オーディオマニアとしての「純度」(その10)
62年前の「その日」のことについては、「Why? JBL」では6ページ割いてある(85〜90ページにかけて)。
その一部だけ引用しておく。
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彼の死後、JBL社は保険金一万ドルの支払いを受けた。そのおかげでウイリアム・トーマスはその後の会社経営を堅実なものにすることができたという。生命保険に加入した時期がその日の数年前であることを見ると、どこかランシングの計画的な死であったような気がしてくる。
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ランシングが加入していた生命保険の契約がどうなっていたのかわからないが、
自殺の場合の支払いの条項はあったはず。
それに、ランシングは、この時期、アルテック・ランシングに在籍していた弟のビル・マーティンを、
毎週金曜日に訪れ、技術的なコミュニケーションをとっていた。
1949年の9月29日は木曜日にもかかわらず、ランシングはビル・マーティンを訪れている。
これらのことから、「Why? JBL」の筆者、左京氏も書かれているように、
ランシングの死は計画的であったように思える。
1949年、JBLの負債総額は2万ドルになっていた。
ランシングの死について、ほんとうのところは知りようがない。
それでもランシングが別の道を選択していたら、JBLという会社は、いまはなかった可能性もある。
ランシングは自分の死によって会社(JBL)を守った。
デヴィット・ステビングは会社(チャートウェル)をつぶしてしまった。
ランシングが生きた時代はふたつの世界大戦があり、大恐慌もあった。
ステビングとは生きた時代が違う。
ふたりのスピーカー・エンジニアの、その時の選択を比較する気はない。
ただふたりとも会社を経営していく才はなかった。
ステビングはその後、ベルギーのKMラボラトリーというスピーカーメーカーの社長になっている。
ただしKMラボラトリーでつくっているのは普及クラスのスピーカーばかりのようで、
ステビングがチャートウェルで目ざしていた方向とは違っている。