ディジタル・ディスクについて」は、
30年経ったいま、日本の電子書籍の現状のごたごたぶりに、そのままあてはまるのに気がつく。

Date: 9月 29th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その7)

マークレビンソンのML7の4枚のモジュールは、
フォノイコライザーのL、Rチャンネル、ラインアンプのL、Rチャンネルというぐあいに並んでいる。
だから、そのままモノーラル仕様にすればフォノイコライザーとラインアンプを1枚ずつ抜くことわけで、
そうすれば内部はフォノイコライザー、空きスペース、ラインアンプ、空きスペースとなる。
それをML6Aでは中央に空きスペースを集めて、電解コンデンサーの収納スペースに当てている。

シルバーパネルのML6が、いわば実験機のまま製品化したようなところを残しているとすれば、
ML6Aにはそういったところはなく、それは技術者の良心の顕れのようにも感じとれなくもない。
使い勝手の悪さはML6もML6Aも同じだけれども。

だから、私はML6Aの内部コンストラクションはトム・コランジェロによるものだと思っているわけだ。

それにこのころのマーク・レヴィンソンは、瀬川先生も書かれているように、
会社設立当初の、純粋に音を追求する若者から「やや練達の経営者の才能」をあらわしはじめている。
そのすこし前に、五味先生は、
読売新聞の連載に「マークレビンソン商法にがっかり」と題された文章を書かれている。
そこに、こう書いてあった。
     *
心外だったのは、マークレビンソンのアンプや、デバイダー(ネットワーク)を置いてないどころか、買いたいが取り寄せてもらえるか、といったら、日本人旅行者には売れない、と店主(注:サンフランシスコのオーディオ店店主)の答えたことである。なんでも、マークレビンソン社から通達があって、アンプの需要が日本で圧倒的に多いので、製品が間に合わない。米国内の需要にすら応じかねる有様だから、小売店から注文があってもいつ発送できるか、予定がたたぬくらいなので、国内(アメリカ人)の需要を優先させる意味からも日本人旅行者には売らないようにしてくれ、そういってきている、というのである。旅行者に安く買われたのではたまらない、そんな意図もあるのかと思うが、聞いて腹が立ってきた。いやらしい商売をするものだ。マークレビンソンという男、もう少し純粋なオーディオ技術者かと考えていたが、右の店主の言葉が本当なら、オーディオ道も地に墜ちたといわねばならない。少なくとも以後、二度とマークレビンソンのアンプを褒めることを私はしないつもりだ。
     *
これについてはマーク・レヴィンソンにはマーク・レヴィンソンの言い分がある、と思うし、
五味先生もすこし感情的かも、と思わないでもないが、
1980年のすこし前あたりから、
マーク・レヴィンソンに経営者としての側面が色濃くあらわれてきていたことは確かなことだろう。

Date: 9月 28th, 2011
Cate: 使いこなし, 快感か幸福か

快感か幸福か(その7)

たとえばケーブルの聴き比べ、もしくはインシュレーターの聴き比べを行うために、
どこか誰かの部屋に仲間が、それぞれケーブルやインシュレーターを持ち寄って、音を聴く。
気の合う仲間同士であれば、楽しい、と思う。

でも同じケーブルやインシュレーターを持ち込むにしても、
たとえば誰かにシステムの調整を頼まれたときにも、そうするのはどうかと思う。

ここに書いたように、
私は調整を頼まれたときでも、直接手は出さない。
そしてもうひとつ、ケーブルやインシュレーター、置き台などのアクセサリーもいっさい持ち込まない。
なにか必要になったときでも、あくまでもその家にあるものを使う。

システムの調整(使いこなし)を頼まれて、いきなりケーブルやインシュレーター、置き台を持ち込むのは、
使いこなしを売り物にしている人にとって、それは恥ずかしい行為なのではないだろうか。
ケーブルやインシュレーター、置き台を持ち込み、それを変えていけば、音は確実に変る。
そのとき、使いこなしを売り物にしている人がやっていることは、いったいなんだろうか。

大事なのは結果である、つまり最終的に鳴ってくる音である、と、
使いこなしを売り物にしている人は、絶対に言う。
調整を依頼した人が満足してくれれば、それがケーブルを変えて(つまりケーブルを売りつけて)、
インシュレーター、置き台を変えて(売りつけて)の結果であっても、それでいいではないか、と。

だが、こういうとき、ほんとうに音は良くなっているんだろうか。
音は変っている。
その変った音を、いい音になった、と思い込まされているだけではないのか。

そう思うようになったのは、録音について書いている「50年」の項の(その9)に書いたことと関係している。

Date: 9月 27th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(追補)

(その1)にも書いているように、
この項は、とくに書きたいことが思い浮んで書き始めたわけではなく、
なんとなく、タイトルが浮んだので、とりあえず何か書けるかも……、といった具合にはじめた。

通常は、書きたいことがなんとなく浮んで書けそうな予感がしたら、タイトルを決めて、
といった感じで書きつづけている。

なぜ、このテーマ(というよりもこのタイトル)で書こうと思ったのだろう……と振り返ると、
「五味オーディオ教室」を読んだ日から35年経つ。
いま48歳だ。
あとどのくらい生きられるのかはわからない。
80歳まで生きていられたとしたら、あと32年。
70までだったら23年、60までだったら12年。

仮に80まで生きられたとしても、すでに寿命の半分をすぎているわけだし、
オーディオ歴にしても、すでに半分をすぎていることになる。

いまのところ健康上の問題はないけれど、
確実にこれまでのオーディオをやってきた時間よりも、残り時間のほうが少ない、と思っていていい。
オーディオマニアとしての「純度」を思いついたのは、残り時間を意識しているからなのかもしれない、
とふと思ってしまう。

残り時間をなんとなく意識しはじめているからこそ、
これからは「純度」が試されていくのか、「純度」が必要となってくるのか。

しかも「純度」はこれまでの純度を保つ、で満足するのではなく、
より高くしていかなければならないものだとも思えてくる。

Date: 9月 27th, 2011
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(その6)

1980年に、ML1と同じパネルを持つML7が登場した。
外観上の変更は、外付けの電源部を含めてほとんどない、このML7だが、
天板をとってみると、内部はそれまでのLNP2、ML1とはまったく異っていた。

マークレビンソンが創業時から一貫してて採用してきた密閉型モジュールは姿を消した。
もっとも、この密閉型モジュールは、
LNP1や初期のLNP2が採用していたバウエン製モジュールがそうであったからで、
それを自社製モジュールにきりかえてもそのまま受け継いできただけ、とも受け取れなくもないが、
とにかくモジュールそのものに、大きな変更が加えられた、ではなく、まったくの新設計となった。

サイズの大型化。
つまり回路を構成する使用部品点数が、それまでのジョン・カール設計のモジュールよりも増えていること。
トランジスター、FETの半導体は、プリント基板と同じ大きさのアルミ板に上部が固定されるようになっている。

この大型化されたモジュールが、本体シャーシいっぱいに、4枚並ぶ。
それまでの余裕のあるモジュール配置から一変して、ぎっしりとしたレイアウトへと変っている。

ML1のモノーラル仕様としてML6があったように、
このML7のモノーラル仕様としてML6Aが登場した。

このML6Aは、シルバーパネルのML6とは異り、
モジュールが載るメイン・プリント基板から専用仕様に作りかえられている。
片チャンネル分(つまり2枚のモジュール)がなくなったスペースに、電解コンデンサーを配置。
外付け電源のモノーラル化とともに、ここでも電源の強化がはかられている。

ここはML1→ML6とML7→ML6Aの大きな違いでもあるわけだが、
これはマーク・レヴィンソン自身の考えだったのか、
それともチーフ・エンジニアだったトム・コランジェロの考えによるものだったのかははっきりしないが、
私はコランジェロの考えではないかと思っている。